かわらぬもの
わたしは、黙っていたし。
彼もまた、黙っていた。
春の香りを含んだやわらかい風が、頬をなでて通り過ぎていく。
時間はゆっくりと、けれど確実に流れていった。
いつまでも、ここにいる訳にはいかない。
去りがたい、快い時間。
それを振り切るように、頭を振って息を吐けば。
彼は痛ましいものでも見るかのように、こちらをじっと見つめていた。
「……帰る、わ」
言葉にすれば、喉の奥が焼ける気がした。
情けない、と自分を叱咤してみても。
こみ上げそうになる嗚咽を、抑え切ることができずに、ぐうと変な声が漏れた。
「朱紅」
伸ばされた手が、わたしの髪を、頬を撫でる。
いたわるように、愛しむように。
「おまえが望むなら、おれはこの名にかけて、どんな望みでも叶えてやるのに」
今まで、幾度も繰り返されたその言葉を。
ことさらにゆっくりと、言い聞かせるように彼はもう一度口にした。
「この生命だって、くれてやる。おまえが望むのなら、世界だって滅ぼすのに」
音織、という呟きは、声にはならなかった。
彼の瞳が、いつになく昏く沈んでいる。
悲しみ、怒り、行き場のないやるせなさ。
ああ、彼は優しいから。
妹のように想っているわたしの境遇を、哀れんでくれているのだと。
すとんと言葉が胸に落ちた。
「……ありがとう」
わたしのように、血筋だけの。
狩りすら満足にできない、兄上のように聡明な頭脳も持たないわたしに。
ここまで心を砕いて、優しくしてくれて。
もう一度、いった御礼の言葉は。
かすれてちゃんと響かなかった。
「この誓いは。おまえがどこにいっても変わらない。どれほどの距離と時間が、おれとおまえをどれだけへだてたとしても、だ」
あけいろ、と彼は苦しそうな顔をした。
わたしが、勝手に彼の庇護を離れていこうとしているのに、彼は兄との言葉を守れなかったことを、気に病んでいるのだろうか?
わたしを護ると、兄上に言ったその言葉に、責任を感じて?
「おまえが幸せになれるなら、おまえはおれを忘れていい。けどもし、おまえが、苦しいのなら。今の場所から逃れたいと思うことがあるのなら、いつでもおれを思い出せ」
頬に触れていた、彼の手が、名残惜しそうに離れていく。
「おれは。いつだっておまえを助けてやる。いつでも、おまえを見ている。いいな、おれを、よべよ?」
ぱりん、とひどく乾いた音がした。
空気が凍って、割れるような。
「……幸せになれ。おまえの幸せを、おれはいつだって祈っている」
ぐらり、と空間が歪んだ気がした。
足元が歪んで、大気が揺らいで。
急に、視界が暗転した。
最後に見たのは、彼の。
月色をした、かなしい眼差しだけ――




