第四話「静寂の読書」 ――続き
ページをめくる指先が、一瞬止まった。
風が少し強くなり、紙がぱらりとめくれかけたその瞬間、ユリはふと――思い出していた。
あの光。あの声。あの無邪気な笑顔。
「……僕も車いすに乗りたい!」
病院の中庭だった。ちょうど今と同じような春の日。
ユリがまだ小さくて、それでも今と同じように本を読んでいたとき、
赤いフードをかぶった少年が突然走ってきて、そう叫んだのだった。
「え……?」
最初は戸惑った。
どこかから拾ってきた棒切れを持って、武器ごっこでもしていたのか、泥だらけの手のまま笑いながら言うアスターに、ユリは思わず言葉を詰まらせた。
「だってさ、すっごく速そうじゃん!タイヤついてるし、走るより楽そうだし、なんか……かっこいい!」
無邪気だった。
本気だった。
まったく悪気なんてなかった。
ユリは最初、何と返していいか分からなくて、少しだけ困った顔をしていた。
けれど、アスターが後ろからそっと車いすを押して、芝の上をふたりでゆっくり進んでいくうちに――
いつの間にか笑っていた。
「……ふふ。バカみたい」
そう言いながらも、笑っていた。
自分の病気のことも、痛みも、周囲の視線も――
全部、ほんの少しだけ忘れることができた。
風が、頬をかすめた。
ユリは本を閉じたまま、ひとつだけ、深く小さく呼吸をした。
胸が少しだけ痛くなる、けれど温かい記憶。
その笑顔を、もう一度見たいと願ってしまう自分がいることに、
ユリは気づいていた。
そして静かに、ページを開き直した。
もう一度、何事もなかったかのように――けれど瞳の奥に、優しい光を残して。