表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

 こどもは父に手を引かれていた。


 (ててご、ててご、どこへいく)


 骨に皮だけが張り付いているような痩せた手。


 母の手のような柔らかさや包み込むような感触とは程遠いそれに、こどもは言い知れぬ不安に駆られた。


 (ててご、ててご、どこへいく、どこへつれていく)


 木の枝のような足を時にはよろめかせながら必死に動かすこどもを、父と呼ばれた男は無言で引きずっていく。振り向くことさえもしない。


 こどもは急に不安に駆られた。


 こどもの知る父親はけして饒舌ではなかったが、ここまで無口な人間でもなかった。言葉少なながらも母親とは会話をしていたし、こどもが話しかければ答えた。それが、今はただ無言で己の手を引いている。


 まさか、とこどもは思った。自分の手を引くこの男は、父親に化けた〈あやかし〉なのでは、と。


 じわりと背に汗がにじむ。考えてみれば、こどもは今日一度も父親の声を聞いていない。


 いやだ、とこどもは思った。父の姿をしたモノが進む先に広がるのは、ただただ暗い闇であったから。


 まるでこどもを呑み込もうとするかのように迫りくるそれに、ざわざわと木が不穏に騒いでいた。







 最上景司(もがみけいじ)の外面は一級品である。


 高級品ではないが安物でもないと一見してわかるそれなりに上質な背広を着崩すことなく。そこそこある上背も背中を曲げるなどの悪癖がないせいか実際よりもすらりとして見え、同時に足も平均よりは長く見える。顔立ちも見られないものではなく、人当たりも悪くない。それが初対面の人間の大多数が彼に感じる印象であろう。


 もちろんそんなものは最上が大きくて立派な猫を被っている時にしか見られないもの達であるため、彼の普段の姿を知る者達はその評価を聞くといつもなんとも言えない表情をする。敢えて言うならば憐れみと呆れと諦念とある種の尊敬の念であろうか。当然、その内で呆れだけは最上に向かう感情である。


 顔だけは整っている尾上には望むべくもない「うわべを取り繕う」という行為に長け直感と機転が利く最上と、閃きよりも論理に基づいた思考の展開を得意としトラブルが寄ってくるとまで称された尾上がいつどこで知り合ったのか、明はしらない。むしろ知りたくもないと言った方が正しい。


 ともかく、今現在その外面の良さを遺憾なく発揮している期限付き上司を尻目に、明は通された部屋から見える庭をぼんやりと眺めていた。


 山奥にあるせいだろうか。都会のように無粋なエンジン音も聞こえず、辺りは寂として沈黙を保っている。時折思い出したようにどこかで鳴く鳥たちや木々の枝を揺らす風も、明の見知っているものより随分と遠慮がちに思えた。


「それで、この方が」


 ふと、視線を感じた。


 室内に視線を戻せば依頼者だと思われる女性と最上、尾上までもが明を見ていて、ようやく自分に自己紹介を求められているのだと気づく。


神野(じんの)(はる)です」


 恐ろしく愛想のない自己紹介だった。直前に振られていた尾上もそうだったのだろう。苦笑じみた笑みを浮かべた依頼人に、最上が申し訳なさそうなフリをして眉を下げた。


「口下手な部下しかいなくて申し訳ないですが、愛想がないだけなんで勘弁してやってください」


 だけではないだろうと、明は尾上を視界の端に捉えて思った。自分はまだしも、尾上には一般常識と遠慮というものが欠けている。不本意だが五歳から幼馴染みをやっている自分が言うのだ。間違いない。


 初瀬(はつせ)奈々と名乗ったその女性は、目尻に僅かに皺が見えるだけのまだ若々しい外見をしていたが、なんと大学生の娘が一人いるらしい。若い母親だなと自分の母親を思い出して思っていると、自然、彼女の服装にも目がいく。


 落ち着いた色合いの着物の色は、確か朽葉色と言ったはずだ。地味な色であまり若い人には好まれず人を選ぶが、彼女は違和感なく着こなしている。


「依頼の方、確認させてもらってもよろしいでしょうか」


「はい」


最上の視線に促されるようにして、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。







 山間にひっそりと隠れるようにしてあるこの葵風(きのかぜ)村は、幕末の動乱とは無関係に、そして明治の維新とも無関係なまま大正、そして昭和の年を迎えた村であった。


 当然、村内に電気や水道が入っているわけもなく、欧州戦争、いわゆる第一次世界大戦の開始まで洋装の日本人というものを見たことがなかったそうだ。地図に載らない村として近隣では嫁いだ娘は戸籍を消されると揶揄されることもあったという。


 その在り方は、隠れ里と言った方がいいかもしれない。葵風村の土地はすべて初瀬の家のものであり、江戸の時代からこの辺りの山一帯もまた初瀬のものだった。


 村人同士がほぼ親戚というのも、昔ながらの閉鎖的な村落ではまま見られることである。血の遠近を問題としないならば全員が親戚であったらしい。


 初瀬奈々の母は、そんな村において初めての余所者であった。戦後の混乱期、都市部で食糧が不足したため彼女の母はその買い出しに来ていたのだそうだが、空腹のあまり力尽き、山道に倒れているところを青年だった奈々の父に助けられたのだそうだ。


 それが縁で夫婦になった両親であったが、他の村人たちの反応は冷淡なものだった。もとより閉鎖的な村のことである。今まで江戸の時代からずっと村内だけで結婚もなにもすべて済ませてきたというのに、そこにいきなり入ってきた奈々の母は異物でしかなかったのだろう。視線すら合わせず、誰もに存在しないかのような態度を取られたが、両親は奈々の目から見ても仲睦まじく、占領政府が行った農地改革で多くの土地を失った後も互いに助け合って生きてきた。


 やがて男子が産まれ、ついで奈々が生まれた頃には、村人たちもようやく母親を認めた。奈々がものごころつく頃には、母親が元は余所者だったことなど誰も気にしていなかったという。


 だからこそ、兄が村を出た後、奈々が村の男性と結婚して初瀬の家を継ぐまで、彼女はこの村の奇妙さに気づくことがなかった。


 村の西には、神社があった。こぢんまりとした、神主もいない小さな神社だ。農村であった葵風村では収穫の時と新年の時の二度村祭りが開かれる以外、特にあることを意識することがなかったそうだが、奈々がまだ子どもの頃などは村の年寄り達がよく参拝していた。そしてその神社に異変があったのは、長老と呼ばれていた老婆が息を引き取った、今から八年前のことだった。







「足もと」


 振り返りもせずに尾上が言う。


 気が遠くなるほど長い石段を昇り疲れ果てていた明が、その声にやっと顔を上げる。


「……足もとが、どうかしたんですか」


「石畳だな」


 こつりと靴音を立て、ふむ、と思案する。その表情は至極真面目だ。


 だが、明は知っている。これは単に気づいたことを言ってみただけで、深い意味などまったくないのだということを。


 もういい。もうこんな男に構うものかと視線を背けた明は、その先にある古びた建物に向き直った。


 天に伸びる千木は先端が周囲を囲む木々の枝に隠れ、外陣の床はすり減って内側の木の面を剥き出しにしている。


 黒と見紛う焦げ茶の木目は、この神社が歩んできた長の年月を物語る。壁はところどころ苔むし、背高な木々が作る影が鬱蒼とした雰囲気を醸し出している。


 農村にある神社などみなこのようなものなのだろうが、長く人の手が入っていないだけでこれほどまで如何にもな様相になるものなのかと、明は感嘆とも呆れともつかない息を吐いた。


「内陣の立ち入りは許可されているんだったな」


「ええ」


 神社のうち、一般客が参拝する場所を外陣、神体の置いてある場所を内陣と呼ぶ。


 通常なら神主の家の者でもない明達が入れるはずもないのだが、この神社にはそもそも神主というものがいない。


 最後の神主が亡くなってから後を継ぐ者もおらず、八年前に唯一この神社の世話をしていた老婆も亡くなってからは、うち捨てられたままだったのだ。


 かと言って、普段なら足を踏み入れることすら許可されない場所なのだと思えば躊躇もする。どうせ神体のいない神社だからと初瀬は笑っていたが、神を信じているか否か以前に培われた常識として抵抗がある。だが。


「明君は来ないのか」


「行きますよ」


 躊躇などという言葉とは無縁の男がさっさと先に行くのに、明は投げやりにそう答えた。尾上は常に飄々とした男であるし、そもそも宗教に熱心なように見えないが、こういうところの潔さは彼の場合無頓着と評するべきだろうと思う。


 真冬には雪が積もることもあるという葵風村は、丁度今頃が一番夜冷え込むのだそうだ。雪が降ったとしてもせいぜい靴底の厚さと変わらない程度の土地で生まれ育った明は知らなかったが、いっそ雪が積もってしまった方が寒さも和らぐのだと聞いて驚いた。ロシアの方になど行けばまた違うのかもしれないし、気のせいかもしれないのだけれどという注釈つきだが、地元の人間が言うのならばそうなのであろう。


「ここは住吉造だな。中央に入口がある。ぼろぼろではあるが、置き千木も見事だ。昔は相当立派な神社だったようだな」


「……専門用語ばっかり言われてもわかりません」


「住吉造は寺社の造の一種だ。住吉大社のものが有名だからそう呼ばれている。置き千木はあそこにある屋根の交差した木のことだ。単に千木とも言うな。まだ技術的に垂木や破風板の端を切り揃えられなかった頃、それらが延長されて棟から突き出たものがそもそもの始まりだ。ある時期から建築の様式としてわざとそうされたもので、中でも置き千木はそう見えるように木組みが置かれたものを特に言う。破風は屋根の上部、三角のところにある装飾のことだ。ついでに言うと棟木の上に装飾用に横たえてある木が鰹木。形が鰹節に似ているだろう」


「…………」


「日本人ならば知っていて当然だと思うが」


 相変わらず役に立つのか立たないのかわからない知識だけは豊富な幼馴染みである。そして一言多い。


「私、尾上さんは探偵をやってるんだと思ってました。最上さんと一緒に」


 さび付いた戸の鍵をどうやって開けようかといじっている尾上の後ろで、手持ちぶさたなまま訪ねてみると、尾上が唇の端を微かに持ち上げた。


「これ、まるっきり拝み屋じゃないですか」


「否定はしないな」


「心霊現象、信じないんじゃなかったんですか」


「昔の話だよ、明君」


「高校まで言ってましたよね」


「つい最近の話だな」


 図々しい。明は三十を間近に控えておいてなおそんなことをのたまう男を半眼で見やる。


「若さとは無知と同義だ。そうじゃないかね」


「でも、年をとっているからといって物知りとは限りませんよ」


「それも道理だ。人間というものは、真実を知ることはないのだから。つまりは無知の知。その自覚こそが肝要なのだよ、明君」


「ソクラテスに怒られますよ。誤魔化さないでください」


「やれやれ」


 今日はやけにつっかかるなと思いながら、尾上は腐食した錠前を叩く。


「明君、君は大切なことを忘れている。僕は心霊現象を信じないと言ったんじゃない。自分で見たもの以外は信じないと言ったんだ」


「それは、普通ですよね」


「そうだ。普通のことだな。 開いた。入ろうか」


 ぎ、ぎ、ぎ、と耳障りな音とともに、戸を横に滑らせる。油が長いことさされていなかったせいで、立て付けが悪い。仕方のないことだが、無駄に力がいるのはあまり歓迎できなかった。外陣と内陣の間を仕切る板扉も似たようなものだ。


 神社の中は狭く、あまり奥行きもない。ほとんど一間しかないようなものだ。板扉も意味があるのかどうか怪しいくらいで、そして案の定、内陣にはなにもなかった。本当に神体のない神社らしい。


 あまりの狭さにか、尾上が目を見開いた。と言っても僅かな変化だが、表情筋を動かすことが滅多にない彼にしては珍しい。


 今度こそ本当になにやら考え始めた尾上を置いて、明はとりあえず窓板を上げた。盛大に埃が舞い冷たい風が吹き込んでくるが、埃臭さの方が堪え難い。


「で、哭き面がこれですか。能面ですね」


「真蛇の面だな。神社に置くような面ではないだろう」


「見るからに般若面ですね……なんで耳がないんですか?」


「般若面、いわゆる鬼女の面の一種だが、それはそもそも嫉妬に狂った女の顔を表したものだ。嫉妬の度合いによって色々種類があるんだが、明君の言う般若面は上から二番目ぐらいだな。有名な源氏物語の一節『葵の上』で使われるのは泥眼と言う。高貴な美女に使う面だ。対してこの真蛇は最も嫉妬の念が強いと言われている。もうほとんど鬼と変わりない。耳がないのはもはや聞く耳を持たぬ、という意味だというのが一般的な見解だ」


 確かに神社に置かれているような面ではないな、と明は思った。ついで、やはり無駄に知識が豊富な尾上に感心する。


 そういう知識を集めるならば、それより先に常識や良識、はたまた幼馴染みに対する遠慮などを知ってもらいたいところだ。


「これが夜泣けば恐ろしいでしょうね」


「ただでさえ能面は不気味な印象がある。おまけに鬼女の面だからな」


 最初にそれに気がついたのは、七歳の女の子だったという。


 友達と隠れんぼをしている最中、この神社に入ったその子どもは、板扉の向こう、内陣の方から人の声がするのを聞いた。まさかもう他の子が隠れているのかと思い耳を澄ましてみたところ、どうにもその声は泣いているらしいということがわかり、様子を見に行った。


 哭するとは大声で泣きわめくということ。まさにその言葉通り面のかけられた壁の向こうから聞こえる哭き声に、女の子は怖ろしくなり逃げ帰ったのだそうだ。


 それはさぞ怖ろしかっただろうなと、明はぽっかりと空いた面の眼を眺め思う。


 昼間でさえ薄暗くどこか不気味な雰囲気を持つこの神社に隠れようとするとはなかなか肝の据わった子どもだが、そんな如何にもな場所で如何にもな体験をするなど考えてもいなかったに違いない。


「なにか変わったところはあるかね」


「別に、ふつーのお面だと思いますけどねえ」


「ふむ。僕は見えない人間だからいまいちわからないが、明君は見えるんだったな。信用しよう。他に気になったことは」


「ずいぶんと狭い神社だな、ってくらいです」


 言って、まあ神社の中に入るのなんて初めてですからわかんないですけどね、と肩をすくめる。比較対象がないのに狭いと断言するのもどうかと思ったのだ。


 だが、尾上は明の言葉にやはりと頷く。


「明君、神社の造りの話はさっきしたな」


「されましたね」


「内陣、外陣という言葉は?」


「知ってます」


 そのくらいは知っている、と少々むっとしながら言うと、なら、と尾上は能面の前に立つ。


「一般的に、内陣と外陣の奥行きは二間だということは?」


「え?」


「明君の言うとおりだということだ」


 尾上が面に手をのばす。


 簡単に外れたそれを興味なさそうに見て、明にそれを放った。


「な、なに投げてるんですか!」


「明君なら受け止められると思ったから投げたんだ。親友のことを信頼しての行動にそんなに目くじら立てないでくれないか」


「誤魔化そうとしたって無駄ですからね」


 じとりと睨み上げる明に、尾上は少し笑った。


「明君は相変わらず面白いな。最上さんも連れて来てあげればよかった」


「喧嘩売ってるんですか、尾上さん」


「そういえば、いつから明君は僕のことを名字で呼ぶようになったんだったかな。仮にも親友に名字で呼ばれるとは情けないんだが」


「それで! なにがわかったんですか」


「そうだな、その話をしていたんだった」


 苛々と靴で床を叩く明などお構いなしに、尾上はこつこつと壁を叩く。


「不自然に狭い内部。壁の向こうから聞こえる泣き声。……単純と言えば単純だな。最上さんが来なかった理由もわかる。明君を連れて来たのは万が一の保険か。最上さんらしい」


 こつり、奇妙に響いた叩音に、尾上は明を振り返る。


「この向こうにもう一部屋ある。……そこに、なにかあるだろう」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ