第三話
体が引きずられる。
床が崩れ落ちるような感覚。
――いや、違う。
落ちているんじゃない。
引きずり込まれている。
『ほんと勘弁してくれ』
やがて、暗闇の奥にぼんやりと光が浮かぶ。
視界がゆっくりほどけていく。
私は立っていた。
見覚えのある、古い家の中に。
『ここは……』
振り返る。
そこにいたのは、若い男だった。
――重信。
だが、さっきまで処置していた老人の姿ではない。
三十代くらいか。まだ肩にも腰にも力が残っている。
『なるほどな……ここが後悔の場所か』
重信は呆然と辺りを見回していた。
「ここは……昔の家だ……」
畳の匂い。
年季の入った柱。
隣の部屋から聞こえてくる、赤ん坊の泣き声。
襖がすっと開く。
「重信さん、この子ちょっと見ててもらえる?」
綺麗な奥さんだった。
声も柔らかい。
「雨降りそうだから、私はみゆとまなみのお迎えに行ってくるわ」
重信が息を詰まらせる。
「……俺は確か、あの時……」
過去の記憶をなぞるように、重信が低く呟いた。
「いつもみたいに、おぶって行けばいいじゃないか。俺はこれから区長の祝いの席を仕切らないといけんのよ、今朝話しただろうが」
あの時の自分の言葉が、そのまま口から出たのだろう。
区長が市議選に立候補する、その表明祝いの幹事を任されていたらしい。
「今朝の畑仕事で少し腰を痛めたから、すぐ帰って来るからお願いします」
――そう言っていた。
たしかに、そう言っていたんだろう。
本当に子ども想いだったんだろうし、たぶんいい嫁だったんだろう。
「分かったよ」
短い返事。軽い返事だ。
その一言で、自分の都合だけを通した。
学校は近い。
三十分もすれば嫁も帰ってくる。そう思っていた。
嫁の心配も、娘たちの心配も、していなかった。
息子はミルクを飲んですぐ寝た。
だから布団に寝かせ、そのまま家を出た。
何も起きない…起きるはずがない…そう思っていた。
「宴会所に娘が泣きながら呼びに来た時には……」
重信の声が掠れる。
「息子は、もう息をしていなかった」
静かだった。
仰向けのままミルクを吐き出し、窒息していた。
『……そりゃ後悔もするだろうな』
重信は涙を流しながら、泣いている赤ん坊を抱き上げた。
「……今度はそばにいてやるからな」
そう言って、息子を抱いたまま、ずっとあやし続ける。
顔はもう、涙でぐしゃぐしゃだった。
重信はすでに過去と違う選択をしている。
だが、私は口を出さない。
この世界は、あくまで重信のものだ。
――その時だった。
家の外。
庭先の空気が、ぐにゃりと歪む。
『……越えてきたか』
(第4話に続く)




