第8話-4
ガタガタと整備のされていない山道を限界まで馬車で登ると、スファレとグランディディエはその先へ進むべく馬車を降りた。市場に寄っていた遅れを取り戻したいと気持ちは焦るが、これ以上は道が細すぎて馬が通れないのでは仕方ないと、スファレは小さく息を漏らす。
「……場所は間違ってなさそうだけど」
確信を込めながらも気落ちと焦りが声音に混ざってしまったスファレの右手を、まるでその気持ちを払拭させるかのようにグランディディエがぎゅっと握った。スファレは知らず地面へ向いていた翡翠の瞳を釣られるように上げると、諦めの気持ちなど微塵も感じさせないグランディディエの力強い瞳にはっと大きく目を見開く。
「まだ終了の合図は出てない。諦めるにはまだ早いよ」
ちらりと一度自分たちが降りた馬車の後方へ視線をやると、グランディディエはスファレへ向けにやりと挑戦的な瞳を向けた。スファレはぱちぱちと瞬くと小さく頭を数度横に振り、目が覚めたと言わんばかりに同じように口角を上げた。
「そうね。先に着いてたって、まだいるってことは解決できてないってことだもんね」
スファレ達が停めた馬車の近くに既に停めてあった紅玉たちの馬車をちらりと見ると、同意を求めるようにグランディディエの瞳を見上げた。グランディディエはようやく表情を柔らかく崩すと、
「そういうこと。ほら、急ぐよ」
と、スファレの手を引いて走り出した。スファレも翻るスカートの裾が邪魔にならないように押さえながら後に続く。
「……ねえ、でも、どうやって、捕まえれば、いいのかしら?」
走りながら、スファレがぽつりとそう疑問を零した。グランディディエは振り返った視線の先で走り慣れないスファレがはあはあと息があがっていることに気づくと、すぐに走る足を止めた。スファレは反応が遅れ繋いでいた手に引っ張られるように急に足を止めると、反射的に振り返る。
「ちょっとっ! 急に止まったら危ないでしょっ?!」
「ごめんごめん。でもあんただって走り慣れてないからほんとはしんどいんでしょ。ここからは歩いて行くよ」
「でもっ……」
少しも悪びれた様子もなくそう言ったグランディディエにスファレは焦りを隠しきれず反射的に食らいついたが、グランディディエは取り合う様子もなく小さく肩を竦める。
「市場に行った時点で最初から俺たちにはハンデがあることなんてわかってたんだから、今更少し急いだところで変わらないでしょ。それに、あんたが今言った通り、例え先に見つけてたとしても、兄さんたちも捕まえ方が分からないんでしょ」
まだこの場に留まっていることは、と言外に告げるグランディディエに、スファレはまだどこか納得していなさげな表情をしていたが、真っ直ぐに向けられるグランディディエの瞳をじっと捉えると、心を整えるかのように一度大きく深呼吸をした。
「……ほんとはちょっとしんどかったの。でも、早く行かないとって思って……だから、そう言ってもらえると助かるわ。ありがとう」
「まあ、ちっちゃい頃はあんたが率先して走り回ってたからね。今もその感覚で走った俺が悪かっただけだから。だって」
「?」
グランディディエはそこで一度言葉を切るとまじまじとスファレを見た。途切れた言葉の行先が見当たらずスファレが首を傾げると、グランディディエはその様子に楽しそうに笑った。
「……ううん。なんでもない。まあでも歩くからってゆっくり散歩するわけじゃないからね。早足で歩くよ」
「それはわかってるわ」
スファレはその言葉に改めて気を引き締めると、歩き始めたグランディディエを追い抜く勢いで歩く足を少し早めた。
「それで? さっき言ってたことは?」
「さっき?……ああ、どうやってその怪物? を捕まえたらいいのかしら? って。だって、紅玉は聖女の力があるんでしょ? それなのにまだ捕まえられてないんだとしたら、そんなの、なんの力もない私はどうしたらいいのかなって」
「どうせ紅玉は殺そうとして力が役に立たないんでしょ」
呆れたように吐き出したグランディディエの言葉に、スファレはぎょっとして見上げる。
「こ、殺すって、そんなの……」
いくら得体の知れない怪物もどきであったとしても、今のところ被害にあった報告はないのだ。無暗に命を奪うべきではないとスファレの顔が曇る。
(そんなの、かわいそう)
「だから父さんも殺すなって言ったんでしょ。で、だからこそ苦戦してまだ捕まえられてないんだとしたら、俺たちが遠回りしてきた価値があるってこと」
グランディディエはそう言って繋いでない方の手に持っていた小さな袋を顔の高さに掲げて振ってみせた。
「そうだけど……」
「なに? なんでそんなに不安そうなの?」
スファレの態度が不満なのか、怪訝そうにグランディディエが眉間に皺を寄せる。
「勢いでそれはジョージのルイスかもしれないって言ったけど、もし違ったら? それに、ただの好物だったってだけで、もしかしたら何の意味もないかもしれないし……」
密かに心の奥に燻っていた不安を口にすると、呼応したようにスファレの表情が曇った。怪物もどきの話を聞いた時確信のように閃いたが、今になってグランディディエに相談もなく何の根拠もないそれに勝手に賭けてしまったことに、焦りと不安が止まらないのだ。
「……」
「……そんなこと気にしてんの?」
グランディディエはあからさまに呆れたような視線を一つ寄越すと、盛大に溜息を吐いた。
「そんなことって! 大事なことでしょっ?! だって、もし全然見当違いだったら? だったらっ……」
「そうなったら、別の方法を考えればいいだけでしょ」
「え?」
どうすればいいの、と続けようとしたスファレの言葉は、グランディディエの言葉の前にあっさりとかき消された。ぽかんと呆けたような表情をしているスファレに、グランディディエは信じられないと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。
「はあ? 当たり前でしょ。一回失敗したら終わりじゃない。向こうが捕まえてないなら、俺たちは負けてないんだから。例えこれが効かなかったとしても、立場が同じになるだけでしょ。でも」
グランディディエは一旦そこで言葉を切ると、スファレの瞳を真っ直ぐに捉える。
「俺はあんたの直感を信じてる」
「グランディディエ……」
穏やかに微笑んだグランディディエの笑みに、スファレは胸の奥に渦巻いていた不安がじわじわと解けていくのを感じた。すっかりとそれが解けきると、今度は同じ場所からじわりと暖かい何かが湧いてきて、それは内側からスファレを勇気づけてくれているような気がした。
「俺が信じてあげてるんだから、あんたも自分を信じなきゃダメでしょ。ほら、そんな辛気臭い顔してないで、さっさと行くよ。俺たちが遅れを取ってるのは変わりないんだから」
「ふぇっ?!」
グランディディエはすぐに呆れたような表情に変えると、とつぜんぎゅっとスファレの鼻をつまんだ。不意打ちに出た間抜けな声が面白かったのか、グランディディエは喉の奥で笑いをかみ殺すと、グランディディエは堪え切れない笑みを隠すかのように前を向いた。すぐに離れたその指先から守るようにスファレは自分の鼻の頭を押さえると、
「そんなこと、言われなくてもわかってるわよっ!」
と、その様子に不満気な声を上げて、逆にグランディディエの手を引いてズンズンと歩きだした。
(なんかちょっと今すごく嬉しいって思ってたのに、やっぱりグランディディエはグランディディエだわっ!)
グランディディエはその様子に面食らったように一度大きく瞬いたが、すぐに口元に楽しそうに笑みを浮かべると、
「はいはい」
と、仕方なさそうな口調とは裏腹に弾むような足取りでそれに続いた。その時。
「ねえ、もう殺してもいいでしょ?」
「?!」
突然苛立ちを含んだ女性の物騒な声が聞こえてきて、スファレとグランディディエは思わず顔を見合わせた。
「今の声って……」
「紅玉しかいないでしょ」
すっかりと本性を現したような言い方が未だ慣れないスファレと違い、グランディディエはさも当たり前と言わんばかりに呆れた顔で吐き捨てた。複雑な心境のスファレに構わず、声が聞こえてきた上方を鋭い目つきで見上げている。
「どうやら目的地は近いみたい。行くよ」
グランディディエは見上げたままそう言うと、小さく笑ってスファレを振り返った。
「……うん!」
スファレは胸に渦巻くモヤモヤを振り切るように頷くと、引かれる手に導かれるまま走り出した。
※
「……じゃあこれどうするつもり?」
はあ、と蓄積した疲れをすべて吐き出したかのような大きな溜息が聞こえた。スファレは弾む息を整えながら前方へと視線をやると、先ほどの声の主である紅玉が不機嫌さをかくさずに腕組をしている後姿が飛び込んできた。それを受けるシンハライトは別段何かを表情に出すことはなく、ただ視線だけ紅玉と同じ方へと向けていた。
「どうしたものだろうね? というか、見た所特に迷惑はかけていない感じだから、僕はこのままでもいいと思ってしまうけれど」
シンハライトはふう、と小さく息を漏らすと、こちらに気づいたようで髪色と同色の睫毛に覆われた瑠璃色の瞳をパっとスファレたちの方へと向けた。
「ああ、ようやくおでましだね」
口元に笑みを浮かべてシンハライトはそう言うと、スファレとグランディディエの方へと向き直った。今は敵対している形とはいえ、シンハライトの笑顔はいつでもそれを向ける相手に穏やかな気持ちをもたらしてくれる。
「大口叩いた割に随分と遅かったわね。やる気あるの?」
シンハライトと対照的に冷たい視線を投げてよこす紅玉に、気分を害されたのと言葉の内容も相まってスファレはムっと唇を尖らせた。
「そっちこそ、聖女様の力があるくせに解決できてないじゃない」
「……」
スファレが言い返すと、紅玉は更に不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「殺しちゃダメなんて生ぬるいこというからよ。こんなの、どうするつもり?」
はあ、と紅玉は大きく溜息を吐いてお手上げと言わんばかりに両手を空に向け肩を竦めた。坂道の下方から二人を見上げているスファレ達にはその先の踊り場のような場所にいるらしい例の怪物もどきの姿はまだ見えていないので紅玉のイラついた状況は良くわからなかったが、解決すべき問題が未解決のままその場にあることに場違いであるかもしれないがホっと胸をなでおろした。
(紅玉たちが何もできていないことは引っかかるけど、まだ私たちにも勝つチャンスがあるってことだもんね)
スファレは小さく頷くと、繋いでいるグランディディエの手をくいっと引っ張った。水色の瞳がゆっくりとスファレの方へと向いたのを確認すると、もう一度小さく頷いて、スファレは紅玉たちが立つその先へと進むべく勢い良く踏み出した。
「次は私たちの番よ。道を開けて!」
高らかに宣言したスファレの声に、シンハライトは一瞬戸惑うような表情を浮かべ、紅玉は無表情に冷たい視線を向け、それでもスファレたちの為に二人は身を翻しその道を開けた。スファレはそれに気を引き締めるように息を吸い込むと、その勢いのまま踊場へ踏み上げた。
「スファレっ!!」
「え?……て、ひっ……!!」
踏み込んだその先、開かれた視線の先に現れたモノにスファレは目を大きく見開いてふっと息を呑んだ。そのまま無意識に口から飛び出していきそうになった悲鳴は、後ろから抱きしめるようにスファレを抱え込み口を塞いだグランディディエの手によって間一髪のところで阻止された。
「何がいるか想像もしなかったのっ?! この、馬鹿っ!!」
眼前にいるモノを刺激しないように押さえた声ではあったが、グランディディエはスファレの耳元でそう怒鳴った。スファレは未だ驚きで見開いたままの目で改めてそれを確認すると、グランディディエに同意するようにコクリと頷いてそのまましょんぼりと頭を垂れた。グランディディエはその様子に反省を見出したのか、小さな溜息と共に口を開く。
「手、外しても叫んだりしない?」
スファレがもう一度頷くと、グランディディエはゆっくりと拘束を解いた。
「……ごめんなさい。どんな姿をしてるか、考えるのすっかり忘れてたわ」
グランディディエの凍てつくような視線を気まずげに見上げた後、スファレはもう一度しっかりと視線をそのモノの方へと向けた。
「……」
優に体長5メートル以上はあるのではないか? というその巨体はびっしりと鱗に覆われ、日の光を存分に浴び噂通りキラキラと輝いている。初見では驚きが勝り判断出来なかったが、大きさこそ尋常ではないが、そのフォルムはスファレの予想通り、見知ったトカゲのそれに酷似していた。
(やっぱり、これはジョージが言ってたルイスなんだ。でも、だとしたら、どうしてこんなに大きくなっちゃったの?!)
スファレたちが立っている場所の数メートル先で、行く手を塞ぐかのようにその大きな体を丸めるようにして寝そべっているルイス(仮)の顔をそっと覗くようにスファレはその場で少し身をかがめた。
「……寝てる?」
離れた場所からでも目を瞑った姿は確認することができ、スファレはグランディディエを振り返った。グランディディエはルイス(仮)へ向けていた鋭い視線を解くと、スファレへ向け小さく肩を竦めて見せた。
「さあ? そう見えるけど、ここからじゃなんとも言えない」
「僕たちが来た時からずっとこんな感じだよ。ただ、時折身じろぐみたいに体を動かすからうかつに近づけなくてね」
グランディディエを補足するようにシンハライトがそう付け加えた。スファレが振り返ると、不機嫌に真っ赤な唇を歪めた紅玉と目が合う。
「だから大人しくしてる間に殺してしまえばいいって言ってるのよ」
呆れたように溜息を吐いた紅玉に、スファレは反射的に口を開く。
「ダメよっ! だって多分これ、ジョージが飼ってたルイスだもの。殺すなんてかわいそうだわっ」
「それがなんだか知らないけど、どうせもう飼うことなんてできないじゃない」
紅玉が侮蔑の視線と共にそう吐き捨てると、スファレはムっとしたように紅玉を睨みつける。
「そんなことわからないじゃない。ルイスがもとに戻れば、また飼うことができるかもしれないでしょ?」
「元に戻す? 私の力でも無理なことを、何もできないあなたができるとでも言うの?」
小馬鹿にしたように紅玉が鼻で笑うと、だがスファレは勝ち誇ったように胸を張ってみせた。その態度に、紅玉が怪訝そうに眉根を寄せる。スファレは得意げな表情のまま素早く今立っている場所からグランディディエを軸に反対側へと移動すると、その手から小さな袋を取り上げて目の高さに掲げてみた。
「できるわっ! 私たちにはこれがあるものっ!」
「……」
「……は?」
自信満々なスファレとは裏腹に、その場に微妙な空気が流れた。シンハライトはかろうじて笑顔は保っていたがその瞳には困惑を宿しており、紅玉に至っては不機嫌を通り越してスファレの理解不能な言動に怒りすら覚えているような形相をしていた。
「その汚い小袋が何だって言うの?」
沈黙を破ったのはもちろん苛立ちを隠さない紅玉だった。手を伸ばして奪おうとしてきたその指先を、スファレは寸でのところで躱しぎゅっと小袋を胸に抱きしめた。
「触らないでよっ、これは大事なものなんだからっ!」
スファレが唇を尖らせると、紅玉は、ふん、とそっぽを向いた。
「その大事なものが、これの解決策だって言うのかい?」
空気を無視してシンハライトがスファレが胸に抱いた袋を指さす。もう危険は去ったとスファレがそれを胸元から取り出すと、シンハライトがまじまじとそれを見つめながら不思議そうに首を傾げた。
「見てもいいかな?」
シンハライトは袋を指さしながら丁寧にスファレにそう尋ねた。スファレは一瞬考えたが、シンハライトならおかしなことはしないだろうと頷く。
「ダメ」
「え?」
だが、スファレがシンハライトへ小袋を渡すより早く、グランディディエが二人の間に体を割りいれた。
「スファレは良いって言ったよ? グランディディエ」
楽しそうに笑いながら、シンハライトは差し出したままの右手を引くことなくグランディディエへと向けた。
「俺は言ってない。いまはペアで動いてるんだから、スファレの持ち物を見たければパートナーである俺の了承も必要でしょ。わかってるくせに、スファレを試さないでよね、兄さん」
「……残念。もう少しで簡単に勝利が手に入れられそうだったのにな」
シンハライトは本気とも冗談とも思えない調子でそう言うと、楽しそうな笑みはそのままにお手上げと言わんばかりに両手を上げて一歩引きさがった。グランディディエはそれを苦虫を潰したような表情で見ると、くるりと体を反転させてスファレへと向き直った。
「あんた、今が勝負中だってわかってる? いくら兄さんでも、今みたいに簡単信じたりしないで。あんたがせっかく手に入れたそれ、奪われるとこだったんだから」
グランディディエはスファレの両肩を掴むと、後ろの二人に聞こえないような小声で呆れたように咎めた。
(あ、これ本気で怒ってる……)
グランディディエの端正な顔が不満気に歪められていた。グランディディエはどちらかというと不機嫌そうな表情のことが多かったが、長年の付き合いから大部分のそれはただ綺麗な造りの顔の無表情がそう見えるだけということをスファレは知っていた。だが今は、確実に瞳に怒りが宿っているのが分かる。スファレはこれ以上刺激しないようにと袋を持ったまま両手を顔の前で合わせる。
「ごめん。グランディディエの言う通りね。気をつけるわ」
スファレは小さく頭を横に振ると、グランディディエを上目遣いに見上げ誓うように頷いた。グランディディエはまだ何か言いたそうではあったが、ぎゅっと眉間に一度力を込めると、小さく息を吐いた。
「……今のところそれに頼るしかないんだから、使うまでは大事にしておいて」
グランディディエはそう言うとスファレの肩を抱いてルイス(仮)の方へと向き直った。
「まあでも、寝てるとしたら使い道がないけどね」
「そうね。でも、じゃあどうしたらいいのかしら?……て、?」
スファレが困ったように首を傾げたその時、ルイス(仮)のまぶたがわずかに動いたような気がしてスファレは目を留めた。
「なに? どうかしたの?」
グランディディエがそう問いかけると、スファレは自分の肩に置かれたグランディディエの手にそっと自分の手を添えそれを静かに外すと、ルイス(仮)の顔を注意深く凝視しながら一歩そちらへと近づいた。
「スファレっ! 勝手に動かないでっ」
「しっ! 今、まぶたが動いた気がするの。もしかしたら、起きてるのかもしれないわ」
「だとしたらなおさらでしょっ?! 考えなしに近づいたら危ないって」
「それはそうだけど……」
スファレが不満気に口を尖らせたその時。ルイス(仮)の閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
「起きたわ!」
その瞬間、その場に一気に緊張が走った。グランディディエはスファレを庇う様に肩を抱き自分の方へ引き寄せ、後ろに控えていたシンハライトと紅玉も静かにルイス(仮)を見守る。ルイス(仮)は何度か瞬きをした後、キョロキョロと頭を振って周囲を確認しているようだった。何度か目に首が左右を行き来したその時、ルイス(仮)がぴたりと一点で視線を留めた。大きな真っ黒の瞳がスファレを捉え、じっとこちらを見つめている。
「ねえ、これって、もしかして危ない感じ?」
視線を逸らすことができないまま、スファレは小さな声でそう言った。
「こういう時って動いていいものだっけ? あまり爬虫類の生態に詳しくないんだよね、僕。まあ、これが爬虫類に分類されるかわからないけど」
緊迫した空気とは裏腹に、のんびりとしたシンハライトの声が届いた。姿を見ることはできないが、顎に手を置いて首を傾げていそうだなとスファレは思った。グランディディエがちらりと呆れた視線をそちらへ投げる。
「……兄さんはこんな時でもマイペースだね」
「だって、本当に危なくなったら紅玉の力で殺せばいいだけだろう?」
呑気な声でとんでもないことを言うシンハライトに、誰かが小さく舌打ちをした音が聞こえた。
「……今までずっとダメだって言ってたくせに、都合よく人を使おうとするのね」
「有事の場合は仕方ないよ」
笑みを浮かべたままキッパリと言い切ったシンハライトに、スファレは小さく息を呑んだ。躊躇いのないその決断にスファレは少しだけ怖さを感じ他の二人の反応を窺ったが、グランディディエも紅玉もスファレが感じたようなものを感じ取ったような様子はなく、異論もないと言った感じでルイス(仮)を見ていた。
「だ、ダメよっ?! 何もしてないのに殺したりしたらっ!」
「それはもちろん。何もしなければ無暗に殺したりしないよ」
「……その笑顔が怖いんだってば」
(やっぱりこういうところ、シンハライトは王太子なんだなあって思うわ)
民を守る為の手段を躊躇わずに選択する決断力は、そうなる為になされた教育の賜物かもしれない。
(でも、方法はそれだけじゃないし)
スファレは自身の手の中に握られている小袋へと視線を落とした。王からの指示も、殺さないこと、だったことがその証拠だ。これで、それが証明できるはずだ。
「……あれ? もしかして、これを見てる?」
すっかり目覚めたようだが特にそれ以上動くことなく大人しいままのルイス(仮)の真っ黒な瞳が、じっと一点を見つめている事にスファレは目を留めた。その視線の先を追うと、スファレが手にしている小袋を見ているようだった。
「……ところで、その袋の中身は何だい? どうも彼はそれに興味津々のようだね」
スファレは先程のことを気にし確認するようにグランディディエを見上げると、グランディディエは小さく頷いた。スファレはそれを了承と受け取り、口を開く。
「これは、ソラの実よ」
「ソラの実?」
初めて聞く名前にシンハライトが不思議そうに繰り返した。
「すごく珍しい実みたい。でも、これがルイスの好物らしくって……」
「……ちょっと待って。さっきから微妙にスルーしてたけど、ルイスって誰のこと?」
スファレが呼び続ける名前に紅玉が怪訝そう口を挟む。
「ルイスっていうのは、そこにいるオオトカゲのことよ」
「オオトカゲ? これがトカゲだって言うの? ていうか、あなたたちこれが何か最初から知ってたってこと?! そんなのインチキじゃないっ!!」
「それは違うわっ!! 最初から知ってたわけじゃなくて、もしかしてって気づいただけなの。だから、これが本当にルイスかどうかはわからないんだけど、でも、多分そうじゃないかって思って……だから、ソラの実を市場に貰いに行ってきたのよ」
「はあ? 意味が分からないんだけど?」
興奮気味に力説するスファレに、紅玉はイラ立ちを隠さずに睨みつけた。見かねたグランディディエが一つ溜息を吐いて会話を引き取る。
「スファレが以前市場で出会った男の子が、拾ったトカゲが大きくなりすぎたから捨てて来いって言われたんだって。そのトカゲは少し変わってて、鱗がキラキラと輝いて綺麗だったからその男の子はお気に入りだった。スファレはその話を思い出して、もしかして世間を騒がせてる怪物もどきはそのルイスなんじゃないかって思ったわけ」
「ふうん。それでそのルイスの好物がそのソラの実だって言うんだね」
「そういうこと」
シンハライトが興味深げに小袋を見た。
「……それを食べて大きくなったんじゃないの? だったら、そんなの与えて余計手が付けられなくなったら、あなたどうするつもりなの?」
「それは……」
意地悪な口調ではあるが真理を告げる紅玉に、スファレは翡翠の瞳を曇らせる。隣にいるグランディディエから、はあ、と溜息が漏れる。
「その時はあんたがあれを殺せばいいだけでしょ」
表情一つ変えず今度はグランディディエがそう紅玉に言い放った。紅玉は忌々し気に眉根を寄せて嫌悪を現した。
「そういうところ、あなたたち本当に兄弟ね」
「ふふ」
「褒めてないわよ」
嬉しそうに笑ったシンハライトに紅玉が呆れたような視線を投げた。
「……でも、これ、どうやってあげたらいいのかしら? そこに置いておいたら、食べてくれるかな?」
スファレが考えるように首を捻ると、動いた小袋の行方を追うようにルイス(仮)がぴくりと動いた。明らかに興味を示しているそれに、その場にいる四人の視線がぐっとそこに集中する。
「やっぱりおまえ、ルイスなの? ジョージが心配していたわ。これで小さくなって、またジョージの下に戻れるといいんだけど」
そう言ってスファレがルイス(仮)へ向け小袋を掲げた時、ルイス(仮)の体がまたぴくりと動いた。じっとスファレの方をみやると、突然、その大きな口がガバリと開く。
「!!」
突然のことにスファレは驚きで体が硬直してしまい咄嗟に動くことができなかった。ルイス(仮)はすぐに動きはしなかったが、前足は今にもこちらへ向かってきそうにぐっと力を込めて地面に爪を立てたように見える。
「スファレっ!!」
グランディディエの声にハっと意識を取り戻すと、手にしていた小袋がグランディディエによって奪い取られていた。庇われるように背中に追いやられルイス(仮)の姿も確認できない状況に、スファレはグランディディエの背中を叩いて抗議する。
「ねえ、これじゃあルイスにソラの実をあげに行けないでしょっ。油断したのは謝るから、袋を返してっ!」
「はあ? 馬鹿なこと言わないでよね。あんたに危ないことなんてさせられるわけないでしょ」
「でも、あと少しなのにっ!!」
「そう。あと少しだから、俺がやる」
「え?」
そう言うと、スファレの視界がパっと開けた。グランディディエの体越しに、ハッキリとルイス(仮)の姿が見える。先程とは違い、ルイス(仮)は体を起こし、今にもとびかかりそうな勢いでじっとグランディディエの方を見つめている。
「危ないわっ、グランディディエっ! 紅玉の言う通り、それを食べたらもっと大きくなっちゃうかもしれないっ! あんまり考えないで持ってきちゃったけど、ほんとは危ないかもしれないっ!!」
「そうかもね」
「だったら、一回引いて、考えましょ?」
あっさりと肯定の返事が返ってきたことに、スファレは小さく安堵の息を漏らす。続けて説得するように言葉を紡ぐと、グランディディエがくるりとスファレを振り返った。同意してくれたと受け取ったそれに、スファレはほっと胸をなでおろす。
「グランディディエ……」
「言ったでしょ? 俺はあんたを信じてるって」
「グランディディエ?」
想像していたニュアンスとの違いに違和感を覚えているスファレにそう言うと、グランディディエは軽く地面を蹴った。そのまま一直線にルイス(仮)へと真っ直ぐに向かっていく。
「グランディディエ!!」
スファレの悲痛な叫び声に押されながらグランディディエは、
「それに、やっとここまで来たんだから、こんなチャンス逃すわけないでしょっ!」
と自身にしか聞こえない声で呟き、ルイス(仮)の懐へと飛び込む。ルイス(仮)は好物が飛び込んできたせいか、大きな口から沢山のよだれを垂らして、飛び込んでくるグランディディエを迎え入れているようだった。
「ほら、食べなっ!!」
グランディディエは手にしていた小袋を大きく開いたルイス(仮))の口の中に勢いよく投げ込んだ。ルイス(仮)は喜びと取れそうな声をあげると、鋭い歯で小さな実をかみ砕く音が静かなその場に響いた。誰一人物音を立てず固唾を飲んでその姿を見守る。
「……ねえ、もしもっと大きくなっちゃったら危ないわ?」
「スファレっ?! ていうか、あんたがこっちに近寄ってくる方が危ないんだけどっ?!」
くいっとグランディディエのシャツの裾を引っ張ったスファレを振り返りギョっと目をむいたグランディディエに、スファレは悪びれることなく唇を尖らせる。グランディディエが続けて何事かを言おうとしたその時。
「?!」
今まで響いていた咀嚼音が止まった。スファレとグランディディエは一度顔を見合わせると、ゆっくりとルイス(仮)の方へと振り向いた。
「シューっ、シューっ……」
「……ねえ、あれって、お、怒ってる?」
「……さあ? 怒ってるかどうかわかんないけど、苦しそうにしてるみたいだね。スファレ、危ないから俺の後ろに隠れて」
「う、うん」
グランディディエの腕が庇うようにスファレへ回される。スファレは言われるがまま大人しく下がると、グランディディエの背中でじっとルイス(仮)を見つめる。
「スファレ、少し離れて」
「え?」
グランディディエは言うが早いか腰に帯同していた剣に手を掛けると、優雅な手つきでそれを抜き、構える。ルイス(仮)もその気配を感じ取ったのか、獲物を狙うような目つきでグランディディエに焦点を合わせた。
「グランディディエ!!」
グランディディエがぐっと剣を握る手に力を込めたその時、ルイス(仮)が鋭い爪が光る前足に力を込め、力強く大地を蹴りまさにこちらへと突進しようとしたその瞬間。
「?!」
「なに?!」
「これは……」
大地を切り裂くような金切り声を上げたのと同時に、たった今までそこにいたルイス(仮)の姿が突然跡形もなく消えてしまった。グランディディエの背中からでは何が起こったのか全く分からなかったスファレの耳に、シンハライトのある種感心したような声が聞こえた。後ろからではその表情は分からなかったが、グランディディエも緊張を解いたように肩から力が抜け、抜いた剣を静かに鞘に戻した。
「早くこれを丈夫な檻に入れて確保してっ!!」
グランディディエが大声でそう叫ぶと、どこからともなく王家の家臣たちが現れた。言われた通り重そうな鋼鉄の小さな檻を手にした家臣の一人が、地面から何かを拾い上げその中に入れた。
「? もしかして、あれって……!」
隙間から漏れ見えた、家臣の一人の手に抱えられたそのフォルムがトカゲそっくりだったことにスファレは驚きで目を丸くしてグランディディエを見上げる。
「あんたの読み通り、あいつはルイスだったみたい。それに、ソラの実も効果があった」
「……え、じゃあ、それって」
「うん。俺たちの勝ちだよ、スファレ」
「!!」
スファレは込み上げてくる喜びに思わずグランディディエに飛びついた。グランディディエは一瞬面食らった顔をしたがすぐにそれを破顔させ、スファレの背に手をまわし優しくそれを受け止めた。
「じゃあ、私たち……」
スファレは大きな翡翠の瞳をパチパチと瞬かせると、グランディディエの胸にうずめていた顔をゆっくりと離し、グランディディエの瞳を探すように顔を上に向けた。するとグランディディエの水色の瞳が優しくそれを迎え入れる。
「うん。あんたが次の王妃だね、スファレ」
「!」
(それって、つまり、グランディディエと……)
胸の奥から込み上げてきた大きなうねりに、スファレは鼻がツンとするのが分かった。胸の内から溢れ出してしまいそうな気持の代わりにじんわりと浮かんだ涙を我慢していると、グランディディエの手が優しくスファレの頬を包み込んだ。
(あ、キス)
スファレが期待にゆっくりと瞼を閉じたその時。
「あー、おほんおほん。別に僕はいいんだけど、他の者もいるんだから場所を考えなさい」
「浮かれすぎじゃない?」
と、シンハライトと紅玉それぞれから茶々が入り、スファレは頬を真っ赤に染めて慌てて体を離した。
大変間が空いてしまい申し訳ないです。
この後、エピローグが続き終わりとなります。




