第8話-3
スファレとグランディディエ達が乗った馬車が走り去ったのを見送った後、余裕の様子で馬車に乗り込むと、シンハライトは小さく息を吐いた。
「行先は件の山で良いのかな? それとも、どこかに寄る必要がある?」
対面に座る紅玉にそう声を掛けると、窓の外を見ていた赤い瞳がシンハライトを真正面に捉え口元に優美な笑みを浮かべる。
「いいえ。寄る必要ございませんわ。私の力は私自身がいれば良いものですもの」
「そう。じゃあゆっくり行こうか。どうしてかわからないけど、スファレ達の馬車は反対方向に走って行ったみたいだからね」
シンハライトはそう言って御者へその旨伝えると、紅玉のにこにこと笑っていた表情が固まった。
「あら。お待ちになるおつもりですの?」
「そういうつもりじゃないよ。ただ、二人でゆっくり話すこともあまりなかったから、いい機会かなと思ったんだ」
「まあ。どういうお心の変化ですの?」
不思議そうに目を丸くして紅玉がシンハライトの瞳を覗き込んだ。シンハライトはその反応に苦笑気味に答える。
「そんなに意外なことかい? 心の変化と言われても、別に僕の心はいつだって同じなんだけどね。ただ、これから伴侶になるかもしれないのだから、お互いのことを少しでも知っておくのはいいことかなと思ってね。スファレたちがなぜか目的地から遠ざかって行ってしまったから、今が良い機会だと思ったんだよ」
「まあ。そういうことですの……確かに、私たちの勝ちは決まっておりますものね」
紅玉はシンハライトの言葉を咀嚼するように少しの間沈黙していたが、すぐに口元を押さえて同意を示すように笑うと、シンハライトも応えるように微笑んだ。
「それでは、何からお話しましょうか?」
「そうだね。久しぶりに会ったのだから、まずその喋り方をやめてもらおうかな?」
ニコニコとしたままシンハライトがそう言うと、紅玉の表情が一瞬固まった。だがすぐに戸惑ったような表情でシンハライトを見返す。
「その喋り方、とは、何を仰っていらっしゃるのかしら? 私ずっとこういう喋り方をしておりましたが、お気に召されませんでしたの?」
「あれ? そうだったかな? 僕の記憶だと、もっとくだけた話し方だったと思うのだけれど?」
おかしいな? とシンハライトは顎に手を置いてわざとらしく首を捻ってみせた。その態度にすっかりと顔から笑顔を消してしまった紅玉の眉間に、ゆっくりと深い皺が刻まれていく。
「…………いつから?」
「ん?」
「ですから、いつから気づいていらっしゃいましたの?」
あくまで口調を崩さず紅玉が真正面からシンハライトを捉える。だがその表情は、今まで見せていた“教団に迎え入れられた聖女”の顔ではなかったことに、シンハライトは面白そうに口元に笑みを作った。
「確信したのは今だよ」
「!」
少しも悪びれた様子もなく楽しそうにそう言ったシンハライトに、紅玉は思わず目を瞠る。じっと数秒の間みつめると、はあ、と大きく溜息を吐いた。
「カマをかけたの? 性格が悪いわね」
「そうかな? 前世の記憶があるのにずっとそ知らぬフリをしていたきみに言われたくないなあ」
クスクスと笑いながらそう言うシンハライトに、紅玉はもう一度大きく息を吐いた。
「それはお互い様でしょ? 私にそう言うってことは、あなたも記憶があって黙っていたってことじゃない」
「ああ、確かに! じゃあこの件は罪に問わないことにしようか」
「罪って……あなたって、そんな人だったかしら? シンハライト」
紅玉が困惑気な瞳を向けると、シンハライトは穏やかな瞳でそれを受け止めた。そして、
「久しぶりだね、紅玉」
「……」
流れるように付け加えられた挨拶に、紅玉は嫌そうに顔を歪めた。その様子にシンハライトはやれやれと肩を竦めると、穏やかな口調のまま続ける。
「僕はいつだって変わっていないつもりだけどね。それを言うなら、きみの方こそ変わってしまったんじゃないのかい? 今のきみの姿は、まるで“あの時のスファレ”だ。ああ、スファレがあの時のきみみたいだから、きみたちは入れ替わってしまったみたいだね」
まるで同意を求めるかのようにシンハライトが笑顔のまま小さく小首を傾げた。紅玉の瞳が、不機嫌に細められる。
「……何が言いたいの?」
「何がって……別に思ったままを言っただけだよ。ただ、どうしてこんなことになっているのかな? って不思議に思っただけだよ」
シンハライトが指す「こんなこと」と言うのは、前世で縁のあった人物がまた同じような関係性で顔を合わせている現状のことだ。紅玉は笑顔のままだが目元だけは笑っていないシンハライトの眼差しを真正面から受けると、観念したように小さく息を吐き、座席の背もたれに体を投げ行儀悪く足を組んだ。
「知らないわよ、そんなこと。むしろこっちが聞きたいくらいだわ」
「……きみが故意にやったことではないのかい?」
シンハライトが疑いの眼差しを向けると、なんでそんなことを? と言わんばかりに紅玉の表情が歪む。
「なんで私がわざわざそんなことをしなきゃいけないの? それに、そんな力ないわよ。あっても、そんなことする理由がないわ。だってあの時の私は、王妃になって幸せに暮らしました、めでたしめでたし、だったでしょ?」
「……ああ。そうだったね」
紅玉が綺麗に作ってみせた笑みに応えるように、シンハライトも同じように綺麗に微笑んでみせた。
「だったら私がやり直す必要なんてないでしょ? それに、聖女は召喚されなければ聖女にはならない、のよ。あなたも知ってるでしょ? 私に選択権はないの。そんな私に、何ができるっていうの?」
「……」
そう言って紅玉はつまらなさそうに肩を竦めてみせた。シンハライトは顎に手を掛けてしばし考えるように沈黙すると、くるりと翡翠の瞳を紅玉へ向ける。
「じゃあこれは偶然だって、きみは言うのかい? 紅玉」
「さあ? わからないけど、少なくとも私にとっては偶然よ。あなたたちのことだって、あの日扉を開けるまでは知らなかったんだもの」
「あの日って言うのは、お茶会にきみが来た日のこと?」
シンハライトの確認するような言葉に、紅玉が頷く。
「そう。驚いたわ。全員知った顔だったんだもの」
紅玉はあの日のことを思い出したのか、今日一番楽しそうに笑った。
「特にスファレ、最高だったわ」
「スファレが? 特に変わったことはしていなかったと思うけど?」
シンハライトが当時のことを思い出しながら首を傾げると、紅玉は更に楽しそうに笑った。
「私の姿を見た瞬間、スファレはこの世の終わりみたいな顔をしたのよ。前世で見たのとまったく同じ顔だったわ。それで、私はスファレに記憶があることを確信したの。おまけに……」
紅玉は一旦そこで言葉を切ると、口元に手をあてて零れてしまいそうな笑いを堪えるように咳払いをした。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと思い出しちゃって。そう、アップルパイ。あれでなんとなく状況を察したのよ。多分スファレは前世の私の真似をして、失敗をやり直そうとしてる、って」
「アップルパイで?」
シンハライトが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。前世で王妃の座を手に入れた私を真似すれば、今度こそ自分も王妃の座を手に入れられる、とでも思ったんでしょ。アップルパイを見た時にそう思ったわ。だって、前のスファレが最後に見たあなたが、褒めていたものだもの。罪な男ね」
クスクスと楽しそうに笑う紅玉に、シンハライトの表情が曇る。
「それで、それを見て、私はここでどういうキャラクターで生きようかって決めたのよ」
「キャラクター? それが、以前のスファレみたいに振舞うことなのかい?」
いまいち紅玉の話に理解が及ばずシンハライトが困惑気に尋ねると、紅玉は綺麗な笑みを浮かべてみせた。
「そうですわ。以前のご自分のように振舞う女にまた王妃の座を奪われた方が、ご自分の敗因がそれではなかったとわかって、より深く傷つきますでしょう?」
「……」
聞き捨てならない台詞に、シンハライトは嫌悪を露わにして顔を歪める。紅玉はそれにも満足げに笑みを深めた。
「性格が悪いな。それほどまでにしてスファレを傷つけたい理由は? スファレがきみを恨みさえすれ、きみがスファレに抱く恨みなどないんじゃないかな?」
シンハライトの険しい視線を避けるように紅玉はぐるりと視線を一周させて考えるような素振りをしてみせると、
「特にないわ」
とあっさりと言い切った。シンハライトはその答えに面食らったように数度瞬くと、理解に苦しむと言わんばかりに額に手を当て溜息を吐いた。
「……じゃあ、なぜそんな意地の悪いことを?」
「暇つぶしみたいなものかしら?」
「暇つぶし?」
少しも悪びれずに即答した紅玉の言葉をこれまたすぐにオウム返ししたシンハライトに、紅玉はこくりと頷く。
「呼ばれてしまった以上、私は教団にとっての聖女としての義務を全うするしかないんだもの。それくらいの娯楽は許してほしいわ。まあ、今回は随分とおかしなことになっちゃったけど」
「おかしなこと?」
「たった今、現在進行形で巻き込まれてる、王位争奪戦よ」
揺れる馬車の窓から外をちらりと一瞥すると、紅玉はうんざりしたような顔でシンハライトを見た。
「王位争奪戦って、随分と仰々しい物言いだね」
「あら。本当のことでしょ? 本来ならあなたが王位を継承してオシマイだったのに」
「それを横から奪い取るつもりだったのかい?」
「そうよ。それで私の生活は保障されて、ついでに暇つぶしもできてスッキリ、だったはずだったのに……」
紅玉は脳裏に浮かんだ何かを忌々しいと言わんばかりに顔を歪めた。
「スファレはグランディディエを選んだ。王太子の僕ではなくね。だからきみもグランディディエを指名したのかい?」
「そうよ」
「ん? でも、そうだとすると少しおかしくないかな? きみはスファレを出し抜いて王妃の座を自分のものにしたかった。だとすると、僕を指名する方が王妃の道は確実だ。なのにきみは、グランディディエを指名した。むしろ王妃の座が欲しいのであれば、先に僕に交渉を持ち掛ければ良かったんじゃないかな? そうすれば、今こんなことをしなくても王妃の座は確実にきみのものになっただろうからね」
「……」
シンハライトの正論に、紅玉は面白くなさそうに唇を噛んだ。何か考えるようにぎゅっと眉間に皺を寄せると、しばらくの後、はあ、と大きな息を吐いた。
「確かに、あなたの言う通りよ、シンハライト。王妃の座を手に入れるだけだったら、それでよかったはずだわ。でも、さっきも言ったでしょ? おかしなことになったって。私が知ってるスファレだったら、絶対にあなたを選んでいたはずなのよ。なのに、予想通りにはならなかった。だから私は、もしかしてグランディディエの方が王位に優位な何かがあると思ったのよ。万が一でも、私は王妃の座を逃すことはできないから……」
「でも、きみの思った通りの理由じゃなかった」
「……」
紅玉は面白くなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「それでもグランディディエを指名したのは?」
「ムカついたからよ」
紅玉は即答した。
「目の前で王妃の座を奪って笑ってやろうと思ってたのに、あえて確率の低い方に行かれたら、それが叶わないじゃない。だから、じゃあその相手を奪ってやろうと思っただけよ」
「でも結果、きみの思惑通りには行かなかった」
紅玉はしごくつまらなさそうに肩を竦めた。
「ここでは皆スファレの味方のようだものね。聖女の価値も落ちたものだわ……でも、あなたの思惑通りにもいかなかったんじゃないの? シンハライト」
紅玉はそこで言葉を切ってシンハライトを見た。シンハライトは思い当たる節がないように小首を傾げる。
「そうかな? 僕は大方予想通りだったけど?」
「どうして? あなただって本当はスファレが良かったんでしょ?」
「国にとって最善であるように振舞うのが僕の務めだよ」
何の疑問を持たずにシンハライトがそう言うと、その王子としての模範解答に紅玉は呆れたような視線を返した。
「……そういうとこ、変わらないのね。あの時だって、あなたの国が抱えていた問題を解決する為には聖女の力が必要だった。それが事実だものね。まあ、スファレはそんなこと知らないまま死んだけど」
「まあ、確かにそれは事実だったけれど……僕はあの時の判断は間違ってないと思っているよ」
「ふーん?」
紅玉の言い方にいささか不服のようなニュアンスを含んだシンハライトの言い方に、紅玉が目を留める。
「だって、あの時のスファレ、随分とつまらなかっただろう?」
「……あなたがそれを言っちゃうの?」
あっけらかんと言ってのけた理由に、紅玉が目を細める。
「確かに貴族の娘としてはとても優秀で申し分なかったと思うけど、ただそれだけだったよね。有力貴族の娘だから母親が随分と推していたけれど、正直その他大勢とも大して変わらない印象だったかな。確かに今きみがいったようなことは事実としてあったけど、そうでなかったとしても、あの時の結末が変わったかは、僕にはわからないな」
前世のことを思い出しながら冷静に分析して語るシンハライトを、紅玉がなんとも言えない表情で見る。カラカラと回る車輪の音が、穏やかに二人の間に流れる。
「……でも、今回は違うんじゃないの? あなただってスファレのことを随分気に入ってるじゃない」
「確かに、今のスファレはとても魅力的だね。貴族の娘としては優秀じゃないかもしれない行動を取っているかもしれないけど、女性としては愛嬌もあって可愛らしい」
シンハライトは人間味溢れるスファレの表情を思い出すと、頬に自然な笑みが浮かぶ。紅玉はそれを
一瞥すると、呆れたように息を吐いた。
「だったら、こんなことになる前にさっさと婚約でもしておけばよかったんじゃないの? 私が言うことでもないけど」
「ふふ。そしたらもっとスファレを傷つけることができたね?」
「……そうね」
そんな意図はなかったのか、紅玉が少し考えるような素振りの後同意を示した。シンハライトはそれを見て面白そうに笑う。
「確かに。きみの言う通りにしていれば、今こんなことをしなくても良かったかもしれない。でも」
「でも?」
「前世と違って、なぜかグランディディエは僕の弟として生まれてきたんだよね」
前世との唯一の変化点をシンハライトが口にすると、紅玉も同意を示すように頷いた。
「確かにそうね。なんでかわからないけど、そこだけ前と違うのよね」
前世ではグランディディエはシンハライトの従弟だった。年に一度、それも親戚筋の集まりの中で会うか会わないかくらいの疎遠の間柄だった。だが、とても美しい青年だと評判が高かったので、婚約目前にして破棄してしまったせめてもの償いと思いスファレの嫁ぎ先に指名したのだ。
(噂だと、結局夫婦関係はあまり上手くいかなかったみたいだけれど)
別にそれに対して当時も今も特に思うことはなかったが、グランディディエは今生ではシンハライトの弟として生まれ、今日まで一緒に育ってきたのだ。
「うん。だから僕は今“お兄ちゃん”なんだよ」
「それがどうかしたの?」
言葉の意図が分からないと言わんばかりに紅玉が疑問を唱える。
「もう十何年もお兄ちゃんをやっているとね、弟っていうものはとても可愛いものなんだよ。だから、弟の気持ちを尊重してあげたい、という気持ちにもなってくるんだ。僕はね、スファレのことも気に入っているけれど、グランディディエのことも、同じようにとても可愛いくて気に入っているんだ」
シンハライトがまるで秘密を打ち明ける乙女のように笑ったものだから、紅玉は心底呆れた視線を返した。
「……あっそ。私にはわからない感覚だわ」
紅玉はお手上げと言わんばかりに肩を竦める。シンハライトはその言葉に、ふいに真面目な表情に切り替えた。
「……それは、きみが『聖女召喚』で呼ばれてしまうからかい?」
急にトーンの変わった声音に紅玉がゆっくりと視線をシンハライトへ向けた。真剣な瞳を前に、紅玉の表情が少しだけ変化した。
「そうよ」
努めて表情を崩さないようにしているように見える紅玉に、シンハライトは小さく息を吐いた。『聖女召喚』は人々に『聖女』を与え時に困難を解決し国に富をもたらすが、『聖女』本人からはそれまでの全てを奪ってしまうという代償の上に成り立つ幸福なのだ。
「……なるほどね。ねえ、呼ぶことができるのなら、戻すことも可能じゃないのかな?」
「え?」
無邪気なシンハライトの発言に、紅玉の顔が、ぴくりと動く。シンハライトはそれを見逃さずに薄く笑うと、
「来れるなら帰れるって考えるのが普通だよね?」
ふむ、とシンハライトは顎に手を置いて考え込む。紅玉はその天然なのか意図的なのかわからぬ言動に素で困惑したように眉根を寄せる。
「なにを言ってるの?」
「考えてみるのも楽しそうだね」
シンハライトがそう言って笑った時、馬車が静かに止まった。シンハライトと紅玉が同時に車窓を振り返り外を見る。気づけば、件の山の中腹辺りまでいつのまにか辿り着いていた。
「到着いたしました」
御者から控えめにそう声が掛かり、シンハライトは紅玉へ視線を流す。赤い瞳が無表情でそれを受け止めると、複雑そうに歪んだ。
「とりあえず今の話は保留だね。僕たちには、まず先にやることがあるからね」
そう言うと、シンハライトは自ら馬車の扉を開けて馬車から降りていった。
よろしくお願いします。
あと少し続きます。




