加藤 夏子@水曜日 23:10
待ち合わせ場所は屋上だと、タカが言っていた。こんな時間だから。家の人に迷惑がかかるから。その理由は判らなくはない。けれど。だったら。こんな時間に会おうというタカの誘いを、断れば良かったのに。
佐藤と電話したことで、佐藤の無事は確認されている。佐藤が無事なら、明日にでも話を聞けば良いのに。思い違いかどうかなんて、そのうちにきっと判る。ピースに踊らされている私たちは気付けていないけれど、もうとっくに。
「……着いたぞ」
最上階に止まったエレベータを降り、階段へと向かう。屋上は給水用の設備があるだけのがらんどうで、夜空に瞬く星々が、頭上を美しく飾り立てていた。
最後の手掛り。最後の一ピース。
佐藤の握る手掛りを得れば、答えは出せるだろうか。
もしも。私たちが手にしたピースの“手掛り”と、佐藤の握る“手掛り”。これらを組み合わせて、いびつなパズルが完成してしまったら。その答えは。
「隆雄! 悪かったなこんなところで」
月明かりを背景に、佐藤らしき人物が手を振っている。いびつなパズルの最後のピースを手にしている人物。教室で話したときは、そんな風には感じなかったのに。
今は、少し。
「タカ……」
握る手に力を込め、感情を抑える。この感情の答えは知っている。知っているけれど、認識したくない。
「俺こそ悪かったな。急に話したくなっちまってさ」
背後から照らす月のせいで、佐藤の表情がはっきりとしない。悲哀を感じるような、嘲笑が混ざっているような。最後のひとかけらを、手にしてはいけないような。
そんな、表情に見えた。
「良いってことよ。電話じゃ上手く伝わんないかもしれねえし」
眼鏡を外し、タカを射抜く。けれどタカは、一歩も引かない。
「なあ、肇。伝え損ねたことってなんだ?」
私の手を力強く握り締め、ここに来た理由を次々と口にする。
「勘違いって何のことだ?」
佐藤は、なるみと最後に会った人物。咲とピースの話をしていた人物。最後の手掛りを持っている人物。
タカが何処まで知っているのかは判らない。あの日私がタカから電話を受けたとき、咲と佐藤は会話をしていた。その内容について、タカは問い質そうとしているんだろうか。
――肇は大丈夫。死にやしない。
タカが言っていたこの言葉の真意は、私には判らない。
「そう急ぐなよ。ね? 加藤もそう思わない?」
クラスメイトの顔で、佐藤が私に問いかけた。けれど私には、どう答えるのが適切なのかが判らない。佐藤が無事なら私たちも大丈夫だと、タカの言葉をそういう意味だと思っていたから。
冷たい夜空に、刺すような空気。吐き出す息の白ささえ、暗闇には敵わない。
「良いから答えろよ!」
タカの怒号に違和感を覚える。私の確信とタカの確信が、違うものだと気付かされる。佐藤の握っているピースは、私の持っているパズルにははまらないのかもしれない。今更ながら、タカの不自然な様子が思い返された。
――帰れ。好きだ。
タカの言葉はいつも足りなくて、何を伝えたいのかが判らない。
聞き流せと言われたから、私は聞いていない振りをした。嬉しい言葉のはずなのに嬉しく思えなかった理由は、ひょっとして。
「何を伝え損ねたんだよ。何が勘違いなんだよ」
既に佐藤も、死の淵に立っていると。今、会ってしまったら、ピースの影から逃れられなくなると。
タカはそう、考えていたのかもしれない。
「判ったよ……」
ひどく面倒なことのように、佐藤が大きく溜息を吐いた。そのままゆっくりと、私たちの方へと歩み寄って来る。眼鏡を外したまま、まっすぐに。
「じゃ、まずは。用件その一」
眼鏡をタカの手に握らせ、佐藤が空を仰いだ。満天の星が、佐藤の姿を照らし出す。
「伝え損ねたこと、な」
からかうように悪戯な微笑を口元に浮かべ、佐藤が言葉を紡ぐ。
「山田の話」
なるみの、話。日曜に佐藤と待ち合わせて、その帰りに自殺した。私が知っている事実はそれだけだ。多分、タカも同じようなことしか知らない。
伝え損ねたことなんて、ないように思う。
佐藤はなるみに振られて一人で帰宅した。駅で会った時間や、教室で話した内容。すべてを繋ぎ合わせても、そうとしか考えられない。それ以上の事実なんて、きっと。
「上野でさ、動物園に行ったんだ」
それは知っている。
「園内で昼飯食って、でさ」
それ以上の事実なんて。
「俺、山田から付き合おうって言われてさ」
きっと、存在しないと思っていた。
足元が崩れていく。転がっていた事実は、私の持っていたものとは異なっていて。なるみが、そんなことを言い出すはずがないと信じていて。
けれど目の前の当事者は確かに。
「振られた、の、経緯。……勘違いしてたでしょ?」
こんなことで嘘を言うようにも思えない。けれど、私が聞いたときは『振られた』としか言っていなかった。
にっこりと微笑みかけるように、佐藤が私の顔を見る。私の発言を待っているのか、佐藤は続きを喋ろうとしない。
「……どういう、意味?」
搾り出した私の言葉は、あまりにも弱くて。弱過ぎて、求める答えまで辿り着けそうにない。
「山田に振られたのは本当。でも、向こうから言ってきたのも本当」
事実が見えない。佐藤が告白して、なるみに振られたのだとばかり思っていた。
けれど。もし佐藤が言っている通りだとしても、だからと言って“手掛り”になるとは思えない。いびつなパズルに、佐藤の振られた経緯が関係しているとは、とても。
「山田に『ごめんなさい』って言われたのも本当」
断片的過ぎて、全体像が判らない。
「何で」
タカがゆっくりと口を開く。まるで存在していない答えを掴むかのように。ゆっくりと、噛み締めるように声に出す。
「何で、山田なるみは自分から言って、自分から振ったんだ?」
自分に問うているような、佐藤に尋ねているような。
崩れ落ちた足元に落ちていたのは、鳩の羽。なるみの荷物に混ざっていた、上野公園の鳩の羽。けれどタカは、関係ないと言っていた。
「さあな。俺にも良く判んねえよ。判ってたら振られてないんじゃね?」
なるみの自殺の原因。そこに、佐藤との奇妙な関係が存在しているとしたら。
「……ねえ、佐藤」
ヒントが、手掛りが。そこにあるのかもしれない。
「なるみ、何て言って佐藤のことを振ったの?」
ひどい質問だと思う。振られた人間の傷口に塩を塗って。塞がることのない傷に仕立て上げて。
「ごめんなさい。私、幸せに」
――幸せに、ならなきゃいけないの。
遥か遠くに浮かぶ星空を眺める佐藤の表情は、開いてしまった傷の疼きに必死に耐えているようだった。私が口にした質問が、あまりにも冷たくて。あまりにもひどくて。
私は、最低だ。
「付き合えた時間はほんのわずかでさ。昼飯食ってから公園に出て、駅まで向かう間だけだったかな」
なるみが見付けたピースの手掛り。幸せにならなきゃいけない。幸せは、ピースと出会うことで手に入る。手掛りは、既に掴んでいたのかもしれない。
けれど。掴んでいたとして。それが鳩の羽ではないとして。いつ、何処で、どうやって手に入れたのか。
私には、考えようがない。
それ以上に。ピースの手掛りを掴んだからなるみが自殺した、というのは、ただの詭弁に過ぎないんだ。ピースにこじ付けて何かのせいにしようとして。
咲が殺されたのも、本当は。
違う。なるみも咲も死ぬような子じゃなかった。死ぬ必要なんてなかった。ピースの手掛りを手にいれたから、ピースのせいで。
これがただの願望だということは、最初から気付いていた。けれど、積み重なった偶然は。
偶然では、ない。
掌で踊らされている。偶然だと信じた方がきっと。
「幸せに、ならなきゃいけないの」
きっと、楽になる。
口にしてみるとあまりに陳腐で滑稽で、情けないほどに非現実的な台詞。なるみが口にするとは思えないほどに、軽くて安っぽい言葉。
ピースの手掛りを見付けたと咲に電話したのは、なるみが佐藤と別れてから。けれど佐藤と別れるときに『幸せになる』と言っている。
幸せは、ピースと出会って手に入れる。咲に電話するより前に、手掛りを手にしていたと考えた方が辻褄があう。佐藤と一緒にいるときに、手にしていたと考えた方が。
「なるみ、他に何か言ってなかった?」
人の傷口を広げて。私が安心を得るために、私以外を犠牲にして。
「ああ。言ってたよ」
私のその質問が、ピースの存在を肯定するものになってしまったとしても。
「何て?」
怯えていた。私たちに取り憑いている存在を、肯定してしまうことになったとしても。
確かめたい。ただの噂に振り回されているわけではないと、確認したい。
「……用件そのニ。勘違い」
溜息と共に、佐藤が話題を変えようとした。
「待てよ。……答えろ」
はぐらかされてしまった理由が、何故なのかが判らなくても。私の隣に居続けてくれているタカと、同じ何かを見ていたい。
鳩の羽は関係ない。けれどピースは関係ある。その答えが、佐藤の言葉に隠されているような気がして。
「しょうがねえな」
星空を見上げていた視線をタカに移し、佐藤が口を開く。
「とりあえず先に、用件そのニ」
その表情は先程までの愁いを帯びた表情ではなく、例えるなら。
「勘違い」
満面の笑みで遊びに夢中になっている子供のような。
「ピースの噂なんてさ」
悪意ある悪戯を無垢という仮面で覆い隠しているような。
「……広がってねえよ、全然」
佐藤の発した言葉の意味と、佐藤の見せる表情。そのすべてが、何かを含み、何かを隠しているようにしか見えなかった。
目の前のクラスメイトが見せる笑顔の意味が判らなくても。言葉の意味を理解できなくても。次に口にした言葉の意味が、私には判らなくても。
「幸せになれるってのは本当。でも、噂なんて広がってねえよ」
佐藤の持っているピースが、私の持っているいびつなパズルにはまらないことだけは判った。はめ込もうとしても無駄。最初から、ピースなんてものは。
「……これが、勘違い」
曖昧で不確かで。姿なんて存在していなくて。いくら追い掛け回しても、いくら手掛りを掴んでも。最初から存在していない本体を、手にすることなんてできやしない。
私は何処で、誰にピースの話を聞いた? 広がっていない噂だとしたら、何処で私は耳にした?
出会うと幸せになれる。ひどく曖昧で不確かで、だからこそ魅力的な言葉。いつの間にか知っていて。いつの間にか信じていて。
けれどそれは。
「広がってない、か」
私の混乱とは違い、タカはひどく冷静だった。まるで知っていたことを、確認しただけのようで。静かに星空を見上げ、ゆっくりと言葉を放つ。
「やっぱりな。……ユタ兄は良いとこまで行ってたんだよ。あとちょっとで辿り着けるところまで」
それでも、大事な何かが欠けていた。
ピースに出会うと幸せになれる。欠片を手にすると不幸になる。
もしもピースが、幸せの欠片しか手渡さない存在だとしたら。死への片道切符しか持っていない存在だとしたら。
背中を押すことが、幸せの欠片だとしたら。
ありえない。噂の範囲だって、私が知っている程度には広がっていた。ピースを見付けた、なんて話は聞いたことがなかったけれど、噂は誰でも口にしていた。
広がっていない噂だとしたら、どうして。
「……何となく、完成したわ」
どうして、こんなに惑わされているの?
タカの言葉が耳に入らない程、私は混乱していた。広がっていない噂、死の使い。幸せになれる存在。
佐藤の言葉では、私のパズルは埋まらない。なるみが死んだ理由にも、咲が殺された理由にも繋がらない。
「どっちに転ぶかは判んなかったけど、完成しちまったよ」
忌々しげにタカが呟く。タカには、何が判ったというのだろう。何が完成したのだろう。
隣に立てたと思っていたタカは、私よりずっと前を走っていて。どんなに頑張っても、決して追い着くことなんてできないのかもしれない。
握り続けていた手を振り解き、タカが私を突き放す。
「夏、帰れ」
どうして隣に居続けさせてくれないの?
私はタカと違って完成させられていない。不安定なピースを、はめ込むことができていない。けれど。
「嫌」
タカがそばにいてくれないと、私は。
「死にたくねえなら帰れ!」
意味が判らない。どういう意味?
「嫌! 約束したでしょ? 離れないって。そばにいるって」
ここで手を離したら、きっともう、二度と。
「夏……」
タカが背を向け、私に優しく言葉をかける。
「お願いだから、帰ってくれよ」
けれどそんな言葉、私は聞きたくない。
「嫌。私は、タカのそばにいる」
これ以上、私の周りから人がいなくなるなんて耐えられない。なるみや咲と同じように、タカもいなくなるなんて耐えられない。
手を離したら、きっと。
「良いんじゃない? 隆雄と違って加藤はまだ気付いてないみたいだし」
何に?
「だから帰れって言ってんだよ!」
私にではなく、目の前の佐藤に向かって叫んでいるタカの言葉は、私を思ってのものだと判っている。けれど。
タカに駆け寄り、腕を掴む。二度と離させない。ピースの存在に振り回されているのは、私も同じだから。
「……夏」
欠片を手に入れてしまったのは、私も同じだから。
「帰らない。……こんな夜道を女の子一人で帰らそうって言うの?」
もしもピースが完成していても。取り憑いた闇が二度と晴れないとしても。ピースには欠片しか存在していなくても。この先に待っているものがひとつだとしても。
このままタカを失うことの方が、私には、ずっと恐ろしかった。




