8話目
俺は別に聞く耳を立ててたわけではない。男も店主に話してたつもりだろう。しかし店内は静かである。男の話は否応なく聞こえてきた。それにしても結婚式を挙げたヤツがどうして失恋話を持ちかけてきたのか。結末が楽しみである。俺はもはや集中して聞いていた。耳をそらせない状態になっていた。
「それでね」
男は語り始めた。
「当日、式は滞りなく進みました。花びらをかけられたりブーケトスをおこなったり。披露宴も順調でした、ほとんどが。しかしね」
そこまで言った後、男は黙り込んだ。それから俺がチラッと横を見ると、男は目にたくさんの涙をためていた。間もなく、号泣した。
「ウエーンウエーン」
と、まるで子供のような声で。俺はその様子をただただ眺めているしかなかった。親しい間柄でもなければ話したこともないから。もし祐介が号泣してたら何らかの手段で励ましたかもしれないが。その前に号泣してる祐介など見たこともないが。それから数十秒くらい経ったろうか。男はようやく泣き止み、声を詰まらせて語り出した。
「昔の男がね、来てたんです、そこに。二人は俺らが知り合うずっと前から恋人同士でした。5年くらい付き合って結婚の約束もしたそうです。俺も彼女の過去にそういう人がいたことは知ってました。ていうか、彼女から打ち明けられたんです。でも若さゆえにその二人は破局したんです。彼女はそういう過去、つまり一度は婚約した経験があると、俺に言ったんですね。でも俺はもちろんそんなことは気にせずプロポースしました。返事はオーケー、俺らは晴れて挙式の日を迎えたんです」
話の順序がメチャクチャの気がしたが相当動揺してるのだろう。俺は細かいことは考えず続きを聞くことにした。
「それで、結局ウエディングドレス姿の彼女を奪われたんです、その昔の男に。いや、もうビックリしましたよ。まるで映画の1シーンを見てるかのようでしたね。しかも式にも披露宴にも招待してなかったんです。だけど最後の最後で表に出た時、かっさらわれました。いや、正確には彼氏の方は遠くの方から眺めているだけでした。もしかすると昔の彼女の花嫁姿を一目見たかっただけだったのかもしれません。俺はその存在にまったく気づかず、列席してくれた方々と挨拶を交わしていました。だけど彼女の方は気づきました。遠くから見ている彼に。それから彼女はドレスを翻して彼のもとへと駆け寄って行ったのです。そうなんです、結末を下ろしたのは彼女だったんです。当然、何人かの出席者がその行動を止めにかかりましたが、俺はなぜだかその行為がとても無意味なことに思えて彼らを制止し、また自らもただボーゼンと立ち尽くしてました。とまあ、大体の話はこんな感じですわ、はは」
と、その男はナカナカのエピソードを語った。最後のから笑いがなんとも虚しく聞こえ、俺は急にその男に同情した。可哀想に、結婚式当日に花嫁を昔の男にとられるというのは、想像しただけで胸が痛んだ。それから俺は先に店を出ることにした。店主夫婦にシッカリと慰めてもらえ。そしてまた元気を取り戻せ。あとレジに行き、
「彼のコーヒー代も俺につけてください。それとチーズケーキを彼に」
などとちょっとカッコつけてみせた。だけど、本当にそのくらいのことをしてあげたかった。それからこの店のチーズケーキは絶品だ。だからそれを食べたら多少は元気を取り戻すだろう。そしてまた俺が店に行ったらいつものようにカウンターの奥でキリマンジャロを飲んでればいいさ。いつものようにな。頼むぜ、常連さん。
それにしても、いろんな人生があるもんだなあ。普通式場から花嫁を奪うなんてことあるのかね。映画やドラマならまだしも。いずれにせよ虚構の世界の話かと思ったぜ。それから店を出るともう暗くなっていた。12月に入ると空の色が変わるのもあっという間だ。気がつくと真っ暗になってる。空気も寒くなり、木枯らしがピューピュー吹きすさんでその風をモロに受けたりすると、いよいよ冬の訪れって感じがする。俺が失恋話、というか花嫁強奪事件を聞き終え喫茶店を出た時も、冷たい風が吹いていて全身に直撃した。寒い。とにかく寒い。
「ついこの間まで夏だったのにもうすっかり冬だ」
何十万人だか何百万人だか分からないけど、とりあえず大勢の人間がそんな言葉を口にしてるだろうな。それもそうだ。この前まで軽く汗ばんでたのに、今となっては体を震わせ歩いている。木々の葉っぱも落ちきった。こういう季節の移り変わりが苦手という人も多いが俺は好きだ。晩秋とか初冬とか。冬も、あの凍るような寒さの1月とか2月は好きじゃないけど、この時期はなんだか切なげでいい。またコーヒーと紅茶がうまい。喫茶店で飲むのもそうだが寒空の下ホットコーヒーやら紅茶を飲むとポカポカする。ただしそれも真冬には通用しない。体の芯から冷え込む。外で飲むのはこの時期だけの特権のようなものだ。ちょうど今頃。今夜の休憩中なんかそれこそうまいだろう。俺はまだ始まってない今日のバイトのことを考えた。そうだ、知らぬ間に師走になっている。本当に月日はもの凄いスピードで過ぎ去っていく。知らず知らずのうちに。子供の頃はそうではなかった。たとえば小学校の6年間がとても長かったのを覚えている。だが子供時代と大人になってからでは、時の流れが全然違うことに驚かされた。同じ日数や年数なのに。どうしてなのか。俺は、よ〜く考えてみた。その結果導き出された答えは、やはり「充実」とか「新鮮さ」にたどり着く。子供時代はより充実していて、いろんなことや景色が新鮮だから、大人になってからよりもずっと一日一日が長く感じるのではないだろうか。遊び一つにしたって「鬼ごっこ」「かくれんぼ」「けいどろ」「缶蹴り」など、いくらでも思い浮かんだ。まあカラーボール野球が一番楽しかったかな。とにかくなんでもした。学校も給食とか昼休みとかいろいろあって、楽しいことばかりじゃないけど少なくとも退屈はしなかった。大人になってやることといえば、酒とか麻雀とか限られてくる。あとは仕事、仕事、仕事だ。子供の頃より毎日が単調に進んで行くんじゃないか。だが大人になるとはそういうことで俺はそれを間違ってるなんて少しも思わない。たまたま自分が今役者をやって劇団に入ってるけど、地元かどこかで就職をしていた可能性だってもちろんあったわけだ。そうしたら毎日の仕事に追われたり、場合によっては結婚していた可能性もあったかもしれない。なにはともあれ子供時代に毎日抱いていた感情を取り戻すことはもう二度とない、だろうな。
夜のバイトの時間、スギウラさんにその話をした。
「まあねえ、子供の頃のことなんてあんま記憶にないけどな」
そうなんだ。少年時代の出来事なんて、断片的にしか思い出せない。でもあの頃夢中になって遊んだこととか、日が暮れるまで野球やサッカーをしていたことなどがその後の人生に大きく影響してるんだろうな、多分。
「まあ俺が思うにそういった経験はいくつになっても、かけがえのない財産として残るんじゃないか?」
財産か。財産ねえ。確かにそういった経験はお金にかえられるものじゃないからな。それから俺は店が暇な時に少年時代の記憶を辿ってみた。当然、そこには祐介がいる。あと時には他のヤツらも。そういう友達と俺らはいろんなところを無我夢中で走り回っていた。学校だの帰り道だの公園だの空き地だの、とにかくやたらと走り回っていた記憶がある。どうしてあの頃はあんなに活動的だったのか。今だったら、30メートルも走れば息切れしてしまうのに。元気だったのかな。そんな時代に時々は戻りたくなる、少学校時代や中学の頃に。それで自分が後悔しているあの日に帰って、その決断を踏みとどまらせてあげたいと考えるけど、あくまでもそれは妄想の話であって、現実は今、27歳の自分がいるに過ぎない。だから過去に想いを馳せるのもいいが、大事なのは今の生活、それが何よりだ。