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ロジパズ少女  作者: 軌条
6/6

パズルなきエピローグ


 放課後、教室にて。


「織井、部活に行ってないのか。教室で独り残ってどうした?」


「先生……。今日は仏国式本格サボタージュを敢行しました」


「サボりだと? 珍しいな」


「珍しい? 私はよくサボってますよ! みくびらないでください!」


「え。なんかごめん」


「はあ……、別にいいですよ……」


「何だ、元気がないな。ダイエット中か?」


「ダイエットなんかしなくてもあたしはプリティーアンドキュートですよ。おまけにセクシーでもある」


「ええと、まあ、そういうことでもいいが、お前らしくないぞー。そう言えば三日前くらいからずっと大人しいよな。恋煩いか」


「ぎくっ」


「え……、分かり易い……」


「ちっ違います! むしろ恋煩わせですよ」


「ははあ。複数の人間から言い寄られているとか?」


「ぎくぎくっ」


「しかも相手が一癖も二癖もあって、でも魅力がないわけでもない」


「ぎくぎくぎくっ」


「なるほどー、青春してるなあ、お前。意外と人気あるんだなー」


「自分でも意外ですよ……、はあ……」


「で、今日が返事をしなきゃならん日だということだな」


「先生の今日の勘、冴えまくりやがってますね」


「褒めるな、褒めるな。あっ、そうか、どうしてお前がそんなオイシイ立場にいながら悩んでいるのか分かったぞ」


「何ですか」


「本当は先生のことが好きなんだろう。禁断の恋に踏み出す勇気が持てずにウジウジしているわけだな、ははは」


「教育委員会の電話番号って何番ですか。警察でもいいか」




     *




「ごめん」


 私は深々と頭を下げた。

 十分過ぎるほど間を取ってから顔を持ち上げると、赤沢は必死に無表情を取り繕うと努力していた。

 私はちょっとばかし期待していた。

 赤沢は笑い出したくなるのを堪えているだけだと。

 いつもみたいに私をおちょくろうとしているだけだと。

 しかし彼は唇を噛み、笑みとは全くかけ離れた、悲哀と失望に満ちた表情をして、瞼を閉じた。

 はあ、と長い溜め息をつく。


「参考までに聞いておきたいんだけどさ――やっぱり、俺、お前に嫌われてるのかな?」


「そ、そういうことじゃないの。でも、何というか――」


 私は赤沢を振る理由を考えていた。

 三日も前から。

 でも相手を傷つけずに済む言葉なんて一つもなかった。

 どんな理由も相手を拒絶することに変わりない。

 私は他に誰もいない放課後の渡り廊下の上で赤沢と正対し、遠くでテニスボールが激しく打擲される軽やかな音を聞きながら、人生でも稀なほど気まずい瞬間を何とか切り抜けようと奮闘していた。


「……赤沢、美鶴のことが好きなんだよね?」


「……ああ」


「どうしてあたしに告白なんかしたわけ? 自分の気持ちに嘘をついてるってこと?」


 赤沢は渋い顔だった。


「美鶴様はテレビで見るアイドルみたいなものなんだ。いや、もちろん、美鶴様と付き合えたら最高だけど――でも叶わない望みだって分かってるし、現実味は薄い」


「あたしは都合の良い代替さんってわけね?」


「普通の人に置き換えて考えてみてくれよ。誰だって好きなアイドルのポスターの一枚や二枚、部屋に貼ってるものだろ、男女問わずにさ。あるいはコンサートに行ったり、握手会に行ったり、湯水のように金を注ぎ込んだり。美鶴様は俺にとってそんな存在だ」


 分からないでもない。

 けれど、美鶴をそんな風にしか見られないなんて。

 やっぱり赤沢は少なからずおかしい。

 私は小さく首を横に振った。


「美鶴はテレビの向こう側にいるアイドルなんかじゃない。ちゃんと一対一で話をしてくれる。もちろん、美鶴はいつでもアイドルになれるけれど、そんな風に見るのは間違ってる」


 私も美鶴に対する心酔という点では、美鶴フリークスと大差ないかもしれないなあ。

 そんなことを思いながら、消沈した赤沢になお言葉を投げかける。


「それに、いくらオトコがアイドル好きだからって、露骨に表現されるのは嫌でしょ。やっぱりそういうのは隠して欲しいよ。赤沢は美鶴LOVEを長らく公表してきたから――」


「もういいさ」


 赤沢は曖昧に笑った。

 寂しさが強調されて、遠くから聞こえる誰かの笑い声が、彼を泣かせてしまわないかと心配になった。

 もちろん、妄想に近い心配なのだが。


「分かってるよ。要するに、俺のことが好きじゃないんだろ? お前、不器用そうだからな。付き合いながら好きになる、なんて器用な真似はできないよな、そりゃ」


「……ごめん」


「あーあ、お前、相当な損だぜ。人生の損失だ。俺みたいなオトコを振るなんて、贅沢にも程がある」


「ごめん」


「何度も謝るなよ。てかさ、織井、これからずっと俺にそういう顔をするのはやめてくれよな」


「……え?」


「そーゆー気まずそうな顔だよ。これからも学校で顔を合わせるってのに、そーゆー顔されたら参っちまう。頼むから、普通に接してくれよ。な?」


 玉砕直後にそういうことを言える赤沢は、やっぱり本気じゃなかったのだろうか。

 あるいは赤沢はとてつもなく器用な人間で、切り替えが早く、恋愛より今後の学校生活に重きを置く人物なのか。

 どれでもいい。

 ただ、私にとってもそれが望ましい提案に思えた。

 それを承知の上で赤沢がそう言ったのだと、要するにこの提案が彼の優しさであると解釈するのは容易だったが、それだと彼が格好良過ぎるのでこれは邪説として位置付けておこう。


「じゃ、また明日な」


「あ、うん。じゃあ」


 赤沢は爽やかな笑顔と共に歩み去った。

 彼の瞳がきらりと光ったように見えたのは気の所為だろうか。

 私の瞳がうるうるしていただけかもしれない。

 世界がぼやけ、渡り廊下の向こうからこちらに近付いてくる男子生徒の顔面が奇妙に歪んでいるように見える。

 それは六角であった。


「僕もあのときの告白は本気だったんだけど――」


「死んでしまえ」




     *




 三つ子バニッシング事件の後、北口氏は両腕の骨折で入院したので不在だったが、驚くべきことに色川先輩は普通に登校してきた。

 色々と吹っ切れたらしい。


 なぜ色川先輩が美鶴に対して執着していたのかを知った私は、複雑な想いだった。

 過剰と思えた色川先輩のアプローチは、事情を知ってしまえば理解できなくもない行動が多かった。

 美鶴が比類なき麗人として認識されたきっかけが、美鶴が色川先輩を振ったことだとは、私も全く知らなかったし、周りの人間もすっかり忘れているようであった。


 だからそれが事実であるとは確認できなかった。

 色川先輩の狂言である可能性もある。

 ただ私はその点においてのみ先輩を信用してもいいんじゃないかと思っていた。

 もちろん、私をカゴメ地獄に陥れようとした所業を許すことはできないが。

 清掃時間中、ゴミ出しに向かった私は、廊下の向かい側から空のゴミ箱を抱えた色川先輩とたまたま擦れ違ったことがあった。


「無事だったんだね」


「おかげさまで」


「僕は美鶴を諦めない」


 短い会話だった。

 私はクールを装いながらも、擦れ違った先輩の背中を睨みつけ、手元がお留守になり、満杯だったゴミ箱の中身を廊下にぶちまけて周囲の顰蹙を買った。


 美鶴フリークスの幹部、黒田と赤沢とは、和解の方向に進んでいるように思われる。

 しかし首魁色川先輩、その側近白山先輩、権力に弱い青木とは距離があり、美鶴フリークスとの抗争はまだまだ終わりそうにない。

 恐らく抗争を止めることができるのは、いつ出現するかも分からない美鶴の恋人であろう。

 美鶴に恋人が出来れば、美鶴フリークスの連中は士気を失い、色川先輩も彼女の幸せそうな様子を見ればさすがに自分の出る幕ではないことを悟り、組織を解体するだろう。

 楽観的な観測だろうか?

 しかし色川先輩が話した事実を吟味すると、これが一番現実的な路線のように思われた。


 ただ、美鶴の恋人として最有力なのは、まさかの私なのである。

 色川先輩の話が真実であるのなら、かつ美鶴が先輩に話したことが真実であるならば、恋人候補筆頭は私なのである。

 受け入れ難い事実だ。

 何度も否定しようと思った。

 しかし美鶴に直接確認することはできない。

 色川先輩だって嘘をつくとは思えない。

 こんな嘘をつくメリットが先輩にあるだろうか?

 私を美鶴から引き剥がしたいのなら、こんな奇妙で突拍子もない嘘をつくのは利口とは言えない。

 だから当面は事実として受け止めておく。


 でも、事態は最悪ではない。

 色川先輩のような狂気の人が、美鶴のような純真な乙女の恋人になる可能性が皆無であることを考えると、最悪ではないのだ。

 私が近々美鶴を傷つけてしまうかもしれないとしても、私はきっと彼女の親友であり続ける、その決意が恐怖を和らげてくれた。


 最近、部活に顔を出すのは控えていた。

 元々、男子サッカー部にムリヤリ乱入しているような形だったので、誰も困りはしなかった。

 誰もいない教室で、あるいは階段の踊り場で、あるいは校門前で、美鶴が部活を終えて姿を現すのをひたすら待つ日々だった。

 美鶴とは普段通り接しているつもりだった。

 それでも完璧には程遠かったらしく、ときどき美鶴が不思議そうな顔をして私をまじまじと見つめることがある。

 そんなとき私は下手な笑みを作るのだが、その不用意な心遣いがどれほど彼女を傷つけているか、計り知れないものがあった。


 部活にも出ず下校時刻を待っている間、どんな風に美鶴と接すれば良いのか考えていた。

 そんなことを考えている時点で親友として失格だが、考えずにはいられない。

 アレコレ方策はあるのだが、どれも成功しなさそうで、結局答えは出なかった。

 答えなんかないのかもしれない、私は彼女と接する限り傷つけ続けるのかもしれない。

 でも色川先輩が正しいなんて思いたくなかった。


 だが、誰が何と言おうと地球が回っていることは確かであり、それと全く同じように、憎き色川先輩が美鶴に関して正しい見解を示している可能性だってある。

 気に喰わない人間の発言だからって、内容をないがしろにするのは間違っている。

 そして私は色川先輩が正しかった場合のことを考えると萎縮してしまう自分が嫌いだった。

 今日こそは美鶴に訊ねよう、全ての真実を明らかにしよう、どうせこのままではいられない。


 その決意が、部活帰りの美鶴の笑顔を見ると、あっさり瓦解していく。

 彼女との関係が悪化するのは何にも優る恐怖である。

 明日こそは、来週こそは、次こそはと、未来の自分が超人的な勇気を発揮することに期待をかけ、その日を平穏に終えることに努力を傾注するのだった。

 だが、そんな日々が長続きするはずもない。


 その日、いつも通り部活をサボり、校門前で部活帰りの美鶴を待っていると、いつもより早く彼女の姿が昇降口に見えた。

 ブラスバンドの無秩序な楽器音はまだ校舎のどこからか響いてきており、練習が終わったわけではないことを示している。

 美鶴が演奏に加わっていないと分かるや、豊かな音色が失われ、モノトーンに沈み、聞くに値しない雑音へと変貌する気がした。

 私は手を振って美鶴に合図したが、彼女の今日の笑顔は控えめだった。


(何かが違う)


 私は胸がざわざわするのを感じた。

 美鶴は明らかに緊張している。


「司奈ちゃん、今日もサボり?」


 美鶴が昇降口から顔を出すなり訊ねた。

 言うまでもないが、非難の響きは一切ない。

 おかげで私はあっさりと頷くことができる。


「まあね。美鶴は? 早退?」


「うん。ちょっと気分が悪くて」


 美鶴は笑みを見せた。

 嘘だろうか。

 いや、事実かもしれない。

 確かに少し顔色が悪いように思えなくもない。

 顧問も美鶴が相手だと気を遣うのだろうか。


「じゃ、帰ろっか」


 美鶴が先に校門を通過する。

 私は頷き、彼女の横についた。


 五月の遊歩道は早くも夏の色に染まりつつあった。

 路傍の濶葉樹の若々しく厚みのある葉が風に嬲られ、ゴミ一つない路面に単調だが活力のあるメロディーを奏でる。

 まるで遠く校舎から聞こえるサクソフォンの怒鳴り声が颶風を引き起こし、私たちに葉擦れの合奏を披露しているかのように、二人黙って歩くのにはあまりに騒々しい状況であった。

 場所は遊歩道である、騒音と排気ガスを撒き散らす自動車も、まるでブレーキをかけることを恥じているかのような暴走自転車も、ここには進入できない。

 帰宅部組と部活組のちょうど中間の時間であったので、私たち以外に下校している生徒もいない。


「あのさ」


 私は話題が見つからず、いつも通り、いつも通り、と自分に言い聞かせながら、


「弟たちは元気にしてる? 最近あたしが顔を出してないから、元気ないんじゃないの」


「うーん、どうだろう。今日、ウチに来る?」


 美鶴の心温まる申し出。

 私は即座に応じようとしたが、一瞬だけ躊躇してしまった。

 自分でもどうして怯んだのか分からない。

 いや、分かるのだが、自分のトロさ加減に腹が立ってしまう。

 そしてたぶん表情も最悪だった。

 美鶴は苦笑し、


「司奈ちゃん、最近、私のこと避けてる?」


 私は心臓を鷲掴みにされた思いだった。

 絶対に美鶴にそう思わせてはいけない。

 彼女が口に出したくらいなのだから、きっと私の態度が傍から見たらよほど露骨だったのだろう。

 私はすぐに否定しなければ、と思った。

 しかし私を見つめる美鶴の表情を見たとき、またもや怯んだことは認めざるを得まい。


「避けてなんかないよ。……あたし、美鶴のこと、大好きだから」


 その言葉で彼女の反応を見ようと思った。

 美鶴はいつもの柔らかな笑みで応じてくれた。


「ありがと。私も司奈ちゃんのこと、大好きだよ」


 美鶴の返答もやはり、いつも通りだった。

 言葉だけ聞くとギクリとしてしまうが、何か深い意味があるとは思えないニュアンスだった。

 色川先輩は、やはり、何かを勘違いしていたのではないか。

 私はその希望に縋ることにした。

 だって、美鶴が同性愛者で、私のことが好きで、その同性愛を克服しようと、自分の気持ちを押し殺して色川先輩に告白した、なんて話は荒唐無稽ではないか。

 全て色川先輩の妄想だった、その説明のほうがよっぽど無理がない。


 無理はない、のだが、釈然としない思いが残るのも否定できない。

 私は美鶴が久しぶりに見せてくれた会心の笑顔に安堵すると共に、ここで一気に核心に迫るべきだろう、と判断した。

 美鶴も私が彼女を避けている理由を探ろうとしている。

 ここで決着しなければ、卒業の日までぎこちない関係になってしまう気がする。


 私は大きく息を吸った。

 何日も前から考えていた質問文をいよいよ口にしようとする。

 だがその前に美鶴が立ち止まった。

 私は少し行き過ぎ、立ち止まって振り返った。

 美鶴は苦々しく笑っている――少なくとも満面の笑みではない。

 風が止み、静寂が辺りを支配する。

 ブラスバンドの演奏はここまでは届いてこなかった。


「美鶴……?」


「良かった……、私、心配してたの」


 美鶴の泣き笑いのような顔。

 私の心はシクシク痛み、こんな状況を招いた自分が憎たらしかった。


「心配……?」


 私は頭をフル回転させた。

 しかしそうするまでもなく、美鶴が何を心配していたのかなんて、会話の流れからして自明だった。

 それさえもすぐに理解できないほど、このときの私は切羽詰まっていた。


「私ね、司奈ちゃんに避けられているのかと思ってた」


「そ、そんなことないよ! ごめん!」


 私は慌てて否定した。

 美鶴の笑みが再び深くなる。


「でも、いつもと様子がおかしいっていうか……。弟たちが消えちゃって、私が司奈ちゃんに変な電話をかけてからだよね」


 確かに美鶴からしてみれば、あれから私の態度がおかしくなったように思われただろう。

 事実は全く違う。

 私は首を横にブンブン振った。


「様子がおかしいのは、そうかもしれないけど」


「何かあったの? ねえ、司奈ちゃん。無理にとは言わないけれど、司奈ちゃんが一人で苦しんでいるのを黙って見てなんかいられないよ。良かったら、話して?」


 美鶴の慈悲の塊のような言葉。

 私は感涙してもいいくらい感動していた。

 しかし、これからとてつもなく重大なことを訊ねなければならないという焦りと余裕のなさが、涙腺の導管を比類なき力で結紮した。


「うん……、じゃあ、話すけど……」


 美鶴は小さく頷いた。

 私はどのように訊ねるべきか考えたが、さすがに、直接事実を確認するには勇気がなく、


「あたし、知っちゃったの。美鶴の好きな人が誰なのか……」


 私は言った。

 言ってしまった。

 しばらく顔を伏せていた。


 美鶴は何も答えてはくれない。

 赤青に塗り分けられた遊歩道の境界線に立った私は、沈黙が堪えられなくなって顔を持ち上げた。

 美鶴は驚愕の表情を浮かべ、じっと私を見つめていた。

 その表情は私の言葉が彼女に甚大な影響力を持ったことを如実に示していた。

 私は後悔した。

 これでもう二人は元には戻れない。


「司奈ちゃん……、知っちゃったんだ」


「うん」


 どうして知ってるの、とでも聞かれるかと思ったが、美鶴はその点を追及しなかった。

 色川先輩に話した時点で、ある程度は覚悟していたのかもしれない。


「……歩きながら話そうか」


 美鶴がか細い声で言った。

 私は頷く。

 並んで歩けば美鶴の弱った顔を見ずに済む。

 彼女をそんな顔にしてしまったのは自分なのだ。

 しかし、並んで歩き始めてすぐ、私は美鶴が顔面蒼白なのに気付いた。

 具合が悪そうだ。


「大丈夫? 青褪めてるけど」


「うん、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」


 美鶴は弱々しく笑った。

 それがかえって痛々しく思えて、私はそれ以上何も言えなかった。

 しばらく二人は黙って歩き続けていた。

 私はこの空気の重みが、そのまま事実の重大さを示しているように思えて、暗鬱な気分になっていた。

 だって、美鶴の反応は、明らかに色川先輩の言葉が正しかったことを示しているではないか。

 美鶴は私のことが好きで、とてつもなく気まずそうにしている、それしか考えられない。


「司奈ちゃん」


 美鶴は震える唇を隠そうともせず、ぽつんと言う。

 私は全身の筋肉を硬直させた。


「やっぱり、この気持ちは、殺したほうがいい?」


 美鶴の寂しげな声。

 これは事実上の告白と受け取ってもいいのだろうか。

 私が彼女の言葉を否定したなら、女の子同士の交際が始まることになる。

 一緒に買い物行ったり、休日を楽しく過ごしたり、そこまでは大歓迎だけど、当然、恋人同士となるとその先がある。

 私には無理だった。

 いくら美鶴相手でも、そんな雰囲気に堪えられそうにない。

 私は首を横に振った。


「ごめん。……やっぱり、私には受け入れられない」


 もっと他に言い方があるのではないか。

 我ながらそう思った。

 美鶴の表情を確認することが怖かった。

 しかし視線は動く。

 確認しなければならない。

 自分の言葉が彼女に与える打撃を、きっちり見届けてあげないといけない。

 美鶴は震えていた。

 前を見据えて、震える唇を噛み、強張った笑みで、


「そうだよね、やっぱり。無理に決まってるよね……」


 それからの沈黙は地獄のようだった。

 私が何か言うべきだろうか。

 美鶴の言葉を待つべき?

 少なくともこのまま何も言わないまま別れるのは絶対に避けなければならない。

 友情の決裂が決定的になる。


「ご、ごめんね、美鶴。私も、その、できればっていうか、受け入れられたら良かったんだろうけど……」


 私の不用意な発言に、美鶴は柔らかく応じる。


「ううん、司奈ちゃんは悪くなんかないよ。私がおかしなことになってるだけで」


「あのさ、美鶴。あたしたち、これからも友達だよね?」


 私の言葉に美鶴は大きく頷き、笑みが復活した。

 彼女の笑顔はこんなときでも魅力いっぱいだった。


「当たり前だよ、司奈ちゃん。それは一生、絶対に変わらない」


 その力強い言葉にほっとしたものの、本当にそれは可能なのだろうかと怪しんでいた。

 口先だけでは何とでも言える。

 仮に美鶴が私に対して恋愛感情をすっぱり絶ったとしても、私のほうから溝を作ってしまうかもしれない。

 美鶴はどうしてか多少吹っ切れた顔をしていた。

 赤沢と同様、失恋してもなお明るく振る舞えるのは、彼女が強い人間だからだろうか。


「美鶴、落ち込まないでね。美鶴が悪いわけじゃないから――」


「うん。司奈ちゃん、それに私、頑張るから」


 美鶴は言う。

 えっ、と私は一瞬言葉を失った。

 頑張るってどういう意味だ?

 まだ諦めてないってこと?

 私のごめんなさいは聞いてなかったのか。


「いや、美鶴? あたし、ごめんなさいって言ったんだけど……」


「うん。そうだね」


 美鶴は少し緊張したように頷いた。


「司奈ちゃんの気持ちは分かった。でも、私、諦めきれないの」


 私はぽかんとした。

 それってどういう意味だろう。

 私がごめんって言ってるのに、まだ諦めない――それは他の女性と付き合ってみせるという宣言だろうか。

 いや、そうではないだろう。

 まだ私を諦めていない、という意味に決まっている。

 美鶴ってこんな強情だったのか。

 私は嫌だって言ってるのに諦めないと直後に言えてしまう。

 男女の仲だったら逆転サヨナラホームランもあるかもしれないけど、私はたぶん、女の子を好きになることはない。

 バントでホームランを打ってしまうくらいありえない。


「美鶴、諦めきれないって、どういう意味……?」


 私は訊ねざるを得なかった。

 美鶴は意外そうに、


「だって、まだ分からないでしょう。玉砕してもいいから、自分の気持ちはちゃんと伝えたいの」


 えっ? 美鶴は何を言っているんだ?

 気持ちなら今、ちゃんと伝えたじゃないか。

 結果は既に出ているんだ。


「み、美鶴? だからあたしはごめんって……」


「司奈ちゃん、ごめんね。でも、口にした感じ、良いと思わない?」


「え? 何が?」


「織井美鶴……、響きはなかなか良いと思うの」


 美鶴が笑む。

 男役はやっぱり私ですか、そうですか。

 いや、それはどうでもいい。

 美鶴がどんな思考をしているのか分からない。

 常識があると思っていたのに。

 こんなにはっきり断っているのに、まだ結婚を夢見ているかのようだ。


 どうすればいいんだろう。

 私は頭を抱える。

 断り続けてもまだ諦めないのなら、ある意味それは均衡した状況と言えなくもない。

 美鶴はけして失恋しないのだから。

 明るい彼女のまま、私に接してくれるのだから。

 学校生活はそれで意外と上手くいくのかもしれない。

 私はそんな幻想を抱きつつも、何かが引っ掛かっていた。

 答えがすぐそこにある感覚はあるのに、手が届かないというか。

 認めたくないというか。


「私、子供が欲しいの」


 美鶴の暴走が始まった。


「男の子と、女の子、一人ずつ欲しいな。ねえ、司奈ちゃんは子供が何人欲しい?」


 いやできないよ、二人の間に子供はできっこないよ、とは指摘できなかった。

 私は苦笑し、


「あたしは別にいいかな……、でもどっちかって言うと女の子……」


「そっか。研一たちも司奈ちゃんの弟みたいなものだからね、やっぱり次は女の子だよね」


 その理屈はいまいち理解できなかったが、私は頷くしかなかった。

 美鶴に明るさが戻ってきた。

 見た目だけは正常だが、話している内容はどんどん際どいものに変異してゆく。


「子供ができたら、名前はどんな感じにしようかな……、男の子だったら幹太とかどう? 博之なんかもいいかも」


 とてつもなく平凡だな、とは指摘できなかった。

 美鶴の暴走は止まる気配がない。


「女の子だったら……、思い切って司奈ちゃんにちなんで志奈子とかどう?」


「あ、いいんじゃないかな、ははは」


 全く笑えなかった。

 美鶴は妄想に浸っている。

 私に振られたことがそんなにショックだったのだろうか。

 いつもの彼女に戻って欲しい。

 帰ってこい、美鶴! カムバック!


 私たちは遊歩道を歩き終え、国道に出た。

 巨大な歩道橋に昇ると美鶴の家、歩道橋を行き過ぎて国道に沿って進むと私の家に向かうことになる。

 美鶴は歩道橋の前で立ち止まった。

 私はびくりとして、美鶴の家に立ち寄るのは今日はやめたほうがいいんじゃないかと思った。

 何だか今日の美鶴はおかしい。

 それともおかしいのは私のほうだろうか?


「今日、司奈ちゃんちにお邪魔してもいい?」


 えっ?


「できれば、夕飯も一緒にしたいんだけど――」


 ええっ?


「駄目かな。司奈ちゃんのお父様に、どうしても会っておきたいの」


 えええっそれはまさか恋人の親への挨拶?

 正式に交際を認めてもらおうとしているわけ?

 そんなことをしたら美鶴が恥をかいてしまう。

 父はきっと美鶴を普通の子ではないと思うだろう。

 いや、私は美鶴が女神だと思っている。

 彼女の清純な佇まいはあらゆる汚穢を寄せ付けない。

 しかし美鶴をろくに知らない父なら、そういった偏見を持ってしまうだろう。

 悲しいかな、同性愛者に対する偏見は、未だに社会にはびこっているのだ。


「み、美鶴。さすがにそれは……」


「駄目? 今日、お父さん出張で、家に誰もいないの」


「規夫さんがいないんだ……。三つ子は?」


「電話で呼ぶよ。一緒にお鍋でも作らない? 迷惑かな?」


 迷惑ではない。

 普段なら心躍るイベントになりうる。

 いつも私は一人で夕食を食べているのだ。

 寝るときだって独り。

 たまに寂しい夜はテレビをつけたまま眠ることだってある。

 親友のお泊りは大歓迎だった。

 だが、美鶴と父を合わせることに抵抗はあった。

 それ以前に交際はしないって。

 子供も作らないって。

 お願いだからそろそろ目を覚ましてくれ……!


「行こう。何だか、色々話してたらどんどん勇気が出てきたの。今夜が勝負ね」


 美鶴は明るく言う。

 何が勝負なんだ。

 どうすればいい。

 私には何が何だか分からない。

 美鶴に対してどんな態度で接すればいいのか、誰か教えてくれ。


 結局、私は美鶴の申し出に屈した。

 歩道橋を渡らず、国道沿いを歩き始める。

 少し延びた会話の時間では、相変わらず美鶴が子供の話を始める。

 正気だろうか。

 錯乱しているのか。

 これは夢ではなかろうか。


 自動車やバイクが忙しなく行き交う道路、その脇にあるやや窮屈な歩道。

 私と美鶴は並んで歩き続ける。

 私はさっさと三つ子を呼んでこの妙な空気を攪乱して欲しかった。

 自然と早歩きになる。


「あっ、司奈ちゃん、待って……」


 美鶴がよろめく。

 私は思い出した、

 美鶴は具合が悪かったのだ。

 私は自分の不明を恥じ、慌てて美鶴を支えた。

 彼女を支えると、ほとんどの体重を任せてきた。

 傍から見たら抱き合っているように見えるだろう――私は美鶴を心配しつつも、頭の片隅でそんなことを心配していた。


「おい、おーい」


 車のけたたましいクラクション。

 すぐ傍で鳴ったので私も美鶴もびくりとした。

 軽トラが一台、路肩に停まっていた。

 窓を全開にした運転手が、腕を外に出して、火の点いたタバコを垂らしている。

 私はウゲ、と呻いた。

 美鶴は口を押さえる。

 それは私の父だった。

 爽やか過ぎる笑顔をお見舞いしてくる。

 今、第三者が私と美鶴の間に入ってくれるのは大歓迎だけど、アンタだけは駄目だ、父さん。


「どうしたの父さん! いっつも深夜になるまで帰ってこないのに」


「ははは、可愛い司奈よ、年に数度の有給を半日分使ったのだよ。今夜は鍋パーティでも開こうかと突然思いついてな」


 父は助手席に置いたビニール袋をちらりと見せてくれた。

 鍋の材料と思われる長ネギだの牛肉のパックだのがあった。

 何だ、これは。

 どうして今日に限って早く帰ってくるんだ。

 おかしいじゃないか。何か呪いめいた力が私の周りを取り巻いているのか。

 運命の神の御力が美鶴を全力援護しているのか。

 父は軽快に笑っている。


「それにしても司奈、隅に置けないなあ、こいつぅ」


「な、何がよ」


「そこの絶世の美少女と抱き合っていたじゃないか。恋人にでもなったのか。お父さんはな、司奈がオナベさんでも変わらず愛するから、心配せずに自分の信じた道を進め」


 私はカチンときた。

 言って良い冗談と悪い冗談がある。

 特に、目の前にそれと似た問題を抱えた女の子がいるというのに。

 美鶴を見やると、彼女は赤面していた。

 父はひとしきり笑った後、もう一度クラクションを鳴らして、軽トラを発進させた。

 父の車が見えなくなると、美鶴が長い溜め息をついた。私は曖昧に笑い、


「ごめんね、父さんったら、今日はいつにも増してハイテンションみたい」


「ううん。平気だよ。でも、ちょっと緊張したなあ……。いきなりだったから」


 美鶴の赤面はなかなか治まらなかった。

 きっと私と恋人だとか言われたから恥ずかしかったのだろう、あるいは抱き合うような形になったことにドギマギしたのか?

 残念ながら私はトキメキと言えるようなものは感じなかった。

 私と美鶴は付き合えない。

 その当然の事実を確認し、美鶴の顔色を確かめる。


「大丈夫? 歩ける?」


「う、うん。具合はもう大丈夫。ごめんね……」


 美鶴はそこで弱々しい笑みを浮かべる。


「こんなんじゃ、赤ちゃんなんて産めないよね。もっと丈夫にならないと」


 まだそんな際どいことを言っている。

 本当に美鶴はどうしてしまったのだ。


「うん、そうだね……」


「子供をたくさん産んで、司奈ちゃんにもたくさん弟や妹を作ってあげるからね」


「うん、ありがとう」


 私は自然に応じた。

 応じたのだが。

 数秒のタイムラグ。

 んっ?

 んんっ?

 おやおやおやおやおや……!?

 激震。

 脳室の髄液を沸騰させる。

 大袈裟ではない。本当に意識を失いかけた。

 眩暈。世界が回る。

 ああもう嫌だ。畜生。

 色川先輩の考えはやっぱり勘違いだった。ああ、ああ、ああ、ああ、もう!


「美鶴ぅ!」


 私は叫んでいた。

 美鶴がびくりとして後ずさりする。


「し、司奈ちゃん、どうしたの?」


「美鶴の好きなヤツってあたしのお父さんなのかーい!?」


「ちょ、司奈ちゃん、大声でそんな……。知ってたんじゃないの?」


 美鶴は頬に手を当てて恥ずかしがっていた。

 その仕草、とてつもなく可愛い。……じゃなくて!

 これだけは言いたい、色川先輩の嘘つき!

 いや先輩も勘違いしていたんだ、そうだ、美鶴は好きな人がいると先輩に告白したが、そのときは「織井さん」が好きだと言ったのだ、もし美鶴が私のことを好きだったのなら「司奈ちゃん」が好きだと言うはずだ、そんくらい気付けよ先輩のバカー!

 それに、今までの美鶴の言動を思い返してみると、私の父さんをカッコイイと言ってくれたり、たまに私のお母さん気取りを始めたり、父さんの名前を知りたがっていたり、色んなところに何となく手掛かりがあったじゃないか。

 どうして気づかなかったのだろう。

 私の混乱はさておき、事態はコペルニクスもびっくりするほど大きな転回を見せた。


「色川先輩……、ガンバレ!」


 色々と危うい色川先輩と、実の父親、どちらが美鶴の恋人に相応しいか――美鶴には悪いけれど、父にはご退場願いたい。

 だって、美鶴が私の義母さんになるって?

 ちょっと理解を超えた展開だ。

 規夫さんが私にとっての祖父に、三つ子が叔父さんになるってことだよ。

 状況を整理すればするほどおかしなことになる。

 でも美鶴が失恋して泣きじゃくる顔は見たくないよお。

 どうすればいいんだぁー!

 そういうことで、私の悩ましい日々はしばらく終わりそうもなかった。

 三つ子も交えて皆で仲良く一緒に食べたキムチ鍋は辛味がきつ過ぎたみたい。

 美鶴ったらずっと顔が赤くて父さんに心配されてたよ。

 私は別の意味で心配だったけどね!



 おわり

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