高橋 一朗@水曜日 17:45
長井の誘いに乗っかって、僕は加藤の家の前に立っていた。予備校? そんなの関係ねえ。いや、本当は関係ある。大いに関係がある。けれど何というか、僕の心のもやもやには勝ちようがなかったのだ。
加藤家に来れば、当然、カトウナツコもいるだろう。
会いたいような、会いたくないような。気のせいだったと笑い飛ばせるなら、会いたい。笑い飛ばせないようだったら、会いたくない。
僕の心の葛藤に気付かない長井は、平然とした面構えで加藤家のチャイムに指をかけている。待て、押すな。もう少し、心の準備をさせてくれ。
しかし僕の願いも虚しく、無神経な電子音が目の前に立ち塞がる家に響いた。
「……留守、かな?」
一向に開く気配を見せない扉に向け、長井が呟く。これぞ天からの啓示。カトウナツコに会ってはいけないという、思し召しに違いない。
「いないなら、帰ろうぜ」
そうだ。加藤がいないなら来た意味もない。せっかく買ったジュースやお菓子は、家に持ち帰れば良いだけの話だ。
僕は束の間の安心に心を躍らせ、自分に都合の良い提案をしてみる。しかし、長井がその提案に乗る前に、目の前の扉が開け放たれてしまった。
よれたジャージの袖が見える。女の腕にしてはやけにゴツい。加藤の腕にしてはやけに小さい。扉が開ききるより先に、僕は、嫌な予感に苛まれる。
昨日のチビだ。多分、間違いなく。
「……ユタ兄?」
不思議そうな顔で、僕たちの姿を確認する。
「ユタ兄は?」
僕たちしかいないことを確認すると、睨むような目付きで尋問してきた。
「加藤、休みだったから見舞いに来たんだけど」
長井が当り前の表情で当り前のことを言う。そうだ。僕たちは加藤の見舞いに来ただけだ。やましいことなど一ミリもない。
けれど目の前のチビは、僕たちの話など聞いていない様子で、視線をふらふらさせていた。
「……何で?」
理由は僕の方が聞きたい。このチビの様子からして、加藤は家にはいないのだろう。とはいえ学校にも来ていない。だったら、加藤はどこにいるのか。
「家にいないの?」
長井がきょとんとした顔で尋ねた。
「いねえよ。……何しに来た?」
「加藤の見舞いだよ」
喧嘩腰で返されたので、僕は思わず怒鳴ってしまった。大人げない。が、このチビはどうも気に食わないので、それも仕方がないことだ。気に食わない理由が大人げないのは、この際置いておいて、の話だけれど。
「見舞い?」
「ああ。今日、学校来てなかったから」
ひどくぶっきらぼうな受け答え。どうやらこのチビも、僕のことはあまり良く思っていないらしい。お互い様だ。
「来てなかった……?」
チビは考え込むように腕を引き、扉から手を放した。気のせいか、顔色が悪い。馬鹿は風邪ひかないというが、チビは風邪でもひいているのだろうか。青ざめ小震えしているさまは、どう考えても熱がある人間の仕草に他ならない。
風邪をひいているにも関わらずよそ様の家に入り浸るとは。僕の常識が通用しない相手らしい。このチビは。
「……入れ」
まるで自宅に人を呼び込むように、僕と長井を家に上げようとする。
「加藤は? いないのか?」
事情を飲み込めない僕と長井は、促されるままに玄関へと足を踏み入れた。
「朝、普通に制服に着替えて家を出てったのにな……」
ぶつぶつと小声で何かを呟きながら、チビが僕たちをリビングへと案内する。顔色が、益々青くなっていく。
「……適当に座ってて」
リビングに案内し終えると、チビはそのまま玄関の方へと戻っていった。とんとん、と階段を上る音が聞こえて来る。チビは二階へ移動したらしい。
僕は座るのも気が引けたので、そのままリビングの入り口で立ち尽くしていた。長井も同じように、ただその場に立っている。
「加藤、家にいないってどういうことだろうな」
「判らんな。あいつがそう簡単に学校サボるとも思えんし」
見舞いのために買ってきたジュース等を床に置き、僕は何がどうなっているのかを考えようとした。
加藤は休みだった。しかし、チビの様子から察するに、学校に行ったはず、らしい。好きだった子の後追い自殺、は、加藤に限ってありえない。だからといって、高校の授業がただの消化作業だったとしても、理由なく欠席するようなヤツではない。
だったら。理由があるはずだ。
「……電話、通じるかな」
考えてみれば、今日は一度も加藤と連絡を取っていない。インフルエンザにでもかかっていて、通学途中で倒れてどこかの病院に世話になっているのかもしれない。美人看護士にあれこれ世話を焼かれているのかもしれない。
だとしたら、ちょっとだけ羨ましい気がする。白衣の天使の微笑み。その微笑みが、昨日見たカトウナツコの顔とダブるのは、僕の気のせいだと思う。いや、思いたい。思わなければ。
「かけてみるな」
いつの間にか携帯電話を手に持っていた長井が、加藤の携帯に電話をかけていた。耳元に携帯電話をあてている長井の表情から、呼び出し中だということが伝わって来る。
しばらく携帯を耳元にあてていた長井が、溜息と共に終話ボタンを押した。
「……出ない。何かあったのかな」
判らない。電波の届かないところにいるわけでもないようなので、理由が全く思いつかない。病院なら、電源を切っている可能性もなくはない。けれど、確かに呼び出しはしていたようだった。
事故にでも巻き込まれたのか。携帯電話を家に忘れているだけなのか。
もし携帯電話を家に忘れているのだとしたら、この家のどこかで呼び出し音が鳴り響いていてもおかしくはない。もちろん、マナーモードにしている可能性は否めないが。
僕たちが互いに黙って考え込んでいると、リビングの扉が開かれた。廊下には、チビと、カトウナツコが立っている。
「……座ってねえのかよ」
半ば呆れ顔でチビがほざいたが、僕はその場から動く気にはなれなかった。
固く手を握り合ったチビ達が、僕の目の前を素通りしていく。ソファに腰掛け、足元に転がるコンビニの袋に目をやる。
「飲物、開けても良い?」
僕らは年上だぞ。口の利き方に気をつけろ。僕はそう心の中で叫びつつ、黙って頷いた。憤りが顔に出るが、仕方がないだろう。やはりこのチビは、どうにもいけ好かない。カトウナツコの手を握り続けていることが腹立たしい。
僕の感情は、どうやら一過性のものではないようだった。
「……パソコン、詳しいっすか?」
ペットボトルをラッパ飲みしながら、チビが聞く。
「ユタ兄の部屋のパソコン、ちょっと弄って貰えないっすかね」
ぶっきらぼうな物言い。しかし、僕の心の叫びが通じたのか、少しばかり敬語に近付いていた。
「何で?」
長井が疑問を口にする。当り前の質問に、チビは当り前ではない答えを述べた。
「ちょっと、気になることがあるんで。……俺は、そういうの全然だから」
飲み干したペットボトルのラベルを剥がしながら、チビが続ける。
「ユタ兄の履歴とか、見れる方法ってあるんすよね」
ご丁寧にペットボトルのゴミを分別し、机の上に転がし。
「この時期に行方不明ってのが……」
そこまで言うと、チビがカトウナツコの方を見やった。僕たちに向けるのとは違う、優しげな瞳。僕の胸の中に、ふつふつと得体の知れない負の感情が沸き上がっていく。
「……できなかねえけど。な? 高橋」
「あ? ああ。その程度のことなら、今時小学生でもできるんじゃね?」
自分でも信じられないほどの敵意を露にする。そんなことをしても何にもならないのは判っている。にもかかわらず、僕は、醜いほどの嫉妬心に駆られている。
チビは少しむっとしたようだったが、すぐに立ち上がり、ついて来るように促した。僕は黙って、長井の後に続く。カトウナツコは、リビングに一人取り残されるようだった。
「あ。えーっと……」
僕の顔を見て、チビが何かを言いたそうにしている。
「えと、何つーんだか名前は知らねえけど、そっちの人はリビングに残ってて。夏を一人にしたくねえから」
そっちの人呼ばわりされた僕は、リビングに残らされることになりそうだった。カトウナツコとふたりきり。それは、多分、相当に、ヤバいと思う。
「あ、えっと。僕が行こうか?」
行こうか、というより行かせて下さい。お願いします。長井様。
「いや、残ってて。俺はアンタとはどうも話が合いそうにない」
僕だって合うとは思えん。いや違う。そういう問題じゃなくて。
「夏、すぐに戻って来るから」
カトウナツコに微笑んだ後、僕のことを睨んで、チビたちは廊下へと歩いていってしまった。
リビングに取り残された僕は、どうしたってカトウナツコのことを見てしまう。昨日の朝よりも更に疲れた表情で、目の下の隈もはっきりと判る。泣き続けたのか、目蓋がやけに腫れていた。
「……飲む?」
どうすれば良いのかが判らない。黙り続けているわけにもいかない。かといって、何を話せば良いのかも判らない。上擦った声でペットボトルを渡すくらいしか、僕にはできそうもない。
「あ、ありがとうございます」
か細い声でそう言って、カトウナツコが手を伸ばした。男のものとは違う、細くて柔らかそうな手。ペットボトルを手に差し出されても、握る力なんてないように思う。
「何が良い?」
とは言っても三本しか買っていなかった上に、一本はチビに飲まれてしまった。ニ本のうちどちらが良いかを確認するのに、何が、という聞き方をするあたり、僕はやはりどうかしている。
黙っていると、いやでも緊張感が高まっていく。何かしなければ。どうにかしなければ。考えれば考えるほど、何を喋ればいいのかが判らなくなっていく。無駄に口を開いては、閉じ。繰り返しつつ、横目でカトウナツコを見た。
どこか遠くを見詰めたまま、僕の右手に持ったペットボトルに手を伸ばすカトウナツコ。渡そうとすると、手が触れた。
「あ、ご、ごめん」
僕は慌てて手を引っ込め、動揺を悟られないように務めて冷静に振舞った。しかし、緊張のせいか、声の上擦りを抑えることができない。
「えっと、か、菓子、食う?」
僕の質問に小さく頷くカトウナツコを見て、僕は自分の感情の名を改めて確認した。恋。一目で落ちたのは初めてだったが、この感情は何度も味わったことがある。
受験生に色恋沙汰は不要だ。けれど、陥ってしまったものはどうしようもない。完全に勝敗の行方が判っていても、落ちてしまった恋の淵から、這い上がることは容易ではない。
「このチョコレート、冬の新作なんだってさ」
情けないほどに、感情は素直だ。
「……そうなんですか?」
たとえ気を使って話を合わせてくれているだけだとしても、静かに微笑むその仕草が嬉しい。
「甘いもの、好きなの?」
菓子の箱に手を伸ばし、ひとつ摘む。小さな手に映える、小さな菓子。友人が自殺したことなんてないから、僕には彼女の感情が判らない。けれど、少しずつでも元気になって欲しいとは思う。
惚れているからではない。友人の妹だからではない。本来の、元気な姿を見てみたいからだ。
僕は他人が思うよりずっと、自己中心的な人間だろう。間違いなく。
「……もちろん」
菓子を口に運び、嬉しそうに微笑む。できることなら、チビではなく僕を選んで欲しい。会って日が浅い。会話だって、今、始めて交わした。
そんなことは判っている。けれど。時間より、もっと大きなものがあると、僕は。
「夏!」
幸せなひとときは唐突に終わりを告げた。
慌てた様子で駆け込んできたチビが、カトウナツコの目の前に立つ。手には、プリントアウトしたものらしき紙の束。さっきまでの青い顔は相変わらずだったが、鼻息が荒く、ひどく興奮している。
「ユタ兄の居場所は大体判ったから、今から迎えに行って来る」
後は任せた、とチビは言い、そのまま玄関から飛び出していった。
残されたのは、僕と長井と、カトウナツコ。任せたと言われても、どうすれば良いのかが判らない。
「長井、どういう……?」
説明を求めるより前に、長井がソファに腰掛けた。カトウナツコの隣の席。僕は少しだけ羨ましい。いや、だいぶ羨ましい。自覚を持った恋心は、僕の感情を素直に肯定してくれる。
「ま、一応。任されたからには、留守番でもしないとな」
長井は飄々と、わけの判らない言葉を述べた。
「ナツコちゃん一人にするわけにもいかないでしょ? 物騒な世の中だからね」
コンビニ袋を漁り、机の上に菓子を並べる。
「ほら、高橋も座れって。立ってても疲れるだけだぞ」
いつの間にかカトウナツコのことをナツコちゃんと呼んでいる長井を少しばかり妬ましく思いながら、僕はカトウナツコの隣に座るべく、リビングの床へと腰を下ろした。
状況の説明は、この後、たっぷり聞かせて貰えば良い。少なくともあのチビが帰って来るまでは、この家に居続けることになりそうだ。時間ならきっと、それなりにたっぷりとあるだろう。




