ドイツロマン派と私の宿命的な出会い。あなたは別の世界で再生・転生するのだ。改訂増補版
それは、、
大きいくくりでいうならば?
宿命の出会いです。
出会うべくして、であった?というしかありません。
さて、、世間には、宿命の女、、出会うと宿命的に魅了されて自滅せずにはいられないという、いわゆる
「ファムファタール」ってのが
ありますが
そういう悪女(毒女)には幸い?出会わなかった代わりに
私はある日、独逸浪漫派に出会ってしまいました。
まあいま振り返って、思えば、、
毒女やら
カルト宗教なんぞと出会わなくって幸いでした。
ええ
ところで、、そのドイツロマン派なんですが、、
それは私にとっては
あくまでも「独逸浪漫派」であって、、「ドイツロマン派」ではありません。
「独逸浪漫主義」であって、 「ドイツロマン主義」ではありえません。
おいおい、そんなの、まあどっちだっていいじゃないか?とおっしゃるでしょうが、、、
わたしにとっての大きな?こだわりですね。
古い戦前の日本語訳のドイツロマン派が好きです。というのも実はドイツロマン派って1800年前後の古るーい
時代のドイツの作品なんですよ、日本でいえば江戸時代です、
ですから戦前の古い翻訳文のほうがむしろ相応なんですよね。
最近の新しい翻訳のドイツロマン派もありますがなんか違和感しかないですよ。
現代風過ぎて、興ざめです。
というわけで、、、「ドイツロマン派全集」という全20巻の素晴らしい空前絶後の
これ以上ないっていうような、邦訳の全集が1980年ごろ出されてるんですが
私的には、、違和感のみの訳文でしかないです。まあ資料としてはいいですが
文学作品としては翻訳文が全く現代的過ぎてしまって「齟齬」でしかないからです。
そもそも、、私の少年時代からの、関心は
哲学であり
思想でした。
世界のなぞを解明したい、それだけの思いで生きてたといっても過言ではないでしょう。
少年時から私は
インド哲学
シナ哲学
日本思想
古代ギリシャ哲学
ドイツ哲学
などなどにひきつけられていたのでした。
まあ、ありていに申せば、、
世界の謎の解明?がしたかったということでしょうか。
さてそうして昭和〇〇年、
私は東京の大学に進学して(東京大学ではありません)
東京にある某大学です。
ドイツ語とドイツ哲学を学ぶことにしたのです。
はるばる田舎から上京して、、どうにか合格して
私の大学生活が始まりました。
もとより大学生活で友達作ろうとか
恋人募集とか
アルバイトして稼ごうとか
大学生活エンジョイなんて目的ではないですから
私はまじめに?日々授業に出席しては
ドイツ哲学の森に探求に出かけていたのです。
カントやヘーゲルの原書購読や、ゼミにも参加して、その研究過程で、、
私は岩波文庫の「全知識学の基礎」フィヒテ著という哲学書と出合いました。
いやあ、このドイツ観念論哲学には魅されましたね。
「実践的自我は理論的自我よりも優先する」というフィヒテのお題目にはしびれました。
そこからのめりこんで、、さらに、ヤコービー哲学(あまり有名でないんですが)にも寄り道して、、。
シェリング、、「すべて、ガイスト(精神)も、マテリアル(物質)も、自然哲学で説明できる」というテーゼには魅了されました。「精神も自然も絶対的同一者なのだ」という彼の主張は「絶対的同一者の通有性としての一面が精神でありもう一面が物質である」という絶対同一でした。
そしてやがて、、
私は禁断の?ノヴァーリスの『魔術的観念論』という目のくらむような自然哲学へといざなわれてしまったのです。
であってしまったというわけです。
ノヴァーリスという神秘的な語感の響きに惹かれた私は
「青い花」(ハインリッヒオフターディンゲン)を
岩波文庫で読み、、
その水晶宮の美学と宗教観、自然観に魅されたのです。
「ザイスの学徒」の観念論的自然哲学やら、
「夜の賛歌」の宗教哲学。
「宇宙も自然も精神も霊的な一致点ですべてが絶対的同一する」という
ノヴァーリスの魔術的観念論は私を虜にしてしまったのです。
ノヴァーリスの思想形成にかかわったのは、まず、フィヒテの知識学哲学をあげねばなるまい。現実とは私の自我の投影であるとフィヒテは言う。。
ノヴァーリスはさらに発展させて、magischer idealisumus(魔術的観念論)と称した。かれにとって哲学は詩であり、哲学の美化が詩でもあったのだ。
詩は認識それ自体であり、絶対者へのイニシエーションともなるものである。詩は真理そのものであり,詩によってこそ、絶対者は把握されうるという。
そして、そこで、有限者は無限者と合一するのである。
ノヴァーリスが唱えた魔術的観念論とは、、宇宙・大自然との魔術的な合一を目指すということに他ならない。
こうして私はいつか知らずに?
フィヒテ、、シェリング、、、ノヴァーリスから「独逸浪漫派」というものを知り、、のめり込み、、
やがて、独逸浪漫派病?に感染して?
独逸浪漫派関係の戦前の古い邦訳の古書を求めては
神田の古書店街をほっつきまわるという心躍る日々を過ごしたのでした、
当時ドイツロマン派関係の邦訳書って、、
古い戦前の岩波文庫くらいしかなかったのでね。
大学図書館でも検索しては探しては読みましたよ、
でも手元に置きたくってね。古書店を渉猟したってわけですよ。
角川文庫のヘルダーリン詩集 小牧 健夫 (訳),吹田 順助 (訳)
「ドイツロマン派集」筑摩書房 世界文学大系
「ドイツ浪漫派」河出世界文学全集
ノヴァーリスの「断章上・中」岩波文庫
ティークの「金髪のエックベルト」世界短編文学全集
アイヒェンドルフの「楽しき放浪児」岩波文庫
ブレンターノの「ゴッケル・ヒンケル・ガッケライア」改造車文庫
ブランデスの「ドイツ浪漫派」春秋社
リカルダ・フーフの『独逸浪漫派」岩波書店
茅野蕭蕭の「独逸浪漫主義」三省堂
などなど、、、
当時在籍していた東京の某大学のドイツ語・ドイツ哲学の授業そっちのけで
ひがな?毎日?、、神田の古書店街をほっつき歩いて
古書店の店頭の野積みどれでも一冊100円コーナーで
しきりにドイツロマン派関係の古びた戦前の古書を
渉猟して回るようになったのです。
当時、、というか、今でもおそらく
独逸浪漫派の古書など
誰も見向きもしない?マイナー本でしたから
そんな野積みコーナーに結構無造作に100円で置いて売られていたんですよ。
それにしても、、
何がこれほど私を、、私の心をとらえたのか、、
それは一言でいえば、、
ロマン主義の、、空想の豊穣性と、ポエムの世界への飛翔感でしょうね。
現実の乏しさからの逸脱と飛翔。
『ポエムの世界があるんだよ、
こんな空漠たる俗世の外の別世界にはね、、。』
ところで、、
ドイツロマン派とは、その小説とは、教養小説のところでも書いたが、「観念小説」です。
つまり現実の写実小説ではありません。
思想小説とか哲学小説、、という分類のものです。
今の言葉でいえば、まあ、そうですね。「ファンタジー小説」です。
だからその内容は、自己心理告白?であったり、自己想念描写であったり、自己の思想の描写であったり、そんなことの連続です。もっと言えば、「かくありたい」、、という自己世界の描写でしかありません。自己世界像の表白、、、あるいはマイワンダーランド、です。
そもそも現実世界をそのまま生で描写して終わりというような態度の正反対・対極がロマン派なのですから。ロマン派小説の中で描かれる「現実」とは、あくまでも方便であり、手段です、
なんの?つまり自分の思想や世界像を表白するための、しつらえられた設定でしかないのです。
そして登場人物は、同様に、作者の思想を語るために作られたまあ。仮想人物でしかありません。
作者の考えの体現者・反対者・揶揄者・理想の女性・謎の人物・闇の体現者などなど、すべて作者の、操り人形でしかないのです。それらの人物が作者の設定した仮想現実世界で語り愛し冒険する、そして成長してゆく、それがドイツロマン派の小説です。つまり「教養小説」です。
今風に言えば「ファンタジー小説なのです。
独逸浪漫派そう教えてくれましたね。
このことは、、
当時の私の暮らしにも大いに関係があったでしょう。
私は地方から出てきた貧乏大学生で、大都会の片すみの汚い下宿から大学に通ってドイツ語やら
ドイツ哲学やらを学んでいたのでした。
私は3畳一間の築80年?の、、西池袋の裏町の、、そっと歩いてもミシミシ言う老朽住宅のその
下宿で、、、
唯一の贅沢のコカコーラを買ってきてそれを飲みながら、、
毎夜、、その神田で見つけてきた古びたドイツロマン派の古書を開いて
空想と幽体離脱?を堪能したのでした。
それが唯一の楽しみ、、現実逃避?だったのでしょうね?
当時の私にとってそのころ全盛だった、学生運動も男女交際もクラブ活動も
どうでもいいもの、かえって現実の虚しさを増大させるだけのものでしかなかったからなのです。
現実への深い絶望、、といっても過言ではないでしょう。
そして、、
そんなある日、
神田をぶらついていた私は
ホフマンと出会ったのです。
はっきりとは覚えていませんが
それは確か
岩波文庫の「黄金宝壺」でしたでしょうか?
「黄金宝壺」は石川道雄氏の実に古雅な訳文で(ということはとても難読ですが)、、、
そのお話というのは、、、、しがない貧乏大学生のアンゼルムス君が
セルペンティーナという緑の小蛇、、、実はその正体はアトランティスの王女ですが、、と恋に落ちるという
とんでもないぶっ飛んだ?空想物語で、、それに私は圧倒されましたね。
こんな物語それまで読んだことありませんでしたね。
当時多少傾倒していた芥川龍之介にも宮沢賢治にもない世界、
そしてこの物語の結末の文章が
また当時の私の心をぐさりとつかみました。
それはこんな文章でした。(私がわかりやすく改訳・自訳?しています)
「ああ、幸福なアンゼルムスよ、君は日常生活の雑事や重荷を投げ捨てて
可愛いセルペンティーナと酔いしれてアトランティスで暮らしている、、。
それに比べてこの俺はどうだ、、
やがていつもの汚い屋根裏部屋に身を移して、、そこで
いつもの貧しい惨めな暮らしに戻るのさ、、。
そして日常生活の雑事に追い回されてもう二度とは
アトランティスの百合の花なんて見られないんだ、、。」
その時、、
王立図書館記録管理人のリンドホルストが私の肩を叩いてこういった。
「何をおっしゃる、、。そんな泣き言はいわぬことじゃよ。
君は今さっき、アトランティスに居なさったじゃないですかな?
君はアトランティスに小さな借地、、すなわち心の中に「詩的所有地」をお持ちではないですか。
結局のところ、、アトランティスの幸福とは、、「詩の中の生活」、、にほかならないのですじゃ。詩の中にこそ自然の玄妙不可思議な宇宙の調和が具現されておるのですからのお」
そうです。
現実生活には、、無いような万物照応のポエムな生活とは
心の中だけでしか実現できなということだったんですよね?
私はこうして、、大都会の空莫たるアスファルトジャングルの路地裏の
貧乏極まりないような、3畳一間でのまるで、独居房生活にも、、心を破壊されずに、、
発狂もせずに、、暮らせて、大都会の孤立からもぼろぼろにもならずに、、
無事、、4年間で、大学卒業できたのは
こうした「アトランティスの借地」、、「心の中の詩有地」?があったからなのでした。
こうしてますます
私はドイツロマン派にのめり込み、、
ノヴァーリスの「フラグメンテ」fragmente(断章)にならって
私自身も、、また、短文形式のアフォリズム集を
大学ノートに記すことにしたのでした。
それは大学生活4年間で50冊くらいにもなりましたが、、
その後の現実生活での、有為転変生活の12回にもわたる引っ越し生活で、、
ほとんどが、紛失してしまいましたがね、、、、。
その断片集の記録ノートは、
思えば貴重な青春の心の葛藤と煩悶と沈思と黙考とポエムと楽園幻想とが丹念に織り込まれた
幻想ののシンフォニーの、タペストリーだったのです。あの「貴婦人と一角獣」のような、、。
私の心のノートであるフラグメンテは紛失しましたが、、
でも、、古書店街で掘り出した、、
ドイツロマン派の古い書物だけは
引っ越しの度に団ボールにしっかり梱包しては運搬して、、その繰り返しで、どうにか、
こうして、、いまも、、
無事に手元に残っていますけどね。
思えば、、青年時代、、
私があの大都会の絶望的な孤立と独絶からも
精神の発狂もせず、、
カルト宗教の甘い毒牙にも誘因されず、、
変な学生運動にも洗脳されずに
或いはあまりの孤独から自殺もせずに、、
こうして生き延びられたのは、、
ひとえにドイツロマン派のおかげです。
どんなに現実が乏しくて孤独で
荒廃していても
私はあのアトランティスに
「心の詩有地」を
所有していたのですから、、
決して乏しくも、、
孤絶もしてはいないと
悟達?していて
心の安定を決して
失わなかったからに他ならないからです。
今からざっと50年以上も前の子の運命の出会いによって
私はこの広漠とした無味乾燥なあまりにも乏しいこの現実世界の外に
アトランティスの楽園があり
あなたがもしも望むならば
いつだってそこに自由に行けるんだよ、、という
マジックを教えてくれたもの、
それが私にとってのドイツロマン派だったのです。
これが、、、
以上のような経緯が
私とドイツロマン派との宿命的な
出会いの真相だったのです。
それから半世紀以上(50年)があっという間に過ぎ去りました。
その間わたし自身は現実世界で一枚の木の葉のように
現実に翻弄されて
あっちに吹き飛ばされ
こっちに吹き替えされて
翻弄されるばかりでどうにかこうにか
生かされ、、生きてきました。12回も引っ越ししました、仕事も転々と変えざるを得ませんでしたし、
でも私はいつだって心に「詩の所有地」を持っていましたから
決して挫折・絶望はしませんでしたね。
「この現実世界だけが世界なのではない、実はほら、あなたが望みさえすればいつだってあなたは
アトランティスのポエムの楽園に行けるんだよ」って
知ってたからです。
この現実世界もまた重層する多重世界の、一層世界にすぎません。
世界はいくつにも重層しているのです。
そしてこの現実世界とはおそらく100次元世界のなかの1コに過ぎないのです、。
ほかに99の多層重層世界があるんだよ、
信じるかい?
そう、
ただ
無心に信じればいいんだよ、
そうすれば、ほら、有っただろう、
あなたのポエムの楽園が、確かに。
そして、
この現実界でのあなたの死は、
直ちに、もう一つの多重世界のポエムの世界への「転生」であるということさ、
あなたはこの世界で死に、、そうして別の世界でまるで別人として生まれ変わるのさ。
実際、わたくしはある時ぼろぼろの着物を着た乞食の少女が場末で野垂れ死にしているのを見ましたが、
次の瞬間、その子は瞬く間によみがえり、たちまち水晶のドレスを着て、虹のガウンをまとった
王女として楽園の聖者から戴冠の真珠のティアラをかぶせてもらい、別の楽園に転生してゆくのを見たのでした。
それが信じられるかい?
信じればいいだけさ。
信じればそうなるのさ、
だってこの現実世界とはあなたが夢見てる「ホログラム世界」仮想現実世界にすぎないからさ。
そしてあなたが幻想だと思ってるその、ポエムの楽園こそが本当の現実世界なのさ。
どうだい?
面白いだろ。
信じるのさ、
信じればそうなる。
魂の夢想がこの現実世界を一瞬で虚妄の幻に変える。
あなたは現実世界で死んで別の世界でよみがえる。
それがこの世の奥義、、真相、、真実、、だったのさ。
私はドイツロマン派が、文学というものの到達点(山頂)であると思うのです。
このことはほかにブログでも書きましたが文学というものの到達点がドイツロマン派だと思うのです。ここで文学の意味も技術も発想も、すべてが到達してしまった、これ以降はだから下降しかないのだと思うのです。これほど豊饒で,無双の楽園で、憧憬や郷愁をとらえた文学作品ってあるだろうか。つまり、、ドイツロマン派はおよそ文学の志向、、こころみ、実験、できるだろう文学のテリトリーの拡充をすべてやりつくしてしまったのです。もうやることはないのです。
ドイツロマン派への批判というと、退嬰的、中世趣味の懐古趣味のアナクロニズム、
反時代的な反動主義、貴族趣味、要するにブルジョワ的な反動だというのがまあ定番なんですよね。
じゃあ共産主義文学なるものがどれだけ教条主義で、画一的で、愚かしいかをここで述べましょうか。まあ文学や芸術で、共産主義ははっきり言って「無意味」でしかありません。
芸術や文学はそんな共産主義に拘束されたらだめになるだけですから。
例えば、、現代文学のシュールな実験的な試みも、、あれ?それって、もうドイツロマン派の作品がやってるよ、、、みたいな、、既読感、既視感が、ありありなんですよ。
たとえば、作者が読者を探し回るなんていかにも現代文学風の実験先進的?でもそんな試みドイツロマン派が、すでに、もうやってるんですよ。あるいは時間軸がズレズレで錯綜、、なんていかにも現代文学風ですよね。そんなのもドイツロマン派がすでにやってるんですよ。
つまりそれ以後の文学はエピゴーネンでしかないという事実、まあエピゴーネンで何が悪い?っていう理屈もありますが私には丸パクリの、既読感で嫌気がさすだけですね。
まあこういう技術的面よりもドイツロマン派のガイストテオリー(精神様式)がより重要でしょう。
私はとあるウエブで、以前ドイツロマン派が提示した小説や詩のキーワードを列強してみたことがあります。その列挙されたキーワードだけでも、もうこれ以上何が残ってる?といいうくらいの豊饒さなのです。いささか長いのですが全文ここで引用してみたいと思います。
憧 憬 憧れ、あえかなものへのあこがれ、ドイツロマン派のメインテーマ。夢想的なイタリ
アへの憧れ、まだ見ぬ女性への憧れ。ファンタジーワールドへの憧れ
ミニヨンの哀歌、「あこがれ知る人だけが私の心の悩みをしっているのです」
郷 愁 ふるさとへの想い。亡き人への郷愁。失われた楽園への郷愁。廃墟の謂われ。
予 感 ahnung アーヌンク 漠とした未来への感覚。来るべきものへのあえかな予感
アイヒェンドルフの小説。「予感と現在」
永遠の少女 ミニヨン、ゾフィー、ユーリエ、ディオティーマ、アウレーリエに代表される、
思春期の純粋な少女。あるいは男性の心の中にある、理想的な女性像。アニマ
少女愛(girl love)
森の侘びしさ waldeinsamkait ヴァルドアインザムカイト ティークの造語。 森の神秘の表現
自動人形 オリンピアのような、魔的に生命を暫時吹き込まれた、女性人形。(オートマタ)
男をを狂気に追いやる。
ドッペルゲンガー 分身。もう一人の自分、自分の影の分身。 メダルドスとか、ウイリアムウイル
ソン。
金属の女王(鉱物の女王) メタルな存在。生命的な血の通わない無機質のフィーメイル。生命の対極。
無機質の楽園。そこにいくには自分もカタコトとした自動人形にならな
ければならない。自分もカタカタとぎごちない動きをする人形化するこ
とによってしか達し得ない対極の楽園。あるいは生の対極の不毛な理想郷
小夜鳴き鳥 夜の象徴的な存在。アイヒェンドルフの森に出てくるような。
ナハティガルのなく月光さんざめく神秘な夜。
イタリア ドイツの対極としての理想世界。ドイツ人の南方志向のシンボル。芸術の国。
寒くて人心が乏しい独逸、それに対する芸術と恋の国イタリア。
森(wald) あくまでも神秘で人から隔絶された世界。魔界への入り口。「金髪のエックベルト」
の神秘な森、「秋の惑わし」の幻惑する森。
青い花 魔術的ロマン世界のシンボルの花。ノヴァーリスの理想をあらわすキーフレーズ。
死 それは原初の母胎へのリインカーネイション。ノヴァーリス「夜の讃歌」
夜 (nacht) 現界での夜とは、つまり妖精の世界にとっての昼である、夜の庭園、静かな噴水。
おもぐるしい雄鶏の鳴き声が告げる現世での昼が妖精の国では夜に当たる。
ゲミュート 心情とでも訳す。 しかし、このドイツ語は日本語には訳しきれない。ドイツ的感性
の標語。
gemuteこれが独逸浪漫派の扉を開ける魔法の鍵である。
ロマン的イロニー 常に転変し続ける。固定しない。 決してとまらない。ドイツロマン派のメイン
テーゼ。断片、断章こそ真の完成形なり。
未完こそ真の完結なり。完結をあえて求めない。次から次にロンドのように
繰り広げられる。
宇宙文学 ロマン的な理論による 統合芸術としての文学形態。
marchen ロマン的な表現形式として最適な型。ロマン的フモールの表現として最適
な形。
青春 青春とは、ロマン的な気分の高まりの最たるもの。早春の小川の流動するような心情である。
フラグメンテ(fragmente) 断片的、完成しない、統一しない、完成を嫌う。断片こそ完成なり。
無限 型にとらわれない、永遠に流れていく。
遍歴 一箇所にとどまらない、 常に漂泊する魂。ドイツロマン派に遍歴小説が多い
のもそれによる。
ポエギー(詩) ロマン的な情調の発露形式として最高のもの。詩の世界が理想郷。ポエムの世界へ の帰一が最終目標。
夢 告げられるロマン的な暗示。
愛 魂のロマン的な交流。アウレーリエの聖なる愛。ゾフィーへの信仰にも似た愛。
魔 時として突発的に現れる,現界の破壊者。 コッペリウス、トラバッキオ、魔女。
妖婆 魔女 やはり、現界を切り裂くもの りんご売りの妖婆。
霊薬 人間を悪なるものを目覚めさせる契機としての小道具。「悪魔の霊液」
薫り高い年代物の葡萄酒であるが実は悪魔のかもした霊薬なのである。
盗賊団 イグナーツデンナーによって描かれる、魔界集団、たんなる泥棒ではない、
悪の伝道者軍団。
人形術師 コッペリウス、コッポラ、異界への誘惑者、 時として悪魔に魂を売った者
オートマタの製作者、彼らは現界から阻害されている人々。
多くは、障害で体が自由にならない、その代償行為としての人形作りと魂の
吹き込みを糧としている。
アトランティス リンドホルストの故郷、 セルペンティーナとの夢の国
ウルダルの泉 エンテレケイア、あるいは大団円としての吸収装置。北欧神話の全てを生み出す
神秘な泉。
古代ギリシャ 夢想郷としての国、ヘルダーリンの憧れの国。「アルディンゲロと幸福の島」
ドイツ 寒く、文化が乏しく、国民が芸術を理解せず、詩人の住めない国、
芸術と文化の仮想イタリアの対極。
永遠の女性 エターナルウーマン、ディオティーマとか、ベアトリーチェとか、
月光さんざめく夜 ドイツロマン派の森に差し込む月光。アイヒェンドルフの森。
たそがれ 夜への入り口。ロマン派の目覚めのとき、黄昏。
朝焼け 青春のシンボル、アイヒェンドルフの永遠の女性、「朝焼け嬢」
巡り合い 遍歴さすらいを旨とするロマン派にとって、めぐり合いこそが心ときめかせる、
近親相姦テーマ エックベルトで、描かれる、禁断の関係。メダルドウスもそれに悩まされる。
孤独 天涯孤独の人物もロマン派のモティーフのひとつだ。
隠者 隠者とは中世的な、解脱のモデルだが,中世にあこがれたロマン派に登場する。
瞑想 メディテーシオン 自然、夜、 愛、 そして、瞑想
音楽 音楽は、ロマン派の生命線、
宿命 宿命の愛、宿命的な破滅。
因縁譚 因果譚とも、 祖先の所業による、宿命のドラマ、悪魔の霊液
啓示 ひらめき、ロマン派のキイとなる、アイテム
死 死はまた、よみがえりの契機、
憂愁 憂いは、憧れの裏側でもある、
謎の老人 ウイルヘルムマイスターの老竪琴弾き、ドラマの要となる存在、悪魔の霊液の謎の 老画家、
メタモルフォズ 変身、常に変わり続ける。
乏しき時代の詩人 ヘルダーリンの心に去来する思い、ドイツの乏しさ、現代の不毛、それに比べての 理想国古代ギリシャへの憧れ。
幻視者 見霊者、ロマンを夢見て構築する特殊能力。
廃墟 森の中の荒れ果てた古城、過去と現在の交差するところ、
古城 古城には、魔やとらわれの姫が住む。
霊感 詩の沸き出でる源泉
黄金時代 かってあった、理想の時代。
男装の美少女 故あって、素性を隠すために、男装している謎の少女。「予感と現在」に登場する
エルビンという少年は実は少女である。
失われた楽園 かってあったはずの、楽園、 エデンの園。回帰願望。ユートピア。
廃屋 廃屋に住む、謎の美少女。そして、奇怪な老人。
修道院 現世のかなたにある霊的の国、
ゲミュート 「心情」,と訳せるが、もっと深い意味としては、ドイツロマン派のメインテーマということ、ゲミュートとは、ヘールツエンゼールギースズンゲンということでもある。
いかがでしょうか、まさに豊饒なゲミュートの王国です。こんな文学どこにもないのです。空前絶後の文学の高まり、それがドイツロマン派なのです。これを超えるものなんてありえないのです。これで完成してしまったんです。これ以上文学でやることは残ってないのです。
だからあとはもうエピゴーネンでしかないんです。というある種の終わった感?
既読感、既視感ばっかりで、、私にとってはこれ以降のほかの現代文学などつまらないだけですし、読む気もおこりません。
追記
私がドイツロマン派に心酔している?からって、だから今現在のドイツが好きか?と聞かれれば、別に好きでも嫌いでもないつまりは、無関心・中立ということです。
私はドイツロマン派が好きなのであってドイツ全体が好きなわけでないからです。
ドイツの文化全体が好きでもないし、
ドイツという国柄が好きでもないし、
ドイツ語もあんまり好きじゃないし、
今のドイツに観光に行きたいとも思わないし、
つまりドイツロマン派だけが好きということです。