6話目
「俺さ、仕事を変えようかって考えてるんだよね」
祐介から電話があってから、俺らは互いの都合のつく日を合わせて酒を飲んだ。今日は俺が店を選んだ。店はあまり知らないが「安くて美味い」場所なら至る所にレパートリーを持っている。今日も数ある場所からオススメの一軒を選んだ。祐介もそこが気に入ったらしく、ビール、焼酎、日本酒とハイペースに飲み進めていた。俺は相変わらずビール一辺倒だった。祐介からそんな風な話が上がったのは、店に入って2時間は経ったくらいのことだ。店内は満席で、店員が頭をさげ、
「すみません。ご覧の通り満席でして」
と言いつつ、次から次へとドアを開けて入って来る客を申し訳なさそうに追い返していた。客は潔くすぐに引き下がる人もいれば、しつこく食い下がってどこかに座ろうとする粘り強い者もいた。その光景はナカナカ面白かった。が、祐介が唐突にそんな話をするから俺はビックリして、
「へ?仕事を変えるって、つまり転職するってことか」
話した当人よりもむしろ、聞いた俺の方が動揺していた。祐介の会社は大企業で収入も安定しているだろう。もちろん具体的にいくら月収をもらってるかなんて下世話なことは聞いたことはなかったが。だが大きな商社に勤め着実にキャリアを積んでいると以前に聞いた。しかも家族がいて、この前話した時は家も買ったと言っていた。もちろん車もある。そういう話一つ一つが、祐介のイメージを盤石なものにしていた。少なくとも今の俺の暮らしとは真逆に思えた。俺は定職にもついてないので、ラーメン屋のバイトのお陰で食べることには困ってないが、安定した生活を送っているとは言えなかった。就職をするとか結婚をするとか、いわゆる世間一般の幸せを一つも持っていない。一方の祐介は、大企業という大きな船に乗っかって着実に進んでいた。大変なことも多いだろうがとりあえずは安定していた。その祐介の口から飛び出した突然の転職話。驚かないわけがなかった。
「どしたんだ、急に。まさか社内でイジメにでもあってるのか」
「そんなわけねーだろ。上司もいい人だし、同じ部署の連中とも仲良くやってるよ」
まあそうだろうなと思った。祐介はコミュニケーション能力に長けている。きっと会社でも上手くやっていることだろう。じゃあ、いったい何なんだよ。俺が疑問に思ってると、祐介の方から切り出した。
「起業しないかって誘われててさ。取引先の人に。もちろん始めは断ったよ。別に今の会社に不満もないし家族もいるし。だけどその人しつこくてさー、連絡先知ってるんだけどほぼ毎日電話やらメールやら来るんだぜ、参るよ」
「とか言ってお前、ちょっと魅力を感じてんだろ」
俺は率直に言った。祐介の性格なら本気で断ろうと思えばいくらでも出来るはず。それが出来ず相手の人が毎日のように連絡してくるのは、祐介自身も相手に隙を与えてるんだろう。その人の話を聞きたいがために。ヤツは曖昧に頷いた。
「いや、まあ、な。まだ全然本気で考えてはないよ。ただそういう生き方もアリかなってくらい」
「いや、結構本気でそのことを考えてるだろ。新たなる、自分の人生のスタートについてな。藍のことを聞くとか言って本当はその話がしたかったんだろ。俺には分かるぞ」
「ウ、スルドイ。どうして分かった?」
「バカやろー、何年の付き合いだと思ってる。そのくらいのことお見通しだ、このやろー」
祐介が少し悩んでる風だったので俺はあえて冗談っぽくした。その方がヤツも話しやすいだろう。ちなみに、藍の件は最初の方に話した。俺は一応落ち込んでる風のトーンで語ったが、祐介には、思ったより立ち直ってることが分かったらしく、すぐに話題を切り替えた。そして今がヤツにとっての本題である。今日は俺が聞く立場でありヤツも俺の助けを必要としている。とはいえ何か特別な言葉が言えるかどうか分からないが、とりあえず聞くことにした。それから俺は再び訪ねた。
「今の会社に不満があるわけでもなく人間関係も良好。あとこれは良く知らねーが、あれだけの企業が傾く心配もまあ当分ない。それからこれも分かんないけど低収入ってこともないだろ。少なくとも俺から見るとお前が会社を辞める理由が見当たらない。マンネリか?4、5年やって飽きて来たか。それとも何か、会社の方針に嫌気がさしたか、どうなんだ」
気がつくと刑事の尋問みたいになっていた。俺は矢継ぎ早に訪ねていた。そんな勢いに負けるまいと、祐介も応戦してきた。
「会社の方針に不満などはねえ。むしろこのような待遇に俺は心底満足している。ありがたいとさえ感じてる。ましてや就職難のこの時代に働き口があるだけでも十分だ」
就職難とか働き口がないとか、エリートコースを歩んできた男には合いそうもない言葉だが、ヤツは厳格な父親から東京行きを反対されていた。それから金を援助しないという条件付きで何とか認めてもらったのである。だから東京の大学はもちろん奨学金で入ったし、生活費も授業のない時に四六時中バイトして何とかまかなった。だから俺以上にいろんな職を経験したかもしれない。祐介はいい大学を出ているし、いい会社にも入った。とはいえ順調な道を突き進んで来たわけではなく、お高くとまってるというのは使い古された言葉かもしれないが「高級志向」の人間とは違った。
ところで、祐介の応戦に俺は返す言葉をなくし、
「じゃあなんで辞める必要がある?」
と言うのが精一杯であった。その言葉を合図にするかのように俺も祐介も一旦休戦し、互いの飲み物を飲んだ。それから「ドン!」とそれぞれのコップを置いた。その音がゴングであるかのように、第2回戦のスタートとなった。別に喧嘩をしてるわけじゃなかったが、久々に祐介と討論を繰り広げていることが何となく楽しかった。
だが、
「待てい!」
と言って、カウンターの右隣で酒を飲んでいた初老の男が俺らのバトルに割り込んで来た。
「なんだよじーさん」
初老の男に対して祐介は言った。多分俺ら二人の討論を邪魔されたくないと思ったのか、祐介の口調には少しトゲがあった。ちなみに祐介は左側に座ってたのでその男があまり視界に入らなかったので分からなかったろうが、彼は決してじーさんと呼ばれるようには見えなかった。服装も見た目もどこかの俳優のように渋く、また垢抜けた雰囲気を漂わせていた。だが祐介にはその男の白髪混じりの頭しか目に入らなかったのかもしれない。それでヤツはじーさんと言ったのだろう。だがその男は気にする様子もなく自分の日本酒を飲んだ。それから厳かな口調で言った。
「この青年はな、オノレの可能性を試したいんだよ。そうだろ」
気がつくと祐介は立ち上がり、男を凝視していた。彼は続けた。
「そしてその可能性に挑戦するか迷ってる」
彼はさらに続けた。
「君の気持ちを止めているのはもちろん会社もあるだろう。他にもいくつかあるかもしれない。だが、その最たるものは家族だ。君くらいの歳になれば結婚もしているだろう。そして子供もいるかもしれない」
結婚のしてない俺は少し耳が痛かった。祐介は、さっきまでじーさん呼ばわりしていた男に対してすっかり聞く姿勢を取っていた。
「そーっすね、結婚もしてるし子供もいます」
と、素直な返答をした。間に挟まれた俺はボンヤリしていた。すると初老の男はイキナリ俺の肩をポンと叩いて、
「そこで君だ!」
へ?話の急展開に驚いてしまった。今まで俺を挟んで二人で盛り上がってたじゃねーか。そこに俺を引きずり込んで来たから、コッチも素直に聞くことにした。
「俺がなんなんすか」
俺はやや訳が分からなくなっていた。祐介の転職話に見ず知らずの男が介入、それから今度は俺が話題の中心になった。男が俺らの話に加わってきたのは、祐介のことじゃないのか?だから無関係の態度を示してたのに、突然の名指しに動揺してしまった。
「で、俺がなんなんすか」
再び聞いた。男はさんざんしゃべって疲れたのか、まあ待てと言わんばかりに一呼吸おいて酒を飲んだりつまみを食べたりしている。先ほどまで俺ら二人で話してたのに、知らぬ間に初老の男が加わっていて3人になった。しかも会話の主導権は彼が握っている。やはりこれは「年の功」というやつだろうか。いや、そうではなかった。もし、しょうもないおっさんとかが酔っ払って話しかけて来ても無視していただろう。以前に何度かそういう場面があり、俺なんかは一言二言答えてもいいかなと思うのだが、祐介は断固として完全無視の態度を貫いていた。それはヤツの父親を彷彿とさせるものがあり、あのテコでも動かない強固な態度に似ていた。やはり親子だと、その時に考えたことを俺はボンヤリ思い出した。
それから初老の男はようやく口を開いた。
「見た感じ、君達は昔からの友達のようだ。それに相当深い付き合いをしてきた、言わば竹馬の友のようなものだな。まあ、どのくらい深いかは知らない。この話は私の経験と推測も入ってるからな。しかし彼が会社を辞めて独立しようか迷ってる時に、こうして君に相談を持ちかけてるということは、彼の中で十中八九決まってることだけども君に背中を押してもらいたいのではないかね?」
男は断定するように言った。見ず知らずの人なのに、彼の言葉には妙な説得力があった。それから俺は祐介に対して、
「そういうことなのか?」
と聞いた。祐介は俺の問いに頷き、
「まあそんなとこだよ。しかし大したもんだな、この人の推測は。名探偵じゃねえの」
と言い、グビグビと酒を飲んだ。多分この初老の男に自分の考えが見透かされていて恥ずかしかったのだろう。その後、照れ笑いのような表情を浮かべた。しかしまあ名探偵じゃないにせよ只者ではないことは確かだ。
気がつくとその男はもう俺らの輪から外れ、再び一人で飲んでいた。一体何者なのか気になりつつも、男の言葉をどう処理すべきかで俺は悩んだ。それで、サイアクの場合を想定して聞いた。
「もしもだよ、お前の新しい事業が成功するに越したことはないが、失敗した場合はどうすんだ」
「もちろんその時も、家族を路頭に迷わすようなことだけはしない。その辺は心配するな」
まあ祐介は責任感の強い奴だ。そういうことに関しては、俺が気にするまでもないだろう。
「しかし今の会社を辞めることは俺ならまずしねえな。その冒険、見習うことにするよ」
と俺は言ったが祐介はむしろ、
「いや、俺はお前が高校を出て役者になるって言ったその気持ちがすげえと思うよ。今回独立するのも、そのことが結構大きかったな。あの時の驚きの感情がだいぶ引き金になったっていうか、影響したかもな」
俺らはこうして別々の道を生きてきたが、実は意識し合っていた。当然だ、何せ俺らは無二の親友だ。右隣の男に言わせれば「竹馬の友」なのだ。たとえ会うことは減ってもヤツにとっての俺は、大学時代や会社の関係とは違う。そいつらが今たとえ祐介と親しくても幼少期のヤツを知るものはいない。泥んこになったり水たまりに飛び込んだり、そういう経験を共有してはいない。だから初老の男が言うように、ヤツの背中を、もう一歩踏み出すための背中を押してやれるのは俺だけだ。
「いいと思う。まあお前がどういう事業をやろうとしてるのか知らないし、聞いたところで多分よく分からねえと思う。何せそういうことには疎いからな。だが、お前が今の会社を辞めてまで始めようとしてることだ。相当に魅力を感じてるんだろう。あともし万が一、失敗した場合の対策もあるんだったらもう言うことは何もないよ。好きなようにすればいいよ。中学の時、落とし穴を掘りまくったようにな」
「それもある。今の仕事をどんだけ頑張ってみても、中学の時の熱い気持ちは取り戻せねえ。しつこいくらいに落とし穴を掘り続けたことやバスケ部の練習とか。あんないい会社に入って家族もいて、まあ贅沢な悩みだけど、今の歳を考えてもう一度だけメチャクチャ熱くなりたくなってよ。あとはさっきも言ったようにお前が役者の世界に挑戦し続けてることも、俺の中で刺激になったな。俺もここらで挑戦しとかねえと後悔すると思って。まあそんなこんなで俺は近々独立しまーす。遊びに来いよ。今みたいなでっけえ会社じゃなくて2、3人のアットホームな企業だから。まあいずれは大企業にならなくても数十人は雇えるようになりたいけどな」
祐介は肩のつかえが取れたかのように自分の中の構想というかヴィションを語った。




