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飯田 隆雄@水曜日 23:35

 どうして。その言葉しか、俺の頭の中にはなかった。

 どうして、夏は帰ろうとしない。どうして、ピースは完成しちまった。どうして。

「肇……」

 どうして一番最悪な形で、完成しちまったんだよ。

 隣に立っている夏に目を向けた。真剣な眼差しで、それでも俺の中で完成しちまった欠片の残骸に気付かぬ様子で、じっと佇んでいる。

 判らない方が良い。知らない方が良い。世の中には、知らないままでいた方が良いことがごまんとある。これは、そういう類のものだ。

「……加藤。隆雄の言う通り帰った方が良いんじゃない?」

 将棋の駒を動かすよう、肇は夏の行動を制御する。欠片の残骸が、夏の思考を制限する。きっと、そう。だから。

 惑わされるな。お願いだ。残るなら、惑わされないでくれ。

「嫌」

 俺の腕を掴んだまま、夏が大きく首を振った。束の間の安堵かもしれない。気のせいかもしれない。だけど、俺は胸をなで下ろした。

 しかしピースが、俺の思っているようなものならば。

「なあ、肇」

 聞きたいことは山ほどある。聞かなければならないことは山ほどある。だけどその言葉を聞いちまったら、俺は。

「何で」

 俺は、もう、戻れなくなる。

「何で、山田なるみを」

 夏の隣に立てなくなる。

「山田なるみを……」

 口が渇く。続きを言葉にすることに戸惑いを感じる。もしもこのまま、何も知らない振りをしてやり過ごすことができたならば、俺はきっと。

 きっと。何も失わずに済むだろう。

「……殺したんだ?」

 親友も、恋人も。自分のすべても。失わずに済むだろう。

 冬の屋上は凍えるほど寒く、しかし俺の麻痺した感覚では冷たい風を感じない。吐き出す息の白さも、吹き荒ぶ冷風も、俺の身には届かない。何もかもが、届きそうにない。

「……どういう、こと?」

 震える唇で夏が呟く。だけど今の俺には、夏の言葉さえ、どこか遠くから聞こえて来る雑音のようにしか感じなかった。

 ――ピースに出会うと幸せになれる。

 頭の中をこだまする、ピースの噂話。単純で明快なその言葉だけが、俺の中を支配している。

 俺は欠片に出会っちまった。欠片に出会って、欠片を探して。欠片を組み合わせたいびつなピースを完成させて。

 欠片しか手にできない俺の行く末は、おそらく。

「殺したなんて人聞き悪い言い方すんなって」

 肇が、静かに微笑む。

「……幸せに、なったんだからさ」

 星空を見上げる肇の表情には、何の穢れもない。純粋で真っ直ぐで。まるで何かを慈しむように目を細めたさまは、中学時代の、バスケ部時代の肇よりもずっと。

 ずっと。

「なあ、隆雄」

 うっすらと微笑みを浮かべたまま、肇が俺を見詰めた。その瞳は射抜くように鋭くて、しかしどこか優しさも感じる。

 たとえその優しさが、間違いだったとしても。

「幸せになりてえよな」

 肇の瞳に写る世界が、歪んでいたとしても。

 ゆっくりと歩み寄って来る肇から、逃げられそうになかった。足がすくんでいるのとも違う。手にしちまった欠片達に押さえつけられているわけでもなく。

 これは、俺の意思か。

「……肇」

 完成しちまったピースは、答えになんてなりやしない。初めから答えなんてものは、きっと。

「どうやって、山田なるみを死に向かわせた?」

 存在していなかった。だから肇が何を言おうとも、肇が何と答えようとも。それが最低の結末しか暗示していなくても。

 俺の意思で、すべてに。

「答えろよ!」

 終止符を、打つ。

 俺の隣でただ震えているしかできない夏を守る。初めから決めていた。俺は、夏を守る盾になると。

 もしも俺のすべてを失うことになっても、夏だけは守り抜きたい。伝えた言葉の重みに押しつぶされそうになっても、夏には豊兄がいる。俺なんかよりずっと頼りになる人間がいる。

「どうやってって? 俺が突き飛ばしたとでも言いたいわけ? 山田さんが自殺した時間、俺はもう帰ってたし。それは隆雄も覚えてんだろ?」

 だから、俺は。

「ま。そういう意味で言ってんじゃねえってのは、判ってんだけどさ」

 柔らかな笑みをたたえ、肇が言葉を続ける。耳に届くようで、何も伝わらない言葉を。具体性の欠けている、曖昧で不確かな言葉を。

「ああ、そうだ。隆雄さ、覚えてない? 煙草吸い始めたきっかけ」

 いや、違う。

「……関係、ねえだろ」

 俺が気付かないふりをしているだけで、本当は。

「あるよ」

 目の前の友人が、知らない誰かに見えた。

 知らない誰かが、知らない何かを口にしている。知らなくて良いことを、知らない方が良いことを、口にしている。

「あれってさ、俺がちょっと背中を押したからなんだよ。お前の性格だったらさ、そもそも煙草なんか吸い始められるわけねえじゃん」

 背筋が、冷たくなるのを感じた。

「だってさ、自分以外を巻き込む可能性があるんだぜ? 見つかった場合のリスクがでかすぎんだろ」

 完成したピースは、俺が思っていたような、手に出来るものでなく。

 雲を掴むように曖昧で。

「隆雄、気付いてなかった? 不自然だと思わなかった?」

 滲む影のように不確かで。

「それが本来のお前の意思ってのは、もちろん大前提なんだけど」

 侵食する。自らの意思を。

「苛立ちの捌け口としてさ、隆雄の意識ん中にあったんだよね。ただ、迷ってた」

 侵入する。他人の意思に。

「だから俺が背中を押してやったんだよね、軽く」

 ほんのちょっと背中を押す。ほんのちょっと背中を押される。無意識下の意思を明確に、形をもって知らしめて。

「な? 関係ある話だったろ?」

 ポケットの中の煙草に触れた。俺の意思と信じていた、煙草を吸うという行為。だけどもし肇が背中を押したせいならば、俺は今まで、どうして。

「隆雄のおかげでさ、俺、導き方が判ったんだよね。そういう意味でもさ、感謝してるよ」

 力を込め、握り潰す。潰された煙草の箱は、俺の意思の表れだろうか。それとも、肇の意思の表れだろうか。

 それとも。

「なんで……」

 押された背中は、俺の意思。踏み出せない一歩を踏み出す。しかし、それは。

「だってさ、幸せになりたいじゃん?」

 歪んだ世界の、歪んだ意思。踏み出したくない一歩を踏み出す、無理矢理な。

「誰だって不幸にゃなりたくねえじゃん?」

 それは、誰の意思だ?

「だからだよ。山田がさ、今が一番幸せだって、言ってたからさ」

 ――受験のことも将来のことも気にせずゆっくりと過ごせる今が、一番幸せなのかもしれない。

「……なあ。隆雄はさ、幸せ?」

 肇が囁く。幸せかと問い掛ける。

 幸せになれるように、ほんのちょっと背中を押しながら。ほんのちょっと背中を押して、ほんのちょっと死を意識させて。

「今は幸せ?」

 ――死を、受け容れさせて。

「じゃあ明日は? 来年は?」

 これから先、不幸が待っているのなら。今を、永遠に。

 夏と共に過ごす幸せを。今を。永遠に。

「隆雄、知ってた? ピースってさ、平和って意味なんだよ」

 平和。

「穏やかな状態。何ものにも侵されない、永遠の自由」

 永遠の、自由。

 将来を悲観する必要もなく、周囲に気を配る必要もない。何も失うこともなく、すべての束縛から永遠に放たれる――幸せ。

 幸せの死者。ピースは初めから、死という名の幸せを運んでくれる存在だった。だとしたら。欠片を手に入れた人間は、ピースに出会って幸せに。

 幸せに、死んだ。

 俺も。幸せに、死ぬ?

「……永遠の、自由」

 幸せになりたい。ささやかで慎ましい願い。失うより前に、失うことを考えずに。この温もりを失うこともなく、永遠に。

「隆雄には向いてないと思ってたんだけどな」

 遠くから、肇の笑い声が聞こえる。満天の星が降り注ぐ、永遠の煌き。すぐそこに存在している幸せ。ピースは、手の中に。

 何かに促されるように、ゆっくりと足が動いていく。ゆっくりと、屋上のフェンスに近付いていく。あと少しで、ピースが、手に入る。

「……バイバイ。幸せになれよ」

 肇の囁きが、俺を刺激する。あと少しで、俺は、幸せを手にすることができる。何も失わない、永遠の自由を。今の幸せを、温もりを。失うことのない平和を。

 ――ピースに出会うと幸せになれる。

 あの話は、本当だ。俺はもう少しで永遠の幸せを手にできる。ピースを。欠片でなく本物の平和を手にすることが。

 幸せの死者。やっぱりあれも本当だった。豊兄のおかげで気付けたよ。穏やかな、満たされた気持ちで永遠を手にすることが、なによりも最高の。

「……ピース……」

 俺は何を恐れていた? 幸せになるために、ほんの少し捧げ物が必要なだけだというのに。山田なるみも関口咲も、リストに載っていた全員が。ただ、幸せになっただけだというのに。

 ひんやりと冷たい柵に手をかけた。冷たいなんて感覚は、俺にはもう必要がない。外部からの刺激とは、もうすぐ、永遠にお別れができる。

 怪我をする痛みも、失う恐怖も。すべてと、さようならだ。

「タカ……!」

 体重をかけ柵を乗り越えようすると、背後から邪魔をされた。必死の羽交い絞めで、俺の動きを止めようとしている。

 幸せを手にする邪魔をするのは、愛しい。

「……夏」

 俺の、一番失いたくないもの。一番、悲しませたくない人。

「夏、俺……?」

 惑わされたのはこの俺だ。夏ではなく、俺が、ピースに惑わされていた。

 ――永遠の幸せ。

 そんな甘言に弄ばれて、まやかしの幸せに取り付かれて。危うく、すべてを失うところだった。夏を残し、何も守ることもできず、永遠の暗闇に迷い込むところだった。

「タカ、良かった……」

 笑顔で涙をこぼす夏を、置いて逝ってしまおうなんて。そんなものは、ただの。

 ただの、エゴイズムに過ぎない。

「夏……」

 俺の思う幸せは、今のささやかな喜びで。無に帰すことで永遠を手に入れるような幸せなど、俺は欲していない。

 俺が欲している幸せは、ただひとつ。

「夏、良く聞け」

 今の延長線上にある、未知の未来。夏と共に歩み続けられるかなんて判らねえ。この先どうなるのかなんて知ったこっちゃねえ。失うかもしれない。今より不幸になるかもしれない。

 けどな。ひとつだけ確かなことがあるんだよ。

「少なくとも俺は今、夏のことがなによりも大事だ」

 だから。逝っちまうわけにはいかない。

 夏が俺を必要としている限り、俺は、留まり続けるしかない。留まり続けたい。

「惚れた女の悲しむ顔なんか、見たくねえんだよ」

 永遠の幸せなんてものはいらない。欲しいのは、俺が一番欲しいものは。

「……馬鹿」

 夏の、笑顔だ。

 この先、失うことになっても。今が、永遠にならなくても。俺の心の中で、永遠にすれば良い。

 そんな簡単なことに、俺は今更、崖っぷちに立ってようやく。気付くことができた。

「隆雄には、やっぱ、向いてねえんだなあ……」

 肇の言葉が耳に突き刺さった。惑わされ、踊らされた正体に、どうしても確かめなければいけないことがある。

 溜息混じりに星を見上げるピースに。惑わされることなく、踊らされることなく。俺の意思で、確かめたい。

 真冬の夜中の冷たさが、俺の思考をまともにする。頬に当たる風が、纏わり付いた欠片を振り落とす。

「ピース……」

 それは平和であり、欠片であり。

 甘い言葉で闇へと誘う存在であり。肇という友人であり。

 死への片道切符を渡す存在であり。振り回し、惑わす存在であり。偶然の糸を繋ぐ、唯一の存在であり。

「……何で」

 取り憑く闇の存在であり。闇を振り払う存在であり。幸せを運ぶ存在であり。死を運ぶ存在であり。

「幸せに、こだわる?」

 曖昧で不確かで、いびつで利己的で。だけど誰もが手にしていて、身近な、存在。

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