第4話-4
普段訪れる時間帯と違う時間に来たせいか、一番客で溢れる盛況な時間とズレているせいか、少し落ち着いた市場はいつもとは違う顔を見せていた。
お店によっては既に本日の営業を終え帰り支度をしている人々の間をかいくぐりながら、人が少ない市場が珍しくスファレがキョロキョロしながら歩いていると、ちょうど店の外へ出てきたジュディと目が合った。
「おや、スファレ様。今日は珍しい時間に来たんだねえ」
ジュディはスファレの姿を見つけると、わずかに驚いたように目を見開いて片付ける手を止めてそう声を掛けてきた。
「ただ、今日はめぼしいものはもう出ちゃったから、お望みのものがあるかはわからないねえ」
申し訳なさそうに一度店の方を振り返ってそう言って肩をすくめたジュディに、スファレは一瞬きょとんとした瞳を向ける。
「え?……あ、えっと、今日は、って、うわあっっ」
特に買い物に来たわけではなくなんと答えたものかと思っていたスファレの体に、突然どんっと後ろから衝撃があった。その勢いで思わず前方へとよろめきそうになったのをどうにかこらえると、恐る恐る後ろへと振り返る。
(子供?)
「おや、ジョージじゃないかい。そんなに急いでどうしたんだい?」
今にも泣きそうな顔をしている子供に向け、ジュディが目線を合わせるように少し膝を折った。見ると年の頃にして七、八歳といったところか、ジョージと呼ばれた少年がぐっと奥歯を噛み締めて泣くのを我慢しているような表情で立っていた。
「ジュディさん、知ってる子なの?」
スファレも同じように子供に目線を合わせると、少年は知らない人間であるスファレを見て驚きで目を大きく見開く。
「ああ、近所の子だよ。たまに母親にくっついて買い物に来るから顔見知りになってね。にしてもどうしたんだい? そんな悲しそうな顔をして。まあ、話を聞く前に、まずぶつかったことを謝る方が先だがね」
ジュディはそう言ってジョージにぱちんとウィンクをすると、それまで固まっていたジョージがはっとした表情と共に動きを取り戻した。
「あ、お姉ちゃんっ、ぶつかってごめんなさいっ!!」
ぺこりと大きく体を曲げてお辞儀をすると、スファレは笑顔で首を横に振った。
「大丈夫よ。それで、どうしたの? 急いで買いたいものでもあったの?」
スファレが柔らかな声でそう尋ねると、ジョージは本来の目的を思い出したかのようにぱちりと一度瞬く。見る見るうちに泣くのをこらえているような表情にまた戻ると、ぐっと握る掌に力を込めてジュディを見上げた。
「……おばちゃん、この前もらった空色の木の実ってある?」
「空色?……ああ、ソラの実のことかい? 今日はあったかねえ?……確かにあれは珍しい実だけど、そんな泣きそうになるほど欲しかったのかい? この子は」
ジュディは少し呆れたような、だが慈愛に満ちた声でそう言うと、ジョージの頭を一撫でして店の奥へと戻って行った。ジョージと二人残されたスファレがちらりとその顔を盗み見ると、泣き出しそうなのは変わらぬまま、奥へ消えたジュディを不安気に見つめていた。
「そんなに大好きな木の実なの?」
(そんなに美味しいのかな?)
ジョージの気を紛らわそうとスファレがそう話しかけると、ジョージはまた少し驚いたように目を瞬いた後、小さな声で話し始めた。
「……ぼくよりも、ルイスが好きなの……」
「ルイス?」
(弟とかかな?)
スファレが新たに現れた名前に不思議そうに尋ねると、ジョージは、うん、と大きく頷いた。
「あのね、ちょっと前に、お庭に迷い込んできたトカゲだよ」
「トカゲ?」
「うん。色がちょっと変わっててね、キラキラしてすごくきれいなんだよ」
ジョージはそう言うとルイスを思い出したのか、少しだけ笑ってみせた。
「そうなんだ。じゃあ、あなたはそのルイスのことが好きだから、ルイスの好物のソラの実? を買いに来たのね」
(優しい子)
スファレがそう言って微笑むと、ジョージはまたはっと何かを思い出したようにまんまるの瞳を弾けるように見開くと、瞬く間にそれは泣き出しそうに歪んだ。
(え?! なんで?! 今笑ってたのにっ?!)
「え、えっと、ごめんね? もしかして私何かダメなこと言っちゃった?」
「おや。今日のジョージは泣き虫だねえ」
子供特有のコロコロと変わる感情の起伏にスファレがオロオロとしていると、そこへちょうどジュディの笑い語が聞こえ、スファレはホっとして振り返る。ジュディはスファレに向け、大丈夫、と目配せすると、持ってきた小さな麻袋を振ってみせた。
「泣いてないもんっ……」
「おやそうかい。だったらいいよ。ほら、お望みのソラの実だよ。ちょうど昨日入荷しててね、そんなに多くないけど、持っていくかい?」
ジュディがそう言いながら麻袋を広げると、中からその名の通り空のように青く透明感のあるティアドロップ型の実が覗いた。
「わあ、すごく綺麗!」
思わずスファレが感嘆の声を漏らすと、ジュディが麻袋の中から何個か取り出してスファレの方へと手を伸ばした。スファレは反射的に落とさないように両手で椀の形を作って差し出すと、その中にコロコロと透き通った水色の実が数個踊る。
「ほんとに綺麗……」
(なんか、グランディディエの瞳みたい)
グランディディエの瞳の方がもっと綺麗だけど、とスファレは胸中で誰に向けたでもなく訂正すると、一つ指で摘まんで太陽にかざしてみた。ツルっとした実の表面が光に反射して透き通った青味が知らずグランディディエを思い出させ、スファレはまた心にモヤっとしたものが浮かんだ気がして無意識に眉間に皺を寄せる。
「おばちゃん、ありがとう! あ……でも、ぼくおかね持ってない……」
ジョージの嬉しそうな声にスファレははっとして今考えていたことを頭の中から振り払うと、麻袋を手にシュンと萎んでしまったジョージを見る。
「あ、じゃあ私が……」
払いましょうか、とスファレが言いかけたところでジュディ小さく首を横に振ってその先を制した。代わりに、
「お代はいいよ。残り物だしね、売り物にするほどの量がないから売れないんだよ。だからこれは持っておいき」
「……いいの?」
「ああ。でも、どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるのか、それは教えておくれ。あんたは笑顔で元気な方がいいからね」
伺うようにジュディを覗き込んだジョージにジュディは人好きのする笑みで大きく頷くと、そう言ってジョージの頭を撫でた。ジョージは小さく頷くと、また悲し気な顔をしてその口を開く。
「おばちゃん、ありがとう……あのね、ママたちがね、ルイスをお山に捨ててきなさいって言うの。だから、最後に、ルイスが美味しそうに食べてたソラの実をあげたかったの……」
ジョージは頑張って一息でそういうと、泣くのをこらえてぐっと歯を食いしばった。
「……そうかい。それは悲しいね。でも、あんたんとこのママも飼っていいって言ってたんだろ? 急にどうしてそんなことを言い出したのかねえ」
ジュディがジョージの母親の姿を思い浮かべてでもいるように腕組みをして首を捻ると、ジョージがまたぽつりと言葉を紡ぐ。
「あのね、ルイスがすごくおっきくなっちゃったの……なんかね、ふつうじゃない、って言ってた。だからもうおうちで飼うのはむりだって……」
またジョージがしゅんとして泣きそうに俯いてしまうと、ジュディがその頭をわしわしと撫ぜる。
「そうかい。それで突然お別れしなきゃいけなくなって悲しかったんだね」
「うん」
「でもね、もしルイスがあんたに怪我でもさせたら、それこそ山に捨てるだけじゃすまないかもしれないよ。離れ離れになるのは辛いけど、仕方ないことさ」
「……うん。でも、ずっと一緒だったから……」
「そうだねえ。当たり前のように毎日会えてたのに会えなくなるのは寂しいけど、別々に生きていても、あんたがずっとルイスのことを好きでいたら、いつかまた会いに行けばいいだろう? だから、泣かずに笑ってお別れしてやりな。ルイスの大好きなものを用意してやるだなんて、あんたは優しい子だねえ、ジョージ」
ジュディがそう言ってにっこりと笑うと、ジョージは涙をこらえたままの表情で、うん、と大きく頷くと、もう一度大きな声でありがとうと言って走り去ってしまった。
「……」
(……そっか。大好きなペットと離れなくちゃいけないから泣きそうだったんだ。ずっと一緒だったんだもん、会えなくなっちゃうなんて辛いよね……別れは突然って言うけど、私だって子供の頃からずっと一緒だったグランディディエたちに突然会えなくなるって言われたら、すごく悲しいもの)
ペットと比べるのはどうかと思ったが、生憎スファレはペットを飼っていないので同じ対象で共感することができなかったので、代わりに小さい時からずっと一緒だった幼馴染のことを考えていた。確かに、今まで何も考えずとも当たり前のように顔を合わせていた相手と突然離れなくてはならなくなれば、ジョージがあんなにも泣きそうだった気持ちはわからないでもない。
「……」
(あれ?……そういえば、もし私がシンハライトと結婚して王妃になったら、グランディディエってどうなるのかしら? そのまま王宮にいるの? それとも、どこか遠くへ行ってしまうのかしら……?)
ふいに想像して、スファレは小首を傾げる。ここら辺の状況は若干前世とは違う為正確にどういう処置が取られるかは分からないが、婚約者候補であった前世の自分の立場を思い出し、スファレは無意識に眉間に皺を寄せる。
(……多分、王宮から出ていくことになるのよね? 少なくとも、今みたいに会えなくはなる。だって、私も婚約者候補だった時は王宮に自由に出入りできたけど、聖女様が婚約者になってからは、もう……って)
「え」
脳裏に浮かんだ想像に無意識に声を漏らすと、ジュディがなんとも言えない顔でスファレを見ていた優しい瞳と目が合った。
「どうやら、スファレ様も今日は買い物に来たわけではなさそうだねえ。汚いところで申し訳ないけど、良かったら中へ入るかい? 温かいお茶でも飲んでいっておくれ」
そう言ってジュディは苦笑しながらスファレを店の奥へといざなった。
※※※
マグに入って出されたミルクたっぷりのミルクティーにスファレが驚いたように瞬くと、ジュディは、
「この方がたくさん飲めるんだよ」
と言って笑った。
「マナーを考えると良くないんだろうけど、すぐに飲んじゃうと注ぎ足すのが面倒でねえ。特に、話が長くなりそうな時とかはね」
「!」
なるほど、と思いながらスファレが納得していると、ジュディは既に飲み干していた自分のカップに紅茶を注ぎ足しながら、ほらね、と言って笑った。
「ええっと、二人の王子様に求愛されて、どうしたらいいか、だったかねえ? あんないい男に迫られて困ってるだなんて、羨ましい悩みだよ」
ジュディは、はあ、とわざとらしく大きく息を吐きだすと、からかうように笑って肩をすくめてみせた。
「ジュディさん違うーっ! 求愛されたんじゃなくて、ペアに選んでって言われただけっ!」
(こっちは真剣に相談してるのにっ!)
からかわれたことにムキになってスファレが叫ぶと、ジュディは不思議そうに目を丸くする。
「何が違うんだい? そのペアってやつに選ばれて勝負に勝ったら、結婚して王妃様になるんだろう?」
ジュディの問いにスファレはこくりと頷く。
「だったらやっぱり実質プロポーズみたいなもんじゃないか。スファレ様、その方の奥さんになって王妃様になるってことだろう?」
「え? そ、そうなの? 確かに、勝てば王妃になるんだけど……」
(でも、なんかプロポーズってもっと)
「プロポースって、なんかもっとロマンチックなものじゃないの?」
ジュディの言葉がどうもうまく自分の中で消化できず眉間に皺を寄せて首を捻ると、ジュディは、おやまあ、とまた目を丸くする。
「王子様が跪いて手を取って言われる以上にロマンチックを求めるだなんて、スファレ様みたいに綺麗で可愛らしかったら、そんなこと日常茶飯事なのかい。さすがだねえ。こりゃ相手の方も大変だわ」
「ええっ?! そんなこと日常茶飯事なわけあるはずないでしょっ?! からかわないでよ……グランディディエのそれだって、どうせそんな経験のない私をからかってやっただけなんだから」
(だって、あれ、わざとあんな風にやってたし!)
あの時のグランディディエの様子を思い出して唇を尖らせるスファレに、ジュディはなぜか同情するような表情を浮かべてスファレを見た。
「あんたのお相手も大変だねえ。貴族様のことやましてや王族のことなんてわかりゃしないけど、普通そんなことを軽々しい気持ちで言うもんかねえ」
「だから、そういうんじゃないからでしょ。ペアの相手に選んでって話だもの。それに、シンハライトがグランディディエは女性の扱いに慣れてるって言ってたわ。だから、きっとそういうのも言い慣れてるのよっ!」
(なんか、またモヤモヤしてきた……)
拗ねた口調でそう言い放つと、スファレはまた発生したモヤモヤを飲み込むように両手でマグを掴むと、ミルクティをぐいっと飲み込んだ。
「うーん……そんなことあるかねえ」
ジュディは何か言いたげな表情でスファレを見たが、諦めたのかすぐに小さく首を横に振った。
「それで、スファレ様は跪いたグランディディエ様じゃなくて、シンハライト様の申し出を受けようとしてるんだったかい?」
「ええ。その方が王妃になれる可能性が高いから」
先ほど馬車の中でジエットと話し合った結果を伝えると、その回答にジュディはまたもや渋い表情をしてみせる。
「可能性ねえ……あたしにはよくわからないけど、そんなに王妃様になりたいもんなんだねえ」
「それは……うん。そう」
(だって、前世からの悲願だもの)
さすがにこの話は言うわけにはいかず、スファレは曖昧に頷いてみせた。ジュディはそんなスファレの様子をさして気にした風もなくスファレの返事を受けると、少しの間じっとスファレを見つめた後、小さく息を吐いた。
「まあ、確かにあの突然現れた聖女様よりもあたしらはスファレ様が次の王妃様になっていただいた方が心からお祝いできるけどねえ……」
「え? どうして? 聖女様、すごく綺麗な人でしょ?」
純粋な疑問をぶつけると、ジュディは腕組みをして、うーん、と考えがあるような素振りを見せる。
「まあ、確かにお綺麗ですけどねえ。ただ、どうもなんか腹に持っているような感じがして……って、ああ、こんなこと言うもんじゃないね。忘れてくださいな」
「……」
(聖女様って、みんなに無条件に受け入れられているものだと思ったから、なんか新鮮)
ジュディの中で紅玉の印象がそれほどよくなさそうだということにスファレは単純に驚いた。夢で見た前世の世界では、聖女だというだけで誰もが無条件に受け入れて好きになっていた為、聖女とはそういうものだと思っていたのだ。
「……それで、今日は王妃様になるって話を一足先にあたしにしに来てくれたのかい?」
ふいに飛んできたジュディの問いに、スファレはすっと視線を上げる。交わった視線の先で、ジュディが優しく微笑んだ。きっとそうじゃないことを分かった上でそう聞いてくれるその優しさに、スファレは先程またもう一つ重なったモヤモヤの事を話すべく、一度きゅっと唇を結んだあと、決意を込めてそれを開く。
「ねえ、ジュディさん。もし、私がシンハライトと結婚して王妃様になったら、グランディディエと今までみたいに会えなくなったりすると思う?」
それは、先ほどジョージの話を聞いて浮かんだ新たなモヤモヤだ。今まで当たり前のようにそこにあったものが、わずかなズレでその当たり前が崩壊してしまう。果たしてそんなことが自分たちにも起こり得るのだろうか? そんな不安がふと頭をよぎったのだ。
「それは……会えないだろうねえ」
考えるまでもなくそれがしごく当たり前のことであるかのようにそう言ったジュディに、スファレは思わず反射的に声をあげる。
「どうしてっ?!」
「どうしてって……普通奥さんは旦那でもない他の男に用もないのに会ったりしないよ。それは庶民だろうが貴族様だろうが王族だろうが、関係ないと思うけどねえ」
「で、でもっ、今は会えてるでしょ?」
思ってもみなかった回答にスファレが上ずった声をあげると、ジュディは呆れたように息を吐く。
「それは今はお二人とも次期国王候補で、スファレ様はお二人の婚約者候補だからなんじゃないのかい? これでシンハライト様とスファレ様が正式に次期国王とその婚約者になったら、グランディディエ様はお役御免、スファレ様に会う必要がなくなるんじゃないかい?」
「……」
ジュディの正論に、スファレは返す言葉を失って黙り込んだ。確かに前世でも、婚約者候補を外れてすぐ、王宮への出入りが厳しくなったのを覚えている。
(じゃあ、グランディディエに、会えなくなるの?)
「……じゃあ、聖女様には? もう関係なくなったら、グランディディエは聖女様にも会わない?」
考え始めると止まらなくなりそうだったので、スファレはまた別のモヤモヤをジュディへぶつけた。グランディディエが今紅玉の相手をしているのも紅玉が次期国王の婚約者候補だからのはずだ。では、紅玉もお役御免になったのなら、グランディディエにも会う必要性はなくなる、そういうことのはずだ。
(だったら、このモヤモヤは王妃になったら解消される?)
「それはあたしにはわかりませんよ」
困ったような呆れたようなジュディの声音に、スファレは驚きで弾かれるように大きく目を見開く。
「どうしてっ?! だって、聖女様だって婚約者候補だからグランディディエは会っているんでしょ? だったら、それが解消されたらもう会う必要はないはずでしょ? ジュディさん、さっきそう言ったじゃないっ!!」
(なんで? 何が違うのっ?!)
思わず大声になってしまったことにスファレはバツが悪そうに唇を結ぶと、ジュディは先程の声音と同じような表情を浮かべていた。
「言いはしたけど、それはスファレ様とグランディディエ様のことで、聖女様とのことはあたしにはわからないよ。お二人のことだからね」
「なんで? 何が違うの?」
間髪入れずに食い下がるスファレにジュディは驚いたように瞳を丸くすると、少し思案するようにゆるりと視線を宙へ回した。
「何がって……もしお二人がお互いに好きあってたんだったら、会うのは自由だろう? もうただの男と女なんだからね。あたしはお二人が一緒にいるところを見たことないからわからないけど、仲が良さげなのかい?」
「知らないっ!! でも、そんなっ……じゃあ、王妃様になっても、このモヤモヤは消えないってこと? ジエットが言ってた通りなの?」
(じゃあ、王妃様になっても、ずっとこのモヤモヤを抱えて生きていかなきゃいけないの?)
「ジエット様?」
スファレが絶望に表情を失っていると、ジュディの疑問が耳に届いた。
「ああ……いつもここについてきてくれる従者よ。ジエットも、シンハライトを選んで王妃様になってもこのモヤモヤは消えないって言ってたの。でも、王妃様になるのは小さい頃からの夢で、それが叶うのに、どうして……?」
スファレが口元に手を当てて視線を下げると、ジュディは優しい声音でこう言った。
「それで、従者様はその答えを教えてくれたのかい?」
俯いた姿勢のままスファレは緩く首を横に振る。
「自分で考えて気づきなさいって。あと、ジュディさんと話してこいって。今日はジエットがここへ連れてきてくれたの」
「なるほどねえ。だから今日はこんな珍しい時間に来たんだね……まあ、立場があるから従者様の口からは言えないのかもしれないけど、市場のおかみによくもこんな大役を押し付けてくれたものだよ」
スファレの説明にジュディはなぜか納得したように頷くと、だがすぐにジエットに対するボヤキを口にして肩をすくめた。スファレが顔を上げその態度に不思議そうに首を傾げると、ジュディが慈愛に満ちた目でスファレを見つめていた。
「スファレ様。胸がモヤモヤしてる時って、どんな時だい?」
「?」
突然投げかけられた質問の意図が汲み取れずスファレは疑問に満ちた顔をジュディへと向けたが、ジュディは先程と同じ表情のままじっとスファレの答えを待っているようだったので、スファレはわけのわからないまま聞かれたことに答えるべく記憶をたどる。
「……最初は、グランディディエが聖女様にすごく丁寧に話してた時。私にはいつも意地悪なこと言ったりするのに、すごく丁寧に話してて、なんか、それが普段と違って……」
「なるほどねえ。他にはなんかあるかい?」
ジュディは気持ち楽しそうに相槌を打ちながら続きを促す。
「……次は、グランディディエが聖女様に誘われて一緒に庭を見に行っちゃった時。戻って来た時に聖
女様がグランディディエに触ったのに、そのままにさせてたから……
(ああ、嫌だな。思い出しちゃった)
追いかけるようにグランディディエに触れた紅玉の指先が、親しみを込めてその腕を撫でたことを今でも覚えている。
「……」
スファレはまた足元からせり上がってきたモヤモヤを取り払うべく軽く頭を振ると、続きを告げるべく口を開く。
「次は、聖女様が一緒にお菓子作りしたいからうちに来たいって言って……」
「おやまあ。聖女様そんなこと言ったのかい?」
スファレの言葉にジュディが呆れたように相槌を打つと、スファレは少し悲し気に眉根を寄せた。
「ジュディさんもやっぱりそう思う? すっかり忘れてたけど、自分でお菓子を作るなんて変わってるのよね……だからグランディディエも、スファレが特殊だからそんなことする必要ないって、それよりも気に入るお菓子を用意するって、聖女様を特別扱いして……」
「おや。グランディディエ様、やるじゃないか」
「?」
ジュディは楽しそうな声でそう言ったが、スファレには良く分からなかった。
「後は、さっきジョージの話を聞いた時に、突然会えなくなったりするのかな? て思って。あと、最後は今よ」
「今?」
予想もつかないのか、ジュディは驚いたように目を瞬いた。スファレは大きく頷く。
「ジュディさんが、聖女様はグランディディエと自由に会えるって言った時。なんで私は会えないのに、聖女様は会えるの? って」
(そんなの、ズルい)
そこまで言い終えると、スファレは一度大きく深呼吸した。今まで思っていても誰にも言うことができなかったことを言ったことである意味達成感のようなものを感じ、心なしかスッキリとしている部分もある。
(なんか、ちょっとだけスッキリした気がする……モヤモヤしてたのは、誰も話し相手がいなかったからだったの?)
スファレは手にしたマグからミルクティーを飲んで一息つくと、ふっと視線を上げたその先で、ジュディが優しい微笑みを浮かべて口を開いた。
「まあ多分そうだろうと思ってたけど、今の話を聞いて確信したよ」
「え? ジュディさんもわかるの?」
ジュディも、という言い回しにジュディが笑うと、すぐに大きく頷いてみせた。
「ああ。それはスファレ様がグランディディエ様に恋してるからだよ」
「え?……恋?」
ジュディの口から飛び出した予想外の言葉に、スファレはぱちくりと数回瞬く。
「恋って、あの恋?」
「ええ。池に泳ぐ方じゃないですよ。あんたはグランディディエ様に恋してるから、近づく聖女様が許せないんだよ。可愛いねえ」
確認するように言葉にしたスファレにからかうように答えると、ジュディは楽しそうに笑った。
「え? ええ?」
(私が、グランディディエに?)
今まで自分の中になかった単語に、スファレの口から困ったような情けないような声が漏れた。
「ヤキモチ妬いてるんだよ、聖女様に。今までは自分が一番近くにいたのにその場所を奪われそうで、今までは自分しか見てなかった瞳が他の女を見るから。そんなの、誰かを好きになったら当たり前のことじゃないか。こんな単純な事に気づかないなんて、あんた、恋したことないのかい?」
聞かれ、スファレは否定するようにふるふると首を横に振る。恋なんて、物語の中でしか読んだことがない。
(だって、前世は王妃様になることだけを考えて、その為に完璧になることばかり考えてたから、そんなこと考える暇もなかったし。だから、あの時だってシンハライトのことを好きだった覚えなんてないわ。今だって、また失敗しないようにって、今度こそ王妃様になるんだって必死で……だから、そんな)
「おやまあ。じゃあ初恋かい! あんな綺麗な男が初恋だなんて、羨ましいねえ。しかも、世間では初恋は叶わないなんて言われてるけど、あんたのは叶うんだから、羨ましいねえ」
「か、叶うって……?」
楽しそうに弾むジュディの声に、スファレは困惑気に眉根を寄せる。ジュディはそんなことを気にした様子もなく、聞いたスファレがおかしいかのような顔をしてみせた。
「だってそうだろう? グランディディエ様はあんたを選んでるんだから」
「グランディディエが、私を?」
「跪いて言われたんだろう? それが全てだと思うけどねえ」
何を言っているんだといわんばかりのジュディの言葉に、唐突にあの時のグランディディエの言葉が脳内に蘇る。
『どうか、私を選んでくださいませんか? スファレ・サマセット』
「……」
(え? え? でも、あれって、グランディディエも王様になりたいからじゃないの?)
「グランディディエも、王様になりたいからじゃないの?」
スファレの問いかけに、ジュディはまるで嫌なものを見たかのように顔を歪め、盛大な溜息を吐いた。
「……あんたの相手をするのも大変だねえ。私はグランディディエ様とシンハライト様に心底同情するよ。まあグランディディエ様のことはひとまずいいよ。でも、スファレ様。少なくともあんたはグランディディエ様に恋してる。それは断言してもいい。だからあんたは聖女様にずっと嫉妬してるんだよ。胸のモヤモヤがいい証拠だよ」
ジュディは呆れたようにそう言ってそこで一度言葉を切ると、なぜかいつになく真剣な表情でスファレの目を覗き込んだ。
「スファレ様。あんたがどれだけ王妃様になりたいかはあたしにはわかんないよ。だからどんな選択肢を選ぶのもあんたの自由だ。だがね、あたしはあんたの中に生まれた恋心を無視しないでやってほしいなって思うよ。確かに、あんたたち貴族様はあたしら庶民よりも個人の恋愛を自由にするのが難しいのかもしれない。でも、あんたをただの一人の年頃の娘としたら、恋は楽しくて嬉しいものだと思うからね」
ジュディはそう言うと、スファレを慈しむように微笑んだ。スファレはそれを受け取ると、きゅっと唇を結ぶ。
(私が、グランディディエに、恋を……?)
「……恋って、私が、グランディディエのことを、す、好きって、こと?」
確認するように言葉にした口が、好きという単語を発するのに思わず意識してしまい、上滑った声が恥ずかしくてスファレの顔に熱が集まる。
「おや? 違うのかい? リンゴみたいに真っ赤な顔したお嬢さん」
ジュディがからかうようにそう言うと、スファレはたまらず両手で両頬を押さえた。
(私が、グランディディエのことを、好き……)
改めて自分で言葉にすると、なぜかするんとそれが胸に染み込んだ気がした。先程まで感じていたモヤモヤはドキドキと早鐘を打つ鼓動へと変わり、スファレは鼓膜の奥で響くそれが煩くて思わず両手で心臓を押さえる。
(私、グランディディエのことが、好きなんだ……!!)
「じゅ、ジュディさん……どうしたらいいの?」
降って湧いたように自覚した恋心を意識してしまい、体がそれを受け入れるように反応し始めたことが恥ずかしくて真っ赤になってしまった顔でスファレはジュディに助けを求めるように上目遣いで見ると、
「あんたが今感じてるそれを楽しめばいいんだよ」
と言ってジュディは楽しそうに笑った。
※※※
未だドキドキの止まらない心臓を押さえながら、スファレがよろよろとおぼつかない足取りで馬車へ戻ると、乗り口で立っていたジエットがスファレの姿を見つけて一礼した。
「ジエット、どうしよう……」
すがるようにたった今自覚した気持ちにまだ困惑したままの顔を向けると、ジエットは、ふ、と楽しそうな笑みを漏らした。
「なんて顔してるんですか、あなた。顔、真っ赤ですよ」
憎まれ口の口調とは裏腹に優しい瞳で笑うジエットに、スファレは何とも言えず真っ赤な顔のままわなわなと唇を震わせた。
すいません。忙しくて大分遅れてしまいました。。。
少し直すかもしれません。続きは近日中に頑張りたいです。




