序
たぶん。
お前は泣いていた。
凝った月明かりの下。
お前の頬に流れた一雫を見たと思ったのは、きっと見間違いなんかじゃない。
けれど。
けれど、おれにはわかってるんだ。
この命をかけてさえ。
お前はその一雫の涙だって、おれにくれはしないんだ。
なぁ、朱紅――
おれがどんなに想っても。
お前は、おれのものにはなってくれない。
ゆるゆると生温い風の吹く、くすんだ不吉な夜だった。
ニタリと嗤った三日月が、血の色をたたえて、愚かなおれを見下ろしていた。
「……あけいろ」
かすれた呟きがほんとうに声になったかなんてことは、おれにはわからない。
鈍い衝撃とともにおれの胸に飛び込んできたお前を抱きしめて。
震えるその肩をしっかりと抱きしめて、ただ泣くなと。
大丈夫だと、言ってやりたかった。
「ごめ、んなさ……」
お前が握りしめていた刃が、おれを貫いている。
胸から背へと……焼け付くような痛みと凍えるような喪失感がゆっくりと広がっていった。
ぱたぱたと落ちていく紅い色が見る間に足元にぬかるみを作っていく。
「……獣封じの、輝の太刀か」
人間にとっては、致命傷かもしれないこの傷も、おれにとっては大した意味を持ちはしない。お前が握りしめていたその太刀が、封じの太刀でさえなければ。
「ばかだな……」
急速に失われていく力と〈力〉がおれの時間が残り少ないことを告げていた。
「……馬鹿、だな」
もう一度、つぶやく。
だれもかれもが、大馬鹿だ。
不確実な希望に踊らされておれを殺そうとするお前も馬鹿なら。
この期に及んで震えるお前の肩を抱くことすらできないおれも、大馬鹿だ。
おれは、いったいどうすればよかったんだろう?
どうすれば、お前が笑っていられる世界をくれてやれたんだろう。
やつらを殺して。
お前の命を助けるのは、そう難しいことじゃない。
けれど、それで。
お前がお前でなくなってしまうのなら。
お前がお前でいられるままに、死んでしまえばいいと思う。
お前が望むのなら、この命くらい。
いくらでもくれてやるから。
お前が望むのなら、おれは千回だって万回だって死んでやるから。
おれがここで死んだって。
なんの解決にもならないことくらい、百も承知だ。
お前は罠にはめられて、そう遠くないうちに死ぬのだろう。
それでもおれは、お前がお前でなくなる姿なんて見たくない。
これはもう、純情を通り越して滑稽だろう?
古い仲間たちだって、なんてざまだと笑い転げるに違いない。
このおれが、お前みたいな小娘一人に振り回されて。
このおれが、永い永い眠りにつく。
馬鹿げている。
こんなにも想っているのに。
それでもお前はいってしまう。
おれにはその心のひとかけらさえくれないままに。
お前がお前であるために。
けれど、朱紅。
本当は、お前だって。この先にある結末をしっているんだろう?
「……ごめんなさい」
何も言うなよ。
わかってる。わかっているんだ。
お前がどんな想いでおれに封じの刃をむけたのかなんてことは。
お前がいつだって、だれを一途に想っていたのかなんてことは。
おれがお前を想うのと。同じくらいには。
お前はいつだって。あいつのことを想ってるんだ。
百に一つもない可能性にだって、かけずにはいられないくらいには。
罠だとわかっていても、踏み込まずにはいられないくらいには。
わかってる。わかっているんだ。
だからおれは、お前を抱き寄せることなんて出来はしない。
行くなということさえ、出来はしない。
想いは、いつだって。
こんなにも、おれたちを愚かにするんだ。
「朱紅――」
もう一度だけ。
その名前を唇に乗せる。
ああ、月が。
不吉な紅い三日月が、おれたちを見下ろしている。
最後の言葉が、おまえに。
届いていれば、いいのだけれど。
ゆるゆると、生温い風が吹く夜だった。
くすんだくらがりの中、まっかな血の色をした月が、おれたちを嘲っている。
かすむ視界に、おまえが映る。
できれば、おれの横で笑っていて欲しかったけど。
そうでなくても構わなかった。
おれじゃなくても、ほかのだれかの横でも、おまえが笑っていられるのなら、よかった。
そんな願いさえかなわない、この世知辛い世に。
おれはこうするより他に、お前になにをしてやれたんだろう?




