高橋 一朗@木曜日 06:25
まんじりともせず、僕は、病院の長椅子に座り続けていた。不思議と眠気には襲われていない。考えていることがあるうちは、眠くならないらしい。
だから加藤も、あまり眠そうにしていなかったのかもしれない。今更あいつの考えていたことが判ったところで、僕には何もなす術がなかったという事実は、変わりやしないんだけれど。
病室で眠る加藤は、一体どんな夢を見ているのだろう。
チビ王子を搬送する救急車の中で、加藤は倒れるように眠りについた。考えてみたら当り前だ。ここ何日も、ろくに眠っていなかったのだから。
取り憑いていた何かから解き放たれたように。ぴくりとも動くことなく。今も病室で、眠っている。
結局僕には何も判らなかった。この先も、判ることはない気がする。加藤の緊張の糸が途切れた理由すら、僕には判りそうにない。
マンションの裏から聞こえてきた、何かを叩きつけたような音。不意を突いてやって来た救急車。血だらけのチビ王子。泣きじゃくるカトウナツコ。
今の僕には何も判らない。しゃくりあげるカトウナツコの漏らした、終わったという加藤を眠らせた呪文も。幸せという単語の意味も。
昼過ぎに行われるらしい事情聴取でも、それらの答えを得ることはできないだろう。
「……なあ、長井」
幸せって、なんだろうな。
うたた寝をしている長井に話しかけてみるが、当然答えは返って来ない。けれどそれで良い。僕は、自分自身に問い聞かせているのだから。
ピースに出会うと幸せになれる。あいつらはその“ピース”を追い駆けていた。そして、おそらく、終えられた。幸せを掴んだにしてはひどく危険な状態で、僕の目の前に戻ってきた。
幸せ、か。
僕にとっての幸せは、多分、こうやってくだらない考えに頭を悩ませながらも、平々凡々と生きていくこと。
叶わぬ恋に胸を痛めても、時が経てば解決してくれる。カトウナツコに笑顔が戻る日は。
「……僕なんかじゃ、無理なんだろうな」
いつの日か、きっとやって来る。
僕なんかよりよっぽど勇敢で無鉄砲で、誰よりも心配性な、眠れる森の王子様が。きっと。
僕では、到底敵わない。
衣擦れの音がかすかに聞こえた。病室の中。加藤だろうか。あるいは、姫かもしれない。
出血多量の王子様はまだ、深い眠りから覚めることはないだろう。あるいは、この先も。
いや。あのチビが、そんな簡単にくたばるタマとは思えない。薄着で走り回って、青い唇で僕を睨みつけた顔が、かすかに頭を過ぎる。
もしも王子がこのまま逝ってしまうのなら、僕は。
音を立てないよう静かに扉を開けた。多少様子を覗くくらいは、蚊帳の外の住人にだって許されるはずだ。
ゆっくりと漏れ出す光が、廊下に筋を伸ばしていく。うっすらと、中の様子を映し出していく。
「タカ……」
眠れる王子の手を握る姫が、王子の名を口にする。潤んだ瞳で王子を見詰め、僕の存在には気付いていないようだった。
「……ありがとう。そばにいてくれて」
上体をゆっくりと、王子の身体に寄せていく。二人の顔が、徐々に近付いていく。
これ以上は見ていられない。
さすがに、はなから失恋街道一直線の身とはいえ、姫の唇が他人に奪われるのを見るのは辛い。いや、この場合、姫が奪っているといった方が、正しいのかもしれないけれど。
「……ん……」
重なるふたりの影が、かすかに動く。僕は気付かれないよう、そっと、扉を閉じた。
眠れる森の美女ならば、この口付けで目覚めるだろう。眠れる森のチビ王子も、きっと。
「……夏?」
部屋の中から声が聞こえる。
「何、してんだよ」
言葉とは裏腹に、怒った様子など少しも感じさせないチビの声。力なく弱々しいが、目覚めてしまった王子の声が、僕の耳まで届いてきた。
「目覚める魔法……」
愛しい姫の声。泣きそうな安心したような、カトウナツコの笑い声。
「……泣くなよ」
「泣いてないないわよ馬鹿」
お互いの姿しか見えていないような、王子と姫。僕には、付け入る隙も与えてくれそうにない。
これ以上聞き耳を立てる気にもなれず、僕は、廊下の隅にある小さな窓へと向かった。
朝焼けが目にしみる。薄曇の空は久々の雨をもたらすかのように、僕の頬に雫を落とす。
「……幸せ、かあ」
とりあえず今は、受験戦争に打ち勝つこと。逃げていても始まらない。究極の幸せなんてものは欲しくない。目先の、小さな幸せさえ手に入れられればそれで良い。
僕は小市民で、自己中心的で。平凡な、ただの受験生だ。
ピースなんてものは要らない。探すのは、己の幸せの追求のみ。他人に頼ろうなど考えても仕方がない。
最初から最後まで。そしてこれからもずっと。
僕は、ただの部外者で。究極に幸せな傍観者。姫の幸せを願って止まない一般市民。
逃げ出さずに勉強して、大学に受かって。それから。
「ミスキャンパスとの愛を育む」
目標は、ある。やる気は、出そう。
人生十八年。負けばかりの僕の恋路も、大学に行けば何かが変わる、かもしれない。自分で歩いて、自分で見付けて。自分の手で、最高に幸せな人生を勝ち取ってみせる。
僕は、自分で歩いていく。自分で見付けていく。
今はまだ胸が痛む。けれど、そのうちきっと。今以上の幸せが待っている。
だから僕は生きていく。だから僕は歩んでいく。
今ある小さな幸せを失わないために、今以上の幸せを掴み取るために。僕は、前へと進んでいく。
これからも、ずっと。永遠に。




