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封じの姫と地の獣  作者: rit.
二章:裏
32/33

なくしたもの

 あけいろ、と。

 わたしを呼ぶ声がした。

 闇色に満たされた中で、誰かがわたしをゆすっている。

 ゆらゆら、ゆらゆら。ゆらぐ、不安定なこの世界――


 なにか、大切なモノが遠ざかっていく。

 わたしから、優しく取り上げられて、かわりに闇が、わたしをつつむ。


 ――あけいろ


 月色の瞳。

 優しい瞳――多くを語らない、かなしいひとみ

 けれど、時には楽しみを秘めて、きらめいた。


 遠ざかっていく、大切ななにか。

 うつろう夢のように、はかなくて。手を伸ばせば、かすかな残滓も消え失せる。


 手繰ろうとすればするほど、遠ざかって、ゆらいで、かすんで―――――


 ――あけいろ


 やめて。

 起こさないで。

 ここから、離れれば――わたしは、なくしてしまうから。

 なくしたくないの。

 なくしたら、きっともう手に入らないから……






 起こさないで!







 滲む視界に、光があふれる。

 遠く消えていった何かを惜しんだのか、瞳からこぼれた涙が、こめかみを伝っていったのを自覚する。


「目が、覚めたか?」


 消えていった何かが、なんだったのか。わたしにはもう、わからない。

 ただひどく、楽しくて。

 ただひどく、温かくて、優しい夢を、見ていた気がする。


 何度か目をしばたけば、そのたびに涙がこぼれた。

 兄上が、そんなわたしを憐れむような瞳で見つめていた。


「あにうえさま……」


「こんなところで寝ていては、風邪をひくぞ」




 わたし……なぜ、泣いているの?



 身を起こせば、涙が頬を流れる。

 乱暴に手の甲で拭い。心配そうにわたしをみている兄上に、少しばかり気まずそうに微笑んでみせた。


「変な夢を、みていたようです」


 兄上は、わずかに眉を寄せ、夢か。と低くつぶやく。

 何かをこらえるように沈痛な面持ちで息を吐き、それからゆっくりと立ち上がった。


 そんな兄上をみつめ、わたしはふと気づいた。

 流れる風と白い雲。さざめく木々――ここは、外だ。

 見覚えのない、こんなところで。わたしはなぜ、夢なんか見ていたんだろう?


「……ここ、は?」


 首を傾げれば、兄上はついと、山の方へと視線を流した。


「鳴滝の、地……私の物思いに付き合っているうちに寝てしまったのだ」


 寝てしまった?

 それはとても申し訳ないことをしたと思う。

 鳴滝の地は、獣たちの領域だという。

 獣狩の一族でさえ、近寄ることができないここに、兄上は時折やってくる。

 うるさい一族たちから逃れ、ゆっくりと思索にふけるために。


 わたしも時々ついてきて、兄上の考え事が終わるまで、いつも……


 

 ――いつも?



 いつも、なにをしていただろう?

 なにかが、足りない気がする。



 あにうえと、わたしと、それから……?



「長い間またせて、悪いことをしたな。そろそろ戻ろうか」



 振り返れば、もしかすると、足りないなにかがわかるかもしれない。

 遠く、響く水音に耳を澄ます。

 視線を投げても、平和な風景が目に映るばかりだ。


 流れる雲と、ほころび始めたつぼみ。

 やわらかな、風。


「……はい、兄上様」


 うながす兄上の後ろに続きながら、もう一度だけ、あとを振り返る。




 けれど。

 なくしたものは、わからないままだった。

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