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3分で読める怖い話(短編集)

無音時間(サイレントアワー)

作者: 夜野 あう
掲載日:2026/07/02

 引っ越してきた日の夕方、私はその決まりを教わった。


 隣家の老人が、垣根ごしに人の良さそうな笑みを浮かべて言った。


「昼の二時から三時までは、音を立てないようにね」


 高原の外れにある、古い別荘地だった。都会の家賃の半額で庭付きの一軒家が借りられると知って、妻はその場で決めてしまった。五歳の娘は、東京では考えられない広さの庭を、着いた初日から駆け回っていた。


 近所は年寄りばかりだったが、誰もが親切だった。越してきた挨拶に回ると、娘にお菓子を分けてくれる家もあった。回覧板の字は丁寧で、ゴミ出しの決まりも、班費のことも、みんなが根気よく教えてくれた。ただ一つ、その「昼二時から三時」のことだけは、誰も理由を言わなかった。


「昔からの習わしでね」


 老人はそれだけ言って、空を見上げた。


「ちょうどその頃、山の風の向きが変わる。悪いものが通り道にするんだ。だからみんな、じっと息を潜めて、やり過ごす」


 翌日の昼二時、私は半信半疑で窓辺に立っていた。


 時計の針が二時をさした瞬間、世界から音が消えた。


 比喩ではない。あれほど鳴いていた蝉が、申し合わせたように黙った。犬も、鳥も、風さえも止まった。どの家からもテレビの音がしない。誰かが庭に立っていても、身じろぎ一つしない。お爺さんも、お婆さんも、彼らはただ玄関先に椅子を出して座り、じっと耳を澄ませていた。何かが来るのを、待っているように。


 私は妻に「妙な村だな」と囁いた。囁いたつもりだった。


 その声に、通りの向こうの家の老婆が、ゆっくりとこちらを振り向いた。笑っていなかった。


 三時の鐘が鳴ると、村は何事もなかったように音を取り戻した。蝉が鳴き、老人たちは椅子を畳み、「今日も無事でよかった」と言い合った。私にはその意味が、まだ分からなかった。


 夏が深まるにつれ、私たちも自然と、その一時間だけは口を閉ざすようになった。娘にも言い聞かせた。二時になったら、静かにしようね。約束できる子だった。


 事が起きたのは、八月の一番暑い日だった。


 その日、娘は昼寝の途中で寝苦しかったのだろう。二時を少し過ぎたころ、小さなくしゃみを一つした。「くしゅん」と、それだけだった。娘はすぐにまた、規則正しい寝息を立て始めた。自分が何をしたのか、何も知らないまま。


 私は反射的に窓の外を見た。


 通りに面したすべての家の玄関先で、椅子に座った老人たちが、一斉にこちらを向いていた。三十はあっただろうか。誰も咎めなかった。怒りもしなかった。ただ、静かに、穏やかに、微笑んでいた。それが、たまらなく怖かった。


 三時の鐘が鳴った。


 その日の夕方、回覧板が回ってきた。いつもの丁寧な字で、来年の「当番」が決まったと書かれていた。当番になった家は、一年のあいだ、村のかわりに二時から三時を守る役目を負う。名誉なことだと、添え書きがあった。


 当番の欄には、私の家の名前があった。


 私は隣の老人のところへ駆け込んだ。二時から三時を守るとは、具体的に何をするのか。悪いものとは何なのか。当番になったら、どうなるのか。


 老人は、初めて会った日と同じ、人の良さそうな笑みを浮かべた。そして、私の質問には一つも答えず、こう言った。


「安いだろう、この家。よそから来てくれる人を、ずっと探していたんだ」


 その晩から、私は眠れない。


 翌日の二時、私は初めて「当番」として、玄関先に椅子を出して座った。息を殺し、耳を澄ませる。山の風の音を、悪いものの気配を、必死に探した。


 けれど、何も来なかった。


 風は変わらない。悪いものなど、通りはしない。ただ、通りの向こうで年寄りたちが、こちらをじっと見て、微笑んでいるだけだった。私が音を立てるのを、待っている。


 そのとき、ようやく分かった。この一時間、村じゅうが息を潜めて聴いているのは、山の向こうから来る何かではない。次にうっかり音を立てる、たった一人の人間だ。


 村の年寄りたちは、誰も、この土地の生まれではない。みんな昔、私と同じように、安い家に惹かれて越してきた「よそ者」だった。そして、生き延びた。自分のかわりに音を立てる次の誰かを、笑って迎え入れることで。


 古くからこの村にいたはずの家は——もう、一軒も残っていない。


 来年、私が当番でなくなる方法は、一つしかない。誰か新しい家族を、この安い村へ、笑って迎えることだ。


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― 新着の感想 ―
 二時から一定時間、音を立ててはいけない独自のルールがある謎の村と、安い物件で吸い寄せられた輩を穏やかに迎え、時には意味深な当番に据える食虫植物じみた要素がちらつく者達の話、引力がありました。
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