絵に描いた宇治金時は食べられない
本日は晴天なり。白いスケッチブックのページに、太陽の光が反射して眩しい。
先ほどから何度も鉛筆の先で叩いているせいで、白いスケッチブックのページには黒い点がまばらに散っていた。
それも仕方がない、わたしは今何を描こうか迷っているのだから。
眩しさに目を細めながら目の前のグラウンドを見つめてみる。
グラウンドに散らばっている野球部員の誰かが気が付いたら、きっと睨まれていると錯覚することだろう。
しかし幸いにも遠くにぽつんと佇むわたしの姿など誰も気が付く様子が無い。
それでいい、このまま彼にも気が付かれずにわたしはひっそりとここで絵を描くのだ。
それにしてもグラウンドに彼の姿がない。
彼はいつもあずき色のジャージを着ているのだが、グラウンドにそのあずき色は見当たらない。
どうしたことだろうか。
「ねえ」
グラウンドを見つめていると、ふいに声がかけられた。
視線を声のした方へ向けてみれば、居た。
彼だ。
彼はあずき色のジャージの袖をまくり、ズボンの裾もたくしあげている。
脇には彼がいつも引っ張って走っているタイヤを抱え、魅力的に笑っている。
彼はおもむろに空を指差した。
「空、描いてるんじゃなかったっけ、キレイだよ」
そうして魅力的に笑って、そう言うのだ。
なんということだろう、彼は知っていたのだ。
わたしのスケッチブックの中身を。
空と、木と、電信柱と、グラウンドと。
それから、タイヤを引っ張る彼の姿と。(もっとも彼の足りない視力と頭では空しか認識できなかったらしい)
彼は言いたいことだけを言うと去っていった。
わたしの目にはいつまでもあずき色が残っている。
そうだ、宇治金時を描こう。
彼は宇治金時が好物だろうか。
「で、どうしてスケッチに出かけて宇治金時を描いて帰ってくるんですか」
「それはあれです、恋してたからです」
「恋は盲目と言いますが、あなた本当に視力を無くしたんですか」
「嫌だな、今わたしにははっきりと静かに怒っている先生が見えます」
「怒っているとわかっておいてその態度ですかいい度胸だコラ」
▼
わたしはわたしの描いた宇治金時が気に入らず、宇治金時を極めることにした。
スケッチをするなら実物を目の前に置くのが定石なのだけど、いかんせん宇治金時は溶ける。
仕方なく写真を目の前に置いてスケッチを開始するのだけど、やはり写真だとなんというか、実物感も無いし立体感も無く、どうにも難しい。
そうだ、場所が悪い、とわたしはフォトフレームに飾った宇治金時の写真とスケッチブック、それから色鉛筆を持って美術室を飛び出すことにした。先生はいない、今がチャンスだった。
いつもの場所にやってきた。野球部員の散らばったグラウンドが見渡せる。
あれに見えるあずき色は彼だ。今日も今日とてタイヤを引っ張って走っている。
彼の観察もそこそこに、わたしはその場に座り込んだ。フォトフレームを地面に置く。しまった、はるか下にあるフォトフレームは見づらい。仕方がないのでわたしはそれを左手に持つことにした。あぐらをかいた上にスケッチブックを置いて、それを左上で抑えながら腰をかがめる姿勢をとる。姿勢が悪いけれど仕方がない。こうしたほうが集中もできる。
わたしは宇治金時の写真をじっと見つめる。
涼しげなガラスの器からはきれいな楕円が半分だけ顔を出している。その楕円は真っ白な体の半分を抹茶色に染めている。そしてそのてっぺんにはこれでもかとばかりの煮たあずき。形をきれいに残したあずきの粒はひとつひとつがしっかりとしていて、それでいて光沢があるさまは美しい。
わたしはそのあずきに夢中だった。それを見つめているだけで何時間も過ごすことができそうだった。
おいしそう、とかではない。ただただそのあずきがきれいで、美しくて。それでいて愛おしくて。
「大丈夫?」
そう声をかけられるまで自分がぴくりとも動いていなかったことに気が付かなかった。
慌てて体を起こすと、痛かった。特に腰と首が。思わず首の方を抑えて痛がっていると、声がもう一度「大丈夫?」と声をかけてきた。
声のしたほうを見ると、彼だった。あずき色のジャージを着て、タイヤを抱えていないと思ったら足元に置いてあった。
「ごめん、うずくまってたから、体調悪いのかと思って」
彼はほんのり手入れの跡がうかがえる眉を八の字にして、いかにも心配という顔をしている。わたしは痛む首を押して顔を左右に振った。それから小さく「大丈夫」と言葉で意思表示する。
そうすると彼は眉をもとに戻し、ほっとした表情で笑った。
「よかった」
その笑顔はやはり魅力的だった。
それから彼は空を見上げた。
「今日は曇ってるけど、空、描いてるの?」
空を見上げた彼はそう聞いてきた。本日は曇天なり。
どう答えようか迷ったけれど、今日は空を描いていないのは事実なので顔を横に振ることにした。
それから左手に持っていたフォトフレームを差し出してみる。彼はそれを受け取って、あ、今手が触れた。
「えーと、宇治金時?これ描くの?」
わたしは「そう」とうなずいてみせる。彼は宇治金時の写真をまじまじと見つめている。あずき色があずきを見つめているさまが少しおかしくて笑いそうになる。わたしは両頬の内側をかみしめた。痛かった。
「へえ」と感嘆の声を漏らして、彼は笑った。
「面白いね」
わたしの方を見て、魅力的な笑顔を見せたのだ。
そしてわたしへフォトフレームを差し出すと思いがけないことを言う。
「ねえ、描けたら見せてくれる?」
あまりの衝撃にわたしは差し出されたフォトフレームを受け取ることなど頭から抜け落ちてしまった。彼が「あ、見せなきゃ返さないなんてことは言わないから大丈夫」と言っている。それでもわたしの手は動かなかった。緊張のせいだったのかもしれない。いいよ、とか、わかった、とか言いたいのに言えない緊張だった。だってそれを言ってしまえば、また彼と言葉を交わすことになる。それは嬉しいのだけれど、その反面緊張するのだ。なぜ緊張するのかって、それは、惚れた相手なら当然だろう。
「ね、お願い」
どうして彼はそんなに食い下がるのだろう。やはり彼は宇治金時が好物なのだろうか。絵に描いた餅は食べられないというのに。
そんな顔でお願いされたら断れるものも断れない。まして惚れた相手ならなおさらだ。
わたしは勇気を振り絞ることにした。「いいよ」と口に出した言葉は小さな声だった。それでも彼はひろってくれた。魅力的に笑ってくれた。
それからようやくフォトフレームを受け取ることができた。
あ、また手が触れた。
「ただい」
「おかえりなさい」
「ごめんなさい」
「何を謝っているんですか、スケッチに出かけたのでしょう?ほら、成果を見せてごらんなさい、ほら、さあ」
「ほんとすいませんでしたしばらくは部室から出ないのでほんとすいませんでした」
「わかればよろしいんですよ、反省が見られて先生嬉しいです」
「反省じゃなくてのっぴきならない理由があるだけなんですよ」
「あなたはいつも正直ですねいい度胸だコラ」
▼
彼を初めて見たのは入学して間もない頃だった。美術部の新入部員に課されたスケッチという課題を達成するために訪れた、グラウンドを一望できる場所だった。グラウンドに彼は居た。
彼はいつもあずき色のジャージだった。それでグラウンドをタイヤを引っ張って走っているのだった。
わたしはその風景をスケッチした。青い空。広いグラウンド。高いフェンス。木。電信柱。それから、タイヤを引っ張るあずき色の彼。
その頃の彼は良くも悪くも普通だった。人間関係も普通だったし、勉強の成績も普通なら陸上部の部員としての成績も普通だった。
けれど彼は毎日走っていた。あのあずき色のジャージで、タイヤを引っ張って走っていた。わたしはそれを毎日見ていたのだから間違いない。たぶん彼の努力だけは普通ではなかったのだ。だから彼はどんな空の日でも走った。どんなに短時間だったとしても走った。わたしはそれを見ていたのだからやはり間違いないのである。
2年生になっても彼はまだ普通だった。
あずき色のジャージはすっかり色あせていたのだけれど、5月の大型連休が明けたころ彼のあずき色のジャージは色鮮やかなものに変わっていた。目がくらむほどのあずき色だった。あいにくの雨天の中、おろしたてのあずき色したジャージで走る彼をわたしは描いた。黒い空、激しい雨、濡れたグラウンド、さびたフェンス。おろしたてのあずき色は色の無い世界の中でひときわ輝いていたのだった。
2年生の終わりに彼は県大会の表彰台に立った。
彼には友達が増えた。人の輪の中心にいることが増えた。そのせいでわたしは彼の姿を遠目から眺めることが難しくなってきたのだった。それでも、グラウンドを走る彼を見るときだけはそのあずき色を独り占めすることができたので別に気にはしなかった。
3年生になって彼は全国大会へと進出した。表彰台には上らなかった。
けれど彼は英雄だった。学校に垂れ幕が飾られたし、商店街にも横断幕が飾られた。彼はいよいよ人の輪の中心だった。陸上部の部長になったことも大きかったのだろう、校内で彼がひとりになるところを見なくなった。とうとう彼は普通ではなくなったのだった。
彼が普通だったころはもしかしたら、と思うこともあったけれど、こうなってしまってはもうそんな考えはどこにも無くなってしまった。あれはもうわたしとは住む世界の違う人間だった。もともと手を伸ばすつもりなんて無かったけれど、わたしはまったくそんな気持ちは捨てた。
けれど、遠くから眺めることはやめられなかった。それはつまり、好きでいることだけはやめられなかったのである。わたしはまったくそんな気持ちは捨てたと言いつつだいぶ無理をしていた。その無理を隠す様にわたしは空を描いた。グラウンドを描いた。高いフェンスを描いた。木を、電信柱を描いた。そして彼を描いた、あずき色のジャージを着て、タイヤを引っ張ってグラウンドを走る彼を、描いたのだった。
そのようにして描いた空の中から、一枚だけ大きな評価をもらった絵もあったけれど、それは彼に恋をしていたわたしにはどうでもよいことだった。そうではないわたしには一大事だったけれども。
とにかくつまりわたしとは別世界に住む彼は、わたしにとって絵に描いた宇治金時なのかもしれないということだ。
「もう一週間もスケッチに出かけていないなんて、もう十分に反省は伝わりましたから出かけていいんですよ?」
「だから反省じゃなくてのっぴきならない理由だって言ったじゃないですか」
「だってあなたもう一週間も空を描いていないんですよ、そろそろ禁断症状でも出始めるんじゃないかと心配しているんです」
「先生わたしをなんだと思ってるんですか」
▼
宇治金時が、描けた。やはり納得はいかない。
けれどもう二週間も彼を待たせている。彼に手を伸ばすつもりはないけれど、してしまった約束を反故にして平気でいられるほどわたしの面の皮はぶあつくない。
わたしはフォトフレームとスケッチブックと、それから色鉛筆を持ってあの場所へ向かうのだった。
本日は晴天なり。雲一つない青空だった。
「あっ」
声がした。彼だった。
「描けたんだ」
あずき色のジャージを着てタイヤを脇に抱えた彼はそう言って、魅力的に笑った。胸がきゅんとなった気がした。わたしはただうなずいてみせる。
彼が「とりあえず座ろう」と促してくるのでそれに従って座り込んだ。あぐらはかかない。彼はタイヤを地面に置くとあぐらをかいて座った。彼はそんなふうに座り込んだりするんだ、と思った。
「ね、見せて見せて」
彼がそう急かすのでわたしは少しだけ慌てた。スケッチブックのページをめくる手が震えるのはたぶんそのせいだった。宇治金時を描いたところをひらくと彼に差し出す。彼が受け取るが、手は触れなかった。
彼は受け取ったそれをまじまじと見つめる。「はあ」と感嘆の声を漏らしたのが聞こえた。やはりあずき色があずきを見つめているさまはおかしい。笑わないようにくちびるをぎゅっとまきこんだ。
「すごいね、キレイだし、おいしそう」
彼はわたしの宇治金時に対してそんな評価をしてくれた。けれどわたしはこれに納得がいっていないのだ。わたしはそれを彼に告白する。すると彼は目を見開いて「こんなすごいのに」と言った。彼は芸術には精通していないようだった。先生はこの絵に何かが足りないことを見抜いた、けれどそれを教えてはくれなかったということも彼に告白した。彼は「ほう」とため息を漏らした。
「芸術家って大変だね」
彼はそう言って、眉を八の字にして笑った。わたしは首を横に振った。
それから彼はもう一度宇治金時をじっと見つめた。スケッチブックを両手で持って、顔に近づけたり、遠ざけたり。そして彼はそれをずずいと上へ持ち上げる。
「あ」
彼が声をあげた。何かを発見したのだろうか、それとも何かに気が付いたのか。
彼はそのままの姿勢でつぶやいた。
「空だ」
彼のつぶやいた言葉はわたしのこころにするりと入ってきた。空だ。
気が付けばわたしは彼をじっと見つめていた。彼はそれに気が付いたからなのか、わたしにスケッチブックを渡してくれた。今度は、手が触れた。
わたしはさっそく色鉛筆の中から何本かの水色を取り出した。少しずつ色の違うそれをスケッチブックにこすり付けていく。迷いなく、何度も何度も。
「空と、それからグラウンドと」
彼の声が、なんだかとても近いところから聞こえる気がするけれど、足りないものを足すことに夢中になっているわたしはそれを気に留めなかった。もちろん、気にはなったのだけれどそれよりも空を、グラウンドを描くことに集中した。彼は続けた。木と、フェンスと、電信柱が足りないと言った。注文が多いな、と思いつつもわたしは描いた。なぜというと、わたしもそれが足りないと思っていたからに他ならなかった。
ついに完成した。
と、思った。思ったのだけれど、まだなにかひとつ足りない気がしてならなかった。わたしは考え込むあまり眉間にしわを寄せていた。
「どうしたの?」
とても近いところから彼の声が聞こえた。横を向くと、居た、彼が。
思わずとびのいてしまった。びっくりしたせいで心臓がどきどきしている。彼は「ごめん」と笑っているが、何に対してごめんなのか彼はわかって言っているのだろうか。すました笑顔からはそれはわからない。
わたしは彼から視線を外して地面を見た。
すると見えた。たぶん、わたしが足りないと思っていたものが。
わたしはさっそく書き足すことにした。書き足す場所は宇治金時のふもと近くだった。
「タイヤ?」
彼の声がまた近いところから聞こえた。それよりもタイヤを書き足すのに集中した。
そしてついに完成した。本当に完成した。
完成した宇治金時を眺めてみて、わたしは満足感を得ていた。他の人が見たならば、晴れた空、グラウンドに宇治金時がたたずむ変な光景だろうけれど、わたしにはこの光景がとてもしっくりくる。
「あー、すごいしっくりくる」
彼の声がとても近くで聞こえた。横を向くとまた彼が居た。またとびのくと、彼は「たびたびごめん」と笑った。心臓が落ち着かない。
「ね、見せて」
彼は魅力的に笑って手を差し出してきた。スケッチブックを要求しているのだとわかった。手が触れないように端を持って彼に渡した。彼はそれを受け取るとまたまじまじと見つめた。
「あー、おいしそう、なんか食べたくなってくるね、宇治金時」
彼はわたしにとって絵に描いた宇治金時だった。絵に描いた宇治金時は食べられない。
本物には手を伸ばすまいと思っていた。伸ばしたって届くはずがないから。わたしはそういう位置から動かなかったのだ。
「ね、宇治金時、好き?」
そしたらなぜか彼が近寄ってきた。わたしはまったくそんな気持ちは捨てたと言いつつやはり無理をしていたのだった。近寄ってた彼からわたしは逃げなかった。つまりそういうことである。
本当は手を伸ばしたかった。絵に描いた宇治金時ではなく、本物の宇治金時が食べたかった。
そしてそれはたぶん、今からでも遅くはない。
「あの」
わたしは声を出した。彼が驚いた顔をする。わたしは勇気を振り絞った。彼の顔をまっすぐに見る。
「良ければだけど、宇治金時、一緒に食べに、行きませんか」
彼は笑った。魅力的に、笑った。