高橋 一朗@水曜日 22:45
加藤は抜かりない。僕たちに促されるままチビを追い駆け始めたときに、ちゃっかり自宅に電話を入れていた。しかも、僕らのフォローも忘れなく、だ。
何が『相談事を聞いてて帰れないかもしれない』だ。何が『タカと夏子も一緒にいる』だ。嘘ばっかり言いやがって。素直に聞くおばさんもおばさんだ。加藤の普段の生活態度が窺い知れる。
手間の掛からない良い息子、だろうな。きっと。
「……何か言ったか?」
大いに心の中では言っていたが、口には出していない。
「何も言ってないっての」
だからこれは嘘ではない。僕だって弟が素直な良い子だったら、家で散々喚き散らしたり、この歳になって小学生と本気の喧嘩をしたりなんてしないのに。
羨ましい限りだ。全く。
「で? あいつら何処行った?」
この状況を楽しんでいるらしく、長井が呑気に口を開く。
「死ぬとか佐藤とか言ってたな。佐藤ってヤツの家に向かったってことか?」
多分そうだろう。加藤を見ると、静かに頷いていた。
「夏子の、同級生らしい」
しかしそれ以上は判らないらしく、加藤はうな垂れ足元を見詰めた。何かを考え込んでいるらしく、時折ぶつぶつと声を上げている。
僕には全く判らない。ただの噂話にこんなに振り回されている理由が判らない。
チビが深刻な顔をして“死”なんて言葉を放つから。カトウナツコの周囲に“死”が纏わり付いているから。僕が聞いたピースの噂。加藤が言っていた幸せになれる存在。女子高生から立ち聞きした行方不明の話。
僕がそんな話を吹き込んだから、加藤は因果関係を疑っているのだろうか。
「すべての偶然を、偶然として解釈したらいけないんだよな」
加藤の呟きが耳に入る。カトウナツコの高校の生徒が、連続して死んでいる。少なくともふたり。春先に首吊りで一人。ここに因果関係を見出す方が。
「鳩の羽、か」
おかしい。どうかしている。
自殺した山田なるみはカトウナツコの友人で、昨日の夜に僕が見かけた女子高生はカトウナツコの同級生。チビ達が名前を出したのも、カトウナツコの同級生。
ピースとやらが人を死に至らしめる存在と仮定して、カトウナツコの同級生が死ぬんじゃないかと想定して、行動して。
チビも加藤も、どうかしている。
「鳩の羽がどうかしたのか?」
長井が加藤の顔を覗き込み、質問した。
「あ? ああ。何でもない」
しかし何でもないと言う割に、何でもないことを語っているようには見えない。何かに憑り付かれたように、加藤は、因果関係を探り続けている。
あいつらの無茶苦茶な論理に付き合って、ピースが存在するとして。ピースが意味するものは幸せ。ピースと鳩は、おそらく。
「鳩ってのは、平和の象徴?」
そう。これでひとつの線が繋がる。
「でも関係ないんだって。さっきタカが言ってた」
せっかく繋がった線を断ち切るように、加藤が口を開く。
「俺はさ、公園が怪しいと思ってたんだ。でもな、全部否定されちまった」
リストに載っていたPの文字。丁寧に書かれた公園の名称。すべてが、加藤の思い過ごしに他ならないと。
あのチビによって否定された。加藤の掴み掛けた真実は、はたして本当に。
「ピースって、本当にいるのかな」
あのチビにとっても、有益な情報だったのか。
「くだらない都市伝説だろ? んなもん」
長井のように、完全に否定することはできない。だからといって、有耶無耶に肯定するのも違う。あいつらには何が見えている?
「でもさ、いたら面白いよな。どうやって幸せにしてくれるのか気になるし」
呑気な長井の口調は死とは無縁で、周囲からの誤りだらけの情報を鵜呑みにし存在しない何かの掌の上で踊らされている現状とは懸け離れている。
いや、この反応こそが正しい。僕も、無意識下で踊らされているに過ぎないだろう。
「……僕、大学合格したいわ」
天神様への祈願と同じ。神頼みがピース頼みになるだけで、何も変わりはないはずなのに。
「でさ、ミスキャンパスと恋に落ちるってオプションもつけてさ」
自分で口にしていても、空々しさしか感じない。
「だったら今すぐ家に帰って勉強したまえ高橋君」
「おう! そうっすね神様」
口先ではいつも通りに適当な会話を楽しめているが、僕は。
「馬鹿者! 私は神様ではないわ」
この偶然のパズルに、答えが存在しているような気がして。
「では何というお名前で?」
惚れた男の弱さかもしれない。
「長井様じゃ」
カトウナツコの行動を、否定する気になれないのは。
「ははあ。長井様あ」
僕はどうかしている。チビや加藤を否定できないくらい、僕もどうかしている。
そうでなければ、とっくに家に帰っていた。予備校をサボったのは叱られるかもしれない。けれど、僕のナイーブな感情を汲み取って、許してもらえたような気もする。
殺人事件の現場の近くには、誰でも近寄りたくはないだろう。ましてや僕は、世の中で一番繊細な受験生という立場なのだから。
「……あ」
小さく、加藤が声を漏らす。馬鹿馬鹿しい寸劇にのっていた僕は長井と顔を見合わせ、加藤の視線の先を見遣った。そこにいたのは。
「夏子、タカ」
大型マンションの玄関前に立ち尽くすふたりの姿。チビは誰かに電話をかけているらしく、左耳に携帯電話をあてていた。遠くからでも良く判る、睨みつけるような目。目の前に立ち尽くす巨大な住居に、まるで敵を見上げるかの如く、鋭い視線を送っている。
この広い住宅地の中で追いつけたことは、奇跡に近い。たとえ加藤がこのマンションに目星をつけていたとしても、追い着いたのは。
――偶然。
遠くから観察するように眺めていると、チビ達は玄関の扉をくぐって中へと消えてしまった。追い駆けたかったが、何故か足が動かない。
人間の本能というのは、ときに恐ろしい。ここで出会ってしまった“偶然”に、僕は自然と恐怖を感じていた。
「……加藤、追わなくて良いのか?」
扉が閉まり、追い駆けようにも行く宛がないのは判っている。足が震えて動けなくなっていることも知っている。けれど。
「行きようがねえよ」
立ち止まって見上げて、それで何になるっていうんだよ? 僕は蚊帳の外にさえ、存在しちゃいけないってことなのかよ?
加藤のリスト。チビの言葉。カトウナツコの周囲で起こる偶然。断片的な事実を繋ぎ合わせても、何も答えなんて浮かびそうにない。
闇の中に浮かび上がるマンションを見上げることしか、僕には許されていなかった。生活感の溢れた、築年数の経っていそうな普通のマンションを。
それなのに、何故か。月明かりを受けて影になった場所が、すべての答えの在り処のように。吸い込まれそうな闇の色に。
何故か。恐怖を覚えた。




