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「先輩……勘弁してくださいよう。なんで最上さんをさらに苛立たせるようなこと言うんですかあ」


「む。その声は亜紀(あき)君だな」


 鼻にかかったような甘えた声に、尾上は閉じていた瞼をぱちりと開いた。


 そして、思った通りに明るい茶の髪をした化粧も髪型も完璧な装いの相手に、何度か瞬きを繰り返す。


「聞いてるんですかあ、もうっ。最上さん、怒って出ていっちゃったじゃないですかあ」


「いつ戻って来たのかね?」


「ついさっきですよお。最上さんと尾上さんのやり取りは、三浦さんから聞いたんですう。っていうか、話聞く気全然ないですねえ」


「いや、聞いている。そうだな。その語尾をいちいち伸ばす話し方を改めてもらえばもっと聞きやすいのだが」


「最上さんにもよく言われますけどお。だめですよう。これ、あたしのアイデンティティですからあ」


「残念だな」


 ソファで仮眠を取っていたせいで外していた眼鏡をかける。


 明瞭になった視界には、亜紀と自分以外誰もいない事務所が目に入り、尾上は僅かに首を傾げた。


「他の皆、というより、最上さんと三浦君は?」


「なんだかあ、電話が来て出て行っちゃいましたよお。あたし、お留守番頼まれたんですう」


 お留守番。繰り返す尾上に、亜紀は「そんなことよりぃ」と唇に笑みを刷いた。


「やっぱり、ハルちゃんは尾上さんの言うこと聞いてくれなかったんですねえ」


「彼女は僕の親友だというのに薄情だからな」


 まったく嘆かわしい。尾上は額を押さえてやれやれと首を振る。


 小さい頃こそ自分のやることなすことすべてに瞳を輝かせてカルガモの子どものように引っついて来た明だが、長じるにつれてだんだんと今のように出不精になっていった。


「あたしが誘ってもダメだったんですからあ、尾上さんの誘いに乗るわけなんてなかったんですよねえ、そもそも」


「その意味もなく勝ち誇った表情はなにかね、亜紀君」


「ええ~? なんてゆうかあ、自称親友は所詮自称でしかないんですねえ、って思っただけですよう」


「ふ。まだそんなことを言っていたのか。そういえば、亜紀君は明君の“自称”親友だったな。なに、そう悲観することはない。明君はあれでいて押しに弱いところもなきにしもあらず。ずっと自分は親友だと言い続けていればいつか亜紀君も明君の親友になれるさ」


「……ホント、先輩のポジティブさには呆れを通り越していっそ尊敬の念すら覚えちゃいますう。 それと、あたしは別にハルちゃんの親友になんかなれなくても全っ然構いませんよお。だってあたしがなりたいのはあ、ハルちゃんのお嫁さんですからあ。きゃっ、言っちゃった!」


「亜紀君はいつ女性になったんだ?」


 その前に、女性である明の「お嫁さん」なるものになれるものだろうか。


「生まれた時から心は乙女ですよう、先輩」


 そうか。相変わらずの無表情で、尾上は身悶えしていやいやをする亜紀から視線を外した。


 どうやら自分の親友は、ひと癖もふた癖もある人間から好かれやすいらしい。


        







 変わりない日常、という言葉ほど胡散臭い言葉はないと明は思っている。


 情報化だなんだと騒がしい昨今、起きた事件や事故は国の別を問わずその日のうちに報道されるのが常であるし、そうしたもので心身のいずれかが害されたり悪い時には死に至ることもあるだろう。だというのにそんな報道をテレビやパソコンの画面越しに、または新聞の紙面を通じて眺めておいて、今日も平凡な一日だったとぼやく人間のなんと多いことか。退屈な周囲に囲まれて過ごす、退屈な日々の営み。そのなかに潜むもしかすると自分以外の人にとっては退屈どころでなく愉快な、あるいは悲惨な現実が含まれているのかもしれない。


 変化のないものなど存在せず、だからこそ「日常」とされるものを不変のものだと認識できる人間には心底感心するが、だからといってそういう類の人間が好ましいかと聞かれれば話は別だ。好悪の感情がそんなことで左右されるはずがない。明の友人にはそういう思考を持っている者ももちろんいるし、明はその考えを更正させようとは思っていない。本人がそう思うのならばその者にとってはそれが真実なのだ。


 けれど、だからといって日常に埋没したものをわざわざ拾い上げいじくり回して悦にひたる人間も、明は好きではない。むしろこちらの方がタチが悪い。


 故に、その最たる者である目の前の男も「苦手」だ。思わず淹れたてのコーヒーを相手にぶちまけてしまいたくなるくらい「苦手」だ。視界にも入れたくないし、関わるなど言語道断。むしろ関わってくれるなというのが正直なところだが、現実はそう甘くない。自分のこと限定でいいなら、うんと濃いブラックコーヒーのように苦い。


「…………」


「……おい、なんだそのあからさまに嫌そうな顔は」


「嫌そうに見えますか」


「それ以外のなんに見えるんだ」


「いえ、嫌『そう』ではなく嫌『な』顔なんですが」


 瞬間、男の眉間に深い皺が刻まれる。


「相変わらずどこぞの顔だけ役立たず男と同じで一言も二言も多い奴だな、神野」


「聞かれたことに答えただけでなんでそんな評価になるんですか本当頭いいのに頭悪いですね最上さん」


 この場に居合わせた他の客は不幸だな、と、明と笑顔で睨み合う最上の横で尾上は他人事のように思った。


 両者とも、一応表情は笑顔に分類されるものを浮かべているというのに、間に流れるのは吹雪よりもなお冷たい一触即発危険物な空気だ。


 尾上は慣れているから「ああまたやってるのか。懲りないな二人とも」程度で済むが、初めて目にする人間にはたまったものじゃないだろう。この二人のいる場所に居合わせるくらいなら、修羅場な恋人たちの喧嘩の仲裁をした方がまだマシだと言ったのは、尾上の記憶が正しければ彼女の従兄だったはずだ。


「まさかたかだかお冷や一杯でここまで粘るほど図々しい人だとは思ってもみませんでしたさすが最上さんいつでもどこでも私の想像の遙か上を行く行動をしてくれますねいい加減うざいですよ?」


 息継ぎなしに言いきった明。流石だな、と尾上はよくわからないところで感心した。


「この俺の器をお前の矮小な脳で把握できると思い上がることがなくてよかったじゃねえか。感謝してとっとと雇われやがれ」


「ハハハ。感謝?私の辞書にはない言葉ですね。最上さんと尾上さん限定で」


「てめえ」


「コップ割ったら弁償ですよ。それ高いんですから」


「っ、お前女っていう職業やめろ。むしろ人間やめろ今すぐやめろ故郷の星に還れ」


「なにイタイこと言ってんですか。ついに頭沸いたんですね。ご愁傷様です」


「疑問形じゃなく断定形なところに明君の悪意を感じるな」


「黙ってろ尾上!」


 部下から援護どころか追撃を喰らった最上が怒鳴る。


 さすがに事務所にいる時のように物は飛んでこなかったが、ぎりぎりと音がしそうなくらい奥歯を噛みしめている上司に尾上は素直に口を閉じた。


 ケトルが高い音を響かせる。同時に上がった白い湯気に明は席を立ち最上達に背を向けた。


 かちりと小さく鳴ったガス台のつまみに、自然と尾上の目が惹きつけられた。


「……ガス台を替えたのか」


 ちょうど心の中で尾上が思ったことと同じことを、最上が呟く。そのことに、尾上は無言で眼鏡を直した。


「最上さん」


「んだよ」


「……いえ、なにも」


 もの凄くなにか言いたそうな顔をして、けれど尾上は首を横に振った。こういうことは下手に口出しをしない方がいいものだ。見込みが微塵もない時は特に。


 結局、それから店内に残っていた最後の客がいなくなるまで、最上も明もお互い一言も口を開かなかった。


 時間にして五時間二十三分後、我慢比べのような沈黙を破ったのは最上でも明でもなく、尾上の持っていた携帯の呼び出し音だった。


「や、これは失礼」


 まさか携帯に連絡が入るとは。淡々とした表情と少しも悪いと思っていない口調で、通話するため尾上が席を離れる。明はといえば我関せずとばかりにカウンターの向こうに座り本を開いていた。


「明君」


 二言三言話した後、尾上が携帯から耳を離し、明を呼んだ。


「君の御祖母(おばあ)様から電話だ」


 瞬間、明の顔がこれでもかというくらい歪む。


「千歳さんから、ですか」


「ああ」


 ほら、と差し出された黒い携帯を、明は嫌そうな目で見下ろした。


 黒光りするプラスチックが、その時の自分にはさながらゴの付く台所の、いや、主婦と料理人の宿敵俗称Gに見えたと、後に明は彰に語る。


「替わりました。……まあ、そう言うとは思ってましたけど。私にも仕事が……え?遊び?ふざけたこと言ってくれやがりますね千歳さん。これも大変な仕事なんです。……それは、主婦業よりかは……いえ、違います。問題をすり替えないでくださ……だからそれは!……わかりました」


 低く、とても重たい声で返事をすると、明はそのまま相手の言うことも聞かず電源ボタンを押した。


 ちっ、とやくざ顔負けの舌打ちをひとつし、ぎろりと尾上を睨みつける。だが尾上はどこ吹く風だ。


「話はついたかね」


「……つきましたとも」


「そうか。よかったですね最上さん。明君が快く依頼を引き受けてくれるそうで」


「……相変わらずだな、お前らの力関係も」


 先ほどまでの苛々した表情から一転、どこか憐れみすら混ざった最上の瞳が、出会った頃から結局は尾上に振り回されることになる彼の幼馴染みに向けられる。


 たとえそもそもの元凶が己であれど、そして彼女に協力してもらわねば困るのが己であったとしても、それが彼の女史による力業での強制となるとなけなしの良心やら罪悪感やらが疼く。


 萩野千歳(はぎのちとせ)という名の明の祖母は、彼女は愚か尾上や最上でさえ逆らうことのできない女性である。


「どうして昔からいつもいつもいつも……尾上さんに巻き込まれまいと瀬戸際で踏ん張る私の、あの人は背中を押すどころか蹴り落とすようなことしかしないんでしょうねえ本当」


 それは実の孫の事なかれ主義な性格よりも尾上の飄々とした変人っぷりを気に入っている祖母にしてみれば当然のことなのだろうが、納得いかないものは納得いかないのだ。


 尾上単体にならどこまでも抗する自信のある明だが、祖母のあの穏やかな口調の下に潜む無言の圧力には未だ反抗どころか抵抗すらもままならない。それこそ生まれた時から今までのありとあらゆる事を知り尽くされている人生の先輩に、果たして勝てる日が来るのかどうかは甚だ疑問ではある。


「どうにかして明君の人生に潤いを与えようとする祖母と親友の優しい心遣いが伝わってくるだろう」


「ああはいそうですねありがた迷惑って知ってますか」


「少し迷惑なくらい有り難いと感謝していることだろう?大丈夫だ。明君からの感謝を迷惑だなどとは千歳さんも僕も思わないさ」


 全然違う。


 だが折角話もまとまりこちらの都合の良いように動いているのに水を差すわけにもいかず、最上は聞かなかったことにして持ってきていたファイルを鞄から取り出した。


 明の前に数枚の紙が広げられる。


「で、さっそく仕事の話ですか」


「時間がねえ。先方との約束は明後日だからな」


 目を通しておけ、と顎で示してそのまま去ろうと立ち上がった最上に、さすがの明もぎょっとして目を見開いた。


「明後日?ちょ、なに馬鹿なこと言ってんですか」


「ふむ、ちょっと急だったかね?なに、心配はいらない。明君の必要最低限の荷物はもうこちらで用意してあるからな」


「そもそもてめえがあんなに渋らなきゃ問題なかったんだよ」


「いや、たとえ私が尾上さんが最初来た時に了承してたとしても時間なさすぎますって!スケジュール管理とかどうなってんですか」


「知るか。なるようになってんだから問題ねえだろ」


 どこがですか!と半ば自棄になって叫ぶ明に、最上はその日一番ドスのきいた声を出した。


「うるせえよ。それ以上騒いだら強制的に名字を尾上か最上にするぞ」


 明は即座に口を閉ざした。


 ふん、と鼻を鳴らして最上が出て行く。その背を怨念のこもった目で睨みつける明を見やり、尾上は小さく息を吐いた。


 空回りどころか全力で拒絶されている様子は滑稽だが、ほんの少しだけ不憫だと彼が思ったかどうかは、定かではない。



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