悪魔二人 (3)
翌朝家を出ると、西園寺さんが塀にもたれてぼくのことを待っていた。
「やあ」
片手を上げて挨拶してみる。
「芦川く~ん」
西園寺さんは満面の笑みでそれに応じてくれた。
「あなた、私に凍らされたいの? あなた、クラスで昨日ことを何て言ったの? 今朝学校に行ったら、私と青田のことで変な噂が立っていたんですけど」
「ぼくはただ教室で、西園寺さんが青田の奴をお持ち帰りしたという事実を言っただけだよ」
「それは、事実じゃない!」
彼女は長い髪を振り上げて叫んだ。
「お持ち帰りしたってなによ! あんな奴、誰が持って帰るっていうのよ!」
ぼくは黙って西園寺さんを指さす。
「持ち帰るかあああああ!」
彼女は顔を紅潮させて激高する。
それから、ぜえぜえと動悸を乱した後、「ふーっ」と息を吐いて呼吸を整えた。
「青田の調子はどんな感じ? 元気?」
「頭に包帯をぐるぐると巻いてて、出血多量のせいか何時にもまして大人しいけど、今の私よりはきっと元気よ」
「それなら、青田の方は大丈夫そうだね」
ぼくは安堵した。
正直、昨日のことで、少しばかり責任を感じていたのだ。
あの女子生徒が青田を殴り始めてすぐに止めていれば、こんなことにはならなかっただろうにと、今更のように後悔している。
「何よ。先生に怒られてる小学生のような顔をして」
西園寺さんは、僅かにうつむいたぼくの顔を覗き込んできた。
「いや、青田のことで、後悔してるというか反省してるというか」
「別に、あなたが責任を感じる必要はないわよ。青田がぼこぼこにされているのをただ傍観していたのは私や夢も同じだし、それは当の青田自身にだって言えること。――あいつは、変なところで甘いのよ」
彼女は怒るように、それでいて嬉しそうに、そんなことを言った。
「私が最初、あなたを殺そうとした時もそう。あいつは自分の命も狙われてるというのに、地域住民の方々に悪魔の存在がばれないように、人のいない方へいない方へと移動しながら戦ってた。悪魔の存在が露見して困るのは、悪魔憑きである私やあなた……」
西園寺さんはやれやれといった調子で肩を落とすと、おもむろにぼくの腹を蹴り飛ばした。
「うっ!」
うめき声をあげるぼくに構わず、彼女は腕を掴んできた。
「クラスでのことは今ので許してあげる。――いや、やっぱり、この程度じゃ許せないわね」
「おい、まだ蹴る気か」
「だけど、今はそれを保留してあげるわ。今からは、あなたを青田のところへ連れて行かなきゃいけないから」
「保留してあげるって……。もう、蹴られてた後なんですけど。全然保留されてないんですけど」
西園寺さんはぼくの言葉を無視してぐいぐいと袖を引っ張って来る。
「なんか、積極的だね」
ぼくがそう言うと、殺気の籠った眼で睨まれた。
「じょ、情熱的な目で見ないで――うげっ!」
喋ってる途中で顔の側面を蹴られ、舌を噛んで変な声が出てしまった。
「なにアヒルみたいな声出しちゃってるのー? 恥ずかしーぃ。ぷっぷっぷー」
人を不快にさせるためだけに用意されたような笑い顔で、目を細めてぼくのことをからかってくる西園寺さん。
しかし、特に腹は立たなかった。
彼女が足を蹴り上げる瞬間に、黒のラインの入った下着が見えたからである。
「西園寺さん、アヒルのような声を出したぼくよりも、ぼくにパンツを見せつけて来た君の方が恥ずか――ぐへっ!」
再び顔を蹴られ、もう一度パンツが覗けるのではと期待したぼくだったが、今度は回し蹴りではなく顎を膝蹴りされたため、その予想というか願望は見事に外れた。
「死ね! 変態!」
地面に崩れ落ちるぼくに向かって、西園寺さんは唾を吐きかけた。
コンクリート造りの地面が冷たい。殴られた部位をつけるとひんやりとして気持ちよかった。
それにしても、自宅の玄関先で女子高生に蹴り倒されるぼくを見つける家族が誰もいないことが幸いだと感じた。
通りを過ぎていく見ず知らずのサラリーマンや、登校中の小学生たちにその姿を見られることは避けられないが、それでも家族に見られるよりは断然マシだろう。
そんなことを思っていると、白く華奢な腕で襟首を乱暴に掴まれて、ずりずりと地面の上を引きずられながら西園寺さんにどこかへと連れていかれる。
その道すがら、道路に転がる鋭利な小石やガラスの破片にちくちくと刺されながら引きずられるそんなぼくの姿を、ゴミ出しに行く主婦たちに凝視された。
「あのー……。君はこんな姿を大勢の人に見られて、恥ずかしくないの? そろそろ手を放したほうがいいんじゃない?」
ぼくの提案に、西園寺さんは
「パンツを見られたから、もう、何を見られても恥ずかしくない」
と、拒絶の意を示し、
「私が死ぬ時、お前も道ずれにしてやる」
真顔でそう宣告された。
青田は、西園寺さんの言った通り、包帯に身を巻かれながらも元気そうだった。
そんな青田は、ぼくを一目見ると心配そうに顔をしかめた。
「その傷、どうしたんだ? 誰にやられた? まさか、俺をやったあの女子か!? それとも、悪魔か!?」
「まあ、悪魔といえば悪魔だな」
「誰が、悪魔よ。変態は黙りなさい」
西園寺さんのこの一言で、青田は誰がぼくをやった犯人かをすぐに察したらしい。
「お前も大変だったな」
「ああ、全くだ」
「なに被害者面してるのよ、あなたたちは」
一番の被害者はこの私よ。
西園寺さんはそう言ってぼくらに抗議するのもほどほどに、この場にいるもう一人の男の方を見た。
「ネム。言われたとおりに連れて来たわよ」
「おや。これはこれは、氷の女王様のお手を煩わせてしまったようで、すみません」
市内にある高級ホテルの一室。その内装に到底相応しくない、カジュアルな服装をした短パンの男の口調は、人を馬鹿にしたようにおどけた風だった。
歳はまだ若そうだが、ボサボサの髪の毛のせいで大分老けて見える。
そいつは、窓の近くの椅子に足を組んで座っていた。ホテルの値段だけあって、椅子は小奇麗で高価そうだが、この男は全体的になんか汚い。
やはり、不釣り合いだと感じた。
「氷の女王って呼ぶな。この短パンすね毛男」
年上だというのに、臆することなく西園寺さんは暴言を吐いた。
どうやら、二人は知り合いらしい。
「だって、みんな君のことを氷の女王って呼んでるよ」
男はにやけた面で西園寺さんを指さした。
彼女は毅然とした態度を崩さずに彼に近づき、その指を力強く握る。そして――。
ボキッ! と、逆方向に捻じ曲げた。
「酷いなー」
彼の指は見るのも憚れるような恰好で曲がっていたが、曲げられた当の本人は少しも痛そうには見えない。むしろ、へらへらと薄笑いを浮かべている。
ああ、こいつは悪魔なのか。
ぼくはそう思った。
「今、君は」
曲げられた指を、もう片方の手で直しながら、その男はぼくに向かって言った。
「ぼくのことを悪魔だと思っただろ?」
心中を見抜かれたことに動揺したぼくは何も答えられなかった。
彼はそんなぼくのことを、白髪の混じった髪を掻きむしりながらしばらく待つことにしたらしい。足を机の上に上げて、かなりくつろいだ様子だった。洋室なのに、裸足である。
「そんなこと思ってないヨ」
「なんで、片言なのよ……」
西園寺さんはため息交じりに呟いてぼくを見る。
「ハハハ。君は嘘を吐けないタイプだね」
そう言いながら男が浮かべた笑顔は、今までのような薄情なものではなく、随分と温かみのあるものだった。
なんだ、こういう顔でも笑えるのかと、ぼくは思った。
「言っておくけど、ぼくは悪魔だよ」
もしかしたら、こいつは悪魔ではないのかもしれない。そう感じた矢先の発言だった。
「ぼくら悪魔は人との接するのが苦手でね、無理やり社交的に振舞おうとすると、今のぼくみたいに気持ちの悪い作り笑いを浮かべちゃったりするわけ」
男はにまにまとした、唇の端が妙に釣り上がった変な笑顔を作る。
「ぼくも夢ちゃんみたいな無口キャラで生きていきたいんだけどね、そうするとこのカジュアルな服装に合わなくてさ。なにこのおっさん、服装は陽気なのに性格は陰気ね、なんて白雪ちゃんに言われたらショックじゃない。ぼく、立ち直れないよ」
「服装は陽気なのに、性格はゴミくずね。死ねばいいのに」
西園寺さんは、青田の頭に包帯を巻きながら言った。
「不衛生だから、ちゃんと包帯を取り換えろと言ったでしょ」
「いやね、ぼくも取り換えようと思ったんだけどさ。青田君が白雪ちゃんに取り換えてもらいたいからって、それを拒否したんだよ」
「なんで、あんたはいつもこうなのよ……」
殴ろうとして手をグーに握った彼女だったが、さすがに怪我人相手にそれは止めたらしい。
「殴ったら、部屋が血で汚れちゃう。私、弁償できない。殴るのは無理そうね」
握った拳を見つめて、落ち込む西園寺さん。
そんな彼女を見ながら、ぶるぶると震える青田。
「お前、どれだけ俺を殴りたいんだよ。どれくらい殴ったら気がすむんだよ。ていうか、部屋が血で汚れるほど殴るつもりだったのかよ……」
「まあまあ、白雪ちゃん。青田君、本当に死んじゃうからほどほどにね」
男の表情は、元のへらへらとした薄笑いに戻っていた。
「そういえば、白雪ちゃんが言ってたけど、君に憑りついてる悪魔って引きこもりなんだってね」
思い出したように、男は言う。
「ぼくは引きこもりじゃない」
「いや、君のことじゃなくてさ、悪魔のことなんだけど……」
「芦川君に憑いてる悪魔はおそらく相当強力よ」
青田の包帯を巻き終えた西園寺さんはベッド横の椅子に座った。
「屋上から突き落とされて死なないって尋常じゃないわ」
「ああ、あれには俺も驚いたぜ」
西園寺さんに介抱してもらったのがそんなに嬉しかったのか、ベッドの上で随分幸せそうな顔をしている青田もすかさずそう言った。
「普通、死ぬぜ?」
「やっぱ、死ぬのか」
ぼくは昨日の出来事を思い出す。
夢さんにいきなり突き落とされて、本当に死ぬかと思った。最初はなにが起きたか分からなくて、分かった時には逆さまになっていた。ぼくを見下ろす夢さんの無表情な顔が印象的で、未だにはっきりと覚えている。
「ねえ、やっぱり、ぼくの首折れてない? 昨日からずっと痛くて、折れてる気がするんだけど?」
「いや、折れてたら、そんな元気じゃないって。大丈夫大丈夫」
男は優しく微笑んで、ぼくの心配を解消しようとしてくれる。
しかし、なんとなく、その表情がうさんくさい。どうやら、本当に人と接するのが苦手らしい。
「まあ、そんなわけで。今日、君に来てもらったのは他でもない。悪魔の力を制御するために特訓をしてもらおうと思う。――あ、そうそう。ぼくの名前はネムといいます。いつも眠気と戦ってるからネム。以後、よろしく」
「悪魔って奴は、みんなこんな風に適当に名前を付けるのか? ネーミングセンスがどうかしてると思うけど」
ぼくの問いに、青田は笑って答えた。
「悪魔はみんな馬鹿なんだよ」
「なに言ってるの――。あなた、中間テストで314位だったじゃない。夢さんは3位だったらしいわよ」
「マジか!? ていうか、なんでお前は俺の順位を知ってるんだ!?」
「テスト結果返却の時、ちらっと見えた」
「嘘つけ! 見えるわけないだろ! テスト結果は冊子だぞ、冊子!」
下手な口笛を吹いてごまかそうとする西園寺さんを横目に、青田は真剣な表情でぼくの顔を一直線に見た。
「お前、落書きの話って知ってるか?」
「落書きの話? 知らないけど?」
「落書きのあるところには落書きが増えやすいって話だよ。ポイ捨てなんかも同じだな。ゴミがたくさん落ちてるところほど、さらにゴミが捨てられて汚くなっていく。つまり、汚いところには汚いものが集まって、悪いところには悪いものが集まっていくって話だよ」
「ああ、それなら聞いたことあるよ」
ぼくは適当に腰を掛けるところを探しながら頷く。
ネムとかいう男が自分の対面に座るように促してきたが、ぼくはそれを無視して、代わりに西園寺さんの近くの椅子に座った。
「あーあ、みんなして白雪さんの方ばかりに行っちゃうよ。言っておくけど、その女の子は美人さんでも、暴力を振るう美人さんだよ。氷の女王だよ」
「その氷の女王って何ですか?」
ぼくは質問した。
「仇名みたいなものだよ。白雪ちゃんは将棋の女流プロで、現在女王なの。で、ぼくら悪魔の間では、彼女が氷の使い手ってことと掛け合わせて、氷の女王様と呼んでいる」
「――なんというか、西園寺さんが将棋のプロってことよりも、女王って呼ばれてることの方が衝撃的」。
「おい、話を戻すぞ」
青田は咳払いをした。
「悪いものが集まる場所には、悪いものが集まりやすい。この法則は人間にはもちろん、悪魔にも成り立つ。そして、この都市社会において、人口の多い都市部に人口の集中が起きているように、悪魔たちも悪魔がたくさんいる場所に集まる」
「君の言いたいことが分かってきたよ。つまり、ある一つの街に悪魔が集まるのはよくないってことだよね?」
「芦川。頭の回転が速くて助かるよ。そう、その通りだ。最初、白雪がお前を殺そうとしたのも、この街で増殖の一途をたどる悪魔の数を押さえるためだってわけだ。悪魔が増えすぎると、ろくなことにならない」
「でも、いいのか? ぼくは生きてるぜ?」
「なに? 死にたかったの?」
西園寺さんは冷たく疑問を投げかけた。
「別に、そういうわけでもないけど」
ぼくはあやふやな返事をする。
正直、どっちでもよかった。妹が死んでから、生きる意味なんてほとんど失ってしまった。
「悪魔のぼくがいうのも変な話なんだけどさ。悪魔って奴はろくでもないやつが多くてね。ぼくや夢ちゃんのような高レベルの悪魔は知能もあって大人しいんだけど、低級の奴等は人に憑りついたり動物に憑りついたりして、それでもって悪さを働くから、さあ大変」
「悪魔のあなたが、人の心配する必要はないでしょ? いいじゃないですか、悪魔が暴れても。それで、人が困っても」
ぼくの言葉に、ネムはノンノンと首を横に振る。
「悪魔祓いって知ってる?」
「いいえ」
「奴らに目を付けられると面倒だからね。低級たちに暴れられると困るんだよ。ぼくら悪魔も、君たち悪魔憑きも」
男は含みを持った言い回しをして、悪戯っぽく微笑んだ。
その陽気な眼に、一瞬だけ殺気がこもったのをぼくは見逃さなかった。きっと、その悪魔祓いとの間で、色々と死線を繰り広げてきたのだろう。
「そんなわけで、新しく悪魔憑きになった君には、悪魔の能力を制御できるようになってもらわなくてはいけないのだよ。そこの青田君のように――」
ネムは挑発するように眉を吊り上げて、ベッドで横になっている青田を足の親指で指した。
「なにかの拍子で悪魔に心を乗っ取られて、人を殺しちゃう――みたいなことになったら困るわけだよ」
「ぼくなら大丈夫ですよ。短気ではありませんし、人に何度も殴られて黙っているほど弱腰でもありません」
「おい! お前、喧嘩売ってんのか? てか、間違いなく売ってるよな!? 決闘だ!」
そう言ってベッドから起き出そうとする青田だったが、座ったままの西園寺さんに片足で上体を押さえつけられて身動きが取れないらしい。
なるほど、これはたしかに女王様だ。と、思ったが口には出さなかった。
「じゃあ、さっそく修行をしてもらおうかな」
ネムのさりげない一言に、ぼくはハッと声を漏らした。
「なに? どうしたの?」
「学校に行かなきゃ」
「今まで散々サボってたやつが、何をいまさら……」
青田がやれやれと肩をすくめた。
さらに畳みかけてくるように、西園寺さんが人を馬鹿にしたような目線を向けてくる。
「ただ修行するのが嫌なだけでしょ。さすが、引きこもり系悪魔に憑りつかれた人間は違うわね。ゆとり度合いが私たちより全然違うわね」
「いやまあ、それもあるけどさ」
ぼくは言った。
「実は、悪魔の制御の仕方って、少しだけ教わったんだよね」
「え、誰に?」
西園寺さんは目をきょとんとさせて首を傾げた。
白くて細いうなじが制服の襟元からのぞく。
「誰って……。夢さんだけど」
「ハ? あいつが? いつ、どこで?」
「夢の中で、だけど」
ぼくのその言葉に、場の空気が一瞬だけ凍りついたような気がした。事実、ぼくのその一言の後に、喋り出そうとする奴は誰もいなかった。
「え? なんか、マズかった?」
ぼくは恐る恐る尋ねてみる。
「――いやね。夢ちゃんって悪魔の中でも変わっててさ。ちょっと前にも言ったけど、彼女、基本的に無口だし、人間とも悪魔ともあまり関わろうとしないんだよ」
ネムは乱れた自身の頭髪を少し困ったような顔つきで掻きむしりながらそう言った。
「え、それって普通のことじゃないの?」
ぼくのその台詞に、青田は大きくため息を吐く。
「俺も悪魔とはできるだけ関わりあいたくはないが、せめて人間とは関係を持とうぜ」
「もしかすると、そういう君に彼女は魅かれたのかもしれないね」
ネムはやたら愉快そうに唇を歪ませてから、軽く目を細めた。
「夢魔である夢ちゃんが人間に夢を見せるなんて、多分、初めてのことだよ」
「人の夢に現れない夢魔って、それって夢魔っていうのかな……? そもそも、夢魔ってようするにサキュバスってことだろ? 別に、その、なんというか……、性的なことは何一つされなかったんですけど……」
「なんで、少し残念そうなのよ。変態」
西園寺さんが汚物でも見るかのような顔つきをする。
「言ったろ? 夢ちゃんは人間とあまり関わろうとはしない。つまり、人間は別に好みでも何でもないんだ。彼女が人間に夢を見せたり、性的な悪さをしないのは、すなわちそういうこと。君だってメスの悪魔と性的な取引なんてしたくないだろ?」
「もしかして、人間の女を悪魔だって言ってるのかな? てか、悪魔ってもしかして私のこと? 喧嘩売ってるのかな? 指、もう一本くらい折っとく?」
西園寺さんが、ネムに笑顔を向けた。
「やっぱり、白雪ちゃんは悪魔だよ――って、そんなこと一言も言ってないじゃん! ちょ、ほんと、止めて! 読解力をもうちょっと鍛えて!」
ネムに襲い掛かる西園寺さん。
ネムはホテル内をドタドタと駆けまわる。この時、彼は初めて立ち上がったわけだが、そうしてみるとその身長の高さに驚く。軽く180センチは超えていそうだし、足が長くてモデル体型と言えなくもない。
しかし、体格はいいのに、その風貌がだらしないから、結局ただの老けた大学生くらいにしか見えないわけだが。
――おもむろに、電話のベルが鳴る。
現在、西園寺さんがホテル内で暴れているので、下の階の客人からフロントに苦情でもきたのだろう。
「電話出たらどうだ?」
ぼくは青田に言った。
電話はベッドのすぐ横にあるので、自然な流れで面倒ごとを彼に押し付けられる。
「俺は出ないね。絶対嫌だ。例え、死んでも嫌だ」
彼はなにか、電話にトラウマでもあるのだろうか――。
いや、ただ面倒くさいだけだろう。
「じゃあ、ぼくは学校に行くよ。修行は――しなくていいだろ?」
「うん、構わないよ。どうやら、ぼくの気遣いはいらないお世話だったらしい。君の面倒は夢ちゃんが看てくれると思うよ」
よかったネ。と、ネムは下手くそなウインクを投げてくる。
その表情は、西園寺さんに殴られている最中だというのに、楽しそうににやにやとしていて、まるでバレンタインチョコを貰った友達をからかう男子中学生のようだった。
そして、ぼそっと
「爆発すればいいのに」
と、青田が呟いたが、優しいぼくは聞かなかったことにした。
後ろを振り返らずそのまま広間を出て、部屋を出ようとドアノブに手をかけると同時に、ガチャリと扉が勝手に開いた。
「ヒロロ、学校は? たった今、電話したのに出なかった」
驚いたことに、目の前には夢ちゃんが立っていた。
「ねえ、そのヒロロって誰? ぼくの名前、ヒロトなんだけど」
「ヒロロ?」
「――うん、まあ、それでいいや」
自分の名前なんてどうでもいいか。と、無理やり自分を納得させて、ぼくは彼女に促されるままに部屋を出た。
「大丈夫?」
彼女はちょこんと小首を傾げて尋ねた。
「うん、なんともないよ」
「あの人たち危険。西園寺白雪も当然、だけど、あの悪魔は基本的に優しいけど本当はとっても危ない」
「あの悪魔ってネムのことか?」
「うん」
彼女は首を小さく縦に振った。
「彼はS級の悪魔。ヒロロなら5秒、私なら1分で殺せる。恐ろしい」
「そんなの、誰だって同じだよ。人間だって銃器を使えば、ぼくを一瞬で殺せる。問題は殺傷能力の大きさじゃなくて、その能力を使うかどうかだろ。そういうわけで、西園寺さんはともかく、ネムは危険とは思えない。それよりも、ぼくにとっては君の方が怖いけど」
そう言って再び、屋上から突き落とされたことを思い出す。
背筋の方から血液が逆流するようなあの感覚は今思い出してもでもゾッとする。
「――ごめんなさい」
夢さんは正面を見据えたまま素直に謝った。
「あの時、西園寺白雪は気づくのが遅れたけど、青田君が悪魔化しかけてた。ヒロロならなんとかできるかと思って」
「なんとかって……。ぼくには無理だから」
ぼくがそう言うと、夢さんは少しだけ怯えるように、小さな指でぼくの右手を軽く掴んだ。その指先は冷たくて、体温なんて微塵も感じられない。
身長の低い彼女は、そのままぼくを見上げて、その大きな赤い瞳を真っ直ぐに向けて来た。
「私がなんとかできるようにしてあげる」
「いや――、いいよ。ぼくは悪魔と戦うつもりなんてない」
ぼくが拒絶の意を示すと、彼女はそれを許さないとでも言うかのように、今度は力を込めて手を握ってきた。
「ヒロロのお願いをなんでも一つだけ聞いてあげる。だから、私のわがままも一度くらいは聞き入れて欲しい」
純粋な目を向けられて、そんなことを言われてしまうと、ぼくも断れない。
「わ、分かったよ」
「じゃあ、また夢の中でね」




