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関口  咲@日曜日 13:10

 寒くてやってられない。先輩との待ち合わせはいつもそうだ。何食わぬ顔で遅れて来て、へらへら笑ってごまかして。今日こそは許してやらない。絶対に、許してなんてやらないんだから。

 寒風吹き荒ぶ。そんな言葉しか似つかわしくないみなとみらいで、あたしは彼氏を待っていた。待ち合わせの時間はとうに過ぎている。あたしはもう、かれこれ三十分以上待ちぼうけを食らわされていた。

 せっかく綺麗にゆる巻きした髪は、この強い風で滅茶苦茶だ。せっかく履いて来た可愛いミニスカートのせいで、脚が寒くて仕方がない。あれもこれも、すべてが裏目に出ている。

 馬鹿野郎。

 でも。いつも待ち合わせで遅れて来るのに。待っている間は別れようとしか思ってないのに。来ると許しちゃうあたしが、一番の馬鹿なんだ。あの笑顔に、あたしは弱い。高校に入ってからずっと追いかけていた、先輩の笑顔。仕草。声。輝いていた先輩は、今はもう、いないのに。

 だからこそ。今、こうして待っていることに耐えられない。凍える。凍え死ぬ。

 諦めが悪いのは。あたしか、先輩か。

 彼氏がバンドやっているんだ。そう言うと、ちょっと格好良い気がする。でもね、実際はただのフリーター。ほとんど働いていない先輩は、どちらかって言うとニートに近いような気もする。バンドの練習だって、やっていないに等しい。ああ、駄目だ。駄目人間だ。

 あたしも、先輩も。

 憧れの人の、内面見たり、木偶の棒。

 好きなのに。好きだったのに。あまりにもルーズな先輩の態度が許せない。ああ、いっそ。浮気でもしてくれないかな、なんて思ってしまう自分がいる。そうすれば、あたしから別れを切り出しても、あたしは悪くないから。

 ふと、携帯電話が音を奏でた。大好きな曲。先輩とカラオケに行くといつも歌ってくれる、ブルーハーツのトレイントレイン。古いけれど、好きな曲。

「……もしもし?」

 電話に出る。相手は一人しかいない。この曲を着信音にしているのは、先輩だけだ。

 悪びれる様子もなく、いつもの口調で先輩は言う。

「ごめん、ちょっと寝坊したわ。もう少ししたら電車乗るから待ってて」

 ふざけんな。これから電車乗るって、あたしをどれだけ待たせるつもりだ、先輩は。

「……もう良いです」

 笑顔を見たらまた許してしまう。会いたくないわけじゃない。嫌いになったわけじゃない。もう少し、ほんのわずかで良いから、あたしを大切に思って欲しいだけなのに。

「何怒ってんの? サキらしくねえなあ」

 呑気な先輩に腹が立つ。本気で、別れようかと思う。らしくない。本当にそうだろうか。あたしは、先輩といるときのあたしの方が、自分らしくない気もする。

「……ま、とにかく待ってて」

 一方的な先輩の態度に腹が立つ。冷え切って感覚のあまりない指で、終話ボタンを押した。もちろん、無言のまま。先輩がどういう態度に出るのかは判らない。このまま放って置かれるかもしれない。

 別に良いや。

 本当は、別れたくない。でも、もう、何か疲れた。先輩は確かに格好良かったし、今でももちろん格好良いけれど。

 でも。きちんとして欲しい。働くなり、夢を追いかけるなり、勉強して大学目指すなり。

 思えば、長かった。中学三年生のときに見に行った学園祭で、先輩に一目惚れしたんだっけ。それでそのまま、先輩と同じ高校に行きたくて志望校変更して、入学して、軽音楽部に入って、頑張って。頑張って。

 いつだって、あたしの思いは一方的だった。頑張って仲良くなって、頑張って告白して、頑張って付き合って。先輩は、あたしのことをどう思っていたんだろう。

 やっぱり二歳も年下だから、子供だと思っていたのかな。学校中追い掛け回して『先輩、先輩』って。思い出すと、我ながら結構引くかもしれない。あのときのバイタリティは、今のあたしにはない。それでも。そんな努力が実った結果、あたしは先輩の彼女になれたんだ。

 今はあんな感じでも、その内、きちんとしてくれるかもしれない。

 嫌い、じゃない。好き。今でもすごく好き。本当は、別れたくなんてない。でも、許せない自分もいるわけで。

 じゃあどうしたいんだ自分?

 問いかけても答えは出ない。あたしにも答えは判らない。先輩がこのまま電話もくれず、ここにも来なかったら。そのときは、別れたいということになるのかもしれない。

 嬉しい? 悲しい? それすらもよく判らない。ただ漠然と、失うんだな、と思う。

 大好きなあの笑顔がもう見られなくなるのは悲しい。こんな風に放って置かれることがなくなるのは嬉しい。手を繋いで歩けなくなるのは悲しい。デートのときの服装に神経使わなくて済むのは楽で嬉しい。先輩の心に響く歌声が聴けなくなるのは悲しい。ちょっと不貞腐れたときに頭を小突く仕草が見られないのは悲しい。会話を交わせないのは、悲しい。

 こうやって色々考えると、あたしは先輩と別れても悲しいことの方が多いらしい。そう思うと、自然に携帯電話に手が伸びそうになる。駄目だ。あたしから電話をしたら、また、いつもの繰り返しに戻ってしまう。

 別れても仕方がない。けれど。来てくれたら嬉しい。駆け寄って、飛びついて、抱きしめて、大好きって叫んでしまうかもしれない。

 駅前の信号を渡り、芝生の広場へと向かった。待ち合わせは、桜木町駅の前の広場。ここは、待ち合わせ場所からは見えない。それで良い。

 芝生に腰を下ろし、無駄に晴れ渡った青空を見上げてみる。もし先輩が来ても、泣きそうな今の顔は見せたくない。来なかったら、それで良い。このまま思いっきり泣いてやる。

 あたしは芝生に寝転がる。服も髪ももうぐちゃぐちゃだ。あたしの心と同じくらい、ぐちゃぐちゃだ。

 目の前に広がる空を、かもめが一羽横切った。青空に映える白い鳥。綺麗に飛ぶその姿は、なんだか出会った頃の先輩のようで。自然と、涙が溢れて来る。

「……先輩……」

 素直に、待っていると伝えた方が良いのかもしれない。後悔するくらいなら。今ならまだ間に合うから。

 何度も繰り返してきた、ほんの些細なすれ違い。でも、その些細なすれ違いが積み重なると、溢れて、取り返しのつかないことになる。

 今がそう。あたしの中から溢れ出た感情は、あたしにすら止められない。止められるのは、先輩だけだ。

 鞄の奥から音楽が聞こえた。携帯電話の着信音。さっきとは違う。友人からの着信を告げる、宇多田の曲が流れていた。

「……はい」

 通話ボタンを押す。本当は電話に出たくないけれど、彼女なら大丈夫。知的で物静かで、あたしとは正反対なタイプ。あたしの感情の波を、彼女なら受け止めてくれるはず。

「サキ、今、大丈夫?」

 落ち着いた声。同い年なのに、彼女は大人だ。落ち着いていて、知的で、美人。

「うん、大丈夫」

 風の音が入らないよう、手で押さえながら答える。余計な心配はかけたくない。声の震えは抑えきれなくても、風の音は抑えられるだろう。

「あのね、サキが前に言ってた“ピース”って話、覚えてる?」

 ピース。見付けると幸せになれるという、何か。

「覚えてるよ」

 ただの噂話。大体、ピースってネーミングセンスを疑う。もっと神秘的で厳かで、近寄りがたい名前の方が、絶対良いに決まっている。

「……見付けたの、私」

 だから。

「え?」

 彼女が、なるみがそういうことを言い出すと思っていなかったあたしは、思わず大声を上げていた。周囲の他人が、あたしを刺すような目で見詰める。

「見付けたって……?」

 あたしは、誰にも聞かれないように小声で話した。別に、聞かれて困るような話じゃない。けれど、なんとなくそうした方が良いような気がする。

「正確には、手掛りだけなんだけど。詳しくは明日、学校で話すね」

 そこまで言うと、なるみは電話を切ってしまった。手掛り。ヒント。ピースについてのヒントを、なるみは得たんだろうか。

「……ピース、かあ……」

 存在するなら会いたいし、見たい。先輩が少しは真面目になるようにお願いしたい。先輩が、ここに来るようにお願いしたい。

 何ともなしに、携帯電話の画面を見た。さっき先輩から電話があったときから、既に三十分は経っている。先輩の言う通りあの後すぐに電車に乗ったのなら、そろそろ着く頃で。

「……先輩」

 来ていないとは思う。でも、来ているかもしれない。

 移動する? ここにいる? どうすれば良い?

 携帯電話を握り締め、それでもあたしはどうすることもできなかった。芝生の上で、流れに身を任せる。先輩が来ているかいないかは判らない。来ていても、あたしがここにいることには気付かないはずだ。

「……ピース……」

 もしも存在するのなら、先輩をここに導いてください。先輩は馬鹿でいい加減だけれど、約束をすっぽかしたりはしない人なんです。きっと駅にいます。だから、ここへ――。

 携帯電話が曲を奏でる。トレイントレイン。先輩の曲。

「……はい」

 震える指で通話ボタンを押す。あたしが電話に出ると、怒ったような口調で、先輩が疑問を口にした。

「お前、どこいんの?」

「芝生」

 やっぱり、好きな声。

「なんで勝手に移動してんの?」

 不器用で自分勝手で我儘で。

「だって先輩遅れるって言うから」

「しょうがねえだろ? 昨日はバイトで夜遅かったんだからよ」

 およそ年上とは思えない、子供っぽいところがあって。子供っぽいところしかなくて。

「……まあ。とにかく。そっから動くなよ?」

 一方的に電話を切られた。後先考えない行動は、さっきまでのあたしと同じで。

 ピース。出会うと幸せになれる。出会わなくても、あたしの願いを叶えてくれた。

 あたしは。あたしにとっての幸せは、先輩と共に過ごすこと。きっと、間違いなく、そう。

 駅の方から、見慣れた人影がやって来る。

「サキ! 悪かったな」

 本当はちっとも悪いなんて思ってないくせに。憎たらしい。憎たらしくて、愛しい。

「先輩が遅れるから悪いんですよーっだ」

 思いっきり膨れっ面になる。ちょっとは本気。でもほとんど嘘。先輩がいる。それだけであたしは嬉しいし、幸せだ。

「だから遅れるって電話しただろ?」

 あの時点でもう既に遅れていました。電話はくれるようになったけれど、ちっとも遅刻癖は治らない。

「凍え死ぬかと思いました」

 眩しい笑顔。やっぱりあたしには、彼が必要みたいだ。

「そりゃ悪かったな」

 笑顔であたしの頭を撫で回す。これは反則。許さないわけにはいかなくなってしまう。

「もう遅刻しないで下さいよ」

 完全に、あたしの負けだ。別れようとか思っていたのに、負の感情をすべて吹き飛ばすような先輩の笑顔を見ていると、さっきまでのそういう感情は全部どうでも良いものみたいに思えてくる。

 きらきらと眩しく輝く笑顔。かもめなんかより、よっぽど青空に映える。

「……約束はできねえけど、努力する」

 もう何度も聞いた台詞。でも嬉しい。やっぱりあたしは先輩が好きだ。間違いなく、大好きだ。

「幸せかあ……」

 あたしにとって、幸せを運んでくれる存在は先輩だ。あたしにとって、ピースは先輩だ。

「何、哲学じみたこと言ってんの?」

「先輩には関係ありません」

 にんまり笑ってはぐらかす。こんなこと、先輩に言ったら付け上がる。

「何だよそれ」

 不貞腐れた顔が可愛い。あたしの幸せ。あたしのピース。

 先輩。あたし、嫌いなところもたくさんあるけれど、それでもやっぱり先輩のことが大好きです。どうしようもなく、大好きみたいです。

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