男と、言い合いをすること。
知らないと。
そうあっさり告げた時の男の顔こそ見ものだった。
せっかくの美しい顔も、ぽかんと口をあけて目を見開いていれば、それなりに間抜けに見えるらしい。心の中で溜飲を下げて、私はかるく息を吐き出した。
「間違えたとちゃんと謝るなら、気分の悪い私を連れ回したこと、許してあげなくもないわよ」
いささか上から目線だという自覚はあるが、これくらいの仕返しは許されるはずだ。
さっきは死ぬほど気持ち悪かったのだから。
「……本気で言っているのか」
「どういう意味? 謝罪を受け入れないなんて理不尽なことはしないわよ」
唖然とした顔つきのまま男が聞いてきた内容はいささか失礼な内容だったように思う。
私はそんなに心が狭くみえるのだろうか?
男は腕を組み、眉を寄せて思案深げな顔つきになった。
私は沈黙を守ったまま男を見ていたし、男は男で、黙りこくったまま何やら考え込んでいる。
言葉はなく、風の音だけがしていた。
日差しは暖かく過ごしやすい気候で、外で遊んだりするのにはちょうどいいかもしれないが、いかんせん今一緒にいるのは、初対面に近い男だ。沈黙は気まずいし、空気は重い。とっとと帰りたかったが、どうにも立ち上がるきっかけをつかめなかった。
「おれが言っているのは、おれの名を呼んだ覚えがないと言ったことだ」
あと数十秒沈黙が続いていたら、私は何がどうあっても立ち上がって帰路についていたに違いない。
男が口を開いたのはまさしくそんな瞬間だった。
「だから呼んでなんていないってば」
私も男に負けずに眉を寄せてしかめっ面を作ってみせる。
だいたいこの男は何で私が名前を呼んだと信じ込んでいるのか。
「……珍妙なことだ。残念ながら嘘をついているようには見えん」
「嘘なんてついてないもの。何をいってるの?」
しみじみという男に、私はいささか呆れて息をついた。
というか、この男。思い込みが激しすぎやしないだろうか?
「ふむ。……おれは確かにおまえがおれの名を口にするのを目にしたし、耳にした」
まだいうか。
しつこいにもほどがある。
私は、もういい加減このやりとりに飽いてきたし、呆れてきた。
呼んだ呼ばないではいつまでたっても水掛け論で、どちらが正しいかを証明する術はどこにもない。たとえ朝まで言い合ったって決着はつかないままだろう。そんな無駄なことにこれ以上時間を費やすのはごめんだ。
無言のまま岩から腰を上げ、ちらりと男の顔をみやってから踵を返す。
正直もうこのまま帰ってしまうつもりだった。
だが、男はさらに言葉を継ぐ。
「だが、おまえはおれの名を知らぬという。おれも、おまえに名を明かした覚えがないのだから、それも道理だとは思うが、おれが目にし、耳にした事実は変えようがない」
「だから、私は!」
「まぁ、聞け。だれもおまえが嘘をついているとはいっていない」
言い募ろうとした私を不可解な理屈満載の言葉で止めて、男は月色の瞳にゆっくりと私を映した。
「おまえ、おれにまだ言ってないことがあるだろう?」
すべてを見通すような瞳が、私に据えられる。
言ってないこと?
そりゃあある。
夢のなかに出てきて、私がいつも殺す男があなたなんです、と。
いってしまえばいいのだろうか?
けれどそんな突拍子もない事をいってなんになるのか。
変な目で見られるのがオチではないか。




