さよなら
そこで俺は努めて平静を装いながらも、藍に申し出た。
「お腹空いてない?実は俺もう空腹で空腹で。どこかで休憩がてらお店に入ろう」
藍は振り返って微笑みながら言った。
「実は私も結構お腹空いてたんだ。それに随分歩いたしね。どこかお店入ろっか」
そうと決まれば話は早い。俺らはどこかへ入ることにした。だがもし今、一人なら素早く空腹を満たしてくれそうな牛丼屋とかラーメン屋に入るのだけど、落ち着いてゆったりと食事や会話を楽しむとなると別だ。そこで俺らは住宅街の一角に佇む外観に風情を感じる店を選んだ。店内はテーブル席と畳の座敷席があり、俺らはどちらともなく座敷の上へと一目散に座り込んだ。何気なく入ったこの店だったが、いい雰囲気だった。特別に気取った感じがないところがいい。店内は家族連れが1組いただけで、静かだった。座敷席は窓際になっていて先ほどまでいた井の頭公園も見ることが出来た。公園を出てから間もなくこの店を見つけだすことに成功したので、吉祥寺駅の雑踏にまみれて店探しに翻弄されずに済んだ。それからメニュー表を見た。藍は、メニューの書いてある紙を渡してきて、
「先に選びなよ。お腹ペコペコなんでしょ」
と微笑んだ。この今の空腹状態、しかも疲労感もある俺に藍の笑顔はまさに眩しかった。落ち着けと自分に言い聞かせて、
「あ、ありがとう」
と、若干声をかすらせながらもメニューを受け取った。この店は蕎麦がメインらしく、「てんぷら蕎麦」や「とろろ蕎麦」などといったラインナップが充実していた。あと定番の「カレーライス」や「カツ丼」などがあり、メニューからしても気取った感じはまったく見られなかった。俺らはそれぞれ好きなものを頼み、あとビールも注文した。時間帯的に少し早いかなとも思ったが、たくさん歩いてほどよく疲れた体に冷えたビールなんて最高だろう。ここは瓶ビールだった。幸い、俺はジョッキで飲む生ビールよりも瓶の方が好きだ。即座に瓶のビールがやってきた。簡単なつまみと一緒に。
「一杯目だけ注ぎあいっこしよっか」
と藍が言って、俺らはそれぞれ小さめのコップにビールを入れた。何だかサラリーマンみたいだ。そう一瞬思ったけど両手でコップを持ったり注ぐ時に正座になったりしてない。俺も藍も心底リラックスしていた。それから注がれたビールを飲み干した時に、俺は目の前の藍のことを一瞬忘れて思わず「クゥー」と唸ってしまった。すると藍が笑ってくれた。さらに、
「私も口には出さなかったけど同じ気分だったよ」
と言った。それもそうだ。昼くらいからずっと歩きずくめだった。その疲れをここで回復させてる。体だけじゃなくて、心も。ビールが沁みるのも無理のないことだった。あとは蕎麦が来れば言うことはないと、藍との大事な時間なのに、もはやオノレの空腹を抑えきれなくなっていた。今、俺の頭の中は(蕎麦、蕎麦、蕎麦!)と食うことで一杯になっていた。本当に、空腹の威力は恐ろしいと思った。
とりあえず落ち着いて、窓の外を見た。もうすっかり暗くなった井の頭公園。そこには走ってる人の姿が見えた。暗くて男性なのか女性なのか、それから若者なのか中年なのか分からないけども、きっとああやって走ることが「日課」なんだろうな。おそらく夜風を浴びながら走るのは気持ち良いだろうと、窓からたまたま見えた人のことをなんとなく羨ましく思った。晩秋は空が暗くなるのもだいぶ早い。さっきまであんな明るかったのに外はすっかり暗くなってる、なんということをボンヤリと考えているとようやく蕎麦が俺らのテーブルに運ばれてきた。俺は思わずヨダレが出そうになった。お、美味しそう。空腹状態もあったが、目の前にある何とも旨そうな蕎麦に一刻も早く食らいつきたかった。しかし藍が、
「いただきます」
と食事前の当然の挨拶をしたので俺は一旦気持ちを静めて同じようにいただきますと言った。それから食べ終わるまで、俺は一心不乱に食い尽くした。食事を終えてからようやく平静さを取り戻した。獲物を前にした獣か、と、空腹前の自分を恥じたがしょうがないのだ。
「腹が減っては戦が出来ぬ」
と、坪田店長も言っていた。別にこれから戦をするわけではないが、人は空腹状態も極限に達すると多少なりとも冷静ではいられなくなるのだ。誰だってそうなんだ。
そのようにして俺が蕎麦を食べ終えた時、藍はまだ半分くらいしか食べてなかった。別に小食なわけでもなく時間をかけてたべる印象もなかった。ただ俺があまりの猛スピードだったのだろう。藍が食べ終わるのを待ってる間に手持ち無沙汰になった俺は、再び窓の外を眺めた。そうして気がついたのだが外はもう暗くなっているので、窓ガラスに鏡みたいに自分たちの姿が映る。夜の電車に乗ってる時みたいに。俺は始め自分の姿を見た。腹も満たされビールを飲んですっかりリラックス気分に見えた。その後、窓に映る藍を見た。もうじき食べ終えるであろう。俺はゆっくりと待った。
「ごめんね、随分待たせちゃったみたいで」
食事を終えた藍がそう言ったので、
「いや、単に俺が急いで食べただけだよ。何せ腹ペコだったからね。むしろ藍は普通に食べてたよ」
そう俺が言ったあと、ビールを追加注文した。店内には沖縄民謡かなにかの音楽が小さく聴こえてきて、より落ち着くし、美味しい蕎麦で空腹感も満たされ、さらにほどよく冷えたビールが喉をうるおす。何より目の前に藍がいる。「完ぺきな1日」だ。瓶ビールを3、4本飲んでほろ酔い気分になり俺はそう思った。井の頭公園で散歩をしてから、蕎麦とビール。それですっかり幸せな心持ちになっていたので、俺らはそれ以上飲もうとはせず、結構長居した店を後にすることにした。
俺らは人のほとんどいない通りを抜けて駅に向かうことにした。その途中藍が言ったことを、俺は生涯忘れることが出来ないだろう。
「私ね、来週福岡に行くの。料理のお勉強をしに。今お世話になってるお店の人の知り合いで、夫婦で日本料理屋さんをやってる人たちがいるの。それで私がいずれ小料理屋さんをやりたいって何気なく言ったの。そしたらお店の人がすぐに話を通してくれて、福岡の人たち『明日からでも来なさい』って言ってくれて、それで私悩んだけど決めたの」
そう言って、藍は微笑んだ。その笑顔が何処となく寂しげだった。それはそうだろう、いくら目標の為とはいえ、なんだかんだで住み慣れた土地を去るのだから。きっと藍にとっては第2の故郷を離れるような気持ちなんじゃないか。なんにせよ俺が抱いていた予感は見事に的中した。今日の藍との時間の中で、もちろん直接的には聞き出せなかったがどうやら特定の男性はいないようだ。そのことは良かったんだが、いくらなんでも福岡は遠い。簡単に行ける場所じゃないことは、旅行経験が少なくて地理にも疎い俺でも分かる。まあ九州の、とりあえず何処かしらに位置する。キュウシュウ、フクオカ、頭の中でその言葉を反芻してみた。随分遠くへ行ってしまうんだな。埼玉とか千葉なら、毎日だって行くのに。あくまでも拒まれなければの話だが。ついでにさっきまでは、完ぺきな1日などと思っていたが、今の気持ちは完ぺきとはほど遠かった。それから俺は一縷の望みを託して藍に聞いた。
「どのくらい行くんだ。まさか一生福岡に行くつもり?骨をうずめるとか」
などと言って、俺は少し硬くなった場を和めようとした。というよりむしろ、軽くギャグを言うことで自分の平静を保とうとした。ところが藍はまったく笑わず、少し強張った表情で話を続けた。
「ハッキリとは分からないけど、短くても3年〜5年、長ければ10年くらいは行くと思う」
もしこれが素敵なラブストーリーとかだったら、これからも想い続けるとか、いわゆる「遠距離恋愛」などを思い浮かべるかもしれないが、藍は来週福岡に行く。これが、現実である。藍が東京を離れることはもちろん寂しいことではあるけれど、いずれ自分で小料理屋を開くために福岡で修業をしに行くことを、とにかく応援する。 それが、藍をずっと好きだった俺が出来る最良の方法に思えた。そう考えると沈みかけた心もだいぶ晴れてきて、俺は藍に伝えた。
「遠くに行ってしまうのは本当に寂しいよ。それから、俺は結局ずっと藍のことが好きだ。今も昔も、変わることなく。でも応援してる。藍が自分の店を出すその日まで。何というか、上手くは言えないけど…身体に気をつけて。あ、辛かったらいつでも連絡してな。もちろん俺に料理の知識はないから話を聞くことしか出来ないけど。でもラーメンのことなら多少分かるか」
と、つたないながらも自分の今の気持ちを言葉にした。藍は何度も、「ウン、ウン」と頷いて聞いていた。そうして最後に、
「ありがとう」
とつぶやいた。少しだけ斜め下を見ながら。その藍の表情は、今まで何度も思ってきたよりもさらに「可愛い」と感じた。出来ることなら、今すぐにでも抱きしめたかった。そんな心を抑えて俺らは歩き出した。
吉祥寺駅の改札に着いた。俺は、
「ちょっと寄るとこあるから」
と言い、藍は先に帰ることになった。前と同じように改札を過ぎてから、藍は何度も振り返って手を振った。前は祐介と二人で藍を見送ったんだっけ。あの夜藍は帰り際に、
「また会おうね」
って何度も言っていたな。今夜もあの夜と同じような姿で藍は帰って行く。だけどこの前と確実に違うことがある。それはもう会えないってこと。福岡に旅立つ藍を俺は見送るしかなかった。他に方法はなかった。藍は姿が見えなくなるまで何度も振り向き、手を振った。俺はその様子を、ただボーゼンと見ていた。さよなら。心の中で、何度も同じセリフをつぶやいていた。
藍を送った後、俺は少し歩くことにした。寄る場所は、別になかった。駅を出て歩き出すと霧雨がチラついていたが、俺は構わず歩き続けた。身体に降りつける雨も心地いい。大粒の雨なら無理だがこの程度ならほどよく濡れる。それが気持ちよかったせいもあり、俺は長いこと歩き続けた。それから俺は電車に乗り、自宅へ帰った。寝る時はもちろん泣いた。大声で泣いた。号泣した。
翌朝、多少引きずるかと思ったが、意外にも気持ちの切り替えが出来た。もちろん、これからも藍のことは忘れられないだろう。忘れるつもりもない。だが昨晩のショックからしばらく立ち直れないんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。すでに今日の劇団の練習と、今夜のバイトのことを考えている。それこそが、
「今出来ることを懸命にやる」
ということなんじゃないか。藍のことは昨日で決着がついた。完全に後悔がないかと言えば嘘になる。けど、誠意は見せた。そんな思いが俺を突き動かす。さらに、いや、もっと前へ進めと。
劇団の練習は発声や筋トレなど多岐にわたる。世代間のギャップは、俺の方から埋めることにした。彼らは決して自分を避けているのではない。ただ、どう接したらいいか分からないだけだ。別に挨拶をしないような礼儀知らずのヤツもいないし、むしろ演技などのことで意見を求められることだってある。壁を作ってるのは俺の方かもしれない。そう反省して、練習後若い連中の輪に入っていった。彼らは最初、一瞬戸惑いの表情を見せた。当然だ。最近の俺といえば練習の後いつもイヤホンを耳にはめ、音楽をかけて自分の世界を作り、それから間もなく帰っていくのが習慣になっていた。だから若い連中の外での会話の内容など知るよしもなかった。まあ大体が演技についてとかその類だとは思うが。だが本来なら年上の俺に聞きたいこともあるかもしれない。それで今日の練習後に俺が彼らの輪に加わると、一瞬戸惑った彼らも嬉しそうに劇団の先輩を迎え入れた。
「練習後に俺らがいつも行ってる公園があって、そこでいつも自販機で飲み物を買って1、2時間、長い時は3時間くらい居座って話してるんすけどタケオさんもどうすか。それともどこかのカフェにでも入りますか?」
若い子のうちの一人がそう言ってくれた。若いって言っても20歳は皆過ぎてるが。俺はすかさず、
「いいよ。公園行こう」
と言って、彼らがいつも話している場所へと向かった。彼らがなぜ公園に行くのか、俺には痛いほど分かった。多分彼らだって本当はカフェや喫茶店に入り、ぬくぬくとしたいだろう。でも公園へ行き自販機で飲み物を買った方がはるかに安く済む。今でこそラーメン屋でそれなりに安定した収入を得ている俺だが、それこそ彼らくらいの時は大変だった。どのバイトもろくに続かず、毎日生きて行くだけで精一杯。そんな日々を何年も経験した。もうあの苦しみは味わいたくない。年齢的にも。
そこは普通の、本当に普通の小さな公園だった。ブランコと水飲み場があるだけの、何の変哲もない場所。
「普段ここに来てるんですよお」
若い劇団員たちはそう言って初めて来た俺を案内した。俺らが普段練習してるところからもわりと近いので歩いても簡単に行ける。それから公園を出てすぐ自販機を見つけ、彼らはその行為を何度もおこなってきたような自然さで自販機の前に行き、順番に飲み物を買った。外は結構寒い。だから誰もコールドのボタンは押さなかった。ホットコーヒー、ホット紅茶、それから緑茶などを買い、ゾロゾロと公園に戻った。戻り際、メンバーの1人にそっとみんなの飲み物代を手渡した。今の俺にはそれくらいのことは出来るから。
奥にベンチが2つ並んである。彼らは主に、その周りへ行くそうだ。ベンチにはウチの劇団に4人いる女性陣が腰掛け、男性陣はその前でしゃがみこんだり立ったりと、思い思いの格好をしていた。まあ話し込んで1時間も経つと誰もが地べたに座り込むらしいが。いずれにせよ女性陣にベンチを譲る紳士な態度などは中々見上げたものである。当然のことと言えば当然のことだが、そういうのもしないで「私は立派です」という顔をしているエラそーな人間がよくいる。とりあえず彼らはそういう人種ではない。そのことが知れただけでも、こうして一緒に公園に来て良かったと思う。あと、公園にたくさん人がいたりベンチに先客がいた場合はどうするのか。俺は単純な疑問を投げかけた。
「その場合はあきらめるて帰るか、別の公園がもう少し遠くにあるのでそこまで行きます」
と1人が答えた。元気だなあ、今の俺なんてすぐに帰宅し夜のバイトに備えて昼寝することが生活の一部になってるのに、彼らは練習後にしゃべってるんだな。でも俺もこいつらくらいの頃は似たような場所で、似たようなことを延々と語っていたっけ。いつからかな、そういうことに対して「疲れ」が生じ始めたのは。前はもっと、なんていうか「アグレッシヴ」だったんだが。その代わり、日々の生活に無駄がなくなったのも事実だ。たとえばもっと若い頃なら朝まで話し込んで翌日の夕方くらいまで寝ていたりしたこともよくあったが、今そういうことはしない。ていうか朝まで飲んだり話し込んだりするなら、せいぜい午前1時くらいに切り上げて翌朝に備える。俺はそれを「体力の衰え」とは感じていない。よく深酒が出来なくなって、
「俺もすっかり飲めなくなった。数年前までは朝までなんてしょっちゅうだったよ。歳食っちまったなあ」
などと言う人がいるが、それは違う。その人にとって大切なものがあり、その存在は酒や友との時間をはるかに凌いでるのだ。それは家族であるとか恋人であるとか趣味であるとか仕事であるとか、その価値観は人それぞれだがとりあえず、
「いつまでもダラダラと飲んでるなら明日に備えよう」
という思考に変わるのだ、大人になるにつれて。だから少しずつ歳を重ね、物事の重要性が変わっていけばそれはそれで楽しい。もちろん自分にとって不変のものもある。たとえば幼い頃好きだった物が今でも好きである、など。もちろん俺だってまだ27歳だ。よく坪田店長やスギウラさんに「まだまだ青二才」だと言われる。自らの可能性を信じている年齢だ。だが若者のようなエネルギーの消費はもうしない。生活に支障をきたすから。だからってそれをするなと言ってるわけではない。むしろ20歳前後なんて、そういう風に仲間と語り合うことが楽しくてしょうがないだろう。討論をぶつけ合うこともおおいに結構だ。それこそが彼らの生きる様とも言える。だが、そういう機会も次第に減っていく。仲間と議論を交わすことも。今の俺には「大討論」するようなことが滅多になくなった。 あるとすればスギウラさんと飲んで語り合うことなどだが、それを果たして「討論」と呼べるかどうか。半分以上はくだらない内容だし。いつなのかは分からないが、そんな風に仲間と語り合う必要性が薄れていくのだろう。だが彼ら若い劇団員など、全力で自分の意見を持てばいい。少なくとも携帯を何時間もいじっているよりよっぽど有意義な時間だと思う。なんてことを、俺は軽い口調で若い連中に語った。近くにあった小枝で、地面に「マル」とか「バツ」とか書きながら。まあ彼らもおそらく将来の不安とか、バイトのこととかで悩みの尽きない日々を送ってるのだろう。そんな彼らにかけてあげる言葉はやはり、
「いまやれることを懸命にやる」
だった。だって「一寸先は闇」もそうだが、1年後にスーパースターになってる事だってなくはない。先のことは分からない、誰にも。特に、役者のような世界は40歳を過ぎてから花開く人だっている。一般社会じゃそういうことは稀だろうけど。しかし、だからこそ危険でもある。40という年齢を過ぎてから役者を辞めて一般社会に放り込まれても、小鹿が野に放たれたようなものだ。残酷な話ではあるが何の力もない。なのでいくら好きとは言っても生半可な気持ちじゃしっぺ返しを喰らうことになる。そう考えると結婚して芸人の世界から身を引いたスギウラさんの友人は、もちろん直接聞いたわけじゃないからハッキリとは言えないけど、お笑いの道よりも家族との生活を選んだんだろう。その姿勢に、知らない人ながら俺はなぜだか尊敬のような気持ちを抱いていた。それは普段の俺の感情が関係している。27歳という年齢は世間で見ればまだ若い。一応若輩者だ。しかし地元の友人とかは、たいてい立派な社会人だ。結婚したヤツもいるし子供もいるヤツだっている。そんな中で俺は、
「このまま役者を続けようか」
「はたまた就職して、結婚しようか」
「地元に戻って地元に住んで、地元で働こうか」
など、悩みの渦の中にいる。逆に今ここにいる彼らはまだそんなことは思ってないだろう。
「ビッグスターになる」
「大物俳優になる」
「憧れの舞台に立つ」
など、誰もが夢物語を描いているに違いない。それは素晴らしいことである。もちろん俺だって今でも「寅さん」のような国民的スターになるため頑張ってはいる。しかし前は自らの可能性を信じて疑わなかったが、歳を取るにつれて「現実」の自分と向き合う時が一歩一歩近づいてることも、また実感せざるをえない。いずれにしてもハッキリとしているのは、俺にせよこの彼らにせよ「準備や努力」を怠ってはいけないということである。さもなくばたとえ「ビッグチャンス」が来たとしても他の誰かに奪われたり、もしくはそれを見逃してのうのうと生きてることになりかねない。準備や努力を怠らず、常日頃前へ進もうとすればいつかどこかで開花するんじゃないか。
「少なくとも今の俺はそう思うよ」
そんな風に俺は彼らへ向けて伝えた。若い連中は真面目な顔をして聞き、中には地べたに正座したり涙ぐんでるコもいた。おいおい、俺は教祖様じゃないぞ。ただの、役者じゃ食えてないフリーターだぞ。…まあ、悪い気はしないが。それから俺が話し終えたのと同時に、女の子の中の1人の失恋話に付き合わされた。(面倒くせえ)と思いつつ、俺はその話に付き合った。
あれから大きく変わったことは、この前に公園で共に過ごしたのが大きかったらしく、それまで「同じ劇団のちょっと近寄りがたい先輩」だったのが「話しかけやすい人」になったことである。これは俺自身よりもむしろ若い連中にとってありがたかったようで、練習は以前よりもずっと活気に満ちたものとなった。若い劇団員は前よりもはるかに相談などを持ちかけるようになり、また俺自身もそのことが嬉しかった。今の彼らがたとえ未来にどんな希望を抱いてるとしても、様々なことに不安もあるだろう。それを俺は聞ける範囲で聞いてあげたい。まあ、
「女とかけおちしようかと思っている」
とか、
「不倫してるんすけど、どうしたらいいっすかね」
みたいな相談されたら男女の機微に疎い俺にはお手上げだが。その場合は祐介やスギウラさんに聞いてみよう。で、その場をかわす。
それから俺は前にも増して意欲的に練習へと取り組んだ。みんなもそうだった。劇団に前以上の活気が出たり、俺が若者にどんどん接することが、相乗効果を生み出していた。劇団最年長のぐっさんは相変わらずだった。練習が終わると一目散に帰っていく、という様子だ。ぐっさんは無口な人で練習中も必要最低限のことしか語らない印象があり、立ち上げ時代から知ってる俺はそんな彼のことをよく知ってるからともかく、まだ若い連中にとっては話しにくい印象があるのも事実だ。それにぐっさんは、この劇団を主宰する立場でもある。小規模だがリーダーであることに間違いはない。もう少しフレンドリーならいいのにと、俺も以前何度か思った。しかし、もちろん自分も含めて若い連中もぐっさんを悪く言ったりしない。それは最年長とか主宰者といった立場上の理由ではなく、彼の性格の良さだ。確かに無口でとっつきにくいが、とても優しい。しかもぐっさんは笑顔が温かくてとても魅力的だ。だから誰も彼を非難することはない。どうやら女性陣の中には「隠れファン」もいるそうだが、ぐっさんは練習が終わると真っ先に同棲中の彼女の元へ帰っていく。そしてそのことは誰もが知ってるので、ぐっさんには手を出す隙もないのだ。多分彼の脳内は「演技」と「恋人」がほとんどを占めているのだろう。そんなぐっさんの態度は若い連中から尊敬のような眼差しで見られていた。一方俺は親しみやすい先輩として、様々な相談を受けていた。演技やバイトのことなど。失恋その他の恋愛相談は苦手だったけれども断るのも可哀想なので、
「一旦持ち帰るよ」
と言い祐介やスギウラさんに連絡し、一応の解決策を導いた。このようにぐっさんと俺以外は全員が20歳前後だが、その若いエネルギーがいい刺激になっているのも事実で、ウチの劇団はかつてないほどの活気に満ちていた。しかも新たな公演を間近に控え、練習にもより気合が入った。それが、藍が福岡に行ってからすぐの出来事だった。
藍が東京を離れて一週間が経った頃、祐介から連絡があった。
「どうだ、まだ落ち込んでるか」
と尋ねてきた。俺はそれが祐介の気遣いだと長い付き合いからすぐに分かったので、嬉しかった。それからもう立ち直っていたが、
「いや、まだだいぶヘコんでるよ」
と嘘をついた。なぜかというと俺は昔っから藍のことで祐介に励まされたり慰められたりしてきた。つまり、藍とのことで俺が祐介に相談をすることは、もはや俺らの一つの決まりごとのようなものとなっていた。今回藍が福岡に行ったことは、当然祐介も知ってる。にも関わらず俺からの連絡がないので、ヤツはおかしいと思ったはずだ。きっと相当に、立ち直れないくらいに落ち込んでるはずだと。まさか俺がピンピンしてるなんて微塵も感じてないに違いない。きっと夜な夜な泣きべそをかいてる姿でも想像してるんじゃないか。あの男は出会った頃から口は悪いが優しかった。だから俺も本当は立ち直ってるけど、まだ落ち込んでるフリをして見せた。
「ったく相変わらず藍に対してはてんで駄目だなあ。しょーがねー、じゃあ近々飲もうや」
そう言った祐介は面倒くさそうに予定を確認した。どれだけ長い付き合いだと思ってる。そうやって口が悪くなればなるほどお前の優しさが伝わって来るって。ありがとな。お前が普段会社や家庭でどんな人間なのか、俺にはもちろん分からんよ。想像もつかない。けど俺との関係は出会った頃からほとんど変わってないな。だからここはヤツの気持ちを汲み取ることが大切だろう。なんてことを考えつつも、本音を言えばまだ藍を引きずっていた。態度では前向きになりながらも、心の中は立ち直れていない自分が情けなかった。あとは祐介に託して、俺はいつもと同じように活動するしかない。俺らは近日中に会う約束をして電話を切った。それにしてもこの行為を何度繰り返したろう。俺が藍に振られるといつも祐介に話す。始めのうちはからかってみたり口悪くバカにするだけの祐介だが、次第に俺を前向きな心にする。まるでヤツの手のひらで遊ばれているようだが、俺が落ち込んでるといつもヤツがそばにいる。そばにいて俺を立ち直らせようと精一杯努力する。もちろん俺が助けたり心の支えになったりしたことも多数ある。たとえば祐介の実家はとても厳しい家庭であり、なおかつ父親はテコでも動かないような堅物の人だった。その反動かどうかは知らないが祐介はとにかく奔放で、隙あらばイタズラや悪さを繰り返した。それも、いわゆる不良少年みたいにバイク乗りまわしたり夜の街をうろつくなんてことは一切しない。
ヤツが好んでおこなっていたのは「落とし穴」と「尾行」だった。落とし穴は大人がスッポリ入るくらい深い。しかも掘られてないところの境目が分かりづらく、多数の犠牲者が出た。たいてい学校の先生がその被害にあった。なかにはムカつく先輩などもいたが、先輩を落とし穴の被害に合わせた時はいつも返り討ちにあった。つまりボコボコになるということだ。もちろん先生を落とした場合も職員室に呼び出されてきつい説教などが待っていた。要は誰かを落とすということはそれ相応のリスクも生じたわけだ。ならば自分よりも立場が下の人間、たとえば部活の後輩を落とせばいいのにと思うのだが、それは一度もしなかった。祐介は自分よりも立場が上の人間にだけ、落とし穴を作った。3年になって先輩がいなくなったら教師陣に的はしぼられた。そしてその度に職員室や校長室に呼び出された。なぜか俺も一緒に。それから毎回キツイお叱りを受ける。そういう説教やお叱りが何時間も続き、職員室を出る時はマジメな顔をして、
「すみませんでした。二度としません」
と言ってもドアを閉めて廊下を2、3歩歩けばもうケロっとした顔をして、
「腹減ったな。帰りにパンでも買って行こうぜ」
と言って何事もなかったようにやり過ごす。むしろ俺の方が参っている。教師たちの長時間の説教に、クタクタになるなんてことはしょっちゅうだった。このように祐介は「権力への抵抗」と称して落とし穴作りを楽しんでいた。そしてなぜかいつも共犯者とみなされた俺は先生方のお叱りに付き合った。だからこそ俺らは相互に助け合い、似ても似つかぬ性格の親友であった。
祐介の悪事には落とし穴の他に「尾行」というものがある。何をするかというとクラスや学年でカップルが出来ると、さりげなくクラスメイトを使って、いつ、どこにデートに行くかを聞き出すのだ。そしてデートの日の朝から家の前で待ち、「尾行」を開始するというものだ。それには絶対的なルールが存在した。デートを楽しむ彼らの邪魔をするようなことはやってはならないとか話しかけてはいけないとか、気づかれてはいけないとか。そうまでして、なぜ尾行をするのか。答えは簡単なもので探偵気分を味わいたかったのである。もちろん俺ではなく祐介が。漫画かドラマの影響で。結局尾行遊びも一ヶ月くらいで終わった記憶がある。まあ尾行にせよ落とし穴にせよ祐介の遊びにはいつも付き合ってきた。祐介はもっとも付き合いの長い友。近いうちに会おう。それで、いろんな話をじっくりしないとな。もしかすると、アイツが俺を必要としているのかもしれない。