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カンパイ!  作者: 石野けい
4/14

初デート

部屋は和室で、掃除がきちんとされていることが見受けられた。俺が子供のころ家族と友達家族で旅行に行ったことがあり、その時泊まった旅館は、確か結構有名なところだったのだが、態度は悪いしさらに俺らが通された部屋は汚かった。そこかしこが埃まみれで、俺らは重たい荷物を下に置くのも嫌になったほどである。それに比べて今日の旅館の部屋はまさにちりひとつ見当たらないくらい整っていた。そしてお茶と人数分の湯呑み茶碗、さらに饅頭やせんべいといったお茶受けがピシッとテーブルに並べられていた。何事にも当たり外れがある。もちろん宿にも。だがここは「大当たり」だった。また、俺らは6人と少人数なのでよくある会社の社員旅行みたいに宴会部屋、ということはなかった。夜組の3人が昼組の部屋に移動して1つの部屋に6人が集まった。なんともせせこましい感じがするが、なにせ少人数なのでわざわざ大部屋を貸し切りにする必要はない。よって、6畳間での宴会となったわけだ。


 そして晩飯も、やはりというか期待通りというか「当たり」だった。夜6時頃部屋に来た料理を見て、俺は思わずヨダレが出そうになった。

「地元の野菜や魚、そして肉を使ってるんですよ。うちの旅館は大体が地元で採れたものなんです」

 そのように料理を運んできた人は説明した。決して自慢する風でなく滑らかに自然に。そうやって運ばれてきたものはどれもこれもみな美味そうであった。新鮮そうな野菜や、皿に盛られたこれまた新鮮そうな刺身、そしてなんといっても肉、肉、肉。これらの料理は6人じゃ食い切れないだろう、ってほどの量だけあり、俺ら(特に若い連中)はそれを見るだけで興奮していた。最年長の上田さんや坪田店長は料理よりもとにかく酒だった。スギウラさんも料理よりも酒、とにかく酒、という姿勢であった。だから食べ物はあらかた俺、キョウくん、それから新人のモリタくんが食い尽くした。


 俺らはここぞとばかりに料理を食べたあと、3人とも満腹で死にそうだった。3人とも床に倒れこんだ。かたや年長者組はというと、まだペースを落とすことなく飲み続けているようだ。まったくもって信じられなかった。彼らの酒豪っぷりに。とりあえず横になった俺はそのまま眠った。

 目を覚ますと坪田店長と上田さんが大きなイビキをかいて寝ていた。俺が寝たあとも飲み続けていた彼らだが遂に息絶えたようだ。あれからどんだけ飲んだのだろう。俺らが食べ尽くしそのまま倒れこんだのが確か7時半くらいだったはずだ。眠る間際に薄れゆく意識の中で壁掛け時計を見て、その時の針の形を俺はボンヤリと記憶していた。で、今は11時を指している。ってことは俺は3時間以上寝ていたのか。食休みにしては随分と長い睡眠だ。しかしまあ、坪田店長や上田さんが息絶え寝てるのも当たり前だろう。この二人はバスに乗ってる時から飲んでたのだから。バスで爆睡してたスギウラさんはというと、まだ起きていた。真っ暗な部屋で一人、ちびちびとやっている。部屋の電気はみんなが眠っているので、おそらくスギウラさんが消したのだろう。しょうがない、すっかり目も覚めたのでスギウラさんに付き合うことにした。とりあえず俺はムクッと起き上がり声をかけた。

「どうしたんすか、こんな暗い中で」

「おおタケオ、起きたのか。いやみんな寝てるし、明るいと寝れないかと思って。それに静かに飲む酒もいいもんだぜ」

 なるほど。さっきまでどんちゃん騒ぎだったんだ。そのようにして静かに飲むのもまたいいだろうな。

「俺もすっかり目が覚めちゃったんで、加わってもいいっすか」

「もちろん」

 そう言ってスギウラさんは親指を立て、ニヒルに微笑んだ。完全に酔っ払ってる。スギウラさんが酔うと、少し格好つける癖があった。今夜もどうやらその様子だった。

「タケオ、窓から外見てみ。景色いいぜ」

 やはりスギウラさんは格好つけモードに入ってる。多分さっき一人で外の景色をながめて悦にひたっていたのだろう。まあそういや俺も窓の外を見てないことに気付き、言われるがままに窓の方へ向かった。そして意外にも、絶景だった。まず湖が見えた。それは、湖と呼ぶには小さいかもしれない。そう、池だ、とても大きな。その池が窓一面から見えた。そしてその池の水面はなぜかとても明るく輝いていた。俺は空を見上げて、すぐにその正体がなんなのか分かった。今夜は満月だった。そして月の光が水面を照らしていたのだ。とても明るく、キラキラと。夜、池、そして満月の光。それらの条件が重なり、景色をより美しく見せたのだろう。これが昼間だったらここまで感動しただろうか。

「スギウラさん、サイコーっすね」

「だろ。寝てるみんなにも見せたいよ」

「ところで今日、タバコ持ってきてます?」

 スギウラさんは数年前に喫煙をやめたが、酒の席とかに少しだけ吸う。1ミリとか3ミリとか、弱いものを。昔は結構なヘビースモーカーで、1日2箱とか普通に吸っていたらしい。

「あるぜ」

 そう言ってスギウラさんは不敵な笑みを浮かべた。今度はお前が窓の前で悦にひたる時だ、と言わんばかりに。そしてタバコを受け取ると、中に空気が入らないよう窓を少し開け俺は火をつけた。そして自分の世界に入った。さっきスギウラさんのことを格好つけモードに入ってるとバカにしておきながら、今度は自分が窓の外を見つめてひたってしまった。しかも久しぶりのタバコを吸いながらである。久しぶりだったが、美味かった。窓の外の夜景を見ながらという雰囲気もカナリ助長していた、恥ずかしながら。俺はタバコの煙が部屋に入らないよう注意しながら、窓の外に目をやりため息をひとつした。そしてもちろんというか当然のように、藍のことを考えた。藍にもこの景色を見せたいな、藍はまだ起きてるかな、この前の電話で伝えたかったことってなんだったのかな、というか藍の声が聞きたいな、電話したいな、などなど…キラキラ輝く水面に映る月の光に魅了されながらも、俺は藍のことばかり考えていた。そして気がつくと、4本目のタバコへ突入していた。随分長いこと窓辺にいたらしい。窓を開けていたので、うすら寒かった。

「タケオ、もういい加減こっち来いよ。十分だろ。こっち来て飲もうぜ」

 スギウラさんに促され、俺は十分楽しんだ窓辺を後にしてテーブルへと移った。


 ビールはほとんど残ってなかったので、俺は二日酔い覚悟でやむを得ずスギウラさんの飲んでいた日本酒を注いでもらった。壁にかかっている時計は午後11時50分くらいになっていた。そう考えると俺は窓辺に30分から40分もいたのか。随分長いこといたものだなあ。

「お前、景色を見ながら何をそんなに長いこといた?まあ聞かなくても分かるけどさ。どーせあのコのこと考えてたんだろ」

 スギウラさんは当然分かってると言わんばかりだ。お見通しっていうか分かりやすいのかな、俺。

「ええ、まあ」

 などと言って、俺は照れ笑いを見せながら曖昧に頷いた。それからスギウラさんはさらに酒を飲みつつ語り出した。新しく作っているネタやライブの話、いま自分がもっとも面白いと思う芸人の話などをし、それから俺の最近の役者としての活動のことも真剣に聞いてくれた。

「そうかあ。まあ芸人にせよ役者にせよホント厳しい世界だよな。自分が目指したことで食ってくってのは。そういやこの間のレスラーもそうだしな」

 そうだ、この間閉店直前に来たあのカベのようにでかいレスラーだって、確か警備員のバイトしてるって言ってたもんな。まあ、彼はそのバイトに合ってる気がするな。もちろん警備にもいろいろあるだろうけど。たとえば彼が夜のビルを警備してたら泥棒とかはビビって腰抜かすだろうな。そんな風に俺があの夜のことを思い出してたら、スギウラさんは再びしゃべり出した。

「お笑いの世界ってさ、売れてない人でも結構年齢層が高いんだよね。だって40過ぎても小さなライブハウスで活動してる人、大勢知ってるもん。30後半とかさ。だから俺はこの世界じゃまだ一応若い方でよ、まあ世間で32って言ったら全然若くないけどね。                

だって地元の同世代のヤツとか、普通に子供が2人とか3人当たり前にいるもんな。この間なんて中学の時の部活の後輩に子供ができたって話聞いてさ、さすがに随分と遅れを取ってる自分の境遇に、ちょっと泣けてきちゃったよ」

「分かります、分かります」

 その手の話は嫌ってほど聞かされてきたので、俺もかなりの焦りを感じていた。

「いや、タケオはまだ20代だろ。30代に突入してみ。このままでいいのかとかそういう不安感はさらに増すと思うぞ。しかもさ、この歳になると同世代の連中がたくさん辞めていくんだわ。ついこの前もさ、一番仲の良かった芸人仲間が辞めて普通に働きはじめたよ。ちょうど同い年で気があったからしょっちゅう飲んだりしてたんだけど。まあ、けどさ」

 そこでスギウラさんは酒を注ぎ足してから話はじめた。

「そいつから『芸人辞める』って聞いた時、俺、止められなかったよ。だってさ、そいつがこのまま芸人続けて売れる可能性より、何か普通の職に就いた方が、なんつーか、幸せになれる可能性があるんじゃないかって。もちろん俺には分からないよ。そいつがもしそのまま芸人を続けてたら1年後に大成功っていう未来も、絶対にないとは言えない。けどそいつが俺に芸人を辞めるって言ってきた時はすごい晴れ晴れしてたよ。もう思い残すことはないって感じの顔かな」

「で、今その人はどうしてるんすか」

「そいつか。食品を扱う会社に入ったよ。配送が主な仕事って言ってた。最初は契約社員らしいけど、3ヶ月くらいで正社員にしてもらえるって。でさ、そいつには長年付き合ってる彼女がいるんだけど、正社員になったらプロポーズするらしいぜ。ずっと待たせてるからって。そういう生き方もいいねえ」

 本来なら同じ世界の親しい仲間が去って寂しいはずなのに、むしろスギウラさんは嬉しそうだった。友の新たなる旅立ちを素直に喜んでいる、そんな感じがした。確かにたとえ好きなことの為とはいえ、歳を重ねればそれだけ定職につく可能性が減る。厳しいがそれが現実だ。だからお笑いの世界から身を引いたスギウラさんの友人の決断は、正しいといえば正しいのかもしれない。なにはともあれ40を過ぎてお笑いを続けている人は死ぬまでやるつもりなのか。俺の役者の世界にもいるが、そのように好きなことをいつまでも続ける勇気は、少なくとも俺にはない。人生にはいさぎよく身を引くことも大事だと思う。夢や目標であれ、恋であれ、変わりはない。


 その後話題が変わり、俺とスギウラさんはあれこれと話し込んですっかり深酒をしてしまった。時刻はすでに3時近くになっていて、

「遅くまで飲んじまったな。そろそろ寝るかあ。ふあああ」

 というスギウラさんの言葉とあくびをきっかけに、俺らはようやく寝床に就いた。お互いかなり眠かったので、すぐさま布団に潜り込んだ。旅館の布団はフッカフカだった。自分の部屋の煎餅布団に長いこと慣れているから、俺はその布団に入り、体全体がふにゃ〜っと休まっていくのを感じた。そうして間もなく俺は無抵抗になった気分で深い眠りに就いた。


 夢を見た。藍の夢だった。彼女はどうしてか、大きなアタッシュケースを持っていた。

「タケオくん、見送りに来てくれたんだ。私、フランス料理の修行をしにパリへ行くの。いつ日本に帰れるか分からないし、向こうに永住するかもしれない。だからこれでお別れになっちゃうかもしれないけど、元気でね」

 そう言って藍は搭乗口で見送る俺に手を振り、旅立っていった。俺は、ただボーゼンと所在無く立ち尽くし、彼女の背中を見ていた。夢の中なので、なにを考えていたかまでははっきりと思い出せないが、ただこれでもう会えなくなるのかな、寂しいな、なんてことを考えていたのだろう。日本食とか小料理屋とかのことは考えなかった気がする。まあ夢の話なので鮮明には覚えてないけど。ただはっきりと記憶してるのは、藍が空港で俺に別れを告げたことと、それを見送ることしか出来ない自分の情けない気分を、覚えている。


 翌朝、目を覚ますと9時過ぎだった。出発は10時である。俺はヤバイと思って飛び起きた。するとすかさず坪田店長が、

「お前らいい加減起きないと間に合わなくなっちまうぞ。俺らなんか6時には起きて、しかも朝飯食った後、風呂にも入って来たからな」

 「お前ら」ってことはスギウラさんもまだ寝てるのか。思った通り、スギウラさんは布団にくるまって寝息を立てていた。

「スギウラさん、もう9時過ぎてますよ。起きないとマズイですよ」

「う、う〜ん」

「いや、うーんじゃなくて。スギウラさん、起きてくださいスギウラさん」

 そんな俺らの様子を、坪田店長はビールを飲みながら楽しそうに眺めていた。朝からよく飲むな。肝心のスギウラさんは俺に何度も起こされて、ったくしょうがねえなあという風に体を起こした。それから俺らは急いで部屋に用意された朝飯を食べた。周りの人たちはといえば、坪田店長は相変わらずビールを美味そうに飲んでいるし、キョウくんは昨日と同じように熱唱している。最年長の上田さんは外を見ながらラジオ体操のようなものをやっているし、新人のモリタくんは部屋の片隅でおとなしく文庫本を読んでいた。とりあえず皆、出発までの時間を思い思いに過ごしているようだ。俺とスギウラさんは朝飯を食べた後、帰り支度を済ませた。

「またきっと来て下さいね。待ってますから」

旅館の人たちはそう言って俺らを送り出してくれた、最後まで温かく。1泊だけの旅行だったけど、日常の喧騒から離れて開放的な心になった。


 そして、やはりというか予想通りというか帰りのバスでも坪田店長を中心とする昼組は元気に騒いでいた。俺は行きのバスで完全に寝ていたが帰りは起きていたので外の景色を見た。そして、来る時に寝ていたのでまったく知らなかったが、窓から見る紅葉をはじめとする美しい森に心を奪われ、同時に楽しかった時間ももうすぐ終わるのだなという寂しい気持ちになった。この前、祐介や藍と会った時も感じたことだが今が楽しいと思えば思うほど、終わりの時が近づくにつれて寂しくなる。この気持ちは27歳になった今でも消化しきれてない。だから俺はいつも「あと2時間か」というように、結構早い段階で終わりの時間のことを考えてしまう。そんなの気にしない方が楽しいはずなのに。つい、気になってしまう。楽しく飲んだ後の帰りの電車の中での孤独感とか、みんなどう気持ちを切り替えてるんだろう。しょうがないくらいに考えてるのかな。俺もそのくらい切り替え上手になりたいよ、本当。

 そうこうしているうちに、バスは都内に入った。ああ、もうすぐこの楽しかった旅行も終わってしまうんだな。寂しい。そんな俺の思いとは裏腹にバスの中は賑やかだった。坪田店長や上田さんは酔っ払ってすっかり上機嫌だし、キョウくんはまだ歌い続けている。ちなみに坪田店長は普段、そこまで酒を飲みはしない。一緒に飲んでもせいぜいビール2、3杯くらいだ。しかし20代はかなりの酒好きだったらしい。音楽と酒が人生の大半を占めていたという。ところが結婚を機に生活スタイルはガラッと変わり、ほとんど飲まなくなったという。今日あんな風に泥酔してるのも多分久しぶりのことだろう。おそらく「旅行の力」が坪田店長を久しぶりの酒豪にさせたのではないか。「今日だけは」きっとそういう気分だったに違いない。


 バスが到着し、さっきまであれほど騒いでた坪田店長や上田さんはだるそうに自分の荷物を持って帰って行った。帰る時に、「じゃ」とか「また」とか一言だけ残して。マッタク感傷もクソもあったもんじゃない。ところが残りの3人も同じように、それぞれ疲れた顔をして帰って行った。アレレ、俺だけか?ま、いっか。とりあえず近くに自販機があったので暖かい缶コーヒーを買い、ゆっくりとそれを飲んだ。そこで俺は旅行の感傷にひたった。一人ぼっちで。


 いつもの日常に戻った。あれだけ酒を飲んではしゃいでいた坪田店長も顔をあわせると、もうラーメン屋のあるじという感じに戻っていた。その切り替えがすごいと思う。俺は旅行から戻り1日、2日と経ったというのに、未だに1泊の小旅行に想いを馳せてしまうし、旅館のことやあそこで働いてた人たちを思い出して切なくなる。いや、俺も切り替えていこう。そう自分の心に言い聞かせた。


 「いやだからって、藍からの連絡を待つんじゃなくてさ、お前の方から電話しろよ」

 俺が坪田店長のような気持ちの切り替えに苦心しているころ、祐介から電話が来た。祐介とはあの焼き鳥屋さんで5年ぶりの再会を果たしてから、会ってもいないし連絡も取ってなかった。ヤツは仕事も忙しいだろうし家庭もあるので、こっちから気軽に連絡をする気にはなれなかった。その祐介本人から連絡があったが、ちょうどそのころ俺は勤務時間だったので、ロッカーに入れてあった携帯の着信音に気づくはずがなかった。俺が祐介からの電話に気づいたのは、小休止を入れた夜11時くらいだった。スタッフは5分〜10分程度軽く一息つく時に缶コーヒーなどを持って店の裏口に行く。ちゃんとドアで遮断されてあり、喫煙者のための灰皿や休憩用の椅子が置いてある。俺はその裏口で小休止するといつも気が休まる。そこからはちょっと古めのマンションが見えるのだが、夜遅くに部屋の明かりが点いていたりするとなんだか気持ちの奥の方が落ち着く。あと店の中とは雰囲気が全然違って、あたりが静かなことも俺の気持ちを和ませる。で、その晩俺はいつものようにホットコーヒーを一口飲んだ後に携帯を見た。そうしてようやく、祐介からの着信に気づいた。11時過ぎという時間もあって一旦は電話するのを躊躇したが、おそらくアイツの性格上携帯の前にあぐらをかいてとは言わないまでも、俺からの連絡を待っているであろう。今や遅しとばかりに。そして俺が電話をかけると待ってましたと言わんばかりの速さで祐介が出て一言放った。

「おせーんだよ、もう。このまま寝ようかと思ったじゃねーか」

 いや、そう言われてもコッチも仕事中だし…。そんな風に俺も何か言い返そうとしたが、口論になってもコイツに勝てるはずがない。そう思ったのでやめておいた。

「それで、藍とはあれから何か進展はあったのか」

 祐介が聞いてきたので、俺はこの間電話があったことや藍が何か言いたげだったこと、それから藍がまた連絡すると言ったのでそれを待つことをざっくりと話した。そして先述した通り「お前から連絡しろ」と祐介に一喝されてしまった。

「藍はなあ、きっとお前に何かしらのことを伝えたかったんだよ。だけど言い出せずにいたんだろ。だったらお前の方から聞き出してやれよ、多少強引でも構わないから。だけど絶対に傷つけるような言い方はするなよ。傷つけたらおしまいだと思って、もう一度藍に連絡しろ。明日にでも、すぐにだ」

 祐介には会社の部下を叱りつけてるような迫力があった。しかし言葉そのものにはナカナカ説得力を感じた。俺はヤツから言われたようにやはり(待つのではなくコッチから連絡しよう)と思った。その結果たとえ失敗に終わったとしてもしょうがないではないか。中学で藍と出会ってから今まで、俺が「待つ」なんてことはしたことがなかった。告白したのは5回だけど「一緒に帰ろう」と言ってみたり休みの日にデートに誘ったりしたことは数え切れない。まあその都度断られてきたが。けど中学でも高校でも俺は待たなかった。いや、正しくは待てなかったというべきか。もしこんな時に恋愛教授でもいたら何て言うだろう。

「もし学生時代に彼女のことを待っていたら、結果は変わっていたかもしれませんね。今度こそ、待ってください、彼女もきっとそれを望んでるはずです」

 そんな言葉でも述べるだろうか。多分それが正解なのであろう。だけど俺は今回も自分から行くという結論に達した。祐介も俺らの関係を知ってるからこそ「行け」と背中を押したに違いない。結果がどうであろうと、藍に対しては自分のスタイルを貫き通せ、と。


 祐介と電話をしていると裏口のドアが開き、

「わりい、タケオ。一人じゃ無理だわ」

とスギウラさんに声をかけられた。

「すまん、祐介。どうやら店が混んで来たらしい」

「オッケー。頑張れよ、藍のこともな」

 そう言って俺らはそれぞれ電話を切った。店に入ると、確かに満席になりそうなくらいに混んでいた。これは当然スギウラさんといえど一人じゃ無理だ。俺はすぐさま仕事に取り掛かった。夜の客で多いのが、居酒屋とかで酒を飲んでから「締めのラーメン」を欲する連中だ。少なければ2〜3人で済むのだが、多い時は10人くらいが一気に押しかける場合もある。今も10人近い客がカウンターに並んでいた。皆同じように赤くなった顔をしてこっちを向いてるのが何だか面白くて、俺は思わず笑ってしまった。すると客の一人が、

「今笑ったろ。何が面白え」

 と言って、俺に喧嘩をふっかけてきた。

「いや笑ってなんかないですよ」

と言ったがその男は、

「ウルセエ!」

と言って立ち上がった。だが両隣にいた友人たちに抑えられ、おとなしく座った。そして、

「う、う、う、」

と嗚咽をあげて泣き出した。友人たちは、

「すいません、コイツ酔ってますんで」

と言い、怒った後に突然泣き出した男をかばった。友人たちも「どうする?」とか「店出るか?」など、声をかけていた。多分そいつに辛いことがあったんだろう。それが失恋なのか失業なのかもちろん俺は知らないけれど、さっきあれほどの勢いで切れかかっていた男が友達に慰められながらシュンとしているのを見たら、なぜだか俺も慰めてやりたい気持ちになった。そして、

「ラーメン食ってまた元気出せ」

 と思った。どんな心境の時にも腹は減る。そして飯を食えば空腹の時よりも絶対、前向きになれる。夜の店にはこうした人たちがよく来る。怒った客や泣いてる客、それから酔っ払いとか本当に色んな人が。でもみんな共通しているのはラーメンを食べた後は、どんな精神状態の客であろうと少し元気になって店を出て行くということだ。そして、今さっきまで感情をむき出しにしていた男も、すっかり元気になって店を後にした。帰る時俺らに、

「さっきは取り乱したりしてすみませんでした」

 という言葉を残して。俺とスギウラさんは再び客のいなくなった店内で水が注がれたコップを合わせた。静かな店内に「キン」という乾杯の音が響いた。こういう時、本当に嬉しいものだ。


 もういつまでも引きずってるわけにはいかない。東京に出てきてからこの前初めて藍に会って、また藍のことばかりを考える日々が続いている。彼女への気持ちを地元に置いてきたつもりではいたが完全に忘れることは出来ないまま時は流れ、こうしてまた好きになった、何とも哀れな俺。別に自分のことを同情しているんじゃない。ただ、いい加減あきらめたらどうなんだと、自分自身に言いたいだけだ。逆転満塁ホームランなんてあるはずはないぞ。まして奇跡なんて起こるわけない。しかし心の奥底で、未だ期待感を捨てきれないでいた。何かが変わることを、俺は信じた。


 それから俺は実行に移した。やっぱり待つことはできず、俺から答えを求めることにする。俺が藍に連絡する時は、相変わらずとてつもなく緊張する。藍に初めて会った時から今も。もう知り合って15年くらいになるというのに、その気持ちに変化はなかった。そのことが情けなくもあり、少し誇らしかった。部屋の時計を見ると午後9時だった。いい時間帯だ。俺は携帯を持つ手が震えているのを感じた。その後「ふう」とため息をつき、緊張することなんて慣れてるだろ、と自分に言い聞かせた。少しでも落ち着いて話そうと、部屋の明かりを消しカーテンを閉めた。それで震えた手のままで、俺は藍に電話をかけた。発信ボタンを押すのにかなりの時間を要した。毎度のこととはいえひと騒動だ。

「トゥルルルル、トゥルルルル…」

呼び出しベルが鳴ってる間、多分俺の緊張は極限に達していたと思う。心臓がバクバクして困った。途中、何度も電話を切ろうとした。中学生か!と言われるかもしれないが藍に対してはしょうがないのだ。それから何回かのベルの音を聞き、藍が出た。

「ハイ、もしもし」

「ああ、俺。タケオだけど」

「ウン」

 当たり前だけど、それは藍の声だった。いつもながらとても心地よかった。藍の声を聞き、俺は絡まっていた緊張の糸が少しずつほぐれていくのを感じた。その代わりに、俺は自分が話そうとしていたことをすっかりと忘れてしまった。とりあえず俺らは他愛のない話をした。11月に入ってますます寒くなってきたことやテレビの話など。その間(アレ、俺何を話そうとしてたんだっけ?)と脳内をフル回転させていた。だが本来聞こうとしていた「この前の電話のこと」がどうしても思い出せず、代わりにこんなことを聞いた。

「ところでさ、次の休みっていつかな」

「お休み?お休みは確か木曜だよ」

「本当か?俺もその日は何も入ってないんだよね」

 もちろん嘘だ。昼間は劇団の練習、夜はラーメン屋のバイトがしっかりと入っている。だが俺は藍に木曜は自分も休みだと伝え、それからこう言った。

「木曜、昼から会わない?というのもさ、この前栃木へ旅行に行って、景色とかすごいキレイだったんだよね。それ以来、体が自然とかキレイな景色を求めてるんだわ。やっぱイナカ育ちだからかな。まあ栃木はさすがに遠いから行けないけど、この辺でも十分そういうの楽しめる場所あると思うよ。だから行こうよ」

 まったく考えていなかったことを矢継早に伝えた。しかし全然無計画でありながら、ナカナカいいアイディアだと思った。あとは藍がどういう答えを出すか、結局のところそれ次第だった。

「ウーン、実は私も最近少し息詰まってて、ストレス溜まってたんだ。近場でもいいからのんびり出来るとこに行きたいな。私は大丈夫だよ」

信じられんことが起きた。地元にいた時ずっと断られ続けたが遂に牙城を突破したぞ。しかも本題を忘れたために出てきた無計画の誘い。まあこれで付き合えるわけじゃなくて、デートの約束を取り付けたに過ぎないが。でも俺は嬉しかった。ハッキリ言って、嬉しくてたまらなかった。

「じゃあいい場所見つけたらまた連絡するよ」

 そう言って、

「じゃ、またね」

 と別れの言葉を口にしたが、自分の方から電話を切る気になれなかった。しばらく耳に携帯を当てて「ツーツー…」という音を聞いてから、俺は電話する前のようにため息をひとつしてからオフのボタンを押した。


 そこから木曜まで俺は動き回った。まず坪田店長に話し、どうしても木曜に出られなくなったことを告げた。坪田店長ははじめ、

「どうしたんだ、身内の不幸か?」

 と心配してくれた。だが俺がそういうのじゃないです、と言うとジッと目を見て、

「まあよく分からんけどタケオが急に休むなんてよっぽどのことだろ。頑張ってこいよ」

 と言って無理なお願いを許してくれた。何て男気に溢れてるんだろう。この店に入って3年ちょい、俺はすっかり信頼を得ていた。夜、スギウラさんに話すと、

「おお、遂にデートか」

 と冷かしつつも、

「まあ、心配すんなって。それよりしっかりやれよ」

 とアッサリ承諾してくれ、しかもコッチの心配までしてくれた。スギウラさんも男気があるいい先輩だよな。まあお笑いの方は相変わらずのようだが。とにかく店の人たちに感謝しつつ、俺は目的の場所を調べ始めた。本屋やネットを使って。近場で、多少の緑もあって、なおかつのんびり出来る場所となると限られて来るなと思った。だが調べ始めると意外にも膨大な数の「オススメ所」があった。そして口コミにも、

「ココはあまり知られてないのですが、穴場でオススメします」

 という風に書かれていて、魅力的な場所がたくさんあった。そして俺は、どこがいいのか分からなくなってしまった。つまり情報過多が逆効果になったのだ。要は飲み屋も駅前に1、2軒あれば迷うことはないが、20軒も30軒もあったらどこに入ったらいいのか分からなくなる。そのような現象が起きているというわけだ。そこで俺は自分の10年近い東京暮らしを頼りに記憶を辿り、行くべき場所を探すことにした。すると何てことはない、「井の頭公園」がすぐ脳裏に浮かんだ。井の頭公園、正式名称を「井の頭恩寵公園」と呼ぶが平日のあの公園は人も少なくて落ち着くし、自分の中ではカナリの高得点である。ココには何度か来たことがあるが、東京で俺の大好きな場所の一つだ。ただし、間違って休みの日に来ると人が多くて疲れる。公園内も、公園外も。近くには吉祥寺駅があって、いい店とかがたくさんあるのだがイナカ育ちの俺にはどうも…。2時間もいると、もうグッタリしてしまう。だが平日の井の頭公園は一つの候補地になりそうだ。そういう場所なら何箇所か思い浮かぶ。緑豊かで、のんびりできる場所。


 それから「江ノ電」だ。コッチに出てきてから何度か乗ったことがあるが、江ノ電はいい。アレに乗ってゴトゴト揺られながらあたりを散策するだけで、のんびりとしたいい休日が過ごせるに違いない。しかも江ノ電には確か1日乗車券というものがあり、それを買えばその日は乗り放題出来るというわけだ。つまり気になる店とかがあったら1度降りてそこへ行き、再び駅に戻って電車が来るのを待てばいい。しかもどの駅もたいていのんびりとしている。もちろん人もほとんどいない。俺は以前江ノ電に乗った時、あまりにも心地よかったもので駅のホームに3時間くらいいたことがある。どこだったかは忘れたけど、とにかく江ノ電の中にはそういうの〜んびりとした駅がたくさんある。あと電車に乗っていると民家のすれすれを走るような面白さもあるが、何と言っても1番は走っていて突如見える「海」だ。何回か乗れば「ココ」という風に海が見えることが分かっている。なのに毎回「ああ、海だあ。大きいなあ」と、心を奪われてしまう。そしてゆっくりと進む車内ではだいたい、海が見えた瞬間乗車してる客から拍手が起きる。それもそうだろう。まるで映画の1シーンのようなんだから。

 それからお腹が空いたらどこかのレストランに入るのもいい。海が見えなくてもあの辺は美味しい店が結構あるみたいだから、その辺は本やネットで下調べしておけばいいだろう。ふむ、なかなかいいなこの企画も。ただ江ノ電となるとチョット遠いのが問題かな。

 いずれにしてもだいたい絞られた。その2、3の候補地をメールして、どこにもっとも行きたいかは藍に決めてもらおう。なんか最後は投げやりのようにも思ったが、藍が海を見たければ江ノ電にするだろうし、公園で散歩がしたいと思ったら井の頭公園にすると思ったので自分で場所を選ぶのはやめておいた。ちなみに俺は、正直言って藍と一緒ならどこでもよかった。本当、どこでも。藍は江ノ電に乗ったことがなく、海水浴客もいない秋の海に魅力を感じて最後まで迷っていたが、公園でのんびりと散歩がしたいということで、結局井の頭公園に行くことにした。


 そして木曜の昼過ぎ、俺らは吉祥寺駅で待ち合わせをした。やっぱりこの日の藍もキレイだった。駅から公園までそう遠くはないので、徒歩で向かった。途中、自販機があったのでそれぞれ飲み物を買い、早くもなく、だからと言って特別にゆっくりとでもなく、公園までの道をプラプラ歩いた。

「ねえ、あそこに猫がいる。日向ぼっこしてるのかな」

 藍が俺に言ってきたので視線をやると、確かに太った猫が気持ち良さそうに寝転がってた。

「本当だ。すげー気持ち良さそう」

 絶好の秋晴れで、太陽が光り輝いてる。猫は上半身を日陰の中に入れ、膝から下だけを太陽にさらすというよく意味の分からない格好だった。俺はその姿を見て、

「何だか意味不明な格好だな。膝だけ日向ぼっこしてるなんて。どうせなら全身太陽の下がいいだろうに」

 などと変なことでムキになった。すると藍はクスリと笑って、

「多分ずーっと寝てて太陽が移動したんだよ。それで体のほとんどが日陰になったんじゃないかな」

 と言った。もっともな意見だと思った。それから、特に意味はないがその猫に名前をつけることにした。藍は、

「なんかどっしり構えた日本男児って感じだよね。この寝てる姿とか」

と言い、〜ゾウとか〜タロウとかいかにもそれらしい名前を考えていた。そこで俺が、

「ゲンゾウ!」

 と、何となくそれらしい名を叫んだ。すると、

「いい、ゲンゾウ。何かこのコっぽい気がする。決まり。あなたの名前はゲンゾウね」

 と言って2、3回ゲンゾウを撫でた。ゲンゾウは藍に撫でられても起きないどころかピクリとも反応せず、相変わらず気持ち良さげに寝ていた。ゲンゾウが飼い猫なのかノラなのかは分からなかったが、太っているのでとりあえず餌には困ってなさそうだという結論に達し、俺らはようやくゲンゾウのもとを離れた。

「じゃあなゲンゾウ、達者で暮らせよ」

「またねゲンちゃん、元気でね」

 ゲンちゃんて、お友達かよ。だが藍は名残惜しそうに、何度もゲンゾウに手を振った。ゲンゾウの本名が何なのかを、もちろん俺らは知らない。本当は「ポチ」かもしれないし「タマ」かもしれない。とりあえず俺らの中では「ゲンゾウ」だ。

 そうして俺らはようやく公園に着いた。普通なら10分ちょっとの距離を、俺らは「ゲンゾウ」のところで時間を費やしたり何度も路地裏に入り込んだりして、公園までの道のりに30分ほどかけた。幸いだったのが気持ちよく空が晴れていたことである。だからこそ何度も寄り道してしまい、井の頭公園に着くまでに俺らはすっかり散歩を楽しんでいた。晴れてよかったなと俺は心から思った。もちろん雨が降った時の考えもあった。そして雨になったらなったで、しずくに濡れた花びらとか雨でポチャポチャと水面を震わす池の音など風情が出てそれもありかなと考えていた。しかしこの青空を見ていると、そんな雨に対する思いは消え去った。やはり晴れた空こそが1番だ。公園に着くまでに散歩を楽しめたのも、やっぱり晴れていたからこそなのだ。そうこうしてるウチに公園内へと入った。  予想していた通り、公園の中にはあまり人がいなかった。ベンチに座って読書にふけってる青年や、大きな犬を連れて歩いてるじーさん(犬に強く引っ張られていてどっちが連れてるのかは不明)、それから汗だくになって何だかよく分からない体操のようなものをしているおっさんなどがいた。彼らは思い思いに時間を過ごしているようである。あと、何人か散歩している人たちがいた。1人で、もしくは2人以上で。どちらにせよ公園の中は静かだった。月並みな言葉だけど、東京のコンクリートジャングルでは味わえない静けさだった。大勢の人の行き交うスクランブル交差点や、そんなに人が乗るのかと思うくらいのタクシーやら、そうした東京のあれこれに上京当時は毎回驚いていた。それらに慣れたとはいえ静かな場所を求めるのは今も変わってない。だから古ぼけた自分の街が好きだしこういう公園もそうだ。多分藍も東京に出て随分長いとはいえ、心のどこかではそういった場所を求めているだろう。ここに来て良かったな。


 公園には大きな池がある。そしてその周りは林のように木々が生えている。この前旅行に行った時は月の光だったが今回は太陽が池を照らしている。池は陽の光を浴び水面はキラキラと輝かせてる。早速俺らは歩き始めた。池の周りは基本日陰のところが多いが空は晴れているので、ところどころに木洩れ陽が差し込む。その光がまるで地上に降りてくる天使のようでなんとも幻想的だ。俺らは空からの光に時折目を細めながら歩いた。枯れた葉っぱが落ち始めている。藍はそれをペシャペシャ踏みしめながら進んだ。

「枯葉を踏む音って何か良くない?ああもうすぐ冬が来るなって感じがして」

 俺は言われて気がついた。確かに枯葉を踏みしめる時に季節の移り変わりを感じて何となく寂しい気分になる。それから藍は「枯葉」という曲を口ずさんだ。足元に落ちてる葉っぱを踏みながら。絶好の散歩日和だ。何より藍が心から楽しんでる。そう考えると嬉しかった。池には白い鳥の形をしたボートがあり数台が水の上で乗客たちによって進んでいた。乗車場の前を通過した時に俺らもボートに乗ろうかと少し迷ったが結局やめることにして、そのまま歩き続けた。池の周りを歩き切り、さっきの場所へ戻った。ベンチに座って読書をしている青年はまだいたし、変な体操をしているおっさんもいた。犬を連れたじーさんはもう帰ったらしく、見当たらなかった。でもほとんどが同じ光景だった。それから藍がもう一周しようと言ったので、俺らは再び池の周りを歩いた。さっきと同じように落ち葉を踏みしめながら。

「気持ちいいね」

 藍が言った。小春日和とはまさに今日のようなことを言うのだろう。穏やかな陽が照らしている。池の周りを2周すると、さすがに読書青年も体操おじさんも姿を消していた。それから俺らは公園の別の場所も散策した。気がつくと薄暗くなって来ていた。時計を見ると午後4時を過ぎていた。知らぬ間に3時間もここにいたことに俺らはお互い軽く驚き、この時期は暗くなるのが早いので散歩を終えることにした。


 帰り道で俺らは再びゲンゾウのところへ行ってみたが、家に帰ったのか知らないけどそこにもうあのふてぶてしい猫の姿はなかった。まあまだ寝ていたら相当な強者だけど。藍はゲンゾウがいなくなったことに対して、

「まだいたら面白かったのにね」

 と言って、少しだけ残念そうに立ち去った。それから散歩に夢中になっている時には意識しなかったが知らないうちにかなり腹が減っていた。そして自分の空腹を気にし始めると、脳内が美味いものを欲求するようになった。カレー、ラーメン、カツ丼に牛丼、それから生姜焼き定食…。もちろんまだまだ無限のように出てくるが俺は一旦脳内に溢れ出る美味いものへの欲求を抑えた。同時に、散歩中には気づかなかったのだが、ヒドく疲れていた。さっきまではあんなに元気で歩いていたのに。今は体が重い。歩く1歩1歩さえもしんどかった。

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