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カンパイ!  作者: 石野けい
3/14

成長

どうしよう、役者は全然売れてないしラーメン屋はバイトだし。しかし今やってることだから、俺はとにかくありのままの現状を二人に伝えようと思った。一度しか会わない相手ならばともかく、よく知ってる間柄だ。今更格好つけてもしょうがないし、というか、もともとそんなことの出来るキャラでもない。二人に比べて自分の人生が負けてる気がしたが、スギウラさんとの合言葉、

「今で出来ることをとにかくやる」

 が俺の心を後押しした。

「俺は、相変わらず役者をやってるよ。でも役者の方じゃ全然食えてないけどね。あと俺が入ってる小さな劇団には、それこそ夢だとか希望に満ち溢れて目がキラキラしてる二十歳くらいの連中が中心になってきたな。劇団を作った時はみんなが俺と同じくらいの歳だったんだけど、1人辞め2人辞め、今じゃ最年長の30歳の人についで2番目におっさんだよ」

 俺がおっさんと言ったので、二人とも軽く笑った。祐介も藍も俺の話に真剣に耳を傾けてくれてる。

「二十歳か、あのころってなぜかギラギラしてたよな。天下取ってやるぜー、みたいな感じで。取れるわけねえっつーの。で、次第に現実を知るっていうか、世間と折り合いをつけていくんだ。まあ、それがいいことか悪いことかわからんけど」

「とげとげしいものがとれて、みんな丸くなっていくよね」

 祐介の言葉に、藍が返した。確かに、劇団の若い連中が居酒屋で繰り広げてるような大激論には、到底参加する気になれない。意見の相違などで口喧嘩する彼らを見てると、よくもまあそんなエネルギーがあるものだなあと、なんとなく眺めている。

「で、ラーメン屋は順調なのか」

「順調。藍にはまだ話してないけど、役者の仕事だけじゃ当然生活出来ないから、夜はラーメン屋のバイトをやってる。週5回でね。いい店だよ、本当に。なにより、人がいい。普段は夜の8時から早朝5時くらいまで出てるんだけど、夜働いてる人たち、みんなすげえいい人。ただ芸人とか旅人とか、みんななんかやってる。だからラーメン屋を本業にしてる人はいないね。まあ俺もとりあえず役者だし。で、たまに昼番の人が休んだりするとそっちに回されることがあるかな。でも昼にはさ、店を立ち上げた人、つまり店主とかが働いてるんだけど、その店主もすげえいい人で、他の人もみんないい人。昼も夜もいい人たちで、だから人間関係には本当に恵まれたな。あ、あと仕事自体も面白いよ、やりがいあって」

「そーなんだあ。私もさっき言ったけど、人がいいって本当大事なことだよね。そんないいお店で働けて、このまま役者やめてラーメン屋さんで働いて行こうかなとか思ったりはしない?」

 藍に言われた。実際それは何度も思ったことだった。役者から身を引き、坪田店長の元で修行する…。そんな人生もありかなって。けどそんな時思い出すのは上京した目的だった。10年前、勢いにまかせて故郷を飛び出したのは、ラーメン屋を開業するためじゃなく、「寅さん」みたいな役者になりたかったからだ。だがその思いも今となっては風前の灯、もはや消えかかっていた。だから俺は藍の問いに対し、

「ラーメン屋になるっていう選択肢も考えたことはあったけどね。ていうか、今も時々考える。ただ俺はもう少し役者を頑張ってみるよ」

「そっかあ。うん、応援することしかできないけど、タケオ君がいい方向に行くと嬉しいな」

 そう言って、藍はじっと俺の目を見てくれた。ありがとう藍、俺は思わずそのつぶらな瞳に吸い込まれそうになったが、ぐっとこらえた。そして祐介はというと、泥酔してもはや半分眠っていた。おいおい、俺の話途中で寝るなよ。

「大丈夫?祐介君。明日も仕事でしょ」

「ダイジョブダイジョブ、祐介のことは心配しなくて。明日になればまたケロっとした顔して仕事してるだろうから」

「ふーん、強いんだね」

 藍が、祐介の酒の強さを言ったのか、それとも意思とかの精神面を言ったのかよく分からなかったけど、どちらにせよとりあえず頷いておいた。それからチラッと時計を見たら12時前になっていた。

「じゃあ今日はこのへんにしておくか。祐介もほとんど寝てるし」

 3人の終電時間まではもう少し余裕があったが、俺らは帰ることにした。泥酔してほぼ寝てる祐介を起こして。それから勘定は、祐介が2軒目はほとんど自分が飲んでたからヤツが全部払うと言ったが、それでは俺の立場がないので、自分も払うと言った。藍に千円だけ払ってもらい、残りを俺ら二人で割った。

 帰りは3人とも別方向だった。したがってそれぞれが違う電車に乗ることになる。店ではほとんど寝ていた祐介も、帰り道はしっかりとした足取りだった。やっぱ、つえーな。もう多分明日の仕事のことでも考えてるのかな。それとも、子供の寝顔かな。

「風が気持ちいいね」

 藍は先ほどにも同じことを言った。確かに、さっきといい今といい今日の夜風は最高だった。


「また絶対会おうね」

「おう」

「もちろん」

 藍が言った約束に、2人とも短い言葉で返した。楽しかった時間が終わるのが、きっとみんな寂しくてたまらなかったのだろう。帰り道は、自然と言葉数が減った。

 藍が最初に、改札口を通って電車に乗った。藍は別れ際、小走りになりながら何度も何度も振り返って俺らに手を振った。俺はその姿を見てたまらなく愛おしく、そして切なくなった。東京に出てきてから俺は、スギウラさんやオオハシのようにモテたわけじゃなかったが、彼女がいたことも何度かあった。けどいつも頭の片隅には藍がいて片時でさえも忘れたことはなかった。少し重いけど、本当にそう思っていた。だからといって、上京してから俺が藍にコンタクトを取ろうと思ったことはなかった。ただの一度も。しかし今日久しぶりに会ってみて、まだ自分が藍のことを好きなんだと感じた。そう思わざるをえなかった。藍はあの頃と変わることなく、だけどあの頃よりもっとキレイになっていた。まあ簡単に言うと、顔から声まで、すべてが俺のど真ん中に入るんだ、藍は。もちろん性格も。何もかもが俺の中では最高かつ、理想。ただ俺は、去っていく藍の後ろ姿をボーゼンと眺めるしか、手立てはなかった。


 そんな俺の気持ちを見透かしたように、祐介が言った。

「まあこれでお別れってわけじゃないんだし。藍も言ってたろう、『また会おう』って。だから安心しろよタケオ。俺もまたこの3人で会いたいよ」

 そう言って祐介は自分の改札へ向かった。別れ際に祐介は俺の肩に軽くパンチをした。そして「またな」と一言だけ残して去っていった。男同士がバイバイするときは、だいたいこんなもんだ。互いになんとなく照れ臭くって、簡単な言葉を残して去っていく。外国人みたいに熱い抱擁をするなんて、まずあり得ない。たとえ心の中は熱くっても。今夜の祐介もそんな風にして、静かに帰っていった。


 俺は帰りの電車に乗った。車内は酔客が多かった。つり革に掴まってこっくりこっくりしているスーツ姿の人や椅子の端っこで完全に寝ているOLっぽい人など様々だ。彼らは自分が降りる駅になったら目を覚ますのだろうか。それとも終点までそのまんま寝てるんだろうか。それで駅員さんに起こされるのかな。まあ、ほぼ泥酔したことがない俺にとっては、終電まで眠ってるなんて失態は犯しっこないけど。

 俺はほろ酔い気分だった。そしてドアの端っこに立ち、外の景色を眺めた。夜12時ということもあって、外はだいぶ暗かった。それもそうだろう、こんな時間ともなれば普通の家は寝てるはずだ。俺はまだ明かりの点いてる家や遠くの方に見えるコンビニの光を見て、こんな遅くまでご苦労様などというわけの分からないねぎらいの気持ちを抱いた。そして、今日のことを思い出した。楽しかったな、本当。二人とも大人になってたけど、そのまんまのところはそのまんまだったな。特に祐介は小1の時に出会ってからほとんど変わってない気がした。でもそれは、祐介だって会社での顔とか家での顔とかがあるだろう。俺だって演技中の自分とラーメン屋の自分は全然違う。違って当たり前だ。しかし、なにより今日3人が集まって「地元の顔」に戻れたことがすごく嬉しい。

 そして祐介はまた会えると言っていたが、俺は今日のように集まれることはもうないんじゃないかと思っていた。なんとなくでしかないがそういう予感がした。さっき藍が改札を抜けた後、何度も振り返って俺らに手を振ってる姿を思い返した。多分、藍とはもう会えなくなるんじゃないか。俺はあの時の彼女を見て、そんな予感めいたものを感じた。そして俺は電車の外を見ながら、不覚にも目に涙を溜めてしまった。いかんいかん。俺は必死に、涙がこぼれ落ちないようにした。


 次の夜、バイトだった。俺は昨晩藍と別れてから、藍の顔ばかりが頭に浮かんだ。そしてそれは、バイト中も。俺は心ここにあらずという感じだった。当然のごとくスギウラさんに突っ込まれた。

「タケオどうしたんだよ、そんなにボケっとしちゃって。まあ言わなくてもわかるけどな」

 嬉しそうだ。なんせスギウラさんやオオハシには一週間ずっとからかわれて来たんだから。

「で、どうだったんだ」

「なんつーか、最高でした。さらに可愛くなってて、ぐっと大人っぽくなってて」

「んなこたあ聞いてねーんだよ。とりあえずあのラッセル車みたい突進は見せなかったか」

 スギウラさんは「やから」みたいな感じで、なにがなんでも聞き出してやるという姿勢を示した。

「はい、まあ」

「よし。そんで次の約束は取り付けたのか」

「いや、それはまだ。ていうかもう会えないかもしんないです。これは俺の完全な推測っすけど」

「なんで」

 スギウラさんの顔が急に不満気になった。この人はこういう話が大好きなのだ。そして、俺の恋の行方を本気で心配している。俺は昨晩の出来事や、帰り際に感じた「予感めいたもの」をかいつまんで話した。スギウラさんは顎をひと撫でして、少し考えた後に言った。

「要するに、タケオの予感ではもう会えないんじゃないかと」

 俺は頷いて「ええ」とか「まあ」とかとりあえず肯定の言葉を返した。スギウラさんは、

「じゃ、まだ全然会えるって。祐介クンに頼んで3人で会ってもいいし、お前から軽く『飯いこう』って言えばいいよ。だって地元の友達だろ」

 そういった後にスギウラさんは少し、遠い目をした。きっと地元の仲良かった友達の顔でも浮かんでるのだろう。もしくは楽しい思い出でも。スギウラさんはもう15年くらい故郷に帰ってないそうだ。15年。いくら俺でも数年前に帰ったし、15年地元に帰らないという感覚は想像もつかなかった。そういえば以前に一度だけ聞いたことがあるが、スギウラさんの実家は結構な金持ちらしい。親父さんはもともと建設業をやっていて、一代で社長になったそうだ。建設業の他にもスーパーのオーナーとか駐車場の管理とか、まあ色々やっていて、家は有名な大工さんに建てさせた3階建て。とにかく地域でも相当デカイ家だという。それで、親父さんはスギウラさんを2代目にさせたかった。ちなみにスギウラさんは長男で、妹と弟がいるらしい。で、15年ほど前、この人は東京に来ることに決めたそうだ。スギウラさんを二代目にしようと思っていた親父さんは、それこそ怒り狂ったらしい。


 スギウラさんが上京する前の夜、親父さんは帰ってこなかったそうだ。おおかた近所の飲み屋でやけ酒でも飲んでるか、友達の家でも泊まってるんだろうと思って、スギウラさん一家も寝床についた。そして翌朝、スギウラさんが東京へ経とうとしたら親父さんが仁王立ちして、

「東京行って、俺はよく分からんが『笑い』を好きなだけやってこい。ただし、中途半端な気持ちでやるなよ。とりあえず売れるか、全力でやって売れなかったら諦めて帰ってこい。それまでは、家の敷居をまたがせん」

 そういって親父さんは玄関から出て行ったそうだ。つまりスギウラさんは勘当同然で家を出て来たそうである。親父さんにとってみれば「笑い」を仕事にしてるのは「ビートたけし」くらいしか知らなく、まったく未知の世界だったそうだ。そこに息子が挑戦する、しかも約束されてる2代目社長という肩書きを蹴ってまで。その話を聞かされた時はパニック状態になったかもしれない。上京前夜、親父さんが家を出て行ってなにをしていたか、俺はもちろんスギウラさんもいまだに分からないそうだ。だが、きっと親父さんは一晩中考えていたのだろう。「笑い」について、そして東京へ出て行く息子について。そして、親父さんが出した答えが「玄関で一言かける」んだったんじゃなかろうか。

 まあとにかく、勘当同然で出てきたんだから、そう簡単には帰れないだろう。ちなみに俺が役者を目指して東京に行くって言った時、母親はおろか父親までもが口を揃えて、

「あ、そう。まあとりあえず行ってらっしゃい」

 と、まるで近所のスーパーへ買い物に送り出すような気楽さだった。まあ、その方がこっちも随分と気が楽だったけど。これが、

「まあ大変!私たちの子が東京へ行ってしまうのよ。オイオイオイ(号泣)これから私たちはどうすればいいの。オイオイオイ(号泣)ねえ、あなた。オイオイオイ(大号泣)」

 なんて感動的な家族だったら家を出るのも逆に苦労するだろう。アッサリしていたのは、本当に出やすかった。


 話がだいぶズレてしまったが、「藍」のことだ。スギウラさんは色々考えてくれたが、

「まあいずれにしても、もう一回会わないことには話が進まないよな。2人であれ3人であれ。だって彼氏がいるかも知らねーんだろ」

 そうなんだ。あれだけ長い時間を共有して地元の話や現状を語り合ったにもかかわらず、藍に彼氏がいるのかどうか一切聞かなかったんだ。祐介の家族の話は聞いたけど。俺は自分の詰めの甘さを恥じた。それから、おそるおそるスギウラさんに聞いた。

「やっぱり彼氏がいるといないとじゃ動き方変わって来ますかね」

「そりゃそーだよ。そのコに彼氏がいた場合、送るメール一つにしたってだいぶ気を遣うからな。しかも諦めることも視野に入れなきゃなんないだろ。まあそう悲観するなって。諦めるのはサイアクの場合だよ」

 そのサイアクの状況を俺は想定した。俺が感じた「予感」の正体はまさしく彼氏かもしれない。待てよ、俺らも27歳だ。藍が結婚してたっておかしくはない年齢だ。祐介だって結婚してるし、ていうか子供もいるし。まあ藍にその心配はないか。だって指輪してなかったから。そもそも和食の修行を始めたばかりの彼女が結婚など。いや待てよ、藍はいずれ小料理屋さんをやりたいと言ってたな。その小料理屋さんというのが、つまりは藍の旦那さん(いるとしたら)と二人で切り盛りしていこうというんじゃないか。そう考えると合点がいく。薬指に指輪をはめてないのも料理の修行をしているからなんじゃないか。ああ、やっぱり藍は結婚しているのかもな。俺は悪い妄想をどんどんと膨らませた。またしても自分の悪い癖である熟考が出てしまった。どうして祐介みたいにズバッズバッと素早く動けないのか。たんに頭の回転の速さの違いだろうか。まあ、それが必ずしも正解とは思わないけど、時々羨ましくなるのは事実だ。そして、熟考していく俺をスギウラさんが止めた。 

「タケオ、タケオ。お前また悪い妄想膨らませてただろ。顔に影がさしてたぞ」

 さすがにスギウラさんはお見通しだった。俺が悪いことを考え出すと、「顔が曇る」とか「顔に影がさす」らしい。要は気持ちが顔に出やすいタイプなのだ。10代とか20代はじめに比べればだいぶ直したつもりだったが、まだまだらしい。

俺はすかさず、

「そんなことないっすよ。ちょっと他のこと考えてただけです」

 そう言って否定した。この悪い妄想が、杞憂に終わればいいと思った。スギウラさんは俺を軽く励ました。本当に軽ーく。

 そして、入り口を見た。今日は、すごい雨が降っている。

「雨がすげーなあ。今日は、お客さんもあんま来ないだろうなあ」

 スギウラさんの言う通り、雨の日は客の入りが少ない。特にこんな激しい雨の日は、なおさら。店のドアはいつも半分くらい空けてある。だからこういう日はビシャビシャと、雨音が店内に聞こえて来る。ところでドシャブリの日には、いつも小学校の帰り道を思い出してしまう。


 俺はいつも祐介と一緒に帰ったものだ。雨でも傘をさしながら。ところがなにせ雨がすごい時に傘はほとんど役に立たず、二人は次第に肩から足からずぶ濡れになった。そして俺らは傘を閉じて、全身ビショビショになりながら帰った。その後、木を蹴飛ばして葉っぱから落ちてくる水滴を浴びたり、膝ほどもあるような水たまりに思いっきり飛び込んだりして、帰るころには身体中泥んこになって母親にこっぴどく叱られたりした。ただ、最初は奇声をあげて怒っていた母親も、雨が降る度にそんな様子だから、途中で白旗をあげ、怒らなくなった。別に母親への反抗心から泥だらけになってたわけじゃないが、ドシャブリになると自然とテンションが高くなってしまい、そうして俺らは傘を閉じ帰り道の水遊びに興じるのであった。ラーメン屋から見える激しい雨を見てると、そんな風に小学校時代の記憶が蘇ってくるのだった。雨の道を歩いていると、大人になった今でも水たまりを見て飛び込みたい衝動に駆られることがある。もちろんそんなことはしないが。まず穿いてるズボンが濡れることを考え、それから靴がビショビショになることを考える。そうなったら、相当に面倒だと想像する。大人となった現在では、そういう風に考える想像力であるとかここで水たまりに飛び込むのは完全におかしいヤツと見られるという理性のようなものが勝る。だが子ども時代は、

「そこに面白そうなものがある。じゃあやろう、後のことなど考えずに」

という風に動いてた気がする。本能にまかせて。まあ大人になっても理性のカケラもないヤツは、「よっぽどの天才」か「危険なヤツ」だけど。

「それにしてもヒマっすねえ」

こんな日に客はほとんど来ない。たまに1、2人来る程度だ。まあ忙しい時はそれこそてんてこまいになるし、こういうヒマな日もたまには悪くない。俺は店の庇の前まで行き、雨に濡れないようにしながら外を見た。時刻は夜12時を過ぎている。店は駅から少し離れた、大通りではないが一応主要な通り沿いにあった。駅前ではないのでうるさい酔っ払いもいない。だから大体、店の周辺は静かだ。こんな夜は特に。外は、激しい雨音だけが聞こえていた。こんな風に店がよっぽどヒマな時は閉店時間の5時よりも、少し早く店を閉めるようにしている。坪田店長からもそのように言われていたし、店を無駄に開けていても客が来るはずがないことは分かっていた。そんなわけで俺とスギウラさんは4時に閉店の準備を始めた。


 閉店の準備を順調に進めていた時に、1人の客が入ってきた。その客は真っ赤なシャツを着て、傘も持たずにびしょ濡れだった。そしてその客の大きな特徴は、とんでもなく体がデカイということだった。ラーメンなど軽く2、3杯は食いそうだった。そしてそのびしょ濡れの、真っ赤なシャツの、とんでもなくデカイ客は俺たちを見るやいなや、

「まだ開いとるか。もう、閉店か?」

 と聞いてきた。通常だとこれだけ空いてる日には、1人とか2人とか客が来ても追い返すことがある。まあ大抵は、

「あれ、確か5時までじゃなかったっけえ」

 と呟きながら帰っていくが。ところが今日の客はラーメンが食いたくてたまらないっていう顔をしていた。身体中を雨に濡らしながら。スギウラさんはその客を通した。その迫力に気圧されたのか、びしょ濡れになってまで来た客にラーメンを食わしてやりたいと思ったかは分からなかったが、スギウラさんはその客をカウンターに座らせ、

「少々お待ちください」

 と言った。

 普通、閉店の準備を始めたら俺らは颯爽と椅子をカウンターに上げ、床の掃除などをするのだが客が1人入って来たことによって、俺らは手を止めた。そのびしょ濡れの客は1番奥に座り、カウンターでラーメンを作るスギウラさんを見ながら水を何杯も飲んだ。その視線はラーメン屋に来る客によくありがちな「素人のくせに評論家気取り」な感じでは全然なかった。つまりそういう客は大抵「どういうスープを使ってるんだ」とか「湯切りはちゃんとしているのか」などと、ろくに分かりもしないくせにじっと見てくる。そして食べる前に写真を一枚パシャリとやる。どうやらそういう客の多くはよくあるグルメサイトに自分なりの評論をするそうだ。ろくに分かりもしないくせに、大笑いだ。で、話を戻すがその客の視線は評論家気取りとはマッタク違った。ただ単に一刻も早くそのラーメンにがっつきたいという純粋な目でスギウラさんが調理する様子を眺めていた。よっぽど空腹なのだろう。その客は既に箸を掴み、臨戦態勢を整えていた。

 しかしその客が注文したラーメンは「普通盛り」だった。大丈夫か、普通盛りで。この人で普通盛りはまず足らないだろう。そうしてしばらくするとラーメンが完成した。ところが、スギウラさんが持ってる丼には普通盛りではなく、どう考えても特盛りはありそうなラーメンが入っていた。

「どうぞ」

 そう言ってスギウラさんは客の前に特盛りのラーメンを差し出した。しかもチャーシューも3、4枚入ってる。びしょ濡れの、真っ赤なシャツを着た客は一瞬戸惑った。自分の注文が間違いだったんじゃないかと。

「サービスです。気の済むまで、食べてください」

 スギウラさんは言った。もちろんいつもはそんなサービスなどしない。バイトだからといって俺らもこの店で一生懸命働いてる。もちろんプライドだってある。そしてなにより、坪田店長に迷惑のかかることはしたくない。だからいつもはそんなことはしなかった。だがスギウラさんは普通盛りを特盛りにした。まるで、とことん食えと言ってるかのごとく。

サービスという言葉を聞いて安心したのか、その人は、

「ありがとう。じゃあ、いただきます」

 と言って、目の前の丼に覆いかぶさるようにした。そして特盛りのラーメンを物凄いスピードで平らげた。それはもう、野獣という表現が相応しかった。

「ごちそうさま。本当に本当に美味かった。」

 と言ってその人は空腹が満たされ、ほっこりした顔をしていた。それから自分がレスラーであることや、本業のレスラーじゃまだまだ全然食えないので練習のない夜の時間帯に警備員のバイトをしていることを俺ら2人にどちらともなく語った。そしてその客は、

「よっこらしょ」

 と立ち上がり大きな体を土砂降りの雨に降られながら帰って行った。帰る時に俺らに握手を求めた。そのレスラーの手はとんでもなく大きく、そして彼の握力はものすごく強くて握手は死ぬほど痛かった。俺はその際、会ったことのないフィリピン人のジョーイを思い出した。 

 体のでかいびしょ濡れレスラーが帰り、俺とスギウラさんは間もなく店を閉めた。

「いやあ、しかし面白いお客さんでしたね」

「ホントだよ。手が痛くてたまらなかったよ。しかしあれだけ体がデカくてもレスラーとして食えないんだな。あれだな、よく分からないけどさらに上がいるんだろーな」

 本当だ。さっきの男のレスラーとしてのレベルは俺らにわかるわけもないけど、とりあえずレスリングじゃ食えないからバイトしてるって言ってたもんな。まあ役者にせよお笑いにせよそれだけで食うのは本当に難しいことだ。どんなジャンルにせよ、夢とか目的とかで食っていくってことの難しさは多少なりとも理解してるつもりだが、実際にそれを仕事にしているってのはそれはそれで厳しいのだろうな。プレッシャーとか売れ続けることの大変さとか。俺がさっきのレスラーになんとなく自分の心をダブらせたのと同じように、スギウラさんも多分、感情移入していたのだろう。そうして激しい雨の1日は終わった。最後にレスラーという珍しい客を迎えて。


 「実家に帰ることになったよ」

 翌日オオハシから突然そう言われた。ヤツによると、親父さんが倒れて、急遽帰ることになったそうだ。オオハシの実家はスギウラさんのように自営ではない。ヤツの親父さんは普通の会社員ということだ。

「じゃ、また戻って来るんだろ?」

 俺は聞いた。倒れたという親父さんのことも心配だったが、もしオオハシがこのまま帰って会えなくなるのは嫌だった。オオハシとは同じ年齢で気も合った。いわば、東京のよき友達である。

「いや、残念だけど店辞めて、完全に帰ることにした。向こうで就職するよ。いよいよ俺も身を落ち着けて働くかな。まあ30くらいまでは旅をしたかったんだけどね」

 オオハシの実家は90過ぎのおばあちゃんがいる。そして倒れた親父さんとお母さん、さらに地元で結婚して近くに住んでいる妹がいるらしい。そのおばあちゃん、そして親父さんを看病するため、オオハシは帰郷する決意をした。オオハシは実家に帰ることに対して、もう覚悟というか気持ちの整理が出来ているらしい。


 ただ旅にたいしてはやっぱり心残りがあるらしく、もう少し色んな場所を周りたかったと残念そうに語った。そして俺やスギウラさんとの別れも、寂しいと言った。

「この夜のバイトは本当に楽しかったからなあ。お前やスギウラさんと会えなくなるのはやっぱり、寂しいよ」

 そう言った後、オオハシはすぐに大好きな寅さんの真似をしておどけてみせた。すかさず俺も、寅さんになり切った。お互いに寂しい気持ちだったが、これ以上その気持ちをおおっぴらに出すのは恥ずかしかった。オオハシとこれで会えなくなる。しょうがないけど現実を受け止めるしかなかった。

「夏になったら必ず帰ってくるあのツバクロさえも、なにかを境にピッタリと帰ってこなくなることもあるんだぜ。あばよ!」

 去り際、オオハシは寅さんのセリフを真似た。そして間もなくヤツは帰って行った。別れの報告をしてから一週間も経たぬうちに。おそらく、親父さんの体調がそんなに良くないのだろう。さらばオオハシ、達者でな。もう会えることはないかもしれないけど、お前の幸せを願っている。こういうものなんだろうな。月並みだけど人には出会いと別れがある。そしてそれは大抵の場合、人間の力にはどうすることも出来ないんだよな。運命かなにかが左右するのかもしれない。まあ、よく分からないし分かりたくもないけど。


 オオハシが店を去り、坪田店長はすぐさま夜のスタッフに求人を出した。「急募」と入れて。新しく入ってくるのは、どんな人間だろう。とりあえずいいヤツで、なおかつ面白いといいな。この店は、本当に人に恵まれてきたからな。年上かな、年下かな。そんな風に俺は、新人が入るまで色々考えた。そして募集の広告を出してすぐ、新人スタッフが入ることになった。早い。多分坪田店長は俺の時と同じように、明日から来て欲しいと言ったのだろう。オオハシが辞めてまだ一週間足らずだ。まあ、そういうものだ。1人が辞め、新しい1人が加わる。それが、普通のことだ。


 そして新人がうちのラーメン屋に加わった。彼は19歳と店で一番の若手で、名を「モリタ」といった。モリタくんは初出勤の時、

「どうぞ宜しくお願いします!」

 と、少し緊張しながらそう言った。なんだか真面目そうだな。にしても、19歳とは随分若い。うちの劇団の若い連中くらいだな。彼らとは最近年齢のギャップを感じてるからな。俺はこのモリタくんと上手くやっていけるだろうか、少し不安だな。などという俺の不安は杞憂に終わった。モリタくんはとても面白いヤツだった。というか、いい意味で変わっていた。まずモノマネが上手かった。俺らが知ってる芸能人はもちろん、入って数日で俺やらスギウラさんといった、店の全員(昼番も)のしゃべり方を真似ていた。長いこと一緒にいればともかく、どうやって昼の人たちの特徴を掴んだかっていうと、

「昼と夜が勤務交代する夜8時前後に口癖なんかを盗み出す」

 のだそうだ。その時間は少しだけど昼出勤の人としゃべる。仕事の件などで。その短時間でモリタくんは昼間の人の特徴を調べた、という。そしてその特徴を掴んで披露するモノマネは、いつも似ていた。またモリタくんは店に来る客の真似もする。もちろんその客が帰ったあと、もしくは客に聞こえないようにやるが。

 いずれにせよモリタくんはしっかりとオオハシの穴を埋めるに相応しいほど、俺を楽しませ笑わせてくれた。当然ながらオオハシが脱けた寂しさは、俺の中で多少引きずった。オオハシがいないと、

「もうここにヤツはいないのか」

 なんてことを思ったりした。しかしモリタくんの人間性とかモノマネが少しずつながらオオハシの去った俺の寂しい気分をほぐしていった。店は問題なく人の移り変わりに成功し、俺はモリタくんの人柄の良さにほっと胸をなでおろした。このモノマネ上手のモリタくんは別にモノマネ芸人を目指しているわけではなかった。たんに趣味だという。モリタくんは、

「小説を書いてます。休みの日とかにパソコンの前でカタカタやってますよ」

 と言った。普段モノマネをして俺らを笑わせてる彼が自分の部屋で静かに読書をしたり小説を書いてる姿は想像が出来なかったが、

「普段のぼくは物静かなんですよ」

 などと言った。物静か?お前が?小説家を目指すよりもモノマネ芸人になった方がいーんじゃねえか。まあモリタくんの進路に俺が口出すつもりはないが、彼のモノマネは俺の思う限りプロ級だった。

 そんな小説家志望兼モノマネ上手のモリタくんが店に入ったことにより、夜の店には新しい風が吹き込まれた。本が好きなスギウラさんも、モリタくんと会話をよくしていた。

「〜の本いいよね」

「サイコーっすね。けど誰々の何々も…」

 など、盛り上がった話をしているのだが、あまり読書をしない俺にとっては、彼らの会話の内容がまるで分からなかった。坪田店長も新人のモリタくんが俺やスギウラさんとうまくやっていることに安心したようだ。


 その日はバイトもなく劇団の活動もないので、俺は買い物がてら久しぶりに自分の街をプラプラと散歩することにした。街を歩く時はいつもラフなジャージかスウェットに、サンダル履きだ。この間藍に会った時はちょっとオシャレにジャケットなどを着ていたが。俺の住む街は安い居酒屋とか八百屋や肉屋などがある。そして俺がいつも行ってる散髪屋がある。そしてどの店も全体的に古い。古いけど、どの店もそれぞれの色があり、味がある。そして俺はそういう店で買い物を済ませ、よく行くところがある。一つの小さな喫茶店だ。肉屋とか魚屋が並ぶ中で、そこは一軒、ポツンと佇んでいる。夕方など買い物に行った帰りに、俺はよくその喫茶店(カフェと格好良く言いたいが、いかにも喫茶店だ)に入り、コーヒーを飲みながら瞑想にふけったりする。店のマスターは意外にも若く、30代中盤くらいの夫婦がやってる。マサミチさんという旦那さんと、チハルさんという奥さん。俺はこの喫茶店で、静かにコーヒーを飲んで帰ることもあれば二人としゃべることもある。大抵、買い物を済ませた後に行く。そしてカウンターの奥が空いてればその席に座る。買い物袋はだいたい足元に置くが店が空いていれば隣の椅子に乗っける。カウンターの奥はもっとも落ち着くのでそこに座りたいが、俺の他にもその席を愛している常連客がいる。俺と同じくらいの年恰好の、ちょっと頭の良さそうなすかしたヤツだ。そしてそいつの服装はジャージやスウェット姿の俺と違い、いつもなんかこじゃれてる。今日、買い物を済ませた俺が店に入っていくと、いた、そいつが。一番奥に座って。(はあ)、俺は心の中でため息をついた。お気に入りの席が取られていたことを残念に思いつつもそいつから3席ほど距離を置いた真ん中へんに、俺は座った。

「ブレンドをお願いします」

 そう俺は注文した。喫茶店には色んな種類の豆があり、最初は色々と頼んでいたが、コーヒーの味の違いがよく分からず、最終的に店で1番安い「ブレンドコーヒー400円」にたどり着いたのだった。一方俺の席を奪った男は毎回「キリマンジャロ550円」を飲んでいた。まあ俺の席を奪ったって言っても、俺だけの店じゃないし。それにしてもキリマンジャロって、味の違い分かるのかな、アイツ。俺にはあまり分からないけどな。その男は店の夫婦ともよく話す。今日は俺もマサミチさんやチハルさんと話したかったのにな。俺はいつものブレンドコーヒーを飲み、店を出た。お金を払う時、チハルさんが小さな声で、

「いつもの奥のカウンター席が埋まっててごめんなさいね」

 と言ってくれた。いえいえ、むしろ気を遣わせちゃってすんません。また来ます。そう心の中で言って、俺は店を後にした。


 喫茶店のドアを開けるとキレイな夕焼け空だった。ここの店を出ると夕暮れであることが多い。俺はその夕焼けが好きだ。決してオシャレではないが古くて温かい街並み、その街並みに空の色がマッチしていてそれが大好きである。初めてその美しさに触れた時、俺は感動して不覚にも涙ぐんだことを覚えている。今日もキレイな空だ。俺は買い物袋を両手に提げて歩き出した。喫茶店の通りから少し歩くと小さな、本当に小さな川が流れている。もちろん田舎にあるようなキレイなものではない。周りに草花は咲いてないし水も濁ってる。だがその川も好きだ。東京に出て来てからずっとこの街で暮らしてきた。上京したばかりのころ、なぜかいつもその小さな川に行き、流れる水をぼんやりと見ながらタバコを吸ったものだった。当時はどこに行ってもタバコが吸えたし買えたので、俺も普通の喫煙者だった。しかし近年過熱する禁煙ブームにより、というより、たんにタバコが高くなったのでやめるに至った。それだけの話だ。タバコを吸うよりもやめて他のことに金を費やそう、そう思っただけのこと。決して今も喫煙してる人のことを悪く言うつもりはない。ところが最近の傾向として「タバコ=悪」だと言うヤツが増えている。禁煙した途端「タバコは良くない」とか言ってる大人に遭遇する。そういう人間こそ、ついこの間まで中毒のようなスモーカーだったくせに。急に自分の意見を覆すんだ。まったくもって笑ってしまうね。


 まあ上京したてのころはよくそうやって川を見ながらタバコを吸ってた。だからこの街にも川にも、もうずっと住んでいる俺の生活臭のようなものが染み付いていて、必然的にこの街に対する「愛着」があった。だから買い物などに出る時、ジャージのようなリラックスした格好をして行くんだ。

 以前に俺が半年くらい失業していて家賃を滞納したことがあった。大家さんは心優しいおじいちゃんで、2、3ヶ月の滞納くらいならいつも待ってくれていた。ところが半年だ。おじいちゃんは本来なら大きな態度に出てもいいところを、俺の家のドアを静かにノックしてやってきた。

「いや、忙しいところ済まないねえ」

 全然忙しくないっすよ。失業中だし。いまもボケーッとしてました。本心はそうだが俺はか細い声で、

「ええ、まあ」

などと呟いた。外は雨が降っていたので、

「とりあえず中入りますか。お茶いれますよ」

 と俺は一応の礼儀を見せた。ところがおじいちゃんは俺の部屋に入るのを断ってこう言った。

「あの、非常に申し上げにくいんだけど、家賃がね、もう半年滞ってるんだよね。だから、全部とは言わないまでも、返してもらいたいなと思って」

 そう言うおじいちゃんは、まるでテストで悪い点数を取って親に叱られてる子供のように申し訳なさそうだった。そんなおじいちゃんを見て俺は、

「返します返します!明日というわけにはいかないけど、必ず返します」

 と宣言した。家賃を回収に来たおじいちゃんの申し訳なさそうな姿に少なからず良心が傷んだのも事実だが、半年の滞納はさすがにマズイと思い、できる限り給料のいいバイトをして家賃を無事に返済した。そして今も大好きなこの街に、このアパートに住み続けている。さらにバイトとはいえラーメン屋で安定した収入を得ているので、最近は滅多に家賃は滞納していない。今日も夕焼け空を見て、そして夜が来る。10月も終わりを迎えようとしている、そんな秋も深くなりかけたころのことであった。


 その夜、藍から電話があった。祐介と3人で久しぶりに会ったあの日から3週間と少し経っていた。俺は藍から電話が来た喜びよりも、むしろ不安の方が勝っていた。つまり俺の「予感めいたもの」が脳裏をよぎり、急に心臓の鼓動が高鳴った。何か、ある。そう確信せずにはいられなかった。

「もしもし」

「タケオ君、元気?今、大丈夫かな」

 今月始め以来だからそんなでもないけど、藍の声はとても久しぶりに思えた。そしてやっぱり耳に心地よかった。俺らは他愛のない話を少しした。この間会ったことや地元のこと、など。そして俺の方から藍に聞いた。

「で、どーした。何か用事があって電話したんだろ?」

「うん、用事ってほどのことでもないんだけど。大丈夫、またかけるね」

 そう言って藍は電話を切った。俺がまだ電話に耳を当ててると「ツーツー」と寂しげな音が聞こえてきた。俺は軽くため息をして電話を切った。藍がどうして電話をかけてきたのか、と考えた。ただ俺の声が聞きたかったからという理由なら嬉しいのだがあの様子からして、残念ながらそれは考えにくかった。とにかくいずれ分かるであろう。そしてそれは、そんな先の話じゃないだろう。はっきりとしたことは言えないが、切り際に藍が言った「またかける」というのは、なにか伝えたいことがあるに違いない。それがどんな用件であるにせよ、俺は藍からの連絡を待つことにした。


 「旅行に行こう!紅葉とか温泉を満喫しよう!」

 そう坪田店長は嬉しそうに言った。11月の始めころ、一泊二日で行くとのことだった。新しく入ったモリタくんの歓迎会も兼ねてという口実も含まれてるらしいが、結局は旅行に行くことが99%を占めてるんだろうなと思った。スギウラさんの話だと坪田店長はテレビで紅葉の特集を見て、即今回の企画を決めたらしい。決断力の早さと実行力では祐介か坪田店長かというくらいだな。おそらく今回の旅行計画も瞬間的に決めたに違いない。いずれにせよ楽しみだ。場所は栃木の山の中だそうで店は丸二日休みにするとのこと。東京に来てしばらく緑豊かな景色から離れていた俺も、思いっきり自然を満喫しようと思った。それから間もなく、我が店は一泊二日の旅行に出発した。オオハシも来たかったろうなと、俺は故郷へ帰っていった友のことを思い出した。


 そして旅行当日、朝7時に出発した。夜勤組にはつらい時間だった。行きのバスで昼の組がビールなどを飲みながら既に盛り上がりを見せる中、俺やスギウラさん、モリタくんは爆睡していた。夢うつつにキョウくんがアカペラで熱唱していたのを覚えている。その声を聞きながら、

「キョウくん、めっちゃ頭いいはずなのに酔うと壊れるんだな」

 などと思った。そして俺は再び深い眠りについた。それからバスが目的地の旅館に到着した。俺は隣にいたスギウラさんに叩き起こされた。ちなみにスギウラさんは昼間の連中の加速度的に増していく盛り上がりに耐え切れず、1時間ほど前に目を覚ましたらしい。スギウラさんが目を覚ました時もキョウくんが熱唱していたという。どんだけ歌えば気が済むんだコヤツ。

 ところで俺らが泊まる旅館だが、一見すると寂れて見えた。外観はお世辞にも良いとは言えない、傾いてるんじゃないかとも思うほどだった。しかし中に入ってその心配は見事に覆された。キレイな内装にセンスを感じられる絵や置物、なにより旅館の人たちの態度が素晴らしかった。仲居さんを始めとする皆さんが笑顔でフレンドリーだった。だからといって決して親しすぎず一定の距離を保って俺らに接してくれた。そうした態度は本当に心地よく、坪田店長は店の主人という立場から旅館の人たちの接客態度の良さがとことん気に入ったらしく、

「後であの接客を教えてもらいに行こうかなあ」

 と言っている。実行力のある坪田店長ならやりかねないと思った。



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