プロローグ
その日も別段変わったことのない一日の始まりのはずだった。
スファレ・ハミルトンはいつも通り心地の良い朝日を浴びて目覚めると、お気に入りの食器で運ばれたフルーツがたっぷり乗った好物のパンケーキで朝食を済ませ、新品の淡いブルーのドレスに身を包んだ。夕暮れ時の太陽の光をぎゅっと凝縮したようなスファレの見事なロングヘアーが、鏡の向こう側でドレスに美しく映えている。
(うん。今日も完璧ね)
スファレは満足げに一度頷くと、後姿を確認する為に優雅にくるりと一周回り姿見に向け優美に微笑むと、すぐに踵を返して部屋を後にした。
「……スファレ様、本日のお茶菓子はいかがなされますか?」
馬車へ乗り込むタイミングで侍女から遠慮がちにそう声を掛けられ、スファレはふっと動作を止めた。
(お茶菓子?……あ。そう言えば、今日)
スファレは普段の自分ではありえない失態にすぐに気づくと、先ほどの自分のつぶやきを思い出し少しだけ眉間にしわを寄せる。
(どうして完璧なんて思ったのかしら? 大事なお菓子を忘れていたことに気づいていなかったというのに)
次期国王となる王子の花嫁候補として王妃主催のお茶会に呼ばれてから数か月。王妃のお眼鏡にかなったスファレは王子とプライベートなお茶を飲むようになっており、初回に持っていったお菓子を王子がいたく気に入ったことから、その際のお菓子はスファレが用意することになっていた。
(それなのに、私としたことが……今まで一度として忘れたことはなかったのに)
人に言われるまで気づかなかっただなんて、とスファレが己の失態に小さく息を吐くと、言葉を告げようと移した翡翠の瞳のその先で、先ほど声を掛けてきた侍女がびくりと体を震わせた。その様子にスファレは大きな溜息を吐くと、自分の落ち度を他人に擦り付けるように不機嫌に視線を細める。
「……スコーンとアプリコットのジャムを」
「……かしこまりましたっ」
そういえば朝食の時にパティシエが今日は格段と美味しく焼けたと言っていたのを思い出し、スファレは視線を戻して総レースの扇で口元を隠しながら短くそう告げた。まだ仕えて間もない侍女はスファレの鋭い視線に委縮したような返事をすると、そそくさと屋敷の方へと走っていく。
(バタバタとしてはしたないわね。あとで注意しておくように言っておかないと……それにしても、約束の時間に遅れてしまうわ)
スファレは侍女の到着を待ちながら馬車の窓からうつろ気な視線を外へやると、僅かに日常とズレた一日の始まりにもう一度大きなため息を一つ吐いた。
※※※
パティシエの言う通り、スコーンの生地はしっとりとしてほんのりと甘く、アプリコットジャムも酸味と甘さが絶妙だった。
「……今、なんとおっしゃったのですか? シンハライト様」
だが、最初の一口を食べたが最後、目の前に座る金髪の男に告げられた言葉を聞いた後はその美味しかった味はもうわからなくなってしまった。放たれた言葉の衝撃に震える指をどうにかこらえながらスファレは紅茶の入ったカップをソーサーへと戻すと、訝し気な視線を目の前の男、スファレ達が住まうサザーランド王国の第一王子であるシンハライトへと送る。シンハライトは深緑の瞳を不思議そうに丸くすると、スファレの感じている緊張などお構いなしにもう一度口を開いた。
「うん。婚約者が決まったんだ。今日は彼女を紹介しようと思って。彼女、お料理が上手でね。今日のアップルパイも彼女が作ったんだよ」
「……作った?」
得体が知れず手を伸ばさなかった茶色の塊にスファレは視線をやる。貴族の子女が自ら手を使うなどありえない、と侮蔑を含んだスファレの視線に気づいていないのか、シンハライトは視線の先でその塊へと手を伸ばした。
「うん。素朴な味で僕は好きだよ。高級なものって、飽きちゃってたから」
「飽きた?……」
(どうして?! だって、美味しいって言ったから、毎回用意したのにっ?!)
無慈悲にも聞こえるその言葉にスファレは自分の皿に乗るスコーンに視線を落とすと、うん、と被せる様にシンハライトの無邪気な声が響いた。
「先日、新たな聖女が見つかった話はきみの耳にも届いていると思うけど」
サク、とパイを噛む音に、スファレははっと意識を取り戻して視線を前方へと戻す。
(聖女?)
シンハライトが口にしたのは、つい先日国中を沸かせた話題だった。なぜ今この場でその話題が? とスファレが問うような視線をやると、シンハライトは嬉しそうに口角を上げる。
「その聖女が僕の婚約者なんだ! 聖女は奇跡だって言われているけど、僕が結婚相手を探している時に現れるだなんて、まさに奇跡……ううん、運命だと思わないかいっ?!」
興奮気味に早口でまくしたてるシンハライトとは裏腹に、その絶望にも似た通告にスファレの思考は頭から冷や水をかけられた様に急激に冷えていった。
(奇跡? 運命? そんな馬鹿げた言葉で私の王妃の道が閉ざされるっていうのっ?!)
一方的に告げられるシンハライトの勝手な話にようやく理解の追いついたスファレの脳が、遅まきながら怒りの感情をふつふつと腹の底から湧かせる。わなわなと怒りに震える手が、己の意志を乗り越えて勝手に動く。
「ちょっと待ってよっ!! 婚約者は私のはずでしょうっ?! 聖女だかなんだか知らないけどっ、なんでいきなり出てきた女にその座を奪われなきゃならないのっ?!」
バンっと、気づいたら茶器の乗ったテーブルを思い切り叩いて立ち上がっていた。はしたない、生まれてから一度も行ったことのない行為だと頭の中では恥ながらも、スファレは己を止めることができなかった。
「なんでっ?! 王妃様が開かれたお茶会にも呼ばれていなかったのにっ?! そんなの認められないでしょうっ?!」
「スファレ様っ!!」
「触らないでっ!! 無礼者っ!!」
「大丈夫だよ。下がって」
「っ……」
たまたま手を置いた場所にフォークがあったせいか、その場に控えていたメイドが咄嗟にスファレの腕を取り押さえた。スファレは立場を超えるその行為を腕で振り払うと、いたって冷静なままのシンハライトが静かに片手で制し、その凪いだ瞳にスファレはびくりと体を震わせる。
「母のお茶会は、あくまでも婚約者候補との顔合わせが目的だったんだよ。スファレ、きみはその中の一人だった。ただそれだけだよ」
「そ、それだけって……でも、じゃあ、どうしてシンハライト様はこうして私とお茶を……」
(だって、他の候補者とは会っていないって聞いたのにっ……)
あらゆる情報をかき集めてその事実を知った時、ようやく掴み取ったのだ、とスファレは歓喜に打ち震えた。あらゆる教養を身に着け、己の美を磨くことを怠らなかったのは全てその為。王妃の座を得る為にしてきた血の滲むような努力が報われたのだと、確約された未来に胸を躍らせたのだ。それなのに。
「ああ、確かにきみが婚約者の最有力候補だったよ。身分からすべて、何も申し分ない」
「ではっ……」
「でも、もう決めたんだ。父も母も承諾済みだよ。お披露目の儀式の予定ももう進んでいるんだ」
「そん、な……」
楽しそうに話すシンハライトの声に、スファレは足元から崩れ落ちる様に椅子に腰を落とした。突然の出来事に放心状態のスファレを他所に、そばに控えていた執事がシンハライトの耳元で何事かを告げた。
「ん?……ああ、到着したようだね。確かにきみには申し訳ないことをしたと思っているんだ。何度も一緒にお茶を飲み親交を深めた仲だからね。仕方ないことだとは言え、僕にも湧く情がある。だからお披露目より先にきみには紹介しておこうと思って、今日来てもらったんだ。あと、これはおせっかいかもしれないけど、きみの嫁ぎ先も世話させてもらったよ。とても美しい男だから、きっときみも気に入ると思う」
シンハライトは他人事のようにそう言うと自身も美しい笑みを浮かべて見せた。同時に響いたノックの音に、シンハライトの長めの金髪が弾むように揺れた。
「どうぞ。入って」
(ああ、見たくない)
扉が開いた瞬間、スファレは本当は顔をそむけてしまいたかった。たった今突き付けられた現実から、今から訪れようとしている絶望から。だが、例え今ここで目をそむけたとしても、それがなくなるわけではない事実と、貴族の娘としてここまで登りつめたプライドがスファレの顔を上げさせた。
(聖女だかなんだか知らないけど、私以上に完璧な女なんているはずないんだからっ)
睨みつけるような視線の先で、豪奢な造りのドアが静かに開いた。意識せずとも張り詰めた緊張が、スファレの掌にぎゅっと力を込めさせる。願わくば、その扉など一生開いてほしくなかった。
最初に小さく一礼をして現れたのは、差し込んだ光に緩いクセのついた銀糸をキラキラと輝かせた、透き通るような碧い瞳の美しい男だった。意志の強そうなその瞳と一瞬目が合った気がしたが、すぐにそれは彼自身の背中の方へと向けられた為、真偽のほどは確かめることができなかった。
「彼がきみの婚約者となるグランディディエ。僕の従弟だよ」
シンハライトの言葉がスファレの耳に無機質に響く。
(従弟……)
王位継承から外れるその言葉に、スファレは握っていた拳に更に力を込める。逸らすことができず固まってしまった視界の中で、グランディディエと呼ばれた男がドアの脇に避け、その瞬間、鮮やかな赤が視界を埋める。
(ああ……なんだ。そういうこと?)
現れたのは、鮮やかな赤のドレスを身にまとった、見事な金髪の少女だった。
「そして、こちらが僕の婚約者の紅玉だよ」
いつの間にか立ち上がっていたシンハライトが、紅玉と呼んだ少女の手を迎える様に優しく取った。美しい金髪同士並ぶ姿は、物語から抜け出してきた王子様とお姫様そのものだった。
(だって、これは、どうしようもないんだもの……)
スファレは赤いドレスを着ることができない。紅玉のドレスを見つめながら、スファレは小さく唇を噛んでそっと自身の髪に触れた。
(金髪だからって、なんだっていうのよっ……)
視線の先で名前と同じ紅い瞳でゆっくりと弧を描いた紅玉を見つめながら、スファレは夕焼けの色を詰め込んだスファレの髪を毛嫌いしている兄を思い出していた。
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