理不尽
「また何もわからなくなってしまった。自分がどこにいるのかもどこに向かっているのかもわからなくなってしまった。声すらも聞こえなくなっていた。聞こえないのは自分の声なのか他人の声なのかわからい。目の前は真っ暗闇で、目を閉じているのか開けているのかわからない。見えているのは真実なのか、嘘なのか」
彼はそう言い残して僕の目の前から消えた。それはほんの数秒の出来事だった。暑い夏の交差点で僕の耳にそうささやかれた。信号が青に変わり、ちょうど彼と僕は交差点の真ん中あたりですれ違った。僕は新聞を読みながら歩いていたので顔は見ていない。ただ、やたらとはっきり耳元で囁かれて僕は交差点の真ん中で立ち止まり取り残されてしまった。
「まったくまいったよ。何かと思って立ち止まると信号が変わってクラクションの嵐だからね」
外回りの営業を終えた僕は会社に帰って、そうぼやいた。
隣の席の同僚は
「夏になるといろんなのが出てくるからな。あ、もしかしたらテレビかもしれないぞ。お前の間抜け面が全国放送で見られるな」と言って笑っていた。
僕も苦笑いを受べていたが内心割り切れないものを感じていた。
「どうしたのぼんやりしちゃって?」
彼女が僕の肩を叩いた。僕は彼女を見る。彼女は僕の顔を覗きこんで笑った。
「なにか嫌なことでもあったの? そうじゃなかったら楽しそうな顔をして。久しぶりに会えたのだから」
バーのカウンターに僕は彼女と二週間ぶりに座っている。無邪気な彼女の顔を僕はじっと見ていた。
「今いる足元を見ろ。お前はいったいどこに立っている? 何千万の死体の上に立って幻想に笑っているのだぞ…」
また耳元で声が聞こえた。
「誰だ!!」
僕は大声で怒鳴り振り返った。……が誰もいない。彼女は驚いて僕の顔を見ている。店にいたほかの客全員の視線を僕は集めてしまった。
「どうかしましたか?」
バーテンダーが僕に声をかけた。彼女も
「どうかしたの? 私、なにか気に障ることを言った?」と聞いた。
僕は何も答えずに手に持っていたウイスキーを一気に飲み干した。
同時にドアの閉まる音が聞こえて誰かが外に出て行った。
その日から僕はひどく周りを気にして歩いている。また誰かが僕の耳元で何かを囁くのではないか? と考えていた。外に出たら顔をあげて周りを見回しながらすれ違う一人一人の顔を覚えるかのように見ていた。
声はあの日以来聞こえなかった。そうして僕も声のことなど忘れかけていた。そして顔をあげて歩くことも忘れていった。
その日もとても暑い日だった。僕は外回りでまたあの交差点に新聞を読みながら下を向いて立っていた。周りにも同じように新聞や雑誌を読みながら信号を待っている人たちがいる。対岸にも同じような人がいる。車も普通どおりに流れていた。どこに疑う余地があるのかと聞きたいぐらいにいつも通りに時間は流れていた。そして僕は信号待ちをしながら考えた。
「もし僕があの時のように誰かの耳にささやいたら、その誰かは僕のように立ち止まって周りを見回すだろう。そしてバカみたいに交差点の真ん中に取り残され…」
僕は新聞から顔をあげ対岸にいる同じように新聞を読んでいる中年サラリーマンンを見つけた。
……僕はそのサラリーマンに狙いをつけた。
信号が変わりいっせいに人々が動き出した。僕も動いた。多くの人の中に紛れ込んで僕は歩いている。ちょうど交差点の真ん中にさしかかりあのサラリーマンンに声をかけようとしたときに相手が顔をあげた。僕はドキッとしてほんの一瞬立ち止まった。それからそのサラリーマンは僕の顔を見て『ニヤッ』と笑った。
どこに隠していたのか懐からナイフを取り出し、ゆっくりと僕の腹に突き刺し僕の横を通って人ごみの中へ消えて行った。僕はまた立ち止まった。
信号が赤に変わりまた交差点の真ん中に取り残された僕はクラクションの嵐の中にいる。やっと聞こえた声は他人の叫び声と、小さく消えそうな笑い声……
交差点にたっていたら。いろいろ考えますよね。
その考えたことを実行するかしないかは、その人の判断。
他人に理不尽な迷惑をかけるのはやめましよう。