六
明はいつものように店を開けた。
何が変わったということもない。常連の客がぽつぽつと顔を出しに来て、昼時だけ少し客が増えた。その客が引けて日が傾き始めたのを見て、今の内に店前に水を打っておこうかと考えた。
幸い、店内にいるのは気心の知れた相手であり、客というよりは知人、友人に近い仲だ。少しの間席を外しても問題はないだろう。
桶の準備をするため立ち上がる。
柄杓はどこに片づけたのだったか。思い出しながら桶に水を入れる。
波打つ水面に映る見慣れた無表情。両親や弟と似ていないとは言わないが、それよりもずっと祖父に似ていることに複雑な気持ちになる。
切れ長と言えば聞こえはいい瞳が、じっと自分を見上げている。
「打ち水、してきます」
一言だけかけて、外に出る。
途端襲ってきた熱気に思わず呻く。
なんて暑さだ。まだ春の終わりだというのに。今年は記録的な猛暑になりそうだと連日テレビで言っているのはどうやら本当らしかった。
景色が歪んでいるのは気のせいだろうか。強すぎる陽射しを掌で遮る。
ぱしゃり、ぱしゃりと水を打つ。
濡れたコンクリートからはすぐに蒸気が立ち昇った。
入口の前と、窓の外。
手早く終わらせたいのに、この暑さでは動きのひとつひとつが億劫になる。
たいして動いていないのに滲む汗を拭ってふと視線を上げると、小さな人影を見つけた。
道の真ん中にぽつんとふたり。背丈からすると、大きい方は小学生だろうか。
向けられた背が奇妙に小さく、寂しいもののように見えて、気づけば「ねえ」と声をかけていた。
「どうしたの、そんなところで」
びくりと子どもの肩が震えた。
驚かせてしまったのか。反省して、できるだけ柔らかい口調になるようもう一度声をかける。
「暑いんだから、せめて日陰に入らないと。具合悪くなるよ」
道に迷ったのだろうか。
困惑に染まった目でじっとこちらを見つめるのは、どうやら女の子のようだった。手をつないでいるのは彼女の妹だろう。どんぐりのように丸い瞳がそっくりだ。
姉と明を交互に見つめた幼い少女は、僅かの逡巡の後ゆっくりと口を開いた。
「ママをまってるの」
「お母さんを?」
「うん」
ぎゅ、と、繋いだ姉の方の手に力が入る。
それを見て、明はそっか、と頷く。
「でも、暑いでしょ。よかったら、中に入って。このお店の窓からなら、お母さんが来たらすぐにわかるから」
「……おねえちゃん」
「…………」
黙ったまま自分を見つめる少女の瞳を、明はそらすことなく見返した。
やがて、その瞳は伏せられ、小さく小さく少女が顎を引いた。
ぱっと表情を明るくして姉を引っ張る妹に合わせて、明が店のドアを開く。
中からこぼれる冷気に一瞬だけ身を震わせて、幼い姉妹が店内に入るのを見送る。
そうして、空を見上げた。
「……さて。どうするかな」
嫌になるくらい晴れた空は、ただ蝉の声だけを返した。
少女の名は姉がサヤ、妹がアヤと言った。
七つと三つだという二人は年齢にしては大人しく、静かだった。静寂に満ちた店内の雰囲気に呑まれたのかもしれない。前に置いたジュースにアヤは困ったような表情で明を見上げたが、ひと言「サービス。冷たいよ」と笑ってやればはにかんで口をつけた。サヤもそれに続く。
姉妹は揃いのワンピースを見に纏っていた。動きやすく柔らかい生地のそれは、ひょっとしたら部屋着かもしれない。むき出しの腕は明かりの少ない室内では白く浮き上がって見える。
子どもとはこんなに小さいものなのかと、感心しながら明は自分用のコーヒーを落としていた。従妹達の小さい頃を思い出そうとして失敗する。年齢がそこまで離れておらず、彼女達の幼い頃は自分も幼かったから記憶は曖昧なものしかなかった。同じ子どもの目線で見るのと、成長して大人の目線で見るのでは受ける印象が異なるせいもある。
少し手荒に扱うだけで折れてしまいそうな首と、そのわりに大きな頭。有名な某国民的漫画の主人公である主婦ほどではないが、よくあれで頭を支えられるものだ。人体というものはつくづく不思議に出来ている。
ちびりちびりと両手でカップを抱えて飲むアヤを、サヤが心配そうにちらちらと見ている。面倒見の良い姉なのだろう。かつての自分と従妹達を見ているようで微笑ましく、少し面映ゆかった。
母親を待っている、と少女達は言った。ならば、それまでここに置いてやるのが一度招き入れた者の義務だろう。いったいいつ母親が迎えに来るのかはわからないが。
店内にいた客のひとりが立ち上がる。テーブルにはいくつかの小銭が置いてあった。
いつも頼むものは同じなので、お釣りがない時以外は席にお代を置くのが常連客達のルールだった。基本的に面倒くさがりでものぐさな明をなるべく煩わせないようにとの配慮だそうだ。余計なお世話だと思いはするが、手間が省けるのは有り難い。
仮にも客商売だろう、と従兄などは顔を顰めるが、相手の好意からくる行いを拒んでまで余計な手間を増やす気は微塵もない。相手が好きでやっているのだから、どこにも問題はないのである。
カウンターに座っている姉妹が音につられてその方向を見る。
向けられた二対の瞳にその人物はへらりと笑って、人好きのする笑みを浮かべた。
「ごちそうさま、明ちゃん」
「お粗末さまです」
コーヒー二杯とスコーンふたつ。喫茶店で頼むにはらしいと言えばらしいものを毎度注文するその人物は、気の抜けた笑みのまま幼い姉妹に視線を移し、一瞬だけ目を細めた。
すぐに何事もなかったかのような表情に戻ったが、その変化に気づいた明は「怖がらせないでください」と諌める。
「この子たちは?」
「お母さんを待っているそうです」
「そっか。でも、今日はちょっと外で待つには暑いよね」
「ええ。だから、中に入ってもらったんです。ここで待てるように」
ふーん。納得したような、しないような声。
真ん丸などんぐりの瞳の一対が俯いた。もう一対も居心地が悪そうにうろうろと彷徨っている。
「白崎さん」
遠慮のない視線を送る男の名を咎めるように呼んでやれば、「あのさ」と今度は明に視線が動く。
「僕が引き取ろうか、この子達」
「……なに言ってるんですか」
「なにって。だって明ちゃん、子どもの世話下手そうだし、お仕事もあるじゃない」
「後者はともかく、前者は白崎さんに言われるのは心外です」
「えー。僕、これでも六人兄弟の一番上だったんだよ? 弟妹達で子どもの面倒は嫌ってほど見てきたんだもん。超熟練者じゃない。ある意味プロだよ、プロ」
「…………」
不安そうな瞳が向けられているのがわかる。
けれどここでそれを見返せば逆効果だろうと敢えてそちらに顔を向けることはせず、呆れたように返した。
「ご自分の格好を一度鏡で見てみたら如何です」
「格好?」
言って、白崎は自分の体を見下ろす。
首を後ろにひねって、両腕を上げ下げして。ぐるりと全体を見て、ひと言。
「普通じゃないかなあ」
「真夏に真っ黒のインバネスコート着てるクセに、よくもそんなことが堂々と言えますね」
それも、見たところ秋冬用の厚手の生地で作られたものだろう。
空調がガンガンに効いて寒いくらいの建物内ならいざ知らず、連日三十度を超える真夏日が続く中着るようなものではけしてない。
「とにかく、この子達は私が責任もって面倒を見ます。白崎さんはさっさとお仕事に行くなり帰宅するなりしてください」
「あ、ひどい。仮にも常連に向かって」
「常連だから言うんですよ」
そもそも、この店の常連客など大体がロクでもない連中ばかりなのだ。自分のやっている店に集まるのがそんなのばかりということはまったく不本意であるのだが。
白崎は暫し考えるようにそのままでいたが、どうにか納得したらしい。
ぽんぽんと少女二人の頭を撫でたのか叩いたのかわからない動作で触れて、ドアへと向かう。
「それでも、なにかあったら遠慮なく連絡してね。明ちゃんのためならすぐ来るから」
「なにもないとは思いますが、わかりました」
「まったく、頑固だなあ」
乾いたドアベルの音が響く。
遠ざかる黒衣はすぐに見えなくなり、明はすぐに視線を戻した。
そして、不安そうにこちらを見上げる少女達を口端を上げるだけの笑みで宥める。その効果の程は、肩に力が入ったままの姉妹を見ればすぐにわかる。
お世辞にも親しみ易い顔立ちではないことは自覚しているので、方法を変えることにした。カウンターから出て店内の一角に向かう。そこには、一見するとただのインテリアにしか見えないダイヤル式のレトロなテレビが置いてある。
スイッチを点ける。パッと現れたのは、出演者全員が貼り付けたような笑顔の通販番組だった。ダイヤルをひとつ回せば、今度は司会者に追従するように笑うバラエティ。
カチカチと回していって、子ども向けの番組の少なさにため息が出そうになる。
いや。明は考え直す。子ども向けがないわけではないだろう。ただ、明が幼かった頃見たような番組が減っているだけだ。時間も悪いのかもしれない。
最終的に地元の店や特産品を紹介するローカル番組にチャンネルを合わせた。音量は小さめだ。それでもこの小さな店内には十分。食い入るように見つめる二対の瞳を確かめて、カウンターに戻る。
最後まで残っていた客が帰る頃には、陽はすっかり落ちていた。
ドアに下げたプレートを「closed(閉店)」に替える。
ちらりと見た道には家路を急ぐ人の群れ。そこに、子どもを捜す母親の姿はない。
ひとつ息を吐いて、明は静かにドアを閉めた。