飯田 隆雄@水曜日 07:15
何がどうなっているのかが判らねえ。朝、何気なく点けたテレビで、関口咲の名前を耳にしても、俺には意味が判らなかった。
「……関口……?」
意味が判らない。昨日、夏の家を出るときは、そんなに思いつめた風じゃなかった。確かに頼りなさ気ではあったが、死ぬようには見えなかった。
嬉しそうに『先輩と約束した』と微笑んでいたのに。
俺はジャージのまま、寝起きの格好のまま、携帯電話をポケットにしまい込み家を飛び出した。夏のことが心配だ。このニュースを、見ていないと良い。
夏の家に行き、チャイムを鳴らす。焦りのせいか、迷惑なほど何度も馴らし続けている。早く扉を開けてくれ。早く夏に会わせてくれ。
鍵を開ける音がして、俺はチャイムから手を離す。扉が開き、中から豊兄が声をかけてきた。
「タカ。……どうした? こんな早く」
しかし俺は答えない。一刻も早く、夏に会いたい。答える時間が惜しい。
無造作にサンダルを脱ぎ捨て、階段を上がっていく。夏の部屋の前に立ち、俺は深く呼吸した。
落ち着け。夏を動揺させるな。
まだかすかに震える手で、俺は夏の部屋の扉をノックした。返事がない。まだ、眠っているのかもしれない。
「……夏!」
眠っている、何も知らない夏を起こす必要はないかもしれねえ。けど、俺が、夏を必要としていた。
一人で考え込むのは性に合わねえ。かといって夏に頼るのも違う。そんなことは判っている。判ってはいるが、それでも、夏にそばにいて欲しい。俺の不安を掻き消して欲しい。
俺の考えが正しければ、次に死ぬのは。
いや。そんな考えはよそう。昨日、鈴木から聞いた話だって、きっと眉唾物のはずだ。
――タシロコノミって一年の女が行方不明になってるのも、たしかピース絡みだって噂だぜ?
ありえない。俺の学校じゃ、そんな、ピースなんて噂は耳にしたことがない。都合良く“行方不明”になった女の噂と掛け合わせているだけに決まっている。
何で鈴木がそんなことをするのかは判らねえが、そうに決まっている。そうであって欲しい。
大体、行方不明になっているからといって、死んでいるとも限らないじゃねえか。
「……夏!」
なのに俺は、何でこんなにも焦っている? ただの噂に過ぎない話に、何でこうも振り回されている?
激しく扉を叩きつけていたおかげか、夏は目を覚ましたらしい。はっきりと隈の残る顔で、部屋の扉を開けてくれた。
「……どうしたの? タカ?」
夏は無事だった。ほらな、やっぱり俺の思い込みなんだよ。なのにどうして、俺はこんなに焦っている?
ピンク色のジャージを着た夏は、眠そうに目を擦っていた。目の下の隈からして、多分、そんなに眠れていないんだろう。それなのに俺は。自分の勝手な推測で夏を起こしちまった。夏にもしものことがあるんじゃないかって、勝手に思い込んじまった。
ピースなんてただの噂だ。間違いない、ただの噂だ。
「……夏、おはよう」
今の俺はひどい間抜け面だと思う。どう言い訳して良いのかが判らねえから、至極普通に、いつも通りの挨拶をしてはみたが、どう考えたって状況がおかしい。
不思議そうに眉を寄せる夏を見て、俺は本当に、夏がいないと駄目なんだなと実感した。
「あ、ご、ごめんな。起こしちまって」
今、起きたということは、夏は関口咲の事件を知らない。
「……ん。おはよう」
まだ半分寝ているみてえな顔でいつものようにおはようと言う夏に、それを覚らせてはいけない。
「おはよう。……あ、あのさ。俺の学校、今日、インフルエンザで休みになったってことらしいのよ」
口からでまかせ。なんだかんだで昨日だって早退しているし、本当は結構ヤバいのかもしれない。けど、学校なんかより大事なことがある。
俺は夏のそばにいたい。もし、万が一、俺の推測が正しければ。次に何か起こるのは、夏の身だ。もちろん、そんなことはないとは思う。だけど。
「休みなんだ?」
何かあったときに、俺がいれば助けられたなんて事態にはなって欲しくない。
「そう、休み」
そのためには、状況の整理。夏の身辺警護。完全に無関係だと判るまで、俺は夏のそばに居続ける。
「……あ、じゃあ。私、着替えるから」
そう言って夏は扉を閉めようとする。確かに、俺がいたら着替えもできやしないだろう。だからといって、夏を一人にするわけにもいかない。
どうする俺。
「あ、と。その」
こういうときは、下手に言い訳を考えるよりまず行動だ。俺は閉まりかけの扉に手を掛け、当り前の顔をして夏の部屋へと足を踏み入れた。
当然、夏は怒るだろう。まあ良い。後ろを向くなりなんなりして、着替えているところは見ないと固く誓おう。そうすれば、まあ、許しも得られるに違いない。
「……タカ。私、着替えたいんだけど」
「ああ。その、気にしないでくれ。俺は見ない……」
言い終えるより前に、強烈な平手打ちを食らう。夏は、思っていたより元気になっていたらしい。そのまま、よろけるように追い出され、廊下に腰を下ろす破目になった。
夏の部屋の前で、俺は虚しく頬を擦る。じんわりと痛みが広がっていく。夏のヤツ、本気で俺のこと打ちやがったな。
普段なら言い争いになるところだが、今はそんな気分にはなれそうにない。なにより、夏が元気になってくれたということが、俺は嬉しい。
ああ。平手打ちされて喜んでいるって、何かやっぱり俺ってMの素質があるんじゃねえの?
半分自虐的になりながらも、熱を持った頬に当てた手を、離す気にはなれなかった。
「……タカ、邪魔」
扉を開け、廊下に佇む俺を見下しながら、夏がそう言い放つ。
「あ、邪魔?」
元気なことはなによりだ。俺は絶対に、夏を守り通したい。邪魔者扱いされても構わない。関口咲の件だって、いずれは耳にするだろう。俺が隠し立てしていても、意味はないのかもしれない。
だがな。今はせっかく元気になってきた夏に、元通りになってきた夏に、追い討ちをかけるようなことはしたくないじゃねえか。
「うん。邪魔。タカがそこにいたら私、出れないじゃん」
せめて、目の下の隈がなくなるまでは。
「出なくて良いじゃん」
せめて、ピースは関係ないと判るまでは。
「出るよ。……少し、お腹も空いたし」
せめて、夏は大丈夫だと俺が確信するまでは。
「持って来てやるから部屋にいろよ」
せめて。俺が夏を必要としなくなるまでは。俺は夏に何も見せたくはない。何も知らせたくはない。
俺のやっていることは間違っているのかもしれない。だけどもう少しで何かが掴めるような気がする。その“何か”さえ掴めれば、事態は良い方向に動くような気がする。
確信はない。証拠もない。ピースが関係しているとも限らない。
だからせめて。俺の不安が消えるまでは、夏には元気でいてもらいたい。




