第一話「硝煙の匂いと獣の目」
カチリ、と金属音が鳴った。
火が灯る。煙が立ち上る。
それを当たり前のようにくわえ、ガーベラは静かに一度、煙を吐いた。
肺の奥を熱が通り、視界の先が少しだけゆらいだ。
夜明け前のこの路地は、ひどく静かだった。人通りもない。ただ風と埃だけが往復している。
「……ガソリン臭いな。空振りならいいが」
彼は小さくつぶやきながら、煙草を指先に挟んだまま歩き出す。
とある裏通りで起きた“ただの傷害事件”。
逃げた男の名も、通報の内容も、どこにでもある“普通の事件”。
だが――
ガーベラには、その“普通”が嫌にひっかかっていた。
彼は路地の奥、薄暗い建物の隙間に視線を滑らせた。
そして、立ち止まる。
「……ここだな」
煙草をくわえ直し、右手でサングラスのブリッジにそっと触れる。
その瞬間、視界に微かに光が走る。
《OPTIC SCAN SYSTEM - ACTIVE》
《環境スキャン開始》
《血痕:検出 / 体液:検出 / 指紋:有り》
青白いホログラムが、視界の中でゆっくりと拡がった。
何もないただの地面に見えた場所に、血痕の飛び散りと足跡のパターンが浮かび上がる。
「……足跡は一人分。被害者はおそらく引きずられた」
彼はしゃがみ込み、コンクリート片にこびりついた赤黒い汚れに指を触れる。
サングラスのレンズが反応し、指紋の輪郭をなぞるようにスキャンが走った。
《指紋照合中……》
《一致:シュウ・ミナト / 前科2件・軽暴行 / 現在逃走中》
「ほう……まだこの街をうろついてたか」
くわえた煙草から灰がひとすじ落ちる。
その瞬間、かすかに唇の端が上がった。
「“普通”の事件でも、手を抜く気はない。俺の朝メシは、こいつの後だ」
立ち上がりながら深く一吸いし、煙を真上へと吐き出す。
灰色の空に、その煙だけがくっきりと浮かんだ。
コートの裾が、風に揺れた。
ホログラムに映る“逃走ルート”を視界に刻み込み、彼は再び歩き出す。
街の騒がしさとは無縁のこの場所で、ひとつの事件が静かに始まろうとしていた。
そして――ガーベラの目は、すでにその終わりを見据えていた。