四
ガリガリと暗闇をかき、叩く。日に日に力は消えていくが、それでも全身の力で必死に声を張り上げた。
僅かな光も入らないここは、隅から這いずるようになにかがこどもに迫ってくる。初めは遠慮がちに姿を消していたそれは、今でははっきりと姿を見せてこどもの背後にいた。
あけて。こどもが叫ぶ。あけて、ててご、あけてくんろ。かか、かかにあいたい、ここはいやだ、いやだよお……。
瞳は乾き、流れる滴もない。
もとから細かった子どもの腕は骨に皮が張りついた、枯れ木よりもなお醜いものになっていた。足も同じだ。腹の下部だけが膨れ上がり、餓鬼のように異様な様相を呈している。
暗闇を叩く力は頼りない。叩くというよりは、拳を当てていると言った方が近いだろう。とうに爪は剥がれていたが、新しく作るだけの力はこどもの体に残っていなかった。指の先にたまった凝固した血も、固まっては剥がれ、剥がれては固まってを繰り返しているうちについになくなってしまった。
こどもがここに入れられた初めから、暗闇は少しも動かなかった。揺らがなかった。なればと声を張り上げても、暗闇のその先に届いているのかも怪しい。当然、声が返ってくることもなかった。
「あやかし」に捕まってしまったのだ。こどもは取りすがるようにして暗闇に体を預け、思う。あの時の嫌な予感は本当であったのだ。父親の姿をした「あやかし」についてきてしまったから、自分はこの暗闇に囚われてしまった。
村には昔からの言い伝えがあった。こどもを捕まえ暗闇に閉じ込める「あやかし」。母から、村の大人たちから、はては長老さままで、その言い伝えを口にしては言うことを聞かないこどもたちを叱った。そんなことをしていては「あやかし」が迎えに来ると。
こどもの中はそんなのただの言い伝えだと馬鹿にする者もいた。けれどそのこどもはある日村からいなくなっていた。「あやかし」が連れていったと、村の者を全員集めて村長が言い、恐怖に震えたのはそれほど遠い昔のことではない。
自分も同じように「あやかし」に捕まってしまったのだ。絶望を運ぶ考えに、心が震えた。否、心だけではない。体もだ。
その考えに囚われた瞬間、かろうじて残っていた力がこどもの体から抜けていった。そのままその場に倒れこむ。
優しい母が恋しかった。無口な父に会いたかった。遊んでくれることはなかったけれど、それでも嫌いではなかった兄たちに、嫁いでしまった姉たちに抱きつきたかった。――家に、帰りたかった。
こどもの家はけして裕福ではなかった。今年はいつもより稲の出来が良くなかったから、今度の冬を越すのもきっと厳しくなっただろう。家族全員寄り添いあってもなお寒い夜を、幾度も幾度も越えなければならないのだろう。けれどそれでも、こどもは家に帰りたかった。
だが、それは叶わないだろう。枯れたと思った両目から流れる滴で歪む視界を、ぼんやりと上向ける。
(……しね、ば……)
かさかさの唇が動くたび切れる。鉄の味が口内に広がるのを、人ごとのように感じていた。
(しねば……いえに、かえれる、かなあ……)
そうして、こどもは瞳を閉じた。
「壁を壊すぞ」
尾上の見解を聞いた最上の決断は早かった。
口には煙草を咥えたまま。依頼人の手前きっちりと締められていたネクタイはいつの間にか緩められている。僅かに乱れた前髪を鬱陶しそうに払いのける最上に対し、尾上は「そうですか」と淡々と応え懐から携帯端末を取り出した。
まるで大したことではないという二人の態度にぎょっとしたのは明だ。何を言っているのだと、最早興味をなくしたように煙草をふかす最上に詰め寄る。
「壊す、って。神社の壁ですよ」
「ただの土壁だ」
「神の社です」
意味があるのだと、明は思う。
そも、神とは一体何であるのか。この国ではその境目は曖昧である。
極論を言えば、祀られればそれであやかしものでも神になるのだ。退治されればあやかしだ。神社とは、ひとではないモノを神と成すための指標である。そう、明は思っている。
その社を壊すなど。祀られている神や信徒の有無以前に、あってはならない冒涜だと明は憤る。
「何を気にしてんのかは知らねえが」
最上が口から煙草を離す。
明を見下ろす瞳は冷徹で、無機質だった。
「てめえの役割は壁の向こうにあるモノを抑え込むことで、壁を壊すのに反対することじゃあねえ。黙って見てろ」
なにを見ているのだ、と問う声がかかり、明はふいと顔を背けた。
見ていたつもりはなかった。膝に乗せた資料はこの村に残る家系図や覚書をまとめたもの。たいした量ではなかったのですぐに読み終わってしまい、ぼーっとしていた。おそらくはその最中に、問いを投げた相手がたまたまその視界に入っていただけのこと。
自意識過剰だ、と鼻で笑ってやろうとして、するすると近づいて来る影に眉を寄せる。
女、なにを見ていた?
なにも。答えは口に出さず顔を戻すだけで伝える。
そう、なにも見てなどいない。勝手に視界に入ってきたのはそちらの方だ。咎められる謂われはない。
いっそ不遜なまでの態度で縁側に座る明に、影はくつりと喉を鳴らした。
見えるのか、女。我が見えるのか、我の声が聞こえるのか。
愉悦に満ちた声が、哄笑に変わるのに時間はかからなかった。
その段になってようやく、明は己の失態に気がついた。――目の前の存在は、普通なら見えてはならぬものであったのだ。
明にとって、普通ならば「見えてはならぬもの」が見えるということはあまりに当たり前のことで、見えないフリは難しい。注意しなければ、それが普通は「見えないもの」なのだと気づけないのだ。
影が揺れる。半歩ほどの距離にいる明にそれ以上近寄ろうとはせず、観察するようにゆらゆらと。
こうなれば開き直るしかない。ものごころついてから今までの経験でそう判断し、強く影を見据える。そこに恐怖の入り込む隙はない。
影は「善いもの」ではないようだが、「悪いもの」でもないのだろう。得体の知れぬものがここまで近づくことを許容しているのはその自分の判断を明が信じているからである。見る力、聴く力、そして力を感じる力、そのどれをとっても、祖父を除いた親戚の中で誰よりも秀でているのである。
逆を言えば、その明でさえ判断を誤らせるほど高度な擬態力を持っているのであれば、警戒しても無意味なのだ。圧倒的な力量差の前では、どんな抵抗も虚しい。
面妖な女よ。怯えも、泣きもせぬとは。久方ぶりに愉快な気分だ。ああ、そうとも。五月蠅い童どもの声も気にならぬ。
子どもの声。ぴくりと眉を動かした明に、影はにんまりと口角を上げる。
聞こえぬのか?あれらの声が。泣き、喚き、家を母を恋しがるその叫びが。これはますます面妖な。我が見え、聴こえ、けれど童の声は聞こえぬとは。
ああそれとも。影がひときわ大きく揺れる。
耳を塞いでおるのか?
ならば、手伝ってやろう。言った途端、影はぶわりと広がり明を包み込んだ。
上司である最上に呼びつけられた三浦正治は、きりきりと痛む腹を押さえ横にいる杉田亜紀をそろそろと見やった。
「亜紀さん……あのですね、今回呼ばれたのは俺だけで、その、亜紀さんは事務所で待機って最上さんに言われてるんですけど」
「そんなの知らないわよお。それにあたし、ここには仕事じゃなくてプライベートで来てるんだしぃ。旅行よ、旅行」
「こんななにもないところにですか」
「なに言ってるのぉ?なにもなくなんかないわよぉ。あたしの愛しのハルちゃんがいるじゃなーい」
あんたってホンット、馬鹿ねー。
くるくると指に髪を巻きながら、亜紀は手鏡を覗き込む。
車の中にいる頃からずっと念入りに化粧を直している姿はまさに恋する乙女だったが、残念ながら彼は男性である。
腹痛が増した気がする。きりきりどころかぎりぎりと悲鳴を上げる腹部を両手で抱え、ああ、と三浦は嘆いた。
どうして俺、こんな仕事してるんだろ。自問したところで答えはない。
小学生の頃、卒業文集に書いた将来の夢は警察官だった。中学では消防士。高校の時は……さて、なんと書いたのだったか。だが、自分が霊能関係の仕事に就くとは微塵も思っていなかったことだけは確かだ。
外見だけ美女が颯爽と石段をのぼっていく。おいてくわよお。間延びした声に三浦は呻くように返事をした。杉田亜紀という人間は、どこまでもマイペースだ。そこそこの付き合いがある同僚が見るからに具合が悪そうにしていても、相手を待ってやるなんて気遣いはない。そもそも心配すらしていないのではないか。
ぐっと足に力を入れて、三浦は横に置いておいた機材を持ち上げた。ずっしりとした重みにたたらを踏むが、遠ざかっていく亜紀の背中に己を叱咤して足を踏み出す。
最上は気が短いのだ。呼んだ覚えのない亜紀が三浦に同行していることに加え、その彼が亜紀よりも後に現れればどうなるか。自分の想像にぶるりと震え、三浦は足を速めた。なんとしても亜紀より先、いや、せめて同時に最上に会わなければ。
「ま、待ってください、亜紀さん!亜紀さんってばっ」
もちろん、亜紀が待つわけがない。
三浦は覚悟を決めた。こうなったら、どうにかして亜紀を追い越して彼より先に頂上へ辿り着くしかない。自分はもともとデスクワーク派で肉体労働には絶望的に向いていないが――それでも、やるしかない。
そんな部下の悲壮な決意を知るはずもなく、石段の最後の段を昇りきった時、崩れそうになる両足を引きずりながら近寄ってきた己の部下に、最上は奇妙な表情になった。
なにをそんなに鬼気迫っているのか。確かに長い石段ではあるが、そこまで必死になって昇るほどのものではない。三浦が運んできた機材だとて、成人男性であれば疲れはするが持って来られないものではないはずだが。。
軟弱な野郎だ。言葉の代わりに煙を吐いて、煙草を落とす。火は足で踏み消した。
「その行動は感心できませんよ、最上さん」
「うるせえ。てめえが拾っとけばすむ話だ」
「それもそうですね」
反論するかと思いきや、尾上はあっさりと頷いた。
吸殻を拾い上げ、携帯灰皿にいれる。手をはらったところで、ちらりと明がいる方角を見やる。
「明君は、煙草が嫌いですから」
「……なにが言いてえ」
「いえ、なにも」
最上は知っている。深慮から発していると思われる言葉にこそ内容がなく、反対にぽつりとこぼされる言葉にこそ裏の意味を込めている。尾上はそういう男だと。
「遅えぞ、なにちんたらしてやがる!」
「ひぃっ!す、すみません!」
大げさなほど肩を跳ねさせた三浦が、慌てて機材の準備を始める。
ヒールの音を鳴らしてちょうど今ここまで辿り着いた亜紀にぶつかりそうになって容赦ない蹴りをいれられている光景を、尾上は無表情で眺めた。手伝う気も助けてやる気も皆無だ。それは最上にも言える。
「明君が信じられないと言っていましたよ」
「今からやることがか」
「許可が出たことがそもそもあり得ない、と」
「ヤツの言いそうなことだな」
鼻で笑う。
「くだらねえ常識だのモラルだの、いつまでたってもうるせえ女だ」
「それが明君の美点なんでしょう」
僕たちには理解できない。付け足された言葉に、最上は無言で先ほど尾上が見た方向を一瞥する。そこには古びた神社がひとつ、黒い木々に囲まれていた。
「神の社だろうがどこだろうが、その先になにかあんなら、確かめるしかねえだろう。分厚い壁越しに中のもんがわかるってんなら話は別だがな」
「ソレがなにか、限りなく真実に近い予想ならできますが」
「予想は予想だ。事実じゃねえ」
「まあ、そうですね」
反対するだろう、との尾上の予想通り、明は反対した。だが、依頼主である初瀬の許可は下りた。行政の許可など、最上の古巣の力を使えばあってないようなものである。だから最上は事務所から三浦を呼び寄せ必要な機材を調達させた。明の反論など、端から聞く気はない。
「神社の壁を壊すからどうした。俺はそんなことより、その先にあるだろうものの方が罰あたりだと思うがな」
部下の予想が外れることがほとんどないことを知る上司は、そう言って社を見上げた。
傾いた日が長い影を作り、視界のそこかしこで揺れている。
先ほどの影はもういない。消えてしまった。あれがなんであったのか、明はわからない。調べるつもりもない。どうでもいいのだ。自分に危害を加えないのならば、ヒトでないものと関わるべきではない。
「誰も知らない小さな村。誰も外から訪れない、誰も助けに来ない村……か」
そんな村が、生きていくのも困難な状況――飢饉や、それに類する災害に見舞われればどうなるか。
全滅するしかないだろう。助けになど誰も来ない。領主ですら知らない村が年貢を徴収されることはない。けれど、国という大きな力に庇護されることもまたなかったのだろう。
それでも生きたいと、この葵風村は思った。だが、生きるためには食糧が、薬が、なにもかもが足りない。足りないのだ。山に分け入り木の実をキノコを山菜を集めても、冬になればそれも不可能となる。
足りない、足りない……苦悩する村で、初めにソレを思いついたのは誰であったのだろう。
足りないならば、足らせればいい。増えないならば、減らせばいいのだ。人の数を。
単純な思考だ。現代に生きる明には倫理観や常識が邪魔をしてけして選べない方法。けれど、江戸の時代には親の持つ正当な権利として認められていたという。古の時代そのままでたいした変化もなく時を重ねてきたこの村では、当たり前の方法であったのだろう。
そう遠くない場所から、男の情けない悲鳴が聞こえる。覚えのある声の気がするが、思い出せない。明の反対を無視し、壁を壊すと言ったのは最上だ。機械音もやんでいる。壁が、壊されたのだろう。
その先にいったい何人いたのか。明は瞑目する。
憐れむことも憤ることも、その時代を生きていない明には許されないのだろう。所詮恵まれた時代に生まれた人間だ。自らの手で殺さず重い石の扉の向こうへ閉じ込めたのは、実の子を殺すということへの躊躇いであればいい。影の残した記憶の中で、こどもはあれほど親を信じていたのだから。