壱
たとえば人間をふたつの種類に分けるとしよう。いわゆる主役か脇役かの区別をつけるのだ。
もしそんなことをしたならば、明は一流の脇役に違いない。言うなれば通行人Aだ。風景に同化しもはや背景の一部として存在しているのだ。
毒にも薬にもならない。そうあることが肝要だ。
宮沢賢治を気取るわけではないが、誰にも頼りにされずまた邪魔にもされない。明はそんな人間になりたいと常々思ってきた。
事実、その目標のほぼ半分……いや、三分の一くらいは達成されただろう。これも学生時代、それこそ小学生からのたゆまぬ努力の賜だ。自分ほど他に埋没すべく努力した人間はそうはいないと明は自負している。
もうずいぶんと前に湯気を出さなくなったコーヒーの向こうでは、いつものように子どもたちが走り回っている。子どもは風の子とはよく言ったものだ。外で遊ぶ子どもたちが珍しくなってきている昨今、この寒空の下外にいようとしたその行為だけで十分賞賛に値するのではないだろうか。
たまたま隣の土地がけっこうな広さのある空き地だったというだけで、学校が終わる時間帯になればいつもこうやってそれなりに賑やかになるのだ。どうやらこの近くに住む小学生はまだ昔ながらの童心を忘れていないらしい。結構なことだ。いったい何歳までそれを持ち続けていられるのか、興味はある。
窓にかかる白いレースのカーテンは陽の光を取り込みすぎず、また遮りすぎない優れものだ。おまけにかなり精緻な刺繍が施されているにも関わらず貰いもので経費はゼロ。
これでそれを作った人物がこのレースに相応な人物ならばもっと良かったのだが、生憎と現実はそこまで甘くない。筋骨隆々とした大男がちくちくと刺繍針を動かす光景を見せられたこちらとしては、差し引きゼロどころかマイナスの気分だ。もちろん中から外の様子は見えるが外からは一切中の様子がわからないこれ以上ないほど素晴らしいおまけが付属したカーテンを無償で提供した本人に面と向かって言うことはないが。
付近住民、この場合主に明であるが、その知的と言っていいものかどうか曖昧な好奇心の込められた目で観察されていることも知らず遊ぶ子どもたちの無邪気なこと。冷め切って既にコーヒーというより黒い色のついた液体になったそれを流し込み、はたして自分にあったのかどうか疑わしいその無邪気さに目を細める。
いつもと変わりない、穏やかな午後だ。……ただひとつを除けば。
「そろそろ折れてくれないか、明君」
カウンター席に尊大な態度で座るのは、無駄に高そうな背広に身を包んだ小学校からの幼馴染みだ。腐れ縁、といったところか。大学以外すべて同じ学校に進学したという間柄だが、社会人になってからは縁が切れた相手でもある。
まだ外出にも親やそれに準ずる保護者の同伴が必要とされそうな年齢の頃からの付き合いであるから、もうこの顔を見るのも通算して実年齢引く五年ほどになるだろう。
小さな頃から変わらない尊大な態度は正直好ましいと思えるようなものではなかったため、できれば即刻お引き取り願いたいところなのだが、店内に客はこの男一人だけしかいない。コーヒーが嫌いで紅茶をそれこそ一口で産地まで当てられるくらいに愛していることを知っていて敢えてコーヒーを置いたのは遠回しな引き取り願いだったのだが、生憎笑顔で黙殺されてしまった。図々しいところも健在なようで、まったく喜ばしいことである。
思い返してみれば子ども時代から変わらぬこの態度に、当時何故あれほどまで根気よく付き合っていられたのかは謎である。
子どもらしさの欠片もなかったこの男と過去の自分を振り返っても、自分が一方的に振り回されていた記憶しかない。大人顔負けの論理を振りかざし、小さな暴君を気取っていた男を親友だと断言したのは誰だったか。そう、間違いなく過去の自分である。若さとは恐ろしいものだ。子どもの目には常に自信を失わない彼の姿が、テレビの向こうの英雄と変わらないように思えていたのだから。
「この辺りで妥協してくれないと、次は最上さんが来るぞ。明君はあの人が苦手だろう」
「……ええ、まあ。お互いに目があったら睨みつけ、すれ違いざまには舌打ちをする程度には苦手です」
苦手というのは良い言葉だ。嫌いや気にくわないといった、率直に言うといささか問題がある言葉の代わりにもなってくれるのだから。
最上という男と明の普段のやり取りを思い出したのだろう。目の前の男がなんとも言えない表情を浮かべる。
飲みもしないコーヒー一杯でずいぶん粘る客だと思い切りため息を吐いてやっても微笑を崩さなかったくせに、自分の上司の話になった途端にこれだ。いや、別に腐れ縁とはいえ一応幼馴染みから金をとって儲けようと思うほど強欲なわけではないのだ。だが静寂を好む明からしてみれば、現在の状況はあまり歓迎すべきものではないというだけの話だ。他意はない。
いっこうに引き下がる気配もない男を正直持て余していると、からんというベルの音とともに顔見知りが姿を現した。挨拶をしようとでもしたのだろう。男と二人向かい合っているこちらの様子を見て、上げかけた片手が不自然な位置で固まっている。対して男の方もなにか異様なものを見る目で彼を見ていた。
無理もない。そう嘆息する。
いったいどういう趣味なのかは未だわからないが、黒革の上着の下にタートルネックの白いシャツ、黒のパンツを合わせたその服装こそシンプルだが、所々にあしらわれたベルト風のアクセントが男性的な品の良さを現しているのに対し、脇に抱えた袋から覗く暖色系で構成されたパッチワークの布はひどくミスマッチである。しかも精悍と言えば聞こえはいい体育会系のきつい顔立ちをしているため異様なことこの上ない。せめて服装だけでもまともな感性の持ち主でよかったと心底思う。
「……宮城先輩?」
「……尾上、か」
まずいところを見られた。そういう表情になった従兄と、呆気にとられたような顔をする幼馴染み。
双方の事情を知る明は、あまり関わりたくないので傍観者に徹することにする。
「あー……そうか。なるほど。わかりました。先輩、明君と自由研究を交換しましたね。小学生の頃」
「ああ」
「やっぱり。明君は手芸が苦手である種芸術的な作品ばかり家庭科の時編み出していたのに、自由研究だけまともで不思議に思っていたんです」
そういえばと、小学校で一番初めに作った巾着袋を思い出す。中に物を入れても、縫い目の間からぼろぼろと落ちていった覚えがある。細々とした作業はどちらかと言えば好きなのに、裁縫だけは壊滅的だったのだ。
軽く肩をすくめ、若干暗い表情のままカウンター席に座った従兄の前に、無言で紅茶を置いた。
尾上に自分の横に置いたパッチワークの入った袋から笑顔のままさりげなく身を引かれ落ち込む様子ははっきり言って滑稽だったが、さすがに哀れに思えてきたので控え目なフォローを入れる。
「尾上さん。彰兄はこの図体と見てくれで誤解されがちですけど、あつかましいことに手先が器用なんです。刺繍やパッチワークなどちまちましたことが得意かつ昔からの趣味で、今ではそれで生計を立てていると言っても過言ではないんですよ」
「お前のフォローはフォローになっていない」
苦い顔をする彰を無視し、明は自分の分のコーヒーを淹れに席を立つ。
突然の乱入者でうやむやになりかけた話題を元に戻そうと、尾上が「それで」と明を見た。
「明君の選択肢は二つだよ。一つ。僕の説得に応じて僕らに協力する。二つ。説得を無視して、最上さんに強制連行される」
「できれば放っておいてもらうのが一番なんですけど」
「残念な話だね」
微塵もそう思っていないことがありありとわかる態度でやれやれとため息を吐く尾上に、彰が怪訝そうな顔をする。
なんの話だとでも言いたげな彰に、今度は明が肩をすくめてみせた。
「私はこの小さな喫茶店のマスターやってるのが性に合うんですよ。それなりに気に入ってますし。なのにどうしてそりも気も合わない相手との仕事をしなきゃいけないんです」
「そう言うな。親友の頼みだぞ」
「あはは。面白いこと言いますね。知ってます?シンユウって一方的に相手に迷惑をかける人とかけられる人との間に成立しないんですよ」
「ほう。初めて聞いたな。明君の持論かね」
「辞書に載ってますよ」
「適当なことを言わせたら君の右に出る者はいないな」
相変わらず一言も二言も多い男だ。
その無駄な口の多さで教師に呼び出されること十数回。いや、小学校から高校までを通算すれば何十回になるのだろう。お前はとにかく黙ってろとありがたいお言葉を初めに賜ったのは確か小学三年生の時だ。
あの時の担任はいわゆる熱血型の若手だったのだが、無事尾上が卒業した後めっきり老け込んだと評判だった。若くして頭部の砂漠化に悩まされていそうな昔の知り合いその一である。その後高校卒業まで尾上の担任になった教師には、もうご愁傷様でしたとしか言いようがない。
歩くトラブルメーカー、天災人災吸引機、無駄口生産人間、振り返れば尾上がいる、ヤツの後ろに立つな、などなどありとあらゆる不名誉な評価をほしいままにし、はては『尾上遭遇マニュアル』なる物が冗談半分で作成される始末だ。ちなみに制作者は冗談でも購入者は十割本気な人しかいない。
敢えて擁護するならば尾上に悪気はないというところだが、悪意がないからといってなんでも許されるのかといえば答えは否だ。許されるはずがない。というよりも故意でなく的確に相手の痛いところ、触れてほしくないところを突くというのは最早才能だろう。
間違っても欲しくないし、羨ましくもなんともない才能である。これで頭がパーとかいうのならばまだ許容できたのかもしれないが、大学入試だろうが国家試験だろうが軽々合格してしまうまさにトンデモない脳の持ち主だ。
または笑っちゃうような顔ならば、とも思うが、犬が歩けば棒に当たるの如く街を歩けば女の子に当たるなノリで逆ナンされるのも当たり前ならバレンタインには大チョコ持ちだ。天は人に二物を与えずというが、こいつの場合与えられなかったのは常識と良識だと断言できる。幼馴染みの称号を懸けてもいい。
ここで誤解しないで欲しいのは、小説や漫画でよくある幼馴染みから恋人への恋愛話の王道とも言うべきプロセスがこと自分と尾上の間には成り立ち得ないというこの一点のみだ。そんなことはラッコが二足歩行で百メートルを十秒フラットで走ることくらいに有り得ない。いったいどんな拷問かとも思う。現状の幼馴染みという位置でさえ仙人修行かと思うほどであるというのに。
「どうしてもダメかね?」
「わかっていることをわざわざ聞くんですか?」
「そうか。仕方がないな」
最上さんに任せよう。そう呟いて立ち上がった尾上は、すっかり蚊帳の外だった彰に小さく会釈してから出口へ向かう。
そして、一度ドアの手前で止まった。
「三日後だ。早くてな。喧嘩はするなよ」
「無理ですね」
明の即答に、尾上は苦笑して店を後にした。
残された二人はというと。
「……明」
「三日後には来ないことをお奨めするよ、彰兄」
「景司が来るなら、言われなくともそうさせてもらう」
明同様最上景司が苦手な彰は、まさしく苦虫を噛みつぶしたような表情でそう言った。
高層ビルが建ち並ぶオフィス街の外れ。さして目立たない場所に、周りの風景に埋没するように存在するごく普通の外装をしたごく普通でない事務所のドアを開けた途端、尾上の顔の横を銀色のモノが通り過ぎた。
「…………」
「ふん縛って引きずってでも連れて来いと言っただろうが、このボケ」
ドスのきいた低い声はもちろん事務所内からのものだ。
ちらりと背後の壁を見れば見事にそこに突き刺さっているハサミがあり、尾上は小さく息を吐いてそれを抜きに行く。
「明君と僕の間には友情についての認識に大きな隔たりがあることが判明しました」
「見解のソウイってやつなら、俺はヤツと合致した覚えはねえな」
「親友のことなのに明君が薄情だということも忘れていました」
そうか、それを忘れていたからあんなにつれなかったのか。まったく昔から素直じゃないな明君は、となにやら一人で納得している尾上に、今度は分厚いバインダーが飛ぶ。
尾上はひょいと頭を左にそらして見もせずにそれを避けた。
「やはり最初から最上さんが行った方がよかったのでは?」
「あんな地球外生命体に俺から会いに行けってか。ふざけたことぬかしてんじゃねえよこの役立たず」
「生命体ですか。まあ間違いではないですね」
尾上が床に落ちたバインダーを拾うためにかがめていた腰をよいしょ、と声をかけて上げ、振り返る。
「なんにせよ、今回ばかりは僕らじゃダメなんですからね」
やっと事務所に入った尾上は、ドアの真正面に座る最上とその少し離れたところで体を小さくして恐々成り行きを見守っている部下その一を無感動な瞳で見た。
尾上も含め全員が黒ずくめの背広姿のせいもあるのだろうが、どことなくぱっとしないのは格好のせいではないだろう。
「今まで彼女を雇おうとしなかったツケです。頑張って明君を口説き落としてきてください」
「ちっ」
わざわざ事務所を見回して男しかいないのを再確認する尾上に、最上は舌打ちを隠しもしない。
「おい、ヤツの弱点はなんだ」
「弱点から攻めるんですか。あまり尊敬できない方法ですね」
「名声も地位も与えられるような権力持ってないんでな。あんな寂れた店好きこのんでやってるヤツに金銭面での欲は薄いだろ」
「もういっそ適当な人物を雇えば如何です。最上さんの嘘八百方便上等精神で行けば簡単だと思いますが」
「どうせ雇うなら使える奴にしねえと俺の気が済まん。個人的感情は別だ」
まずそのどうせの辺りからして個人的感情だろう、と思ったが、最上と長い付き合いである尾上はなにも言わなかった。この辺り、大学で最上と知り合ってから彼限定で発揮される微妙な気遣いである。
もし明がこの場所いれば自分にこそ気を遣えと言うのだろうが、尾上の中で明は親友であり、親友にはそんなものは不要であるとはっきり認識されているのでどうにもならない。
一応これでも社会人だ。明の言うほど周りに迷惑などかけていない、と少なくとも尾上は思っている。
実際は上司である最上と一緒に現在進行形で同室にいる同僚達に迷惑をかけているので、その信憑性は推してはかるべし、であるが。
「霊能者なんて仕事、収入も不安定でなおかつやってることと言えばいもしない幽霊をお祓いするだの有り難いお札を売るだのセコイことしかない。万が一、億が一、兆が一小説や漫画のような事件を扱っているんだとしても、そっちの方が嫌。だ、そうです」
「おうおう。ずいぶんな言われ様だな。どうせその後には俺の悪口でも続いたんだろ」
「ええ。惚れ惚れするぐらい見事な罵詈雑言でした。しかも反論の余地がない事実を基にしたものです。さすが僕の親友」
「ほう……」
めきっ、と最上の手の中で万年筆が悲鳴を上げた。
「まあいい。とにかく、とにかくだ。先方が待てると言った時間の三分の一ぐらいを使ってヤツをなんとしてもこの事務所に連れ込むぞ」
「犯罪の匂いがする発言ですね」
「常に犯罪を追ってたから移った残り香だよ」
「そういうことにしておきます」
「……口が減らねえなあてめえはよお。敬語ならなに言ってもいいと思ってんじゃねえぞ」
「すみません、根が正直なもので」
「よし、歯食いしばれ」
本棚が飛んだ。