プロローグ 東雲ケイタは帰れない。
ある日の放課後。
担任の坂本佳織女史は、教室に着くなり一枚のプリントを俺に押し付けてきた。
訳も分からぬままそれを見やると、タイトルにはでかでかと『入部届』の三文字が記載されている。
俺は疑問の意味を込めて坂本先生に視線を向けた。これだとまるで、俺が部活動への入部希望者みたいじゃないか。
「坂本先生は確か、『今朝の清掃活動をサボった件について話がある』って言ってましたよね」
「そうだ。最近の東雲の生活態度には目に余るものがあるからな」
「別に遅刻も欠席もしてないでしょ。それより、これは一体どういうことですか」
俺は受け取ったばかりの入部届を、坂本先生にもよく見えるように顔の横でひらひらと動かした。
たしかに、俺は今日タダ働――地域貢献という名目の清掃活動に参加しなかった。正門に朝七時半集合の約束を、たまたま目覚まし時計をかけ忘れてしまったせいで寝坊してしまったからである。
しかし、俺は前述のとおり一度たりとも遅刻や欠席をしたことがない。出席確認の時間には必ず教室に着くように調整して登校しているし、不良生徒みたいなレッテルを貼られるいわれはないはずだ。
「あー。名前はシャープペンでもボールペンでもどっちでもいいぞ」
「名前を書く前提で話をしないでください。それに俺にだって放課後は予定が山積みなんで、部活動なんかに時間をかける暇はないっすよ」
主にボタンを高速で押すトレーニングとか。
坂本先生はフッとバカにし腐ったように鼻で笑った。無駄に高い顔面偏差値のせいで、煽り性能がやたら高いのが妙にイラっとする。
「東雲ぇー、教師に向かって嘘をついたらダメだろう。匿名で情報提供をしてもらったが、放課後になるとまっすぐ家に帰るそうじゃないか」
「交友関係が狭いおかげで情報提供者をすぐ特定できるのが悲しいところです!」
「それに彼女もいないそうじゃないか。ならばすぐに帰る必要もないだろ」
「言われてみればそうっすね。まるで恋人のいない寂しさを紛らわすために自ら進んで残業をするどっかの女教師みた――」
言い終わる前に視界が一瞬で暗転した。瞼を開いているはずなのに、外の情報が一切分からない。
状況を認識すると同時に、どこからか何かがきしむ音が聞こえる。遅れて左右のこめかみから強い痛みを感じたとき、俺は初めて坂本先生に頭を握られているのだと理解した。あとちょっといいにおいがする。
「先生。眼球が飛び出して耳と鼻と口から脳みそが噴き出しそうなんで、手を離してもらえるとありがたいのですが」
「私にはさっぱりわからないのだが、貴様は誰のことを言っているんだ?全然、まーったく気にしていないけど、どこの誰が三十路手前行き遅れ独身女性だと言いたいんだ言えるものなら言ってみろクソが!」
「めっちゃ気にしてるじゃん…」
先生に恋人がいないことは薄々気付いていたが、坂本先生って三十路手前だったのか。というか、俺も三十路手前行き遅れ独身女性だなんて言っていないのに…。
婚期を逃した独身女性ほど怖い存在は無いようだ。
「東雲ケイタ。お前の顔、二度と忘れない」
「忘れても大丈夫ですよ。どうせ明日も会いますんで」
「卒業したら夜道に気を付けるんだな!」
「含みを持たせるような言い方しないで…」
俺が卒業して生徒でなくなったらどうなってしまうというんだ。独身女教師…、卒業して生徒でなくなった元男子生徒…。ん?
まさか、な。
顔面を握りつぶそうとしていた手が突然離された。
眩しい世界に目を細めていると、坂本先生はおもむろに腕時計を確認する。
「私とお喋りしていたい気持ちは嬉しいのだが、あいにく私は教師で仕事が山積みでな。そろそろ戻らなければならないのだ」
「いいですよ戻って。俺は勝手に帰りますから」
「まあそう言うな。初日くらい部室までついて行ってやる」
坂本先生はニコリと笑い、俺の首根っこを掴み上げた。
入部届が手から離れ床に落ちるが気にする様子はない。
「これから卒業まで毎日顔を合わせるんだ。人は第一印象が大切だからな」
「俺の話聞いてます?ってか、部活動に入部しなければならない理由は?それに部活動名は?結局この時間はなんだったの?」
「教師に舐めた態度をとった罰だ。自分さえよければいいと思っているのだろうが、その考えを叩き直してもらえ」
言い終わるや否や坂本先生はくるりと廊下へ体を向け歩き出す。首根っこを掴んだまま歩き出したせいで、俺は危うく盛大に転びそうになった。
貴重品が入ったカバンをなんとか掴み、その後を追いかける。
適当な理由をつけてバックレよう。徐々に参加頻度を減らして一か月も経てば忘れているに違いない。
高校の部活動なんてそんなもんだ。