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飯田 隆雄@水曜日 18:45

 多分ここに、豊兄はいるはずだ。印刷された紙を握り締め、俺は周囲を見回した。

 知らない土地、知らない景色。山田なるみが自殺したのは、あまりにも俺らの生活圏から離れた場所だった。ただの住宅街。縁もゆかりもない人間が、わざわざ自殺のためだけに来るとは思えない土地。

 もっとも、山田なるみの家の場所を、俺は知らないのだが。

「……ユタ兄」

 情報は、今朝の分まで入っている。関口咲の事件まで、丁寧に書き込まれている。

 古いものは、三年前。新しいものは、今朝。豊兄が集めた、何かしらの原因で死亡したり行方不明になったりしている人間の一覧。発生当時、中学生と高校生だった人間だけを集めた、豊兄の手掛り。

 この一覧だけを見ても、ほとんどの人間には意味が判らないと思う。俺だって、豊兄からのメールがなければ、こんな情報を手にしてはいなかっただろう。

 俺が欲していた“何か”を、何かだけを、豊兄は手にしている。

「……ユタ兄!」

 薄汚れたジャージにサンダル。上着も着ていない軽装備で、住宅街を闊歩する。正直、寒い。手がかじかんで動かねえ。爪先が凍えて痺れちまった。

 しかし、そんなことは気にしていられない。今は、豊兄を探すことが先決だ。

「ユタ兄!」

 どうして豊兄が、こんな情報を集めようとしたのかは判らねえ。ただ一言『みつけた』なんてメールを寄越されても、理解のしようがねえ。

 ピースのことか。山田なるみの死因のことか。関口咲の、自殺のことか。

 薄暗い街に住宅の灯がともる。ぽつぽつと明るくなっていく街は、俺の置かれた状況とは懸け離れていた。

 走っても歩いても、線路沿いに出てみても、豊兄の姿は見付からない。ポケットに突っ込んだ携帯電話を取り出して電話をしてみても、一向に出る気配はない。

 豊兄、何処に行っちまったんだよ。何を見付けたっていうんだよ。

 黄昏時。誰そ彼時。今はもうそんな時刻じゃねえけど、薄暗くて顔も見えない今だって、誰が誰だか判りゃしない。豊兄が何処にいるのか判りゃしない。

 遠くから聞こえて来る踏切の警報音。嫌な予感が脳裏をよぎる。まさか、飛び込んでなんていねえよな。少なくともここに来るときは、電車は止まっていなかった。だから、今はまだ。

「ユタ兄!」

 街にともる電灯が、夜空を照らす月明かりが、俺の背中を後押しする。ピースが、死が、豊兄を包み込んでいるような妄想に囚われる。

 早く探さなければ。早く合流しなければ。欠片を、手掛りを得た人間は。

 線路を見上げる小さな路地に迷い込む。知らない土地は、まるで迷路だ。俺の置かれた状況と同じ、出口の見えない迷路だ。

 けたたましく鳴り響く警報音に、俺は思わず耳を塞いだ。一定のリズムで鳴り響く音は、冷静になろうとしている俺の心を掻き乱す。

 いや、本当は。冷静になんてなれないと諦めている。諦めているからこそ、切に願っている。冷静に、状況を判断しなければ。ピースは関係ないと、判断を下さなければ。

 迷路が立ち塞がる。泥沼が俺を支配する。ピースが俺の心を蝕んでいく。鳩の羽が俺をがんじがらめにして放さない。

 豊兄、何処にいる?

 ただ闇雲に歩き続けている俺は、もう既に手足の感覚を失いつつあった。冬場にジャージとサンダルは向いていない。凍え痺れた四肢を、それでもなんとか動かして、立ち止まることはしない。前に進み続けるしか術はない。

 俺は多分、取り憑かれている。何ものかに。ピースに。己の不安に。

 できる限り身体を動かして、俺は前に進む。進み続ける。迷い込んだ迷路の先に、出口があると信じて。

 線路から、風を切る音が聞こえた。電車の通り過ぎる音。滞ることなく通り過ぎていく線路の軋みに、俺は安堵した。

 豊兄はまだ無ことだ。まだ、何処かにいるはずだ。

 リストの中でここを選んだのは、ただの直感でしかない。一番上に、一番丁寧に書き込まれていた山田なるみの自殺の詳細。時間も場所も、鳩の羽についても書かれていた。

 思い立って、携帯電話を取り出す。リストにある時刻は、十八時五十分。今は、十八時四十九分。ほぼ同じ時刻。ほぼ同じ場所。ほぼ同じ状況。

 山田なるみについての“何か”を掴んだのなら、今が、きっと。

 進み続ける以外の選択肢が存在しない俺は、ただひたすらに歩み続ける。住宅街を。迷路を。

 その迷路の先に、見覚えのある人影が立っているのが目に入った。

「ユタ兄……?」

 誰そ彼。姿形が似ていても、ここからでは確信が持てない。豊兄に似ているが、全くの別人のようにも思われる。

 俺の声を聞いて、影がゆっくりと振り返った。厚手のコートの下に、見覚えのある制服を着ている。多分、間違いない。

「……タカ?」

 この声は、豊兄のもの。間違いなく、豊兄がそこにいる。目の前に、立っている。

「ユタ兄、何で……」

 歩み寄りながら確認する。確信する。豊兄が、俺を迷い道から救い出してくれることを祈って。

「……山田さん、どういう思いで飛び込んだんだろうな」

 問いかけのようでもあり、独り言のようでもあり。

「確認、したかったんだ。本当は自殺じゃないって、思いたかったんだ」

 しかしそれは叶わぬ願いで。線路に目を移し、豊兄は静かに、悲しい独白を続ける。

「上野からここって、そんなに時間かからないのな。一時間もかからない」

 俺には、豊兄の言葉を黙って聞き続けることしかできない。それ以上のことも、それ以下のこともできそうにない。

「公園には鳩がたくさんいたよ。俺も、拾ってみたんだ」

 鳩の羽を。

 豊兄はコートのポケットからみすぼらしい薄灰色の羽を取り出して、線路に向けて放り捨てた。

「なあ、タカ。……ピースって何だ?」

 俺にも判らない。

「ネットで調べてみたけど、ちっとも引っ掛かんないんだよ。本当にそんな噂、存在するのか?」

 判らない。夏の高校ではほとんどの人間が知っている噂だが、俺の高校では聞いたことがない。いや、鈴木が言うには、一年の間では広まっているらしかったが。

 夏が、肇が言うには『会うと幸せになれる』存在。鈴木に聞いたのは『行方不明の原因』となった存在。

 ピースに出会うと幸せになれる。欠片を手に入れると不幸になる? すべてはただの噂で、すべてはただの偶然で。すべては俺の憶測で。

 関口咲が死んだことだけが、どうにも都合が良過ぎている。ピースに怯えて、ピースに侵されて。ピースに、殺されて。

 いや、違う。そう考えちまうのは、俺が、既に。

「……俺は夏子から聞いた。高橋からも聞いた。だからそれなりに広範囲で出回っている話かと思ったんだけどな」

 既に、侵食されているからだ。

「昨日は徹夜で調べちまったよ。自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うけど」

 違う。

「知らなかっただけで、結構死んでるのな。本当はもうちょっと遡って調べたかったんだけど、朝になっちまったからさ」

 ピースなんて存在していない。していないんだ。

「……本当、俺ってどうかしてるわ。山田さんが死んだのを、何かのせいにしようとして。ピースのせいにしようとしてさ」

 だけど、もし。存在しているとするならば。

「ピースって、幸せの使者なんだろ?」

 使者。死者。

 中高生が死んでいる。ピースの噂に振り回されている。振り回す原因は。噂の元凶は。

「そいつのせいにしようとするなんて、本当、どうかしてるわな」

 ピースと鳩なんて、初めから関係なかったんじゃねえのか?

「ユタ兄! そうじゃない」

 絡めて考えるのは間違っていない。少なくとも、俺の考えが正しければ。

「その考え方で、多分、あってる」

 俺の推測が正しければ。

「……幸せの、死者」

 噂なんて尾ひれが付いて当然で、形が歪んで当然だ。出会うと幸せになれる。出会うと幸せに死ねる。

 だからピースは。

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