第四話「静寂の読書」
風が静かに頬をなでた。
季節はまだどこか冷たさを残していたが、それでも陽の光は穏やかで、
この場所だけが時間から切り離されたように、ゆっくりと呼吸していた。
ユリは病院の裏庭に設けられた小さなベンチの傍、
その影の端に置かれたスロープ付きの段差に向かって、ゆっくりと車いすを転がしていた。
前輪の小さなきしみが草の上でかすかに鳴る。けれど、それも風に紛れて消えていく。
ようやくたどり着いたその場所は、彼女の“いつもの席”だった。
何の変哲もない病院の裏庭。片方の木だけが少し伸びすぎて、
その枝がつくる影が午後になると静かにユリの肩を包む。
彼女は車いすのブレーキをゆっくりと下ろし、
膝の上でそっと開いた一冊の本に、指を滑らせた。
読み慣れたページ。何度もめくった角。
すでに内容は覚えてしまったほどだったが、彼女はそれでも読み返す。
読むというよりは、思い出すという行為に近いのかもしれなかった。
空の青が、ページの白ににじむ。
病院の壁が風に揺れた木の影を映し、ゆらゆらと淡く形を変えていく。
ユリはそれを眺めるでもなく、視界の片隅に置いたまま、黙って文字を追った。
遠くでは車の音。救急車のサイレン。誰かの笑い声。
日常がゆっくりと過ぎていくのを、ユリはただ静かに受け止めていた。
本のページを、指先でめくる。
そのたびに、風がまた少しだけ彼女の髪を揺らした。
やわらかく、どこか懐かしい香りが混ざった風だった。
病院の外、というだけで、これほどに空気は変わる。
だから彼女は、今日も外に出てきたのだった。
何かを待っているわけではない。
何かを考えているわけでもない。
けれど確かに、そこには彼女だけの時間があった。
ページをめくる音と、風の音だけが、世界のすべてだった。