飯田 隆雄@木曜日 00:00
肇は俺の言葉を聞いていなかったかのように、静かに星を眺めていた。漆黒の闇に彩りを添える、遥か遠くに飾られた宝石達。美しく煌くそれらは、俺たちの頭上で等しく瞬いている。
ピースの欠片。幸せの欠片。夜空に輝く星のように、美しく、手を伸ばしても届かないものだと思っていた。
「……隆雄、俺はさ」
星空に手を伸ばし、優しく遠くを見詰めながら、肇は断言する。
「俺はさ、みんなに幸せになって欲しいだけなんだよ」
だけど肇の言う幸せは、俺の思う幸せとは違っていて。
「幸せになりたいって人の背中を、軽く押してあげてるだけ」
魅力的で、しかし、何もかもを奪うような。
「ほんの少し勇気を出せば、いつだって手に入られるんだから」
利己的で、己の幸せしか手にできないような。
いびつな、幸せ。
「……さっきの話」
口元に笑みをたたえたまま、肇が話を切り出した。
「山田が、他に何か言ってなかったかってヤツ」
俺が足を突っ込むことになったきっかけ。夏を悲しませることになったきっかけ。
手繰り寄せようとしても切れてしまう細い糸。少しずつ解れていく偶然のパズルに、答えを与えてくれる話を。
目の前のピースは、何でもないことのように語った。
「山田にね、俺、言ったんだ」
――ピースに欠片なんてない。欲しいなら、すべてを手に入れなくちゃ。幸せになるには、方法はひとつしかないよ。
肇の言う方法。それは。
「そしたらさ、山田は『もう欠片は手に入れてるから』って」
欠片を手に入れた人間の行く末。それは。
――幸せに、ならなきゃいけないの。
死ななければ、いけないの。
曖昧で不確かで魅力的な誘惑。永遠の平和。心の安寧。永遠の安らぎ。ピースの持つ幸せを手に入れた、その先に待っているものは。
「……ま。そうやって、振られちゃったわけだけど」
死。すべてを解き放ち、無に帰り。小さな悩みや不安や苛立ちとは、永遠にさよならできる方法。
「でも途中までは一緒に帰ったんだぜ?」
途中。肇の言っている途中は、おそらく。
「知り合いに会うのも困るから、大森で別れたんだけどさ」
大森で。山田なるみの自殺現場から近い駅で。肇は山田なるみと別れた。
しかし何故。山田なるみだったのか。
リストに載っていたほかの人間は、共通項もあまりない。身近な人間に手を出せば、いつか必ず気付く者が現れる。豊兄のように、調べ上げる者が現れる。
中学でも高校でも、同じクラスの人間には囁いていなかった。夏の周囲で起こる事象に、リストがなければ気付けなかった。
それなのに、何故。
「何で、山田なるみだったんだ?」
尋ねたところで、答えは出ないかもしれない。だけど。
「……好きだったから」
だから。あまりに意外な答えが返ってきたので、俺には意味を推し量ることができなかった。
「好きだったんだ」
楽しげに語る肇の顔が、あまりに無邪気で。
「だからさ、悩んでる顔なんて見たくなかった」
心から『幸せにしている』と信じているようで。
「悩むようなことになるんだったらさ、今のまま」
自ら認める事実の重さに、気が付いていないようで。
「幸せな時間のまま」
目の前には、俺の知らない人間がいた。肇によく似た顔をした、ピースという名の知らない男が。
「永遠に悩まずに済む方が、良いんだよ」
こいつは俺を止めようとしていた。ピースに関わるのを、止めさせようとしていた。
それが意図することは、ひょっとしたら。
「……肇?」
いや違う。ピースは幸せの死者だ。俺だけが例外になるはずがない。しかし。
突然の事態に戸惑って、鳩の羽に怯えて。ピースの欠片に振り回されてもなお。死という名の永遠が、俺には向いていないと。
だけどそれでは。さっきの、夏に救われたときのことが、説明できそうにない。
俺がいくら睨み付けても、肇は揺らがない。確固たる信念と、確固たる自信。ピースの欠片を操るピースは、決して揺らぐことがない。
偶然の連鎖に惑わされていた俺なんかには、とても。
「タカ……」
腕に、力が込められた。夏の温もりが、俺の身体に伝わって来る。
ピースの呪縛から解き放たれることが、一番の解決策だと思っていた。俺の隣に立つ夏を、守ることだと思っていた。
完成しちまったパズルは、欠片を組み合わせたいびつなパズルは。
「関口も、幸せになったかな」
俺にはもう、どうしようもないくらいに強大で。
「……手掛りを見付けた、なんて聞いたんだから。道はもう決まっていたんだけどね」
偶然を必然と認めることが、これほど。
「俺は、教えただけ」
失うものが多いことだと知っていたら。
「……『ピースはいつでもそばにいるよ』って」
俺は、事実を解き明かそうとしただろうか。そのまま気付かぬ振りをして、気付かぬまま怯えて。時が経って怯えの原因を忘れた方がよほど。
よほど。幸せだったのではないだろうか。
腕にしがみ付く夏の髪を撫でる。俺が余計なことをしたから、夏を傷付ける結果になっちまった。掌の上で踊らされていた方が良かったのに。
掴みかけていた何かを、掴まない方が良かったのに。
「あーあ。まさか隆雄に見付かっちまうとはなあ」
ピースの囁きがこだまする。
「永遠の幸せも捨てられちゃったしなあ」
肇の囁きがこだまする。
「……俺も、幸せになろっかな」
幸せの使者が、幸せになろうと言っている。
それは、つまり。
「佐藤……!」
俺の隣から、叫び声が聞こえた。はっとして目の前にいたはずの肇の姿を探したが、見付からない。
後方から金属の擦れる音がして振り返ると、そこに、ピースが立っていた。
「幸せになるわ、俺」
柵に手をかけ、満面の笑みで言い放つ。
「だって隆雄にそんな風に否定されちまうなんてさ」
違う。俺は否定していない。否定できるほど見付けられていない。まだ、欠片の固まった曖昧な形にしかできていない。
「肇、待て……!」
しかし俺の言葉は、俺の言葉の真意は。肇には届きそうにない。永遠に、届きそうにない。
「待たないよ」
俺の思う幸せの形は、永遠に。
「……面倒臭いからさ。人生なんて」
肇には、届かない。
ゆっくりと、肇がフェンスに手を掛ける。よじ登り、柵の外に足を伸ばす。
「一応さ、遺書とか用意してあるし。気にしないで」
違う。そういう問題じゃねえよ。
「俺はさ、誰かに背中を押して欲しかっただけかもしれねえな」
違う。俺は背中を押したわけじゃねえよ。
「……ありがとな、隆雄。最初も、最後も」
待てよ。俺は、ただ。
「今から俺は幸せになる」
ただ、知りたかっただけなんだ。
「肇……!」
死んだって幸せになんかなれねえよ。本当は、判ってたんじゃないのかよ。
夏の腕を振り解き、急いで肇のそばに駆け寄った。柵の中から手を伸ばし、飛び立とうとする肇の腕を掴む。
離さない。まだ、聞きたいことはいくらでもある。話したいことはいくらでもある。
「隆雄」
困ったような顔をして、ピースがズボンに手を伸ばす。錆付いたカッターナイフを取り出し、俺の腕に切りつけた。
鮮血が滴る。しかし、痛みは感じない。感じているほど、余裕はない。
「邪魔すんなよ」
傷口は浅く、冷たい風によって凍り付いていく。滴る血液は生命の証。幸せの、証。
「邪魔なんてしてねえよ!」
もしも本当にピースが幸せを運ぶ存在なら。今の、俺の願いを叶えて欲しい。肇を、止めて欲しい。
目の前にいる幸せの死者なんかでなく、他に存在するのなら。俺の願いを叶えてくれ。
「肇! まだ聞きたいことがある!」
俺の惑わされていた幻の幸せなんかでなく、本当の幸せが存在しているというのなら。
「……俺は、話すことなんてない」
カッターナイフを握りなおし、困ったように眉尻を下げ。肇が、最期の挨拶を告げる。
「じゃあな、さよなら」
力を込め、カッターナイフを俺の腹に突き刺した。どくどくと、生命の音が腹から漏れ出す。滴り、こぼれ落ちていく俺の生命を確認し、肇が遠くを見やった。
満点の星空。煌く夜空。美しく煌く世界に飛び立ったとしても、その先にあるのは。
「……肇!」
――無の世界。
幸せになりたいと願っていたのは、本心からじゃなかったのかよ。死んだって幸せになんかなれねえよ。
溢れる血を押さえ手を伸ばしても、飛んでいってしまった肇には届かない。精一杯伸ばした腕が、冷たく虚しく宙を切る。
ゆっくりと、スローモーションのようにゆっくりと。肇の身体が遠ざかっていく。小さくなり、地面に近付いていく。
そこにピースはあるのか? そこに、幸せはあるのか?
答えろよ、肇。
「肇!」
暗闇の広がる世界に飛び立った肇を、祝福する衝撃が聞こえた。激しく叩きつける音が、俺の脳内にこびり付く。
肇、何でそんなに幸せにこだわったんだよ。そんなことにも答えないで、何で逝っちまったんだよ。
教えてくれよ。
「何で」
何も解決なんてしてやいない。何も解き明かせてなんていない。
先程まで肇が立っていた場所に、手を伸ばしてみた。何もないそこには、それでも確かに。
欠片でなく、いびつでなく。確かな死者が、そこには。
「……ピースが」
腹から溢れる血が止まらない。頭も身体も、地面に吸いつけられていく。
ああ。俺も一緒に逝こうってことだったのかよ。逝った先で、答えるってことだったのかよ。
やっぱり逃す気なんてなかったのかよ。
頭が朦朧としていく。視界が霞んでいく。目の前に広がる星空が、無限に広がっていく。
「タカ……!」
俺のそばに駆け寄ってきてくれた夏が、力強く手を握る。守り通せた喜びに、俺の顔が綻んでいくのが判った。
夏を守る盾になる。上手く機能しなかったけど、それでもどうにか役には立った。
あとは、豊兄が何とかしてくれるはずだ。俺には、もう。
「タカ!」
背中に感じる生暖かい液体が、俺の残りを示している。最期に夏と過ごせたのは、悪くなかったかもしれねえ。悲しませることになっちまうのは、ちょっと、計算外だったけどな。
「な、つ……」
上手く声が出せねえよ。
「笑え、よ」
結局何にもできなかった。守り通すことができなかった。悲しませることしかできなかった。
でも。
「……笑顔でいて欲しいって、言ったろ?」
この願いだけは、この我儘だけは聞いて欲しい。
霞んでいく視界に映るのは、愛しい。
「タカ、しっかりして!」
夏の。
「目を開けて!」
悲しい。
「救急車呼ぶから!」
笑顔。
最後に笑顔を見せてくれてありがとうな、夏。でも、涙はちょっと、余計だったかもしれねえな。
「……タカ……!」
夏の笑顔を脳裏に焼きつけ、俺は、ゆっくりと、目蓋を、閉じた。




