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境界納棺師 ー死者の後悔に触れた男の記録ー  作者: Bakusyo・H


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第五話

重信は、ぐずる息子を抱え、居間へと移動していた。

重信は、ぐずる息子を抱え、居間へと移動していた。

優しく抱きかかえながら、ミルクを飲ませている。


「ごめんな……本当にごめんな……すまんかったな……」


過去に目を離し、死なせてしまった――

その悔恨かいこんの言葉を、何度も繰り返す。


息子はお腹が満たされたのか、すっかり泣き止み、穏やかな表情を浮かべている。


重信はその顔を見つめながら、何度も抱きしめては、そっと覗き込む。

微かに微笑み、そして、また抱きしめる。

それを、何度も繰り返していた。


しばらくすると、嫁と娘たちが帰ってきた。


「遅くなってごめんなさいね……近所の――」


と話し始めたのを遮るように、娘たちが口を挟む。


「ねぇねぇ、お父さん聞いて! おねえちゃんがさ――」


その声を聞いた瞬間、重信はまた、子供のように泣き出した。

肩を震わせ、声にならない声を漏らしながら、何度も頷く。


その場に崩れ落ちそうになりながらも、必死に立っている。

目の前の光景が、失われたものではないと、確かめるように。


「大丈夫だ……この子は元気で、無事だ」


一瞬ぽかんとした嫁が、やがて少しだけ微笑む。


「あなた、約束の時間過ぎてるんじゃないの。行かんでいいの?」


重信は、涙を袖で拭いながら答える。


「そうだな……行かなきゃな。区長たちが待ってる」


うとうとしている息子を、嫁の両腕へと優しく乗せる。

指先が、ほんのわずかに離れない。


やがて――そっと手を引いた。


顔を洗い、軽く準備を整える。

玄関で靴を履く重信の姿は、とても穏やかで、静かな表情だった。


『過去を取り戻せたね』


私は、思わず声を漏らした。


重信は玄関の扉に手をかける。

その手を、ぐっと握りしめる。

わずかに震えていた。


振り返る。


「おまえら、行ってくるからな。元気でな」


どこか――少しだけ、大きすぎる声だった。


言い終えたあとも、しばらくその場を動かない。

視線だけが、家の中をなぞる。

焼き付けるように。


まるで――

二度と戻れないことを、知っているかのように。


遠くから返ってくる。


「うるさいよーお父さん……」

「あなた、気を付けてね」


その声を確かめるように聞き、重信は玄関を出る。


玄関を出て、ほんの数歩のところで――

重信の周りが、眩しい光に包み込まれる。


光の中で、重信はわずかに見上げる。


『やっと、迎えがきたのか……』


その光に包まれている重信を眺め、私は安堵した。


重信の会話の相手は、私には見えない。

二人の会話も、聞こえない。


だが、私は過去に一度だけ“光の者”を見たことがあり、その存在を知っている。


重信は会話の途中、何度か頷いたかと思うと、大きく首を横に振る。


一度。

もう一度。

強く。


そして、地面に膝をつく。

手を合わせる。


何かを願っている。

――懇願しているようにも見えた。


しばらく、会話は続く。


やがて重信は、小さく何度も頷く。

決めたように。


そして突然、合わせていた手を地面につけ、深々と頭を下げる。

額を擦りつけるようにして、何かを叫んでいるようにも見えた。


やがて――


重信は大きく顔を上げ、光の主に向かって、小さく口を動かす。


「ありがとうございます」


確かに、そう言ったのだろう。


そこにはもう、迷いはなかった。

すべてを受け入れた者の、静かな顔だった。


重信を包んでいた光が、ゆっくりと小さくなっていく。


そして、消えかけたその瞬間――

今度は、弾けるように。


カメラのフラッシュのような強烈な光が、

一瞬で視界いっぱいに広がった。


『眩しい……』


私は一度、目を閉じ、顔を背けた。


――そして、ゆっくりと目を開ける。


鼻に残る、あの独特の匂い。

張り詰めた静けさ。


現場の空気が、そのままそこにあった。


視線を落とす。


そこには、処置を終え、仏衣を整えられた重信が横たわっている。


年老いた顔は穏やかで――まるで、すべてを終えたような表情だった。


私は、小さく息を吐く。


――戻ってきた。


ふと、首元に目がいく。


……違和感。


あるはずの痕が、ない。

いや――正確には、“残っていない”。


指先で触れる。

皮膚は、静かで、なめらかだった。


まるで最初から、何もなかったかのように。


思わず、手が止まる。

一瞬、言葉を失う。


だが――すぐに思考を押し込める。


あり得ない。

そう結論づけるしかなかった。


視線を戻す。


重信は、ただ静かに横たわっている。

その温度だけが、やけに現実だった。


さっきまで――あの腕で、息子を抱きしめていた。


泣きながら。何度も、何度も。


確かに、生きていた。

声があった。ぬくもりがあった。


あの時間は、確かにそこにあったはずなのに。


目の前にあるのは、すべてを終えた静かな身体だけだ。


私は、もう一度だけ首元に触れる。


何かを確かめるように。

何かが残っていることを願うように。


だが――そこには何もない。


痕も、痕跡も、後悔すらも。


すべてが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に消えていた。


(第六話へ続く)



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