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夢見心地ステイルメイト  作者: にとーへん
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悪魔二人 (4) 「終幕」

 昼寝をすることはとても気持ちが良い。

 初夏の暖かい日差し。窓辺から吹き込むそよ風。教室のカーテンが揺れ、その布地が擦れる音が心地よい。

「ヒロロ……」

 ぼくの見ている夢の中で、夢さんは呆れ果てたような眼で見つめてきた。

「ヒロロ、授業始まってわずか三秒で寝た。天才的」

「今日もお前が夢の中に現れたせいで熟睡できなかったんだ。ぼくは睡眠不足なんだよ」

「ごめんなさい。でも、夢の中で会うことが、私にとっては一番楽」

「ぼくは大変なんだが……」

 夢の中は、普段の現実と特に代わり映えしない。

 夢を見る原理については諸説あるが、夢さんが言うには、夢とはただの現象であって、そこに意味を見出そうとすること自体が無意味らしい。数式で表せないものをいくら考えたって無駄だそうだ。

 まあ、要するに、夢魔である彼女自身も夢についてはよく分からないということだろう。

「心理学と哲学は根拠不十分」

 夢さんはそんなことを言いながら、おもむろに教卓に立つ。

 ぼくの見ている風景は夢さんと二人きりの教室で、せっかく授業をサボって気持ちよく昼寝をしているというのに、彼女は夢の中でまでよく意味の分からない講義を始める。

 コツコツ、とチョークが黒板を叩く音が、静寂とした教室に響く。

「心理学の本とか読んでると『え、そんな曖昧な根拠で断言しちゃっていいの?』って、思っちゃう。例えば、フランス革命後に出版された名著、群集心――」

「いや、もういいよ」

 最前列の一番前の席に座っているぼくは、片手を上げて授業を止めた。

「そんなことより、悪魔の制御の仕方を詳しく教えてくれ」

「その話は昨日した」

 夢さんはわずかに頬を膨らませた。どうやら、ぼくが彼女の話を聞いてなかったということに、腹を立てているらしい。

「しょうがないだろ。夢なんだから、普通ほとんど忘れちゃう。大事なことは、ぼくが起きている時に言ってくれ」

「私、口下手。だから、夢の中の方がいい」

「むむ……」

 できれば彼女の提案を受け入れてあげたいのだが、やはり夢の内容をすべて覚えるなんてことはできそうにない。

 ぼくは困り果ててしまって、腕を組んで考える。

「ヒロロ。困ってる」

「うん、困ってるよ……」

 ぼくのその言葉を聞くと、彼女はぼーっとしたようなうつろな瞳をして、正面を凝視したまま数分間動きを止めた。

 心配になって近づいてみると、

 トントン――。

 と、夢にしては、とてもリアルな動きが肩に触れた。

「ヒロロ。授業は終わった」

 先ほどまで正面から聞こえていた声が突然背後から現れ、瞼をこすりながら周りを見てみると、その教室は多くの生徒たちで満たされていた。

「もう五十分が過ぎたのか」

 あっという間だったな、というのが素直な感想である。

 何故、起きていると異様に長く感じられる時間も、寝るとこうも早く過ぎてしまうのだろうか。

「もうすぐ、三限の授業が始まる」

 夢さんはそう言うなり、ぼくの袖をくいくいと引っ張った。

「来て」

「うむ……」

 まだ眠気が取れないようで、変な受け答えをしてしまった。

 夢さんの小さな歩幅に合わせてついていくと、ぼくたちはあっという間に学校から出てしまった。

「学校はどうするんだ?」

 ぼくが聞くと、夢さんは毅然とした態度で言った。

「ヒロロ。授業聞かないんなら、学校行く意味ないでしょ。私と一緒に遊んだほうが楽しい」

「学校にはな、勉強だけをしに行くんじゃないんだよ。社会勉強も兼ねて――」

「ヒロロは社会不適合者。勉強しても無駄」

「なんか、馬鹿だから勉強しても無駄、と言われることよりも傷つくな……」

 ていうか、今更だけど、夢さんとぼくって同じクラスだったんだと気づく。

 クラスメイト達の多くは、ぼくのことを「不登校」とか「なんか変な奴」と認識してるっぽいが、ぼくの方は彼らのことをなんとも思っていない。

「そういうぼくの心の醜さというか、人への関心のなさというか、人の輪から外れて孤独でいるところに、悪魔は魅かれたのかな?」

 夢さんにそう聞いてみると、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「そんなことはない。絶対」

 夢さんに引っ張られたまま横断歩道を渡る。

 平日昼間の交通量は、驚くほど少ない。

 夢さんの腕は短いので、距離をとろうとしても身体がかすかに触れ合ってしまう。悪魔だと分かってはいても、外見は普通の女の子のわけだから居心地が悪い。

 この距離間で歩いているからこそ気が付いたことだが、彼女はおそらくシャンプーを使っている。風が靡くたび、彼女の髪が揺れて、ほのかに甘い香りが鼻をかすめる。

 まあ、悪魔だってお風呂には入るということなのだろう。

「あ、空揚げ」

 商店街を通り過ぎようとしたとき、不意に空揚げ専門店が彼女の目に留まったようだ。

「ヒロロ、あれ欲しい」

「自分で買えば?」

「分かった。そうする」

 鶏肉は今から揚げるようで、出来上がるまで時間がかかったが、程よく休憩できたので助かった。およそ一か月間、ずっと病院で過ごしていたぼくは、こんな幼気な少女よりも足腰が弱い。おまけに体力もなくて、すぐに息が上がってしまう。

「ヒロロ。もっと体力つけて」

「今日みたいに、お前に連れ回されてれば、自ずと体力はつくだろうよ」

 空揚げが出来上がると、ぼくたちは川辺に移動した。西園寺さんが昨日壊した橋は、すっかりと元に戻っている。

 どうやったのやら……。

「ここで特訓。ちゃんとやれば、今日のメニューはすぐ終わる」

「今日のメニューて……。それはつまり、明日もやるってこと?」

「ヒロロ次第」

 ぱくぱくと箱詰めされた空揚げを素手で頬張る夢さん。

 その容器は大きく、中身を見て驚いたが、その唐揚げの量はとても一人前とは思えなかった。てっきり、ぼくにも分けてくれるのかと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。

「素手で食べて熱くないのか?」

 なんとなく聞いてみる。

「私、温度感じないから」

「ふーん……」

 はて、冷めた空揚げは美味しいのだろうか? そんな疑問が頭をかすめたが、夢中でそれを頬張る様子を見る限り、きっと絶品なのだろう。

「戦う悪魔ちゃんには血と肉と脂が必要」

 夢さんは本気なのか冗談なのか、判別に困る一言を口にする。

 そして、一箱をぺろりと平らげると、ぼくに向かって古びたナイフを投げた。

「ヒロロ。ナイスキャッチ」

「ナイフなんか投げるな!」

 思わず叫んでしまった。

 よく見ると、刃はしっかりとケースに収まっていたので、怪我する心配はない。

「それは夢見刀」

「刀?」

 刃渡り10センチほどの、妙に錆びついた果物ナイフ程度にしか見えないが……?

「今はナイフだけど、ナイフを抜けば刀になる」

 彼女はそう説明した。

「それは私の刀。私に憑かれたヒロロになら扱えるはず」

「へー……。――て、俺に憑りついているのはお前かよ!」 

 昨日、言っていた実験とは、もしや、自分が憑いたぼくの能力値を測るためのものだったのか?

 大声を出すぼくとは対照的に、夢さんは落ち着いていた。

「ヒロロ、やっぱり気づいてなかった」

 そう言う彼女の姿は、額に影を落とし、少し残念そうにも見える。

 そして、

「気づいてほしかった」

 と呟き、見つめられてしまう。

 こうなってしまうと、感情の向くままに彼女のことを責めるのが憚られてしまう。

 ぼくを屋上から突き落としたこととか、ぼくを屋上から突き落としたこととか、色々と言いたいことが頭をよぎったが、それらは唾と共に喉の奥に飲み込むことにした。

「そのナイフの先端に取り付けてあるカバーは絶縁体みたいなもの」

「絶縁体?」

「そう。私とヒロロを隔てる絶縁体」

 夢さんは悪戯っぽく微笑んだ。

 その彼女の表情に、思わずぼくはドキッとしてしまう。

 こうして小一時間一緒にいると、彼女は人見知りなだけであって、決して無表情でも口数が少ないというわけでもないということが徐々に分かってきた。

「絶縁体の意味、分かる?」

「分かるに決まってるだろ。西園寺さんもだけど、君たち、ぼくのことを絶対に馬鹿だと思ってるよね」

「…………」

 唐突に無口になる夢さん。

 やはり、彼女はあまり喋らないタイプの女の子らしい。

 別に、図星をつかれたから黙ってしまったというわけではないだろう。多分。

「そのカバーからナイフを抜いてみて」

「――了解」

 ぼくは言われた通りにすることにした。

 カバーをナイフから外そうとして手を動かすと、刃元から青白い霧のようなものが噴き出してくる。

「な、なんだこれ……」

 ぼくは動揺して、一歩後退する。

 夢さんに一体どうなっているのかを聞こうとして正面を向くが、その言葉に応える悪魔はそこにはいなかった。

「あれ……、どこいった?」

 もしかして、なんか騙された?

 そんな疑いの気持ちが心の奥から湧いて出ようとしたが、ぼくは頭を激しく振ってそれをかき消した。

「少しショック」

「ん?」

 夢さんの声が聞こえた。

 しかし、その声の所在がよく分からない。

「言ったでしょ。そのナイフのカバーは、私とヒロロを隔てる絶縁体。絶縁体が外れれば、私たちは結ばれる」

「む、結ばれるって……」

 夢さんは、くすぐったい気持ちになるような台詞を淡々と言ってくるので、心の平衡を保つのに苦労させられる。

「要するに、これで私はヒロロとくっついた。同期した。憑いた。まあ、そんな感じ」

「そんな感じって言われてもなぁ……」

「一昨日、西園寺白雪に襲われた時や、昨日屋上から落ちた時、ヒロロの中から悪魔が出てこなかったのは、ヒロロの中に悪魔がいなかったから。決して、私が引きこもりだったわけじゃない」

「ぼくは屋上から落ちてない。落とされたんだ」

 むーっと頬を膨らませて抗議してみる。

「悪魔は時に残酷」

「お前、本当に反省してるのか……? 次同じことをやってみろ、ぼくは君を許さないからな」

「そういう関係も悪くない」

 この台詞を聞いたとき、ぼくは彼女に対して何を言っても無駄だということを悟った。

「で、これでお前はぼくに憑りついたわけだろ? お前はぼくの中にいるっていうのか?」

「そう」

「マジか……」

 なんか恥ずかしい。

 おもむろに、カバーの外れたナイフを見てみる。

「刀じゃなくて、ナイフなんだが……?」

「人の夢に入り込む私の能力は実戦向きじゃない。そこで戦いにおいては、人に夢そのものを見させるという、私のもう一つの能力が活きる。その青白い煙が満ちている範囲内の人間にその効力は発揮される。ヒロロは私の能力を利用して、そのナイフを、悪魔を切る刀に再構築することができる」

「悪魔を切る刀?」

「そう。悪魔切りの刀。そんな悪魔にとって危険な刀、世界中のどこを探してもすでに抹消されてしまって存在しないけれど、夢の中でなら作り出すことが出来る。――ヒロロ、悪夢を見たことがある?」

「あるよ」

「どんなのだった?」

「色々あるけれど――。例えば、一昨日の夜にお前に襲われたこととか。後は、顔の見えない男に、ナイフで刺された夢とかもみたことがある」

「ナイフで刺されたとき、どんなだった?」

「死んだかと思った」

「夢と現実の境界はものすごく曖昧。現実はいつだって夢になり得るし、その逆も同じ。そこが例え夢の中であっても、世界中の人がヒロロは死んだものだと思いこめば、ヒロロは死んだのも同じ」

「物騒な例えだな……」

「夢の中であっても、そのナイフを周りにいる人々が刀だと思えばそれは刀になり得るし。その刀を、周りにいる人々が悪魔を切るためのものだと認めれば、それは悪魔を切る刀となり得る」

 なるほど……。

 と、頷きたいところだが、頭が混乱してしまって、正直のところ、今の説明のほとんどは頭に入っていない。別に非難する気はないが、いささか説明下手な気もする。要点が曖昧だ。

「夢を見させるって、どうやってやるんだ?」

 説明を聞くだけ聞いて、全くの無言というのはさすがに失礼だと思い、苦し紛れに質問してみる。

「それは私がやる。だから、ヒロロは自分が使いたい刀の形を、頭の中でイメージするだけいい」

「ふーん……」

 頷いてみるも、よく分かっていない。

「実際にやってみれば分かると思う」

 ぼくの心の内などお見通しと言わんばかりに彼女はぼくを促した。

「自分に使いやすい刀をイメージしてみて」

「お、おう」

 ぼくは静かに目をつむる。

 とりあえず、物凄く格好いい感じの刀を思い浮かべてみた。

 目を開けると、夢さんのため息が聞こえる。

「なに、そのダサいの」

「え? ダサいだって?」

 ぼくの右手には、龍が天へ駆けていく姿が巧みな彫刻で描かれている、全体に金箔をまぶした太刀が握られている。口を開けたその龍は、今にも炎を吐き出しそうな勢いである。

「ダサいのも問題。だけどそれよりも、実用性に欠けるのがなによりも酷い。そのドラゴン、刀に必要な要素だと思う?」

「思う」

「馬鹿ね」

「はっきりと言うな!」

 この悪魔。ぼくの趣味だけでなく、知能まで否定してきやがった。

 かなり腹が立ったが、ここはグッと辛抱しておく。

「もっとシンプルなものにして。使いやすい物。ドラゴンとかいらないから。ヒロロには似合わないから」

「うるせー」

 ぼくは再び瞼を閉じた。

 今度は、宙を舞う翼竜の彫刻が施された刀をイメージしてやろうかと思ったが、二度も幼顔の彼女に毒づかれるのは精神的に苦痛だと考えて、それは止めておいた。

 できるだけシンプルにデザインしたぼくの刀のイメージは、やがて現実のものとなって現れる。

「まあまあ」

 夢さんの評判はまずまずだった。

 シンプルさを強調しすぎたせいか、刀は全身真黒である。つやを消し、高周波なものを全て吸い込んでしまいそうな、沈むような黒さ。

 その太刀本体の重さと相まって、ずっしりとした威厳のある風貌だ。

「もう少し軽くならないか?」

 ぼくの要望を、彼女は拒絶する。

「人はリアルな夢ほど、それを現実のものと判断する。軽い刀で切られても、せいぜいおもちゃの刀に叩かれた、くらいにしか思ってくれない」

「まあ、それもそうか」

 ぼくは渋々ではあったが、納得の意を示した。

「じゃあ、刀を鞘に納めて。そうすると、また元のナイフに戻るから」

「分かった」

 切っ先を鞘にあてがうと。刀が青白い光を放ちつつ小さくなる。それが見覚えのある古びたナイフに戻った頃には、いつの間にか目の前に夢さんが立っていた。

「これで悪魔の制御方法は教えた」

「こんなんでいいのか?」

 もっとつらい修行を想像していたため、ぼくは面くらった。

「本来なら、こんな簡単じゃない。悪魔はいつだって人間の肉体を狙っている」

 夢さんはにやりと微笑んでぼくの目を見つめてくる。『お前を食べてやるぞー』とでも言いたげな表情だが、彼女はそんなこと言わないだろう。

「だけど、私は高級な悪魔。人間の身体なんていらない。人間に悪戯して喜ぶ低級と、一緒にされたくはない」

 夢さんはわずかに目を細めて、そう言い放った。

 ネムが言っていた悪魔祓いとの間に、彼女も何かあったのだろうか。ぼくはそう想像してみる。

「ヒロロ、青田君が動けない今、私たちで昨日の悪魔を狩る」

「え?」

 ぼくは唐突な彼女の発言に、驚き眉を吊り上げた。

「悪魔を裁くのは悪魔の役目。早急に対処しないと、困ったことになる」

 困ったこととはつまり、放置して悪魔が騒ぎを起こせば、この街に悪魔祓いがやって来るということだろう。

「西園寺さんに任せれば?」

 いつものサボり癖で、ぼくは人任せにしようとする。しかし、夢さんはそれを許さなかった。ここまで来た時と同じようにして、小さな手でぼくの袖を引っ張り、てくてくと短い脚で歩き出す。

「人任せはよくない」

 どうやら、離してはくれないらしい。

「あいつの居場所、分かるのか?」

 ぼくは観念して、そう尋ねた。

 昨日、青田の頭を鈍器のようなもので三回も殴った女。誰が見ても悪魔だろう。人の夢の中に勝手に現れるという、非常識な能力を保有しているこの女の子よりも、よほどあの女の方が恐ろしい。

 面倒だというのもあるが、ぼくはあいつに会うのがとてつもなく嫌だった。

「私の索敵能力をなめないで」

 夢さんはおもむろに懐に手を伸ばして、携帯電話を取り出す。そして、ポチポチとディスプレイをタッチする。

「何やってるんだ?」

「ネムに電話して、あの悪魔の居場所を聞く」

「お前も人任せにしてるじゃねーか」

「私たちは悪魔。だから、悪魔任せ」

「言い訳してるつもりか……?」

「もしもし――」

 歩みを止めて、電話に専念する。電話をしている姿を見られるのが恥ずかしいのか、手を放して少しぼくから離れた。

 この隙に逃げることもできそうだったが、どうせすぐに掴まってしまうのだろう。ぼくは暇つぶしにスマートフォンを取り出してゲームに興じる。最新の商業性の高い綺麗なゲームより、古くからあるゲームを好むぼくは、人とゲームの趣味が一致することが少ない。

「ゲーム実況とか見てる?」

「うん、見てるよ」

「どんなの?」

「え、将棋とかチェス……。あと、麻雀とかテキサスホールデム」

「…………」

 この会話が最初で最後、それ以来、彼とは一度も話したことがない。

 そいつの名前すら忘れてしまった。

 西園寺さんも将棋をするそうだし、青田もある程度知っているような口ぶりだった。もしかしたら友達になれるかも、と思って首を振る。

 あんな変人たちと友達になるなんて不可能だろう。

 青田は見た目からして不良だし、西園寺さんは清楚そうな風格をかもしだしているものの、中身は完全に暴力戦闘機である。ここ数日、彼女が暴力を振るっている姿しか見ていない気がする。

 そんなことを考えていると、夢さんが片手になにかを抱えて戻って来る。

「何それ?」

「空揚げ」

「…………」

 まだ食うのか……。しかも、同じもの……。

 その小さなか身体ではさすがに食べきれないだろうと、わずかな親切心から彼女の買ってきた空揚げに手を出すと、ピシッと手の甲で弾かれてしまう。

「これ、私の」

「知ってるけど、食べきれないだろ? それに、あまり食べると太るぞ?」

「悪魔は太らない」

 なんて羨ましい体質なんだ。

 素直にそう思ったが、よく考えたらぼくも同じだった。

「能力を使うのと膨大なエネルギーを消費する。だから、食べる」

「なるほど……」

 一応、食欲旺盛なことには理屈があるらしい。

 確かに、彼女はぼくの夢に現れたり、ぼくに夢を見させた直後に空揚げを食べている。しかし、なぜいつも空揚げなのか。飽きないものなのだろうか。

「飽きた。あげる」

「飽きるんかい」

 思わず突っ込んでしまった。

 夢さんは無表情でいることが多いので、その言葉の真意を掴むことは難しい。もしかすると、彼女自身はまだまだ食べたかったが、よだれを垂らすぼくのために空揚げを分けてくれたのかもしれない。

 しばらく、元来た道を歩く。

 今になって気づいたが、今日は休日ではないのだ。ぼくも夢さんも昼になる前に学校を抜け出してきて、その両肩には学校指定のカバンをぶら下げている。

 今頃、昨日の悪魔みたいな女子生徒は、怪我をさせた青田のことなど忘れて、きっと平然な顔をして授業を受けていることだろう。

「悪魔は学校にいるらしい。ネムが言ってた」

「――そうだろうね……」

 ぼくは呆れた様に口を開けて、夢さんの隣を歩く。

 引っ張られながら歩くのはさすがに恥ずかしいので、大人しくついていくことを約束して手は離してもらった。

 彼女は初夏だというのに、黒色のタイツを着用している。寒がりなのだろうか? 制服の着こなしにうるさい学校がそれを許しているってことは、やんごとなき事情があるのかもしれない。

 まあ、おそらく、教師に夢でも見せてごまかしているのだろう。

 学校に着くと、いつもと雰囲気が違うのに気づいた。

 雰囲気が違うというか、辺りの気温が異様に低い。一昨日、西園寺さんに襲われた時と同じ、全身に鳥肌が立つような嫌な寒さだ。

「悪魔と戦う時は厚着推奨」

 夢さんは横を向いてそんなことを言ってくる。

「特に西園寺白雪と戦う時は厚着必須」

「――肝に銘じておくよ」

 ぼくは夢さんと足並みをそろえて校門をくぐる。

 ゾク――。

 越えてはいけない一線を越えてしまった気がした。心臓を掴まれたような胸苦しさがぼくを襲ってくる。

「こ、これは――?」

「ネムの張った結界。――大丈夫。今から倒す悪魔はネムより数百倍弱い。この嫌な感じもこれまで」

 彼女の言う通り、悪寒も息苦しさも校舎に辿りついた頃には収まった。

「生徒たちが見当たらないな」

 ぼくは辺りをきょろきょろ見渡しながら、不思議に思って呟いた。

「ネムは結界使い。悪魔だけ捕える」

「なるほどね……。つまり――」

「そう。ヒロロもここでは悪魔扱いされてる」

「人間を止めたつもりはないんだけどなー」

 ぼくのため息交じりの一言に、夢さんは「安心して」と言った。

「ヒロロは人間。私が勝手に憑りついただけ。離れればすぐに普通の人間に戻れる」

 夢さんはこっちを見てちょこんと小首を傾げる。「離れた方がいい?」と、その赤い瞳が問うているようだった。

「いや、別にいいよ。当分は悪魔でも構わない。他にやりたいことも、なりたいものもないしな」

 夢さんはそれを聞くと、安堵したように一息つき、青く澄み渡る空を見上げる。ここは悪魔の作った結界内という話だったが、見た目は現実の世界と何一つ変わらない。むしろ、見慣れた風景がより鮮明に感じる。

「校舎の屋上。そこに一匹いる。素早くお願い」

 夢さんは直立したまま、眠るように目をつむった。

「ナイフを抜いて。早くしないと先制される」

「――了解」

 ナイフをカバーから外す。一度目の時とは違い、その動作に迷いはなかった。青白く染まる地面。刀の鞘から溢れだす霧のようなものが、周りの空気を侵食し始めていた。

 落ち着いてその霧を肌で感じると、ひんやりとして冷たい。水蒸気によるほのかな冷たさというよりは、氷のような人肌を突き刺す冷たさ。これは悪魔の能力なんだな、と納得せざるを得ない。

「ジャンプして」

 夢さんがぼくの中から言った。

「ジャンプって?」

「飛ぶってこと」

「いや、それは分かるんだけど……。何の目的があってジャンプするのか分からないというか、どこに向かって飛べばいいのか分からないというか……」

「校舎の屋上に向かって飛べばいい」

「あんな高いところまで、飛べるわけないでしょ」

 漆黒の太刀を握った手を額の前にかざし、太陽の光を遮りつつ校舎の一番高いところを見やった。あんな高所まで、飛べるわけがない。いくら悪魔の能力をもってしても、到底辿りつける気がしない。

「ヒロロなら、きっとできる」

「いや、無理だから」

 ぼくらが昇降口の前で言い合いをしていると、背後で大きな音が鳴り響いた。まるでダイナマイトが爆発したみたいな、大地を揺らす大音量だ。

「向こうから来たみたい。ヒロロ、戦闘準備」

「ん?」

 ぼくは心のどこかで悪魔をなめていたらしい。

 どうせ、今回戦う悪魔は低級で、西園寺さんよりも弱いのだ。ぼくに憑いている夢さんはAA級でそこそこ強いみたいだし、ピンチになったらなんとかしてくれるだろう。

 そんなことを思ってしまっていた。

 後ろを振り返ろうとした瞬間、

「ンッ!」

 背中を殴られた衝撃で、一瞬ではあるが呼吸ができなくなった。

 背骨が軋む音が響く。ぼくは恐ろしく硬いもので殴られて、そのまま昇降口に吹き飛んだ。

 ガシャン――。

 ガラスの割れる派手な音が、少し遅れて耳に届いた。

 痛い――。

 そういえば、切り傷なんて久しぶりだ――。

 ぼくは未だ悠長のままに、そんな感想を小声で述べていた。

「元気そう。安心した」

 夢さんの抑揚のない静かな声が、身体の内側から響く。

 ズキ――。

「痛って……」

 身体の小さい夢さんの、こんな微かな音の振動でも、身体の傷が痛む。

「背骨とか折れてない? 大丈夫かな?」

「間違いなく大丈夫」

 ぼくは制服についた埃やガラスの破片を、乱暴な手つきで払いながら言った。

「どうすれば勝てる?」

「やっと、やる気になった」

「どうすれば勝てる?」

 今度は少し声を荒らげて、その答えを早く知ろうと彼女をせかした。

「手に持ってる刀で切ればいい」

「なるほど」

 単純だな。

「でも、ヒロロ。今、刀を持ってるのはあの悪魔の方で、あなたじゃない」

「え?」

 焦って自分の両手を見る。それから、グーパーグーパーと、手を開いたり閉じたりしてみる。

「おかしいな。刀がない」

「だから、あいつにとられた。ヒロロが殴られたとき、器用な手つきで掠め取られた」

「そんな、馬鹿な……」

 なんて、手癖の悪い奴なんだ。

 ぼくは拳を握り、前を見やる。しかし、前方に悪魔の姿は見当たらない。

「きっと、悪魔に憑りつかれたあの女子生徒。万引きとかスリとか、そういうことしていたんだと思う。あの手つきは、熟練の腕を感じさせる」

「そんな考察求めてないんですけど。考察するなら、あいつの居場所――」

 ゾクッ――。

 明確な殺意を目の前に感じて鳥肌が立つ。

 その直後、頭が真っ白に染まる。強い衝撃を後頭部に感じた瞬間、意識がふらっと抜けた。

 威勢のいい破裂音というよりは、ものがすり潰れるときのような低音。

 聴覚は無事のようだが、身体が無事とは限らない。

 ぼくはまたもや打撃を加えられて、下駄箱を押し倒しながら廊下まで飛んで行った。

 痛いなんてものじゃない。

 痛みを通り越して、何も感じない。このまま眠ってしまいたくなる。

「そうはさせない」

 夢さんの声が、ぼんやりと深い暗闇の中から聞こえる。

「死ぬことは許さない」

 起きろ! 

 なんて、おっとりとした彼女が叫ぶはずないのだけど、なんとなく強い口調で怒られた気がした。

 ぼくは目を開ける。

 視界がぼやけるので目元をこすってみると、ぬるっとした液体が手に付着した。

 赤い――。

 自分の血を見るのは何年ぶりだろう――。

 注射嫌いなぼくは健康診断を大分さぼっていたから、およそ五年ぶりくらいだろうか。

「ふふっ」

 不意に笑みがこぼれる。

 注射なんて、大して痛くないな。

 今の状況を鑑みると、そう思わずにはいられない。

「血だらけの姿で、何笑ってるの? 今のヒロロ、かなり悪魔っぽい」

「ああ――」

 ぼくは唇を赤く染めて、にやりと相手を睨んだ。

 正面には目を赤くした悪魔。スカートをはいていて、小柄な体格からもそいつがここの女子生徒だと判断できる。顔が白く、その肌は数筋の黒い線に覆われて、割れている。

 昨日、青田を殴った女だと断言できるほど、今のこいつは人間の姿を成していない。

 哀れだ――。

 そう思った。

「来る」

 夢さんの言葉とほぼ同時に、そいつはぼくをめがけて飛びかかってきた。

 大きく黒色に肥大した左こぶし。それを間髪入れずに放ってくる。

 右、左、左、左。軽やかなステップでそれを躱すぼくの目線は、彼女の武器である左手ではなく、ぼくの武器を持っている右手に当てられている。

「ヒロロ、後ろも見て」

 注意を促されて、チラッと振り向くと、すぐそこに壁が迫っていた。

「挟まれると厄介」

「手を貸してくれ」

「すでに刀を貸してる」

「だけど、借パクされた」

「ただ、パクられただけでしょ」

 自分でなんとかしなさい。

 まるで母親のような口ぶりで、戦闘中のぼくはお説教されてしまった。

「うむ……」

 ぼくはあの悪魔を倒す術を思いついた。寸分のところで攻撃をかわすと、一目散に階段を駆け上がる。

「どうするつもり?」

「今までの単調な攻撃から察するに、あいつは頭が悪い」

「低級だから」

 それと、ヒロロも頭悪い。悪魔のこと言えない。

「ほっとけ」

 緊迫した場に相応しくない、夢さんの悠長な皮肉を軽くあしらい、ボロボロに千切れた制服を靡かせて必死に走る。

 後ろから悪魔のうめき声と、物を破壊する轟音が響いてくるが、そんなもの気にしていられない。少しでも振り向けば、恐怖で足が止まりそうに思えた。

 屋上につく。

 屋上へ出るカギは、昨日のまま開けっ放しだった。

「あいつをここから落とす」

 ぼくは言った。

「直線的で勢いのあるパンチは確かに強力だ。だが、隙が多い。拳を受け流せば、きっと自らその身を投げるだろう」

「ヒロロみたいに?」

「ぼくは投身自殺なんかした覚えないぞ」

 この悪魔、ごめんなさいとか言っていたが、本当に反省しているのか?

 そんな疑いを胸に抱きつつも、目の前に迫る悪魔の姿には圧倒されしまう。

ヴウウウウウ――。

唸り声とも叫び声とも判別のつかない声が、割けた口から洩れ出すのが不気味だった。ぼくの太刀は、今もその手にしっかりと握られている。

「さあ、来い」

 そうは言ってみたものの、もちろん、できれば来てほしくない。

 悪魔は悲鳴をあげながら、ぼくに突進してくる。

 ぼくの血液で染まった赤くて黒い拳。奴を見ていると、人を傷つけたい殺したい、という意思がヒリヒリと伝わってくる。思えば、この悪魔に殴られていた時の青田からも、同じような感じがした。

 風を切るような鋭い音と共に、悪魔の左手がぼくに放たれる。しかし、その攻撃はすでに何度もくらっているし躱している。もう、慣れた。

 ギリギリのところで躱すと、素早くこいつの背後をとり、それこそ殺すつもりで思いきり蹴った。

 悪魔は頭部から屋上に張り巡らされたフェンスに突っ込んでいき、そのまま下方へと落下していく。

「ヒロロ、手を抜いた」

 夢さんが責めるように呟く。

「中身は女子生徒でも、今のあいつは悪魔。分かってる? あなた殺されかけてる。情けかける必要、皆無」

「これでも、本気でやったつもりなんだけど」

「蹴る直前に、傷つけること怖がった。力抜いた」

 夢さんは淡々とした調子で続ける。

「言っておくけれど、殴られて痛いのはヒロロだけじゃない。中にいる私も痛い」

 ヴウウウウウウ――。

 また、あのうめき声だ。

「この程度じゃ、死なないってわけか」

「殺す気なんてないくせに」

「どうすればいい?」

「何度も言ってる。刀を取り返せばいい。夢見刀なら、悪魔を切れる」

 悪魔だけを切れる。

「殺したくないなら、刀を取り返すこと」

 夢さんの助言に感謝の意を示してから、ぼくは深く深呼吸する。もちろん、ぼくを殺そうとする奴を、青田を傷つけるような奴を、許すつもりなんて毛頭ないけれど、どこかでぼくはぼく自身に甘えていたらしい。

 長く温かい場所にいたぼくは、人に傷つけられることや、人を傷つける恐怖を忘れてい

た。まだ幼い妹の命を奪った病。そんな運命の不平等さばかり呪って、人間中心社会の不

条理さをすっかり無いものにしてしまっていた。

 人に傷つけられるのを防ぐために、時にはストレスを感じながらも人を傷つけなければならない。人を無心に傷つけるような悪魔を倒すためには、こちらも悪魔にならなければならない。

「刀を奪い取れ」

 ぼくは自分に言い聞かせた。

「今度こそ、本気で――」

 殺してやる。

 しかし、せっかくやる気になったぼくの気を削ぐように、夢さんが内側からぼくを叩いてくる。

「殺すのはダメ」

「――分かってるよ……」

 悪魔に説教なんかされたくなんだよ。

 ぼくは壊れたフェンスから見下ろす。一度、ここから落ちたことがるので、高さにおびえて足が震えるなんてことはなかった。

「私のおかげ」

 夢さんが自分自身を褒めるような口ぶちでそんなことを言っているが、いちいち抗議するのも面倒くさい。

 唐突に、グランドに舞っていた砂煙が揺れる。来る――。ぼくはそう思った。

 悪魔は雄たけびをあげながら、直角の校舎を高速度で駆けあがり、屋上にいるぼく目がけて突進してきた。

 無慈悲に振るわれる巨大な拳。

 だが、それはすでに、見飽きた風景だった。

 病室で妹の看病をしていた頃、ぼくは暴力や悪意とほど遠いところにいた。だから、今までは対処の仕方に困惑し、一方的に攻撃を受けてしまった。だけど、それも終わり。

 悪魔の攻撃手段は拳だけ。刀を握る右手はいたって普通。細くて小さな、ただの女の子の腕だ。

 ぼくはそれを掴む。そして、逆さまに折った。

 悪魔は叫ぶ。空気が揺れた。音が振動する様子を身体に感じた。それはとても不快なものだった。

 仰向けに倒れ、右手を押さえる悪魔を侮蔑した眼差しで見下しながら、ぼくはゆっくりとそいつが落とした刀を拾い上げた。

「最初から本気出せば、こんな奴一瞬で倒せた」

 夢さんは抗議するように、ぼくの中でぐちぐちと不満の言葉を並べていた。

「最初から本気出せば、私が痛い思いする必要なかった。ヒロロだって怪我しなくて済んだ。制服だって綺麗なままだった」

「引きこもりは、本気出すのが人よりも遅れてるんだよ」

 ぼくは悶える悪魔を見据え、「くたばれ」なんて格好つけた台詞を吐きかけて、そいつに刀を突き立てた。

「なっ!?」

 その瞬間、ぼくは目を丸くする。

 内側にいた悪魔が死に、化け物の姿から人の姿へと戻ったその女子生徒を見つめて、しどろもどろした。

「こいつ、誰だ?」

 少なくとも、青田を殴った女ではない。しかし、どこかで見覚えがある。――昨日、そうだ、あの場所にいた尻餅をついていた小さな女の子。砂を付着させたまま、払いもせずにスカートを揺らして駆けていった女の子。

「彼女の攻撃は左手。だけど、青田君を殴った子の利き腕は――」

 そうか。あの時、あの女は右手で青田を殴っていた。

 それに体格だって、全然違うじゃないか。

「――しかし、なんでこの子が悪魔なんだ? ぼくはてっきり、あいつかと思って」

「こいつも悪魔。悪魔に憑かれたのは初めから一人じゃない。二人よ」

 西園寺さんの声が聞こえる。階段をコツコツと昇り、肩に誰かを背負って彼女はやってきた。

 ドサッと、乱暴に放り投げられたその女は青田を傷つけた張本人で、右腕が紫色に変色していた。凍傷している――。

「なにがなんだかさっぱり分からん」

 ぼくは言った。

「簡単な話」

 西園寺さんは眉間にしわを寄せて説明する。

「昨日のあの場に、屋上にいた私たちを除いて悪魔が三人。一人はいじめっ子グループのリーダーで、一人がいじめられっ子。もう一人が、そのいじめを止めようとした馬鹿な男。みんなそれぞれが、悪魔に好かれたただの高校生。それだけよ」

 西園寺さんは、たった今仕留めて来たばかりと思われる、そのいじめっ子のリーダーという女子生徒を足で踏んずけた。

「おい、さすがにやりすぎじゃ――」

「ハ? 何言ってるの?」

 彼女はぼくを殺してやるとでも言いたげな、血走った目つきで睨む。

「こいつ、青田を血まみれにしたのよ。許せるわけないでしょ。下手してたら、死んでた」

「ヒロロ、やっぱり甘い」

 夢さんまでそんなことを言う。

「優しくする相手を間違えないで」

「ぬぬ……」

 言い返す言葉がなかった。

「じゃあ、私は帰るから。そこの悪魔憑きさん。あと始末お願い」

 西園寺さんは後ろを振り返り、来た道を戻っていく。その横顔がなんだか寂し気で、乱暴な口調とは正反対に、とても辛そうに見えた。

 ぼそりと、誰にも聞こえないような小さな声で彼女が呟く。

「なんで私が傷つかなきゃいけないの……」

 そうか、彼女もぼくと同じなんだ。

 そう思うと、なんだか彼女がものすごく儚く思えた。

 いつもの気丈な性格が、ただの紛い物だと思えてくる。

 ぼくは西園寺さんに何か喋りかけようとした。だけど、なんて言い出せばいいのか分からない。彼女はそのまま階段下へと消えていく。遠くへ行ってしまう。

「待って!」

 ぼくは言った。

 ぼくが大声を出したことに驚いたのか、夢さんの心臓がビクッと跳ねるのを感じた。

 ナイフにカバーをかけると、夢さんが姿を現す。全身に青あざができているを見て、胸が痛んだ。

「ヒロロのせいじゃない」

 彼女はそう言ってくれたが、ぼくは自分を責めずにはいられなかった。

「何か用事?」

 今の私とてもイライラしてますよ、と主張するようかのような鋭い声で言いながら、西園寺さんは振り向いた。

「将棋でもやる?」

「ハ? 突然、何? 将棋?」

 ぼくらのやり取りを横目で見ていた夢さんが、くすりと笑った。気がした。



 ネムが借りているホテルにて、ぼくと西園寺さんは真剣勝負を繰り広げていた。横で青田が見守る中、ぼくらは早指しで熱戦を繰り広げる。

「穴熊か――。フフッ……、さすがは引きこもりね。穴熊から一生出てこなければいいのに。そして、そのままそこで一生を終えればいいのに」

「なんでそんなことを言うんだ!」

 ぼくは涙目で訴える。

 そもそも、ぼくの穴熊囲いは未だに完成していない。よって、ぼくの玉はまだ穴熊に籠っていないのだ。引きこもってなんかいない、ぼくは引きこもりじゃない。

 ぼくの居飛車穴熊に対抗する西園寺さんの戦法は四間飛車。どうやら、振り党らしい。お馴染みの藤井システムで、ぼくの玉を牽制してくる。

 居玉を咎める意味でも、ぼくは持久戦を目指す指し方から、急戦を示唆するような差し回しに変化させる。

「ほとんど定石通りだな……」

 青田が、呆れ模様に呟く。

「お互いに絶対にミスはしない。負けてたまるかという意思をひしひし感じるよ」

 十分が過ぎた頃には決着がつき、結果はぼくの完敗であった。藤井システム相手に持久戦はさすがに無理がたたったようだ。

「ふはははは!」

 腰に両手を当てて、西園寺さんが笑い出す。

 よほど嬉しかったらしい。

 続けて、青田、ネムとも対局した。青田とは横歩取りの乱戦になり、ネムはバランス型の右玉っぽい指し方をした。二人とも手ごわかったが、なんとか勝てた。

「何か一つ、願い事を聞いてあげよう」

 ネムが悪魔っぽく、ニヒヒと下手くそな笑みを浮かべる。

「うーん……」

 数秒考えた後、

「古典のテストで赤点取らないようにして」

 と、お願いしてみた。

「りょーかい」

 お安い御用と、ネムは美しい刺繍の入った椅子の上で言った。

「そういえば、夢ちゃんはどこいったの? てっきり、君と一緒にここに来るかと思ったけど」

「先に家に帰るって」

「ふーん――」

 ネムは鼻を鳴らすと、偉そうな姿勢で足を組んで、手のひらサイズの文庫本を片手に読書を始めた。

 それから、あと二、三局。ぼくらは将棋を指した。

 その時間はとても楽しくて、久しぶりに何も考えずにただ笑い続けた。



「なあ、芦川」

 河川を見下ろせるベンチで、ぼくと青田は二人きりだった。

「俺の父親は人を殺して、今は牢屋で生活している」

 誘われて外に出てみれば、どうやら随分と重い話をするつもりらしい。

「昔から人殺しなんて言われるたびに腹を立てていた。人殺しの子供だから人殺しらしい。だけどよ、人殺しの子供が悪い奴だっていう根拠なんてどこにもないんだぜ。近年、若者の犯罪が増加してるなんて言う人もいるけど、統計データは真逆の結果を示している」

「いい加減だよな」

「そうなんだよなー。ホント、困っちゃうぜ」

 その言葉通り、少しだけ困ったように青田は笑った。

「星の王子さまでさ、『大人は数字が好きで嫌になっちゃうぜ』的なことを王子様が仰っていたけどさ、数字を見ないやつの方が俺は嫌だな」

「まったくだ」

 ぼくは同意した。

「今日、お前が倒した子はリカっていう名前らしいぜ」

「どうでもいいよ、そんなこと」

「きっと、彼女も俺と同じで、人を恨んでたんだろうな。だけど、それをぶつけるようなことはしなかった。その暴力的な感情を発散させるようなことはしなかった。おそらく、それをすることは、彼女にとってものすごく嫌なことだったんだ」

 いじめられることより、人をいじめることの方を彼女は嫌ったんだ。怒りに身をゆだねて、人を傷つけることを拒否したんだ。

 青田はそう言った。

「だけど、いじめられて気分のいい奴はいない。不満やストレスは蓄積していき、気づいたときには悪魔になっていた。今回のことは一種の感情の爆発みたいなものだろう」

 青田は申し訳なさそうな顔をして立ち上がった。そして――

「その、リサさんのこと。彼女はお前を随分と酷い目に合わせたようだけど、どうかのこの傷に免じて許してやってくれないか」

 彼はそう言うと、静かに包帯を巻いた頭を下げた。

 ぼくはその力強さに圧倒されて、少し戸惑った。

しばらくして、思いきり彼の後頭部を叩いた。

 ペシン! という明るい音が河川敷に広がる。風が西の方角から吹いてきて、草木を揺らしながら、青臭い匂いを運んでくる。陽は暮れ始め、空が赤く染まっていた。

「ホテルに戻るか」

 青田が言う。

「戻って、将棋を指そう。今度こそ負けない」

「ああ、ぼくだって負けないよ」

 白色の美しい羽を持つ鳥がバタバタと入水して、円を描きながら揺れる川面。その鳥のくちばしの端に一匹の魚が見える。

「生きづらい世界だな」

 ぼくはそんなことを思った。


 9月中に書き上げて、どこでもいいから新人賞に応募しようとしたんですけど、完成させてカレンダーを見たら10月4日でした。

 夏休み中から書いとけばよかったですかね。

 伏線回収のための第2章があったりして、すでに書きあがってるわけですが、当分掲載することはないと思います。

 これも、coming soon.とかいって、かれこれ10年も続編のない某小説の模倣ですかね。

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