第四話
庭先の奥に、“人の形をした何か”が立っていた。
一見すると人だ。
だが、違う。
すぐに分かる。
全体的に細すぎる。
肉がほとんどついていない。
骨格が浮き出ていて、皮膚がそれに張り付いているだけのように見える。
背中は大きく曲がり、前かがみの姿勢のまま固まっている。
腕が異様に長い。
力なく垂れているのに、指先は地面すれすれまで届いている。
その指も細く、節が不自然に浮き出ていた。
顔もある。
人と同じ位置に、目と口がある。
だが、目は落ち窪み、黒く沈んでいて奥が見えない。
口はわずかに開いている。
笑っているようにも見えるが、そこに感情はない。
“中身だけが抜け落ちた顔”だった。
そして――何より異様なのは、その周囲だった。
身体の周り、五十センチほどの範囲だけ、空気が黒く濁っている。
煙のようにも見えるが、流れない。
その場に留まり、べったりとまとわりついている。
まるで、その存在が空間そのものを汚しているようだった。
それが、ゆっくりと動く。
足を前に出す。
引きずるような動きだ。
速くはない。
だが――距離の縮まり方が合っていない。
一歩しか動いていないはずなのに、体感ではそれ以上に近づいている。
三メートルあった距離が、気づけば半分になっていた。
“来ている”んじゃない。
“削ってきている”。距離そのものを。
視線を外さず、確信する。
過去に入り込んだとき、必ず現れる。
理由は分からない。だが、例外はない。
『……魂喰だ』
私はゆっくりポケットに手を忍ばせた。
『……面倒な仕事だ』
小さく息を吐く。
『ご遺体の手当より、こっちの相手がよっぽど疲れる』
一瞬だけ重信の様子を確認する。
まだ赤ん坊を抱いたまま泣いている。
魂喰の存在が影響しているのか、
二人の周囲の空間が、僅かに歪んでいるのが分かる。
泣き声が引き延ばされる。
重信の動きも、どこか遅れて見えた。
『そうだよな……本来は変えちゃいけない運命だからな』
私は静かに庭に出る。
魂喰と重信たちの間に立つ。
“ここを通せば終わり”だ。
赤ん坊の魂を喰らいに来ている。
――だから通さない。
もう目の前まで来ている。
重い。湿っている。
肺の奥に、ぬるい泥を流し込まれるような感覚。
何度やっても気持ちが悪い。
慣れてはいる。だが、好きになれるわけがない。
『魂喰……やっぱり来るよな』
一歩、近づく。
胸の内側を、じわじわ押し潰してくる。
普通の人間なら、立っているだけで吐く。
だが――それだけだ。
『……まあいい。相手してやる』
左ポケットに手を入れる。
塩をひとつまみ。
指先で弾く。
パンッ、と乾いた音。
白い粒が一直線に飛び、魂喰がまとっている空間に刺さる。
――ピシッ。
見えない何かが割れる。
魂喰の動きが、わずかに止まる。
『止まるよな。まずは』
間髪入れず、右ポケット。
塗香を指に取り、前へ払う。
ふわり、と香が広がる。
甘くもなく、清らかとも言い切れない、乾いた祈りみたいな匂いだ。
その瞬間――
私と魂喰をドーム状の層が取り囲む。
簡易結界のようなものだ。
『……ここで止めてやる』
魂喰が後ずさる。
結界の空気を嫌っている。
――ジュゥゥ……
結界に触れた部分が焼ける。
黒が歪む。波打つ。
だが、逃げられない。
『……出れないよ』
一歩踏み出す。
距離が詰まる。
目の前。
魂喰がこちらを睨む。
背筋がゾワッとする。
『何回見ても、ほんと気持ち悪ぃな』
胸元に手を入れる。
守り刀を抜く。
おじーが作った、ただの守り刀。――レプリカだ。
本来、力なんてあるはずがない。
……なのに。
手の中で、わずかに重みが変わる。
一瞬、遅れて気づく。
刃を見る。
伸びている。
音もなく。
重さが違う。
“中身が詰まった”感覚。
指に吸い付く。
最初からこの長さだったみたいに、手に馴染む。
――軽く振る。
遅れて、空気が裂ける。
『……この感じだ』
『なるほどな』
握り直す。
手に吸い付く。
違和感はない。むしろしっくりくる。
『悪くない』
さらに一歩、踏み込む。
その瞬間――魂喰が消える。
『上だろ』
見上げる。
高く飛び上がっている。
細く長い腕が、鋭く振り下ろされる。
考える前に体が動く。
踏み込みながら、刃を振り上げる。
ギィンッ!!
魂喰の長い腕先が刀とぶつかり火花が散る。
重い、固い――だが、その程度だ。
そのまま押し返す。
魂喰がわずかに後退する。
低く構え直す。
次は来る。確実に。
魂喰が左右に大きく足を広げ、低い姿勢でこちらを睨む。
まとっている空気が、わずかに膨らんだように見えた。
両手は地面をしっかり掴んでいる。
飛び出す準備はできている。
――来る。
『怒ってるな』
『来い』
低く、一直線に飛び込んでくる。
長い両腕を、鞭のようにしならせる。
『速い』
一撃目を流す。
だが、手数が多い。
次々と攻撃が来る。
速いだけじゃない。
重い。
そして――止まらない。
押す角度。ずらす力。流すタイミング。
身体が勝手にやる。
何度もやってきた。
ほんの一瞬、隙ができる。
――そこだ。
前に出る。
距離を潰す。
刀を横に払う。
空間ごと切り裂く感触。
魂喰のまとっている黒が、崩れ落ちる。
魂喰が滑るように下がる。
『いい切れ味だ』
だが、まだ終わらない。
また消える。
『遅いって言ってんだろ』
左手で塩を掴む。
振り向かず、背後へ叩きつける。
――弾ける。
『そこだ』
振り返る。
一歩で詰める。
迷いはない。躊躇もない。
振り下ろす。
――断つ。
確かな手応え。
肉でも骨でもない。
“存在そのもの”を断った。
重い。深い。
逃げ場のない感触。
輪郭が崩れる。
内側から、押し潰されるように。
砂のように。煙のように。
形を保てないまま、ほどけていく。
――崩壊する。
……消えた。
静寂。
さっきまでまとわりついていたあの重さが、嘘みたいに消えていた。
『……終わりか』
軽く息を吐く。
刀を見る。
いつの間にか、元の守り刀に戻っている。
『ほんと都合いいな、お前』
胸元にすっとしまう。
息は乱れていない。
まあ、この程度だ。
視線を戻す。
赤ん坊の泣き声が元に戻った。
重信と一瞬、目が合った気がした。
『……こっちは片付けたぞ』
小さく呟く。
まだ迎えは来ていない。
……だが、もうすぐ来る。
『さっさと終わらせろ、重信さん』
(第五話に続く)




