8/60
第五話「雨、刃、そして沈黙」
雨が降っていた。
冷たさではなく、重さだけが肌を叩くような雨だった。
空は低く、灰色の雲が地面まで垂れ込めているように見えた。
アスターは、その中に立っていた。
何も言わず、何もせず、ただそこに。
街の片隅。薄汚れたコンクリートの上。
明かりの消えた建物の壁にもたれかかるようにして、彼は動かなかった。
右手にはナイフ。
細身の、よく研がれた刃。
その先から、血が――重力に従ってぽた、ぽたと地面に落ちていた。
雨に流されるはずのそれは、なぜかしっかりと色を残していた。
赤は、こんなにも世界から浮いて見えるものだっただろうか。
アスターは目を伏せていた。
だが、その目は何かを見ていた。
足元の血でもなく、背後の死体でもなく――もっとずっと遠く、もっとずっと過去の何かを。
音も匂いも、すべてが薄れていた。
あるのは、ただ雨と、自分の呼吸だけ。
彼は何も言わない。
誰に言う言葉もない。
ただそこに、血まみれのナイフを持って立ち尽くしていた。