10話目
俺らが入った店は、気の効いたモノなんて何もないけれど味は抜群の居酒屋だった。ぐっさんと酒を交わすなんていつ以来だろうな。それも二人でなんて。俺はいつものようにビール、ぐっさんは日本酒を注文した。そういや、この人は日本酒が好きだったな。俺がずっとビールを飲むように、日本酒しか飲まない人だったな。前にそのことを聞いたら、
「だって俺、日本人だもん」
とか言ってたっけ。それもだいぶ昔のことのような気がする。実際には2、3年くらいしか経ってないが。それから俺らのところにそれぞれの飲み物がきたので、軽く互いのコップを合わせた。少し遅れて食べ物もきたので空腹になっていた俺らはしばらくの間、無言で噛り付いた。一旦互いの食べ物や飲み物に集中していた俺らだったが、ある程度満足したところでぐっさんから、
「ところでさあ」
と切り出された。何かある。そう俺は確信して相槌をうった。
「はい、何すか」
そう答えて続きの言葉を待った。
「俺さあ、今度の公演で劇団を辞めようと思うんだよね」
「え?本当すか」
「ああ」
それから少しの間沈黙があった。
「劇団を辞めるってことは、役者自体の活動も辞めるってことすか」
「まあ、そうだな」
「他の劇団に入るとかそういうことじゃないんですか」
「いや、そういうんじゃないよ」
「そしたらなんで。ていうか、急ですね。あと1ヶ月もないじゃないですか」
俺はジョッキに残っているビールを勢い良く飲み干し、お代わりを注文した。立ち上げメンバーで残ってるのは俺とぐっさんだけだった。しかも彼は年上だし、いくら飲み会に参加することがなくなったとは言え、ぐっさんの存在は劇団にとってとても大きかった。何より精神的支柱として俺を始め全員の心の拠り所にもなっていた。「ぐっさんがいれば大丈夫」みたいに感じていた。誰もが。そのぐっさんが辞める。正直俺は、かなり動揺した。そんな俺の心の動きを感じ取ったかは知らぬが、ぐっさんは胸のうちを語り始めた。
「俺さ、演じること本当に好きだよ。この劇団での時間もいつも楽しい。まあ、最近では練習が終わるとすぐ帰るけどな。でも練習をしてる時は『ああ、本当にこれで生きていけたらな』っていつも考えてた。そのくらいの気持ちでさ、挑んでいたよ」
挑んていたか。確かにぐっさんからは気迫のようなものが感じられたな。何としてでも役者で成功してやるんだっていう気迫が。それで今辞めると言ってる。他人事とはいえ納得出来なかった。俺はもう一度食い下がった。
「じゃあ何で!ぐっさんが1番練習熱心だったじゃないすか。勿体ないすよ、単純に」
そう言って俺はぐっさんを説得しようとした。俺自身も、ここで辞められちゃ困る。
「いや実はな、彼女に子供が出来たんだ。妊娠5ヶ月。もちろん産むよ。予定日はだいたい5月の初め頃だってさ。暖かくていい時期だよ。まあ、それでな」
「役者を辞めると」
「そういうことだな。しかしそれだけが理由じゃない。俺、30になったろ。で、役者始める時さ、どんな事情があろうと、またどんだけこの世界に未練があろうと、30になったら辞めるって決めてたんだよね。いや、40過ぎて売れる人もいるだろうし、続けることと辞めることのどっちが正しいのかなんて俺には分からない。ていうか誰にも分からないだろう」
「何となく分かります。俺も、もう27ですからね」
「そうか、タケオも27か。立派になったな。出会った頃はまだ青二才だったけどな」
また「青二才」と言われた。それはともかく、
「でも1番はやっぱり彼女の言葉だったな。子供が出来たって言われて俺すげえ喜んだんだ。けど正直言うと30を過ぎても、まだ演技にカナリの未練があってさ。そういうもんだよね。たとえ売れなくても、自分がこれまで魂入れてやってきたものだろ。辞めるには相当な覚悟がいるよな。だけど彼女が妊娠した以上これまでのような暮らしをするわけにはいかなかった。何より、これから出産して、子育てに入る彼女を働かせるわけにはいかないだろ。そうなると当然俺が就職して安定した暮らしをすることが最優先になるわけだ」
そう言ってぐっさんは日本酒をグビグビと飲んだ。それから、
「でよ、俺彼女に言ったんだ。『役者辞めて安定した職に就くよ』ってね。そしたらさ、『役者続けて』って言われちゃってさ。俺なんも言えなかったよ。自分は苦労してでも俺に好きなことをやらせようとする気持ちにさ、返す言葉が見つからなかったよ。そんな彼女の思い考えたらさ、言い方悪いけど自分の描いてたこととか目標とかどうでも良くなったんだよね。だから次の日から速攻で求人雑誌で職探ししたよ。まあ俺は立派な大学を出てるわけでもないし、むしろ高卒だから贅沢は言えないと思ってたけどね。おまけに30歳だろ、そんなこんなで不安だったけど何とか雇ってもらえたよ。面接した人も昔劇団員だったって。それでなんか打ち解けてさ、今の自分の境遇を話したら親身に聞いてくれてさ。それで結局そこに就職が決まったってわけ。楽しみだよ、新しい生活も」
そうか、ぐっさんも去ってしまうのか。これで立ち上げ当初のメンバーは俺だけということになるのか。
「どういう仕事やるんすか」
俺は訪ねた。単純に興味があったから。
「会社はコインパーキングを経営してるんだ。営業部や電話対応する部署などがあるらしくて、俺は会社が管理する駐車場のメンテナンスなどをやるらしいぜ。時には営業なんかもやるって言ってたな」
そう語るぐっさんはなんだか嬉しそうだった。気持ちは分かる。分かる気がする。これでもう彼女を働かせなくて済むし、金持ちになるわけではないがとりあえずは貧しい暮らしから抜け出せる。ただ、急すぎるなあ。というか単に、寂しいなあ。でもこれが生きるってことなんだろうな。前へ進むには別れなきゃならない。出来ることならこんな別れなど経験したくない。そういえばオオハシ、元気かな。どうしてるかなぁ。藍は、藍は元気でやってるかな。福岡もすっかり寒いだろう。風邪ひかないよう、気をつけて。
「でさあ、20日だけど」
俺が遠く福岡の藍に想いを馳せていたら、ぐっさんの声が聞こえた。
「あ、はい。何でしょーか」
「その日が一応俺の最後ってことになるじゃん」
「そう、ですね」
そうか。そういうことになるのか。だったら盛大なお別れ会をやるか。いや、台本の内容を少し変えてぐっさんのセリフを増やそうか。ていうか両方やったらいーんだ。そんな風に俺がプランを思い浮かべてたらぐっさんが、
「このことは黙っておいてくれないか」
は?黙る?つまり何も言わないってことか。
「へ?それは、要するに彼らには内緒ってことすか」
彼ら、つまり若い連中のことだ。俺は、
「それはさすがにマズイんじゃないすかね。だってぐっさんの言い分だと、もう次の練習からは一切来ないってことですよね。や〜、それはさすがに。ていうかそのことを知ってる俺がどう説明すりゃいーんすか。無理っす、無理。自分の尻拭いは自分でしてください」
俺は少し怒った。するとぐっさんは、
「やっぱ無理か。いや、無理って言われるだろうとは思ってたよ」
だったら最初から聞くなよ。とは思いつつも、演技とはまったく無関係の軽いバトルを俺は楽しんでいた。それからぐっさんは、
「いやー、俺が軽く挨拶をすることを想像したら、あの若いメンバーが胴上げでもしかねないなと思ってさ。彼らはいい意味でも悪い意味でもとにかく『若い』じゃん。まあ俺だってもっと上の人からしたら全然若いんだけどさ。よく50近い親戚のおじちゃんに言われるよ。『若いなあ。可能性は無限大だな』ってね。そのくらいの歳の人から見れば俺らもまだまだなんだろうな」
確かに50近い歳の人からすれば俺らはまだまだ若いんだろう。俺が「青二才」と言われるように。
「まあ確かに若いだろうけどさ、もう以前のような無鉄砲さはないよね。多少だけど分別もついてきた。これはいいことだよな」
そう言って、ぐっさんは再び酒に口をつけて、少し物思いにふけった。多分だけど、勢いだけで突っ走ってた時代を思い出してるんじゃないか。ぐっさんにもそんな頃があった。そして通り過ぎていった。それから彼は、
「まあ軽い挨拶はするよ。若いヤツらが変なことしなきゃいいけどなあ」
とぐっさんが言ったので、
「多分胴上げされますよ。それも駅前とか人通りの多い場所に連れてかれて」
と答えて、二人とも大声で笑った。こうしてぐっさんと酒を交わすのも最後だろうな。そう思うと鼻がツンとした。
俺らはそのあとも、長い時間飲み続けた。こうして人は出会いと別れを繰り返して成長していくのかな。「出会い」と「別れ」なんてありふれた言葉すぎるけど、実際のところそうではないのか。藍が福岡に行った時も思ったけど、人は別れからは逃げられない。じゃあ、それを恐れて部屋に閉じこもってればいいかって言えばそれも違う。
「今出来ることを懸命にやる」
しかない。やはり。もちろん寂しさや悲しみは残る。それでも逃げることなく向き合うんだ。そうしてその寂しさや悲しみを乗り越えたら、俺は今よりもっと強くなれるはず。だから俺は部屋に閉じこもることなく明日も、明後日も、明々後日もずっとずーっとこれからも同じく、変わらず、出来ることをやり続けるしかない。
などと、ほろ酔い気分の中で俺は思った。やっぱアルコールが入ると熱い気持ちになるな。俺の悪いクセだ。まあいいか、このくらい。アルコールが入るとタチ悪くなる人よりは。泣き上戸になったり絡み出したり暴れ出したりするよりはずっとマシだ。それから俺とぐっさんは20日の成功を誓って別れた。ぐっさんの最後の舞台になるんだから、何としても成功させよう。そう胸に秘めながら、俺は帰りの電車に乗った。




