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ロジパズ少女  作者: 軌条
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三つ子バニッシング


 朝の学活、教室にて。


「おーい、家庭の都合で、桜井の家庭訪問の日程を変更しなきゃいけなくなった。入れ替えても構わない奴はいないかー」


「はーい」


「誰だ今返事したのは。織井か?」


「そうでーす」


「え。本当に織井なのか。男子の声に聞こえたが……」


「先生。冗談だとしても怒りますよ。ぷんぷん」


「悪い悪い。で、織井の家庭訪問の日程は……、何だ桜井のすぐ後じゃないか。別の日の奴と入れ替わってもらいたいんだが」


「先生、あたしじゃ不足ということですか。この織井司奈の力では足しにならないと?」


「そんなことを言ってるわけじゃないが、自虐に浸りたいならそれでもいい」


「美鶴の力になりたいんですよ。たとえ意味がなくてもいい、あたしの家庭訪問の時間を美鶴に分け与えてやってはくれませんか?」


「お前何を言ってるんだ? 入れ替えるんじゃなく、分け与える?」


「あたしは超優良生徒ですからわざわざ家庭訪問なんかしなくても大丈夫です」


「いや逆だろ。桜井が超優良生徒でお前は凡俗だろう」


「泣きますよ。凡俗はないじゃないですか。あたしだって一生懸命生きてるんです。カエルだってオケラだってオリイだってみんなみんな一生懸命生きているんですよ」


「悪い悪い。教育に携わる者としては、およそ将来に可能性を感じない生徒に対しても誠実に対応しないとな。織井、お前には可能性がある。桜井が万の可能性としたらお前にも三くらいは可能性があるかもしれないその望みは捨てちゃいけない諦めるな諦めるのが普通だろうけどどうして諦めないんだお前」


「さすがに言い過ぎだろ!」




     *




 色川先輩との決闘から二週間が経った。

 毎日のように論理パズルを解いていたあの日々が嘘のように、今の私の頭脳はアイドリングさえしていなかった。

 エコである。


 風の噂では、美鶴に告白した色川先輩はあえなく玉砕し、ここ数日学校を休んでいるらしい。

 ざまあみろウケケケ、というのが本音だったが、美鶴は先輩に告白されたことをおくびにも出さず、私と平然と付き合っている。


 親友である私でも美鶴の変化に気付かないのだから、きっと彼女はこういうことに慣れているのだろう。

 これまでどれだけの男子からの求愛を跳ね除けてきたのだろう。

 こういう想像をするのは初めてだったが、美鶴に好きな人はいないのだろうか?

 普通はいるだろう。

 私にはいないけど、普通はいる。

 いや、美鶴は普通の女の子なんかじゃないけど、ここは普通でいてもらいたかった。

 尊敬する偉人の伝記を読んでいて自分と共通する部分が見つかったら何となく嬉しくなるものだ、それと似たような感覚を美鶴とも味わいたいではないか。


 家庭訪問の時期に入り、私にも昨日その順番が巡ってきた。

 隣の部屋で話をこっそり聞いていたのだが、先生は意外にも私を褒めまくり、特に問題はないですね、みたいなことを何度も言っていた。

 父は「当たり前でしょう。司奈はプリティーです」と応じていた。

 ほんと、呆れてしまう。父は自明の事柄をわざわざ口にして、何を確認したかったのだろう?


 美鶴の家庭訪問の日程は変更となったらしいが、どの日に移動したのか不明だった。

 既に終わっているのかもしれないし、これからなのかもしれない。

 美鶴に聞けば分かるだろうけど、美鶴と一緒にいる時間をそんな野暮な質問で潰してしまうのは愚かしい。

 そういうくだらないことで悩むのは、美鶴と一緒でないときに集中させるべきであろう。

 それなのに。


「つ、付き合ってください」


 不意打ちも良いところだった。まさかこんな変人に好かれてしまうとは……。 

 私にたった今愛の告白をした男は、何とあの六角であった。

 にきび爆弾を多数所有したボンバー。

 いつまたその危険物を投下して爆撃してくるか分かったものではない。


 ちょうど部活が終わって下校時刻に入っていた。

 男子主体のサッカー部の中で一輪の花を咲かせた私は、吹奏楽部でクラリネット隊の中核を為す美鶴と並んで校門を潜り抜けようとしていた。

 周囲の悲鳴とどよめきを伴って現れた六角は、美鶴に薄笑いの挨拶をした後、私に向き直って例の告白の言葉を述べたのだ。


 もちろん私はドキリとした――だがそれは胸がキュンキュンしたという意味では断じてなく、とんだモンスターに好かれてしまったな、という危機感が胸の鼓動を高鳴らせたのだった。

 いわば花咲く森の道で熊さんに出会ったときの動悸と似ている。

 他の人がどうだか知らないが、愉快な気持ちではない。


 しかし私とて進歩ある人間である。

 蓋し、人間と他の生物の決定的な差異は学習能力の有無にあるのではないか。

 以前赤沢からハニートラップ的な策略に嵌めりかけた私は、最初に六角の悪意を疑った。

 すなわち六角は私と交際することによって美鶴と接近しようとしているのではないか。

 あるいは美鶴と挨拶する為だけに私に話しかけたということも考えられる。

 要するに話題などどうでも良かったのだ。


 そのように想定した場合、私には選択の余地はない。

 あっさりと男女交際を断り、相手を愚弄し、ケチョンケチョンにし、二度とそんな策略や思惑が通用しないことを徹底的に教え込むのだ。


 幸い、周囲には下校しようと校門前に集まった生徒や教員が大勢いる。

 そして六角は校内では凄まじい嫌われ者であるらしく、彼が登場しただけで大いに注目された。

 彼とまともに会話しようとしている私はそれだけでとんでもない蛮勇として認識されつつある。

 こんな状況で相手を侮辱し、傷つけ、踏み躙れば、六角のハートが彼の顔面同様化け物じみていたとしても、二度と同じ策略を弄しようという気にはならないだろう。


 私は脳内で罵言ライブラリを展開し、効果的に六角を攻撃する文言を検討した。

 黙り込む私を美鶴が不思議そうに見ている、

 六角は希望に満ちた眼差しを送ってくる。

 勘違いするなよニキビ怪人。

 私のようなプリティーガールが、貴様のような悲しき怪物にうつつを抜かすと思うのか。

 男なら何でもいいや、生きてるなら誰でもいいや、なんて枯れ女の悟りの境地に達しているとでも?


 冗談じゃないぞ。

 私は花の中学二年生、恋愛なんて自由自在、融通無礙、貴様以外の彼氏候補など掃いて捨てるほどいるのだ。

 貴様など大幅な規定違反で真っ先に排除される新人賞の応募原稿並に、眼中にないのだ。


「六角、よくもまあその顔で私に愛のこ……」


 私が満を持していよいよ断りの言葉を述べようとしたとき、思いもよらない邪魔が入った。

 赤沢である。

 あの隠れゲーマー赤沢である。


「ちょっと待った! 六角、織井から離れろ!」


 多数の野次馬が興味を示す中、颯爽と現れた赤沢は六角と私の間に入り、彼を押した。

 それは勇気を要する行為だった。

 なにせ六角の正面に立つことは面皰液噴射攻撃の危険に晒されることを意味する。


「あ、赤沢」


「赤沢くん」


 私と美鶴が唖然とするのもお構いなしに、赤沢は六角に詰め寄った。

 さしもの怪人もその勢いに押されて後ずさる。

 群衆の注目度はぐんぐん増していく。


「てめえ、六角、ニキビ怪人! どういうつもりだ、織井に告白するなんて!」


「あ、赤沢、きみには関係ないだろ――」


 六角はしどろもどろになった。

 彼がどういう表情なのか、ニキビの所為で判然としなかったが、困惑と共に多少の苛立ちも混ざっているように思われた。


「いいや、関係あるね。織井とお前なんかが付き合っていいわけねえだろ」


「どどどどどどういうことだよ、織井さんはフリーだろう」


「織井と付き合うのはこの俺だ!」


 野次馬からオオオオという声が上がった。

 私は赤面した。

 六角に告白されたときよりも数百倍恥ずかしかった。

 私は奴から二度も騙されていながら、まだ懲りていないのか。

 いい加減にしろ、目を覚ませ。


「み、皆! 勘違いしないで、あの男は美鶴一筋なんだから。皆知ってるでしょ?」


「うるせい、織井!」


 赤沢は叫んだ。

 そして私に向き直る。

 その真っ直ぐな瞳は私をしっかりと捉えてしまった。

 もはや逃れることはできない。

 視線を外そうと思っても彼の感情の昂ぶりがそれをさせない。

 私は呻き声を上げた。


「行こう」


「えっ? えっ?」


「行くんだ」


 赤沢が私の手を取った。

 そして走り出す。

 野次馬がモーセの十戒みたいにぱっさり割れて、道を空けた。

 私と赤沢はその間を駆ける。

 生徒の冷やかしと歓声を浴びながら赤沢は校門を潜る。

 振り返ると、野次馬が騒然としているのが見えるばかりで、美鶴は隠れて見えなかった。

 赤沢に手を引かれながら、何度も振り返り、美鶴の姿を確認しようとしていると。

 野次馬が悲鳴と共に退散し、中からニキビが潰れた六角が姿を現した。

 ニキビの陰から解放された彼の双眸は凄絶な殺気を放っており、しかもそれは私に向けられているように思える。

 赤沢ではなく、私に。

 ロマンスとは無縁のその眼差しに私は戦慄し、あれは只事じゃない、と一挙に不安に陥ってしまった。

 もし、あの場で告白を一刀両断していたら、どうなっていたのだろう?

 彼は打ちひしがれ、その場を静かに去るだけで、何もしなかっただろうか?

 あの目を見る限り、そうとは思えなかった。

 私は意見を求めようと、赤沢を見た。

 彼は怒っていた。

 憤然と足を動かし、走るペースを緩めなかった。

 これまでとは違う、と私は思った。

 愛の予感、などという甘酸っぱい何かではない。

 もっとこう、これまで確乎として自分を支えてくれていた足場がグラグラし始めた感覚というか。

 私の手首を掴む彼の手は汗ばむ。

 それに比例して、彼の手の力は増していった。




     *




「おうっ!」


 男っぽい驚きの声を発した私はよろけた。

 赤沢に片腕を引っ張られながら走るのはなかなか難しかった。

 道の段差につまずいた私を、咄嗟に彼が支えてくれた。


「あ、ありがと。いつまで走るの、これ」


「え? ああ……、もういいか」


 赤沢は醒めた顔をしていた。

 そしてきょろきょろと周囲を見回し、


「ベンチに座ろう。話がある」


 近くの公園を指差したのだった。

 五月も半ばに差し掛かっているというのに、風が冷たく、じっとしていると躰が震えた。

 汗ばんだ躰に外の風は毒だった。

 腰掛けたベンチも異様に冷たく感じられ、私は腰を浮かせた。


「座れよ」


 赤沢はぶっきらぼうに言う。

 私は彼を怪訝に思い、睨んだ。


「今度は何を企んでいるわけ――恩を売ったつもり?」


「そんなんじゃない」


 赤沢はベンチに尻を載せて足を組んだ。

 私は結局ベンチには座らず、彼の正面に立った。

 仲良く並んでお座り、なんて御免だった。


「じゃあ、どういうつもりなわけ。私なんかを連れ出すより、美鶴と話したほうが手っ取り早く目的を果たせたんじゃないの」


「そんなんじゃないって言ってるだろ」


 赤沢はうんざりしたように言った。

 私はもう騙されるつもりはなかった。

 相手から攻撃を喰らう前に、こちらから仕掛けるのだ。


「まさか私に真実の愛を告白するってわけじゃないでしょうに。いや、仮にそうだとしてもお断りだし、キモイだけだけど。どうせまた美鶴に接近する為の口実――というより踏み台にするつもりでしょうに。見え透いてるんだよ、アンタの思惑は」


「だから違う」


 赤沢は淡々と応じる。

 私はなお言い募ろうとしたが、まるでこちらが冷静を失っているみたいでみっともなかった。

 口を噤む。

 それを確認した赤沢がゆっくりと語り始める。


「お前も何となく感じているだろうが、六角は美鶴様一筋だから、お前のことが本当に好きで告白したわけじゃない」


 六角なんて少しも好きではないし、SMクラブに属する彼が私に惚れるなんてありえない話だった。

 それが分かっていても少し落胆してしまうのは、私が騙されやすい人間だからだろうか?


「もちろん、知ってるわよ。この織井ちゃんはね、物事の本質を見極める『論理力』ってのをつい最近身に着けたんだから」


 赤沢は鼻で笑った。

 そしてすぐにトーンが落ちて憂鬱そうになる。


「じゃあ、その論理力とやらを駆使して、どうして六角がお前のようなゴリラゴリラゴリラ(学名)に告白したのか、推理してみろよ」


「そりゃあ、もちろん」


 私は一瞬考え、


「私が美鶴のマブダチで、私と仲良くなれば美鶴と接近できるからでしょうが。自明の理ってやつでしょ」


「そりゃ、以前の俺の動機だろ……。推理でも何でもない」


「あっ! アンタ知らないんだ、これはね、キノー論理の類推ってやつなんだ。知らないんだ、知らないんだ」


 赤沢は呆れたらしく、


「アナロジーの蓋然性なんて信奉してるようじゃ、きっと騙されやすい人生を送るんだろうな」


 何とも同情めいた眼差しを送ってきた。

 ほっとけ、と私は口を尖らせる。


「じゃあ、どうして六角はあたしに告白したのよ。アンタはそれ知ってるっての?」


「ああ、知ってるよ。見るか?」


「み、見れるもんなの。どゆこと」


「メールだよ」


 赤沢は携帯電話を取り出した。

 私はあまり経済的に恵まれていない家庭に育ったので、いまどき携帯電話を持ったことがなかった。

 彼が示した液晶画面を見ると、何だか文字が大き過ぎて読み難いなと感じた。

 何はともあれそこにはこう書かれてあった。TO赤沢、FROM黒田。


《美鶴フリークスに方針転換の時が来たようだ。色川総裁から正式な連絡はまだないが、例の噂に関連するものである可能性が高い。議題にも上がっていないので強権を発動すると見られる。我々幹部の諫言を聞き届けてくれるとは思えないが、誰か彼と連絡がついた組員を知らないか》


 黒田からのメール。

 絵文字の一つもない。

 赤沢は批判的にその文言を眺める。


「黒田からの真っ黒メールだ。昨日の夜にもらって適当に返事をしておいた。で、これが今日の昼にきたやつ」


 私は液晶画面を見やり、そしてその危うい内容に口をあんぐりと開けた。


《色川総裁から通達だ。私と白山先輩にのみメールが入った。『SMクラブ』の四宮や『桜井家を見守る会』の北口氏にも同様の連絡をしたと彼は言っている。これだけ言えば分かるとは思うが、念の為に確認しておく。聖戦の宣言を彼は行ったのだ。標的は尊師織井。なお、噂の真偽に関しては全く触れていない》


 聖戦って何だ。

 標的は私ってことになってるけど。

 意味不明だが危険な匂いがする。

 私は赤沢に説明を求めた。


「つまり、聖戦ってのは、織井を社会的に抹殺しろってことだ」


「まままっさちゅ……」


 私は驚愕のあまり、唇が痙攣するのを止められなかった。

 ふざけているわけではないのに、赤沢がうざったそうに鋭い視線を投げかけてくる。


「色川先輩は組織の力でお前を保護していた。そして保護を取りやめるという脅しのカードをお前にちらつかせていたと思うが」


「うん、そう。つまり、それやっちゃうってこと?」


 もしそれだけなら、状況はそれほど悪くないのだが、赤沢はあっさりと否定する。


「いや。消極的な抹殺ではなく、積極的な抹殺に動き始めたということだ。そしてそれは組織を超越した協調作戦によって実行される」


「えと、堅苦しい言葉でイマイチよく分からないんだけど……」


「要するに、寄って集ってお前をイジメルってことだよ」


「い、イジメ反対! ダメ、ゼッタイ! ださいですよ!」


 私の心温まる啓発を赤沢はあっさりと受け流し思案顔になった。


「六角がお前に接触したのはどこか別の場所に連れ出す為だろう。普通の神経の女なら、あんな公衆の面前でオトコを振るわけない。そういう打算が働いていたと思うが」


「悪かったね、でも、変な噂が立つのは嫌だし、はっきり言っとかないと誤解されるじゃん。一瞬でも思わせぶりな態度を取るのはゴメンだね」


「そう、むしろ告白からして公然と行われたのだから、女のほうが気を遣うはずだなんて想定は無理がある。まして織井のようなマウンテンゴリラ女は、繊細な心情を理解できないんだから……」


「ちょっとちょっと、酷くない? マウンテンゴリラって!」


「ローランドゴリラのほうが小柄で良かったか? とにかく、お前は美鶴様の平穏を脅かす『我々共通の敵』と認定されたわけだ。聖戦ってのは脅威を排除する為の協定みたいなもので……」


「ちょちょちょびっと待ってよ! あたしが美鶴の脅威? どゆことよ、はっ、まさか色川先輩が『あの子の阿呆が伝染するといけないから美鶴様の傍から引き離せ』とか言っちゃったりしたわけ?」


「……明確な理由は示されていない。俺たちだって困惑しているんだ。黒田と白山先輩は色川先輩の真意を確かめようと手を打っているようだが、まだ連絡がこちらに届かないところから推して、接触さえ成功していないらしい。あの人、とうとう壊れちゃったかって感じだ」


 私は前々から気になっていたことを、機に乗じて尋ねることにした。


「ねえ、色川先輩ってさ、美鶴に告白してフラれたの? そんな噂話が広まってるんですけど」


 赤沢は苦々しい笑みなのか、喜びを隠し切れずに顔を歪めているのか、鼻がムズムズするのか、判然としない複雑な表情になった。


「ああ。それは事実らしい。間違いない」


 ご愁傷様……、それが原因で壊れてしまったのか?

 でもだからって私に辛く当たるのは人として歪んでない?

 赤沢は足を組み換え、顎に手を当てた。

 よく見ると彼は青褪めていた。

 ほんの少し足が震えているようにも見える。


「色川先輩は自信満々だった――あの人は美鶴様に告白したら、必ず受け入れてもらえると確信していたんだ。ところが結果は駄目。落ち込むのは分かるんだが、こんなことになるなんて、あの人らしくない」


 私も同感だった。

 色川先輩は自信過剰なところはあったが――その自信が妥当なものに思えるほど有能な人だった――理性的な御仁に見受けられた。

 私に八つ当たりをするなんて、ガキみたいだ。

 それとも、許し難い何らかの過失を、私が知らずに犯していたってことなのか。まさか。


 でも、知らず尊師だの女王様だのと崇め奉られた過去を考えれば、私が彼らの気に障る行為を繰り返していた可能性だって、少なくない。

 何はともあれ、側近の赤沢さえ事情を把握していないことを鑑みると、色川先輩と直接会って話をしない限り、全てを理解することはできないようだ。

 まあ傷心男の心情になんてさして興味はないのだけれど。

 深入りすると負のオーラが伝染するわ。


「どうでもいいけどさぁ、そっちの大ボスのご乱心なんだから、ちゃっちゃ~と鎮めてよね。ほんと、良い迷惑です。あたしはこれで帰るから――」


 赤沢は呆れるのにも疲れたというように、


「まあ、帰るのは自由だが、できることはしたからな。自分の身は自分で守れよ」


「はいはいはい。ありがとござんした、あたしに何もかも教えてくれて」


 そして、ふと、赤沢はどうして私にここまで親身になってくれたのだろう、と疑問に思った。

 六角の魔の手から私を救い、偽とは言え公衆の面前で告白までして連れ出した。

 相当な勇気がなければできない所業のはずだ。


 私は赤沢のふて腐れた顔をまじまじと見つめた。

 夕陽を浴びて陰影が濃くなっている。

 言葉を選びたいところだったが、心の声ということで率直に表現すると、ステキだった。


「あ……、あんがとね、ほんと」


 私のぎこちない言葉に、赤沢は怪訝そうにする。


「なに礼を二回も言ってんだよ。海馬が死んでんのか」


「か、勘違いしないでよ、これは保険なんだからね、次もあわよくば助けてもらおうとか前払い式の礼というかプリペイドカードはやっぱり得した気分になるというか」


「意味分からねえよ。さっさと行けよ」


 赤沢は乱暴に言った。

 さっきまでの理知的な口調はどこへ行ったのだろう。


「あ……、じゃ、また明日」


 私は赤沢の青白い顔を気にかけつつも、その場に留まる理由も見当たらず、公園から遊歩道へと出た。

 辺りは暗くなりつつあり、そろそろ家に父からの確認電話が鳴る頃だ。

 急いで帰らないと無用な混乱を招く可能性がある。

 私は、聖戦とやらに巻き込まれた自分の身の上を嘆きつつも、まあなるようになるか、と楽観的な思考も捨て去っていなかった。

 色川先輩の狂気が想像以上のものであったと気付くのは、数時間後のことだった。




     *




 午後七時半。

 父からの在宅確認の電話を二度こなし、事前に買い溜めしておいたスーパーの惣菜を適当に組み合わせて夕食とし、腹七分目で済ませ、浴槽に湯を溜めていた。

 綿が飛び出したソファに凭れ、テレビCMをぼうっと見ていると、リビングの電話が鳴った。

 我が家は、電気をほとんど使用しないという利点から、時代錯誤甚だしい黒電話を使用している。

 また父からかと思ってすぐに取ったが、相手は女性だった。


「あの、もしもし?」


 相手は酷く取り乱していて、何を言っているのか分からなかった。

 受話器から漏れてくるのは嗚咽であり、支離滅裂でネガティブな言葉の数々は聞くに堪えない。

 悪戯だろうか、それとも間違い電話?

 しばらく「もしもし」と辛抱強く呼びかけ続けていたが、全く改善されなかったので通話を切った。

 またかかってくるだろうか、と電話の前で待っていたが、その気配はなかった。

 そろそろ湯も溜まったかなあと思いながら浴室に向かいかけたとき、電話が鳴った。


「もしもし」


《ごめんなさい》


 どうやら同一人物からの電話のようだ。

 黒電話なので向こうの電話番号なんか表示されない。

 私は多少苛立ちを覚えつつも、


「あのねえ、いきなり泣かれたり、謝られたり、意味分からないっつーの。あたしに何か用事でもあるわけ? ちゃっちゃと話してよ、こちとら良い感じに夕食を終えて、入浴タイムが迫ってるわけなのだから。美貌の維持に入浴は欠かせないの、それくらい同じ女性なら知ってるでしょ。あたしから美貌を取り上げたら毛むくじゃらの本性が露になるよ。誰がゴリラだ」


《すみません……》


「あたしはあなたみたいに泣いてばかりいられるような暇人じゃないのよ。一日の始まりから終わりまでスケジュールが詰まってるわけ、分かる? いくら一日の終わりだからってね、途中でペース崩されると翌日まで影響を引き摺っちゃうものなの、精密機械ほどちょっとした衝撃でオシャカになっちゃうものでしょ」


《はあ……?》


「要するにあたしがあなたに言いたいのは、いきなり電話寄越しといて泣きまくってそれで謝るとか正気の沙汰とは思えないわけよ。まして顔も見えないんじゃあ、相手がどんなことになってるのか憶測するのも骨が折れるし、正直びびったし、あ、ちびってはいないけどね、もちろん」


《う、うん。ごめんね、司奈ちゃん――》


 そこで私はとんでもない事実に気付いた。

 この声、聴き覚えがある。

 そして私のことを司奈ちゃん、と呼んでくれる人なんて、世界中でたった一人、美鶴だけだ。


「う、えええ、もしかして美鶴? 美鶴なの?」


《え、分からなかった? あはは、そう言えば、司奈ちゃんちって黒電話だったね》


 美鶴の声に活力が戻る。

 私は数々の失言を思い返しながらも、


「美鶴! どうして泣いてたの! 三つ子に泣かされてたの、どうしたの!」


 私は憤激していた。

 美鶴をあれほどの勢いで泣かせた輩はどこのどいつだ。

 万死に値する!


 美鶴の声は一瞬で沈み込んだ。

 これ以上ないほど陰気になった。

 そんな彼女の声を初めて聞いた。


《司奈ちゃん……、今一人?》


「うん。父さんはまだ帰ってきてないからね」


《そっか……。うう、ぐすっ》


「みみ美鶴! もしかして今泣いちゃったのってあたしの所為!? あたしが死ねば泣き止んでくれる!?」


 本気で包丁を探した私は錯乱していたようだ。

 美鶴が慌てて声を上げる。


《ち、違うの! 弟が揃って全員いなくなっちゃって……》


「三つ子が?」


 私は冷静になる。

 私が原因でないなら死ぬ必要はないな、うん。


「あの悪がきどもめ、美鶴に心配させるとは。もう七時半だもんね、心配だよね。でもさ、あいつらのことだから無鉄砲三倍、道草三乗、落ち着き三乗根ってなもんです。すぐに帰ってくるんじゃないの?」


《でも、今までこんな遅かったことはなかったの……。今日、ウチは家庭訪問の日でね》


「あ、そうだったんだ」


《でも、三つ子が先生に絡むものだから、お父さんが外で遊んできなさいって半分怒りながら送り出したの。午後五時くらいのことらしいんだけど……》


「ふうん。迎えに行くまで粘る気かなあ。ガッツあるよね、あいつら。あえて褒めちゃおう」


《お父さんが近くの公園とか探したんだけれど、どこにもいないの。私、どうしても心配になって……》


「よし、分かった、美鶴! 美鶴フリークスの連中に頼んで探してもらおうよ、あいつら喜んで協力してくれるよ」


《ふ、ふりく……? なにそれ、お菓子の名前?》


 まさか当人に認知されていないファンクラブだったとは。

 最大勢力が聞いて呆れる。


「とにかく、美鶴に協力してくれる人が大勢いるの。あたしから連絡しておくから、美鶴は家にどっかり座って、三つ子が帰ってきたとき叱り飛ばしてあげなさいよ。何かあったときに連絡がつかないと困るから、絶対に家から出ないようにね。分かった?」


《うん……、ありがとう。よく分からないけれど、色んな人に聞いてくれるんだね?》


 私は美鶴が心の平穏を取り戻したことに安堵し、おやすみ、良い夢見るんだよ、と挨拶を交わして電話を切った。

 私は浴槽の湯が溜まっているであろうことを意識の片隅に置いており、自分でも意外なほど冷静に、浴室に向かった。

 あと少しで湯が溢れ出すところだった。

 しかし、入浴することはしばらくできそうにない。

 私には嫌な予感があった。

 赤沢が夕方に話してくれた聖戦――あれは美鶴を守る為に私をイジメルという内容であった。

 もし目的がそれだけであったならば、美鶴の弟たちに危害が及ぶなんてことはありえない。

 だが、色川先輩は果たして、どのような理由で私を「美鶴の敵」と認定したのか。

 あの人は私に腹いせをすることで、万事いつもの色川先輩に戻るのだろうか。

 あの人がそれほどショックを受けたのなら、そんじょそこらのストーカーと同等の蛮行に走るかもしれない。

 要するに不条理で自分勝手な論理で自らを正当化、逆恨みを原動力として狂気に満ちた行為に及ぶ可能性があった。


 美鶴本人や周辺に怒りをぶつけ、彼女が困り果てるのを見て悦に入る――あの人のイメージにはそぐわないが、三つ子を攫って憂さを晴らすことくらいやりそうだ。

 私に聖戦を仕掛けるくらいなんだから。

 何と言ったってあの聖戦だ。

 あの聖戦が発動するなんてよっぽどだ。

 そうじゃないか?


 三つ子が無事なら良いが。

 あの子らの奔放さが招いたちょっとした騒動ならば良い。

 それなら彼らの家族と私がうんざりすればそれで済む。

 最悪のケースを想像したくなかった。


 湯を止め、湯気が立ち込める浴室を恨めしく思いつつも、その場を後にした。

 迷った末、ラフな普段着の上に、父のジャンパーを拝借して羽織る。

 いつもはうざったいだけの父のタバコの臭いが、今は少し心強い。

 玄関で靴を履きながら私は、美鶴をどんな形であれ悲しませる人間は許せない、と自分の感情を確認していた。

 これだけはどんなことがあろうと動かないと信じられる。

 三つ子がふざけて帰宅時間を遅らせているのなら本気で叱るし、色川先輩が突っ走っているのならガツンと言ってやらないといけない。

 別の誰かの計略だったとしても、殴り飛ばしてやる。

 私は決然として、玄関のドアを押し開いた。




     *




 美鶴フリークスに連絡する手段などなかった。

 しかし私はすぐに彼らと接触できると確信していた。

 木造アパートの二階から階段を降りていくと、青白い水銀灯に照らされて独り佇む影を見た。

 それは黒田だった。

 学校の制服に黒のネクタイを合わせたインテリ美少女は、いたく不安そうな顔をしていた。


「織井さん、聞いた?」


 黒田は前置きもなく言った。

 当然のように会話を始めた彼女を胡散臭く思いつつ、私は淡々と応じた。


「あ、うん。たった今……。やっぱり美鶴フリークスはとっくの昔に三つ子を探し始めてたか」


 黒田は少し時間を置いてから曖昧に頷いた。

 彼女らしからぬ女々しい態度だった。


「もしかして、織井さんの家に弟君がいるのではないかと思って駆けつけたんだけど……」


 そう言えば黒田はご近所さんである。

 すぐそこの立派な高層マンションの住人であり、木造アパートの住人である私との経済格差をまざまざと実感させてくれる。

 別に文句なんかないけど。


「そうなんだ。でも、ウチにもいないよ」


 私が応じると、黒田は泣き出しそうな顔で俯いた。


「織井さん、いえ、尊師。弟君がいそうな場所に心当たりはありませんか? どうか教えてください」


 私は黒田の慇懃な口調に辟易した。

 同級生にそんな風に喋られると居心地が悪いなんてもんじゃない。


「どしたの、黒田。いきなり下僕モード? 聖戦とかであたしを攻撃するんじゃなかったの」


 黒田の様子がおかしかった。

 懇願するように、王様に会えて感激する乞食のように、私の足元にひれ伏した。


「聖戦などどうでも良いのです。尊師、私はここに告白します。私が好きだったのは美鶴様ではなかったのです。私が好きなのは色川先輩です――」


 突然の告白に私は度肝を抜かれた。

 私は理由もなく辺りを見回し、黒田を立たせ、彼女の肩を押してアパートから離れた。


「い、いきなり何を言い出すの――近くで美鶴フリークスが聞いてるかもよ」


「私は色川先輩に近付きたかった。だから生徒会に入ったし、美鶴フリークスにも入会したのです。色川先輩が、美鶴様に心酔する者に激しい共感を示すのを見て、私も狂信者たるように振る舞った。その努力もしました」


 私は黒田の躰が震えていることに気付いた。

 彼女の肩を支えるようにして歩く私は、妙に腑に落ちるものを感じつつも、美鶴フリークスの団体に巣食う複雑な様相を垣間見た気がした。


「私は美鶴様――桜井さんにさして興味はなかった。まあ、素晴らしい人だとは思いますし、彼女に心酔する多くの同志の気持ちも、全く理解できないわけではないのです。ただ、桜井さん以上に色川先輩のことのほうが気になった。桜井さんの身辺情報を完璧に掌握しても、弟君の情報までは、手が回らなかった。他のメンバーと違って私は、桜井さんの全てを知りたいわけではなかった。色川先輩の傍にいられればそれで――」


「何が言いたいのかいまいちよく分からないけどさあ、泣くのだけはやめてね、ね?」


 私はやんわりと言ったつもりだったが、黒田はもう既に大粒の涙を頬に滴らせていた。

 それでも声は毅然として張りがあり、さすがだ、と感心した。


「私の所為なんです――研一くんたちがどこに行ったのか分からないのは。本当は分かるはずだったのに」


「どういう意味?」


「見たんです。私、三つ子さんたちが北口氏に連れられてどこかへ行くのを」


「ぬぁんだって?」


 私は声が詰まった。

 あまりの驚きに、そして黒田が不安げにしていた理由を知って彼女の『身勝手さ』に気付いて。

 北口って誰だという疑問は吹っ飛んだ。


「わ、私。最初はそれほど深刻に思ってなくて。美鶴フリークスの責務を果たすなら、当然追うべきだったのに、色川先輩が心配で、先輩の家に行ってて、でも先輩は不在で、先輩の通ってる塾にも行ったけどハズレで。家に帰った直後に、弟君が行方不明だって聞かされて、それで慌てて……」


「あのさ……、それ、赤沢とかに話した?」


「いえ……。話してません」


「どうして話さないの」


「話せるわけないじゃないですか! 私が美鶴フリークスに相応しくないとばれてしまう! あの人に――色川先輩に見限られる!」


 そんなことだろうと思った。

 うんざりだ、恋は盲目だよほんと。


「あんたね、そんなこと言ってる場合? 三つ子が危険な目に晒されてるかもなんだよ」


「でも――でも!」


「あんたがこれからどんな言い訳を口に出すか知らんし、それを予想できるほどあたしは利口じゃないけどね」


 私は黒田の泣き顔を正面から見据えながら、


「これだけは言えるよ。あんたが何を言ったって、結局は自分が可愛いんだって主張するようなもんだってこと」


 黒田は顔を歪めた。

 双眸に凶暴な光が宿り始める。

 もしかすると私に対する警戒の念を抱いただけなのかもしれなかったが、少なくとも尊師への尊敬の眼差しでは断じてない。

 目の前のゴリラ女が自分を救ってはくれないということを漸く理解したのか。


「私はどうすればいいの――織井さん」


「とりあえず、その北口氏とかいう胡散臭い人のことを教えてよ。どっかで聞いたことあるような気がするけど」


 黒田は闇の中で異様に炯々たる眼光を放つ双眸を惜しげもなく私に向けながら、


「北口氏は桜井家を見守る会の代表で、事実上、色川先輩の配下よ。だから弟君を攫ったのは色川先輩と考えて良いと思う。もちろん、美鶴フリークスとは無関係だけど」


「その北口氏がどこに向かったのか、分からないの?」


「分からない。三つ子を攫ったのが彼なら、その側近である、南野や東城、西谷を見つければ、光は見えるけれど」


「じゃあ、赤沢たちに連絡して探してもらおう」


「どうやって説明すればいいの? 私は?」


 黒田はまだそんなことを言っている。

 私はうんざりして、


「スマホ持ってるでしょ。あたし、持ってないから貸して」


「赤沢くんに電話するの」


「うん。あたしからかける。協力してもらうしかないでしょ」


「私のことは――」


「もちろん伏せるから」


 内心ではばらしても良いと思っていた。

 しかし黒田の柔術によってコテンパンに伸された覚えがあったから、彼女の前では不用意なことは言えない。

 いや冗談ではなく。


 私は黒田からスマホを受け取った。

 待ち受け画面が色川先輩だったのを見たときは、もうバレバレじゃないかと呆れ果てたが、もちろんスルーした。

 それよりも操作方法が分からない私でも、それっぽいマークのアイコンを見て何となくこれかなと押したら、電話帳が現れて真っ先に赤沢の名前が表示された。


「よし、かけるよ」


 私が言うと黒田は顔面蒼白になっていた。

 私に協力を仰ぎに来たくせに、来たときよりも具合が悪そうに見える。

 まさか私が無尽蔵のお人好しで、言う通りにホイホイ動くと思っていたのか。

 三つ子を探すことには協力したいけど、だからこそ、人手は多いに越したことはないじゃないか。

 自分のことしか見えていないと、どんなに聡明な人でも、愚かしい行動に走ってしまうものだ。


「そーゆーことにしといてあげるよ、あんたの名誉の為にね」


 私は操作して通話をかけようと思ったが、誤操作して待ち受け画面に戻ってしまい、色川先輩の笑顔を再び拝むことになった。

 もういいよアンタは。




     *




 赤沢の声は沈んでいた。

 事情を話してもまだ沈んだままだった。


《北口氏か――あの人は厄介だぞ》


「へえ」


 私は黒田を一瞥したが、彼女は夜道の真ん中で三日月を見上げていた。

 感傷に浸っているというより、とうとう秘密を話してしまった、自分の大胆さに呆れているのかもしれない。


「どんな人なの。やばい系?」


《あの色川先輩さえ一目置いている、隠坂中の狂犬だよ。仲間と共謀して美鶴様を手籠めにしようと計画して、色川先輩に徹底的に痛めつけられた》


「テゴメ……? トマトジュースの?」


《それはカゴメだ。ええと、テゴメってのは、つまり――》


「ああ、説明しなくてOK。分かってるからさ。それにしても、それ犯罪だよね」


 電話の向こうの赤沢は私の態度に不満そうだった。

 不真面目に思えるのだろう。

 私だって三つ子のことを思うと焦ってくるが、黒田のことを隠そうとすると不自然な会話になりそうで、内心ヒヤヒヤしていたのだ。


《それにしなくても犯罪だ。未遂だけどな。今でも北口氏は美鶴様と添い遂げようと機会を狙っているらしい。ほんと、ゲスな野郎だけど、三年生の中でも力を持ってる》


「へえ」


《お前一人だけで会いに行くなよ。どんな目に遭うか分かったもんじゃない》


「ふへえ、心配してくれてんの」


 私の軽口を、赤沢は全く無視して、


《弟君だってどんな目に遭っているか……。北口氏の行きそうな場所には心当たりがなくもない。青木や白山先輩にも声をかけるから、合流しよう。お前は黒田と一緒にいるんだろ》


「えっどうして分かったの! さては貴様……、エスパーだな!」


《黒田のスマホで電話してるのはどこのどいつだ? 少しは緊張感を持って行動しろよな。合流場所を言うからきっちり覚えるんだぞボンクラ》


「怒るなよお。ちょっとした冗談じゃないかあ」


 呆れ果てた赤沢のほうから通話を切った。

 私は一仕事を終えた気になった。

 まだぼうっとしている黒田にスマホを差し出し、


「ふう。何とか誤魔化せたよ。黒田のことは全く不審に思ってないからご安心を」


「……十分不審に思われてるわよ。で、どこで落ち合うの」


 私は赤沢から指示があった場所を言った。

 環形の遊歩道に設置されているコンコースである。

 水飲み場があるのでたまにホームレスが寝っ転がっているが、近隣住民の圧力が凄まじいのか、そう長居することはなかった。


「分かった。じゃ、行きましょう」


 黒田は言ったものの、暗鬱な表情だった。

 スマホを受け取り、待ち受け場面をまじまじと見つめた後、ケースを折り畳み、ブラウスのポケットに入れた。

 髪を撫でつけながら気怠そうに歩き始めた。


 車が止めどなく行き交う国道沿いの歩道、私と黒田は二人並んで歩いた。

 ただし、黒田の歩調は遅れがちだ。

 色川先輩の頭がおかしくなり、三つ子が攫われるのを目視していながら見送り、自分が美鶴フリークスに不純な動機で入会したことを告白した――黒田が落ち込む理由はたくさんあったが、もちろん私にとって取るに足らないことばかりだった。

 同情だってしてやらない。


「ちゃっちゃと歩いてよ、黒田」


「あ、歩いてるじゃない」


「そんな牛歩的ラルゴ歩行じゃあ、日が暮れ――日が明けちゃうでしょうが。せめてアンダンテでよろしく」


 黒田は恨めしそうに私を見て、ごく小さな頷きを見せたが、歩調は全く改善されなかった。

 私はうんざりしたが、強制することはできなかった。

 だってまた投げ飛ばされたら痛いもの。

 もはやあの早朝の出来事は私にとってトラウマであった。

 琴美ちゃんったら恐ろしい。

 遅々とした足取りで進んでいると、卒然、黒田が大声を上げた。


「ねえ、織井さんは、どうしてそこまで美鶴様に尽くすの?」


「ええ?」


 私は意想外の質問を受けて、困惑した。

 美鶴に『尽くす』?

 そんなことをしている覚えはなかった。


「尽くしているなんて、大袈裟じゃない?」


「骨身を惜しまず尽くしているじゃない。弟君の世話をしてあげたり、美鶴様の新聞を書いてプロパガンダしたり、買い物に連れて行ったり、色川先輩と敵対までして……。それにほら、現に今も、こうして」


「プロパガンダ云々は抜きにして、そんなの親友として当然じゃないの」


 私が言うと、黒田は意表を突かれた顔になる。

 そんな驚かれるような台詞じゃない気がするんだけど。


「親友……。そうか、美鶴様の友達と言えそうな同級生は、織井さんしかいないものね」


「ちょ、そんなことないでしょ。美鶴に友達はいっぱいいるでしょう。そりゃあ、親友と言えるのはあたしくらいのもんだろうけど。美鶴が寂しい人間みたいに言わないでよ」


 黒田は黙り込んだ。

 もうそれきり喋ることもなくなったし、彼女の歩調も多少はマシになった。

 何を考えているんだかサッパリ分からない。


 ただ、私だって黒田にああだこうだと捲し立てたわけではない。

 私も黒田と同じくらいには陰鬱な顔で夜道をとぼとぼと歩いていたに違いない。

 美鶴には友達がたくさんいる――と私は言った。

 しかし以前、色川先輩とも似たようなことを話したが、美鶴の周りには人がほとんどいないように思われた。

 美鶴を見ている人間なら掃いて捨てるほどいる。

 お近づきになりたいと思っている生徒だってたくさんいるだろう。

 けれど、色川先輩を筆頭とする熱烈な信者が、容易に近づくのを妨げているように思われる。


 美鶴に友達はいないのでは?

 誰も彼女のことを嫌ってなどいないが、別世界の住人として見ているのでは?

 本当は、美鶴はひどく寂しい思いをしているのでは?


 原因が誰にあるのかなんて分からないけど、これだけは言える。

 親友である私がこの問題に関してもどうにかしなくちゃいけない。

 今は三つ子を奪還するのが先決だが、色川先輩とも直接話をして、諸々の懸念材料を排除しなければならないだろう。

 北口氏とかいうふざけた奴も登場したが、そんな端役、私が鼻息で吹き飛ばしてくれるわ。

 私は国道から遊歩道に入ると同時に、黒田の腕を取って、走り出していた。




     *




 コンコースのだだっ広い石畳の空間には、既に赤沢と青木が待っていた。

 二人はラッコと思われる石のオブジェを挟んで、辺りをぐるぐる回りながら激しい口論をしていた。


「聖戦を優先するだと。青木、お前気が狂ったか。弟君を救出するのが先決だろう!」


「じゃあ赤沢は、美鶴フリークスから放逐されてもいいのか。色川先輩に目をつけられたら一発でアウトだ」


「美鶴様を悲しませるような奴は許せない!」


「聖戦だって、美鶴様を悲しませる織井を排除する為の――」


「本気で言っているのか。織井が美鶴様を悲しませる?」


 ああだこうだと口論している二人に、私が近づくのは危険な気がした。

 ダイナマイトの導火線の近くで花火をするようなものだ。

 黒田は辺りをきょろきょろと見回し、誰もいないことを確認すると、私を置いて二人に近付いた。


「はい、不毛な喧嘩はそこまで。北口氏がどこにいるのか、心当たりがあるの?」


 黒田の登場に、赤沢も青木も黙り込んだ。

 以前はどうして男二人が揃って黒田を恐れるのか不可解だったが、何ということはない、黒田の暴力が恐ろしいのだ。

 赤沢が黒田から慎重に距離を取り、額の汗を拭いながら、ふて腐れたように答える。


「織井から電話貰う前に、北口たちがここでたむろしていたのを見た奴がいた。ていうか黒田、どうしてお前のスマホを使って織井が電話してくるんだよ」


「織井さんはケータイ持ってないから。……青木くんは赤沢くんに言われて来ただけ? 何か情報は?」


「ない、けど、殴るなよ」


 青木も警戒して距離を取った。

 ほぼ、日本刀を振り回すヤクザに対する間合いだった。

 黒田は腰に手を当て、さっきまでの陰気っぷりはどこへやら(演技だったのか?)、独裁政権を築いた女帝の如き口調で、


「それじゃあ、ここを基点に捜索するわよ。他のメンバーには連絡してあるの?」


「ああ。だけど時間が時間だからな」


 赤沢はおっかなびっくり答えた。

 私は彼らの会話を聞きながら、広場を見回した。

 ベンチやら噴水やらが街灯の下に設置されてぼんやりとした輪郭を浮かべているが、人の気配はない。

 それ以外にも雲梯とか滑り台などといった遊具が申し訳程度に設置されており、三つ子がああいう障害物の陰に隠されている可能性もあるのではないか、と思った。

 色川先輩や彼らがどういうつもりで三つ子を攫ったのか不透明だが、まさか攫うだけ攫ってそれで終わりってこともあるまい。

 美鶴に何らかのアクションを起こすのが普通。

 美鶴には家から離れるなと言っておいたし、美鶴は約束を破るような子じゃないから、彼女に危機が迫っているとは思わないが、全く安心できるわけでもない。

 規夫さんも三つ子を探しているのだろうか。

 あんまり救出が遅くなると、警察に連絡してしまうかも。

 ていうかもう連絡しちゃってもいいんじゃないか。

 北口とかいう危険分子はさっさと補導されちゃえばいいんだよ。

 誘拐って重罪だから少年院送りになるのかな。


 私は遊具が置かれた一画に足を踏み入れ、街灯の明かりだけを頼りに、三つ子が隠れていないか探した。

 探し始めると本当に彼らが縄にでも縛られてモゴモゴ言っているんじゃないかという気になって、焦り始めた。


「何をしてるの、そんなところで」


 黒田が近くに立って不思議そうな顔をしている。

 彼女はスマホのライトで私を照らし出していた。


「いやあ、三つ子が近くに転がってないかなって」


「そんなわけないでしょう! どういうつもりで言ってるの? 死体で転がってるとか」


「まさかまさか! でも、ここで北口たちを見かけたんなら、ここに隠されてる可能性もあるのかなって」


「雲梯や滑り台のどこに弟君を隠すっていうの? もっと考えて行動しなさいよ」


「いやでも、灯台下暗しって言うし、睫毛は近過ぎて見えないって言うし。あたしは自分の睫毛、見える気がするけど」


「あら、織井さん、意外と睫毛が長いのね――じゃなくて! せめて藪の中とかを探してよ」

でも、同じ場所を二度探すのは面倒だから、一回で徹底的にやったほうが、結局はスムーズにいくもんじゃないかなあ」


 私はぼやきながらも、雲梯の傍から離れた。

 焦っても仕方がない、それは分かっているが、三つ子や美鶴のことを考えていると、こんなところでああだこうだ言っている自分が情けなく思えてくる。

 私と黒田は赤沢たちのいる広場の中央へと歩を進めた。

 そのとき赤沢のスマホが鳴った。


「色川先輩からだ」


 赤沢が画面を見て硬直する。

 青木も黒田もパントマイムのパフォーマーのように指の先まで静止する。

 動いていたのは私だけだった。

 赤沢の携帯を奪い取り、画面を掌で殴打する。

 赤沢が呻いた。何万すると思ってんだ!


「もしもし、色川先輩ですか。こちら、織井司奈と申しますけど」


 一瞬の沈黙、黒田たちも息を止める。そして、


《織井さんか。赤沢と一緒にいるんだね? デート中だった?》


 色川先輩の意外なほど朗らかな声が返ってきた。

 しかも私を揶揄する軽口付き。


「ばっ馬鹿なこと言わないでくださいよお、もう!」


《あはは、分かり易く動揺してくれるね。でも、丁度良かった。織井さんにも用があったから》


「そうですか。都合の良い女ですね、あたし」


《それはどうだろうね、ふふ》


 色川先輩の声は正常に聞こえる。

 気が狂ったとか、何かに腹を立てているとか、そんな気配は微塵も感じられなかった。

 本当に三つ子を攫うよう北口とかいう人に指示をしたのだろうか。

 私の気が緩みかけたところへ、


《織井さん。いつものパターンに突入しようか》


「え? いつもの?」


《これまで二度もあったことだ。問題が起こった場合、論理パズルで解決する》


 またそれか。

 しかも今回はそれどころではない。 

 色川先輩はこの期に及んでまだ私の知性を計りたいというのか。

 非常識を通り越して馬鹿なんじゃないかと言いたくなる。


「いや先輩。問題を起こしたのも論理パズルをけしかけてきたのも先輩じゃないですか。解決の逆ですよ、問題をややこしくしてます、いいかげんにしてもらえますか」


《まあ、まあ》


「まあ、まあ、じゃないですよ。それに、一応聞きますけど、三つ子を攫ったのは色川先輩なんですか」


《攫ったというより、預かっているだけだよ。そう心配しないで。危険は一切ない》


「もし規夫さんが警察に連絡したらどうするんです? 警察に補導されますよ。進路とか響きますよ。人生設計に皹が入ります。親御さんとか悲しみます」


《そのときはそのときだよ。意外と神経質なんだね、織井さん。彼女にはしたくないタイプだな》


 やはり色川先輩はおかしくなっているのか?

 喋り口は普段と全く変わらないが、言っていることは極端だし、理知的とは言えない。


「先輩、どうして三つ子を攫ったんですか。美鶴への復讐ですか」


《ふふ……、織井さん、やっぱりきみは気に喰わないな》


「え?」


 私は眉を顰める。

 私の周りに集まってきて通話を漏れ聞いていた黒田たちも、突然放り込まれた毒のある言葉に凍りつく。


「ど、どういう意味ですか。あたしが気に喰わないって……」


《僕はきみに聖戦を宣言した。赤沢とデートしていたのなら聞かされているだろう。きみは明日から学校中でイジメの対象だよ》


「えっ! そうなんですか!」


 もしかすると聞かされていたかもしれないが、具体的に想像していなかった。

 それってかなり深刻な状況じゃないか!


《それなのに、きみは僕に、自分のことじゃなく、美鶴の弟のことを真っ先に質問した。自分のことより美鶴のことのほうが遥かに大事だ。いったいどういうつもりなんだ? きみは同性愛者なのか?》


 いきなり飛んできた異質なる単語に私は仰天した。


「ど、同性愛って……。違いますよ、そんなわけないです。親友です」


《そうか……、織井さん、やはり僕はますますきみのことが許せなくなった。三つ子を返して欲しければ、論理パズルを解くんだ》


 色川先輩の話は次々に異次元を跳躍して全くついていくことができない。

 彼の中で話の筋道が通っている雰囲気があるから、余計に混乱する。


「どうしてそうなるんです。あたしの所為なんですか。三つ子が攫われたのは、あたしが色川先輩の気に喰わないことをしたからなんですか。だったら、何でもやります。何でもやりますから三つ子を返してください!」


 私の叫びは夜の公園にこだました。

 色川先輩からの返答は陰りを帯びていた。


《何でも、と言ったね。じゃあ、全裸で町内一周とかもできるんだ?》


「いやできませんけど。あたし、一応女の子なんで」


 私があっさり開き直ったので、赤沢たちは相当にびくついていた。

 ただ、色川先輩は呆れるわけでも怒るわけでもなく、


《何でもできるってのは嘘ということだね? きみの覚悟はその程度なんだね?》


「いや、でも、公園一周くらいなら、なんとかできるかもしれませんよ。黒田に赤沢と青木を轟沈させれば、誰も見る人はいなくなるわけだし――」


 黒田が密かに拳を固めたことに、赤沢や青木は気付かなかったようだ。

 心の平静と無知はときに正比例する。


《論理パズルを解きたまえ。三つ子がいない方向に僕はいる》


 色川先輩の声が更に翳る。躊躇するように、


《織井さん。きみは気付いていないかもしれないが――僕と美鶴に関わる多くの部分に、きみが直接関わっているんだ。僕はきみにとって迷惑極まりない行為に及んでいることはきちんと自覚しているし、僕が非常識な人間であることは理解しているよ。ただし、きみとの決着なしに、僕が美鶴との関係を絶つことはない、と断言できる。だから、最後まで付き合ってもらう》


「……それ、どういう意味ですか。決着って……。論理パズルも別に関係ないですよね」


《論理パズルをメールで送付する。僕に会いに来い。そうすれば美鶴の弟は返すし、何もかもを話してあげよう。ちなみに、北口たちは美鶴の弟を使って彼女を誘き出そうと画策しているが、彼らに渡した美鶴の家の電話番号はニセモノだから、心配しなくていい》


「う、北口って人はまだ美鶴をカゴメカゴメしようと……」


 通話が向こうから切れた。

 辺りを支配していた緊張が一挙に弛緩し、私のすぐ後ろに立っていた黒田が大きく溜め息をついた。

 私は赤沢にスマホを返し、首を傾げた。


「……色川先輩は何がしたいわけ? 論理パズルとか意味不明なんだけど」


 赤沢も青木も黒田も何も答えてはくれなかった。

 私は不服に思った。

 何を聞いても暗い顔で私を見返すのみなのだ。

 コミュニケーションが成立していない。

 そんなに色川先輩が恐ろしいのか。

 あんなふざけた男が我が中学校の頂点だなんて、情けないったらない。

 やがてメールの着信音がした。

 赤沢のスマホに色川先輩の論理パズルが到着したのだ。

 赤沢が中身を見るなり、舌打ちをした。


「お前には無理だ。だが、俺に妙案が……」


「いいから渡して」


 私は赤沢からスマホを奪い取り、その問題文を眺めた。

 色川先輩の真意が汲み取れるのではないかと期待していたが、単なるパズルだった。




 三つ子が攫われた。実行犯は桜井家を見守る会の北口、南野、西谷、東城である。実行犯は「研一を攫った者」「健二を攫った者」「賢三を攫った者」「囮」で役割を分担した。

 証言者が正直者か嘘つきかは分からないが、囮は嘘つきである。

 正直者は常に真実を、嘘つきは常に嘘を述べる。意味のないことは言わない。

 証言者XYZは北口、南野、西谷、東城のいずれかだが、それぞれ違う。更に、囮がXYZの中に紛れ込んでいる。

 三つ子は誰に攫われたのか。

南野「研一を攫ったのが南野なら、健二を攫ったのは東城」

北口「健二を攫ったのが西谷なら、賢三を攫ったのは南野」

西谷「賢三を攫ったのが東城なら、研一を攫ったのは北口」

東城「研一を攫ったのはZではない」

X「南野が嘘つきならYは嘘つき」

Y「北口が嘘つきならZは嘘つき」

Z「西谷が嘘つきならXは嘘つき」




 問題文の末尾に「北口は北に、南野は南に、西谷は西に、東城は東に向かう。北口たちは遊歩道のコンコースを出発点とする」と説明があった。

 四人の実行犯が東西南北に逃亡したということか。

 そして色川先輩の言葉を信じる限り、問題文にある「囮」が去った方向に、色川先輩が待っている。


 私はコンコースを見回した。

 何とも都合の良いことに、東西南北に向かって道が真っ直ぐ続いている。

 この広場を中心として複雑な遊歩道が展開され、景勝地としての隠坂市を堪能できる。

 その散策路のどこかに三つ子を攫った凶悪極まりない北口たちが潜んでいるのだ。


 あるいはそれは、論理パズル上だけの条件なのかもしれない。

 三つ子を攫って、たとえば色川先輩の家で遊ばせているとか、廃工場のドラム缶の中に入れているとか、そういう可能性だってある。

 コンコースの東西南北にそれぞれ手下を配置する、なんて手法はいかにもふざけている。

 色川先輩は私や美鶴をダシに遊んでいるのではないか。

 失恋したからってヤケになるんじゃないよ。


 私は問題文を眺めていた。

 しかし中身が全く頭に入らず、こんなもの解いている場合か、三つ子が今も苦しんでいるかもしれないのに、と気が焦った。


 赤沢や青木、黒田も問題文を凝視していたが、「分かった!」と誰かが答えを教えてくれることはなかった。

 少し期待していたのに。

 論理パズルに熟達した規夫さんや三つ子や色川先輩とばかり話していたおかげで、普通の人がすぐに答えを導き出せるわけではないことを痛感した。


 問題文を整理すると、四人の証言者がおり、その内の一人は囮であるから、少なくとも一人は嘘つきということである。

 そしてその囮がXYZのいずれかなのだから、XYZの中にも、最低でも一人は嘘つきがいるということになる。

 形式としては、私が初めて論理パズルに直面した、美鶴の家での論理パズルに似ているだろうか。

 ただしあのときは、証言者は三人だったし、正体不明の証言者はXだけだったし、嘘つきの人数は確定していたし、カンチョーの犯人か犯人でないかの区別しかなかった。

 この論理パズルは、誰が三つ子の内の誰を攫ったのか突き止められそうな内容になっている。

 とてつもなく複雑だ、あらゆる面において、うんざりするほど難易度が高くなっている。

 もしかすると、二週間前、色川先輩は私の家にまで押しかけてきてじゃんけん大会を開催したが、事前に用意していた問題とやらがこれなのではないか。

 あのときは即席の論理パズルで勝負したから色川先輩は問題を一つ持て余しているはずだ。

 もしこれを出されていたら、勝てていたかどうか怪しい。


「織井さん、分かる? 私にはさっぱりだわ」


 黒田がお手上げポーズを取ってみせる。私は曖昧に笑った。


「たぶん、論理的に考えれば解ける問題なんだと思う。でも、ちょっと手強いかな……、一時間は必要かも」


「一時間?」


 驚いたのは赤沢だった。そして私の手からスマホを奪い取る。


「ちょ、返してよ。パズルを解くんだから」


「まどろっこしいんだよ、クソが! 四方向のどれかに色川先輩がいるんだろ? ここには何人いるんだ?」


「え?」


 私は辺りを見回した。

 私を不安げに見つめる黒田、少し距離を置いて様子を見ている青木、私の指紋がついたスマホを制服の袖で拭いている赤沢……。

 赤沢の考えに薄々気付いた私だったが、まさかな、と思い、何も気づかないフリをした。


「私を入れて四人。でもそれがどうかした?」


「四人でさっさと四方向を探せば、それで済むだろうがよ! それで色川先輩に言ってやるんだ、こんなアホ臭いことはよせって」


「お、おい」


 赤沢の暴言に青木が顔面蒼白になる。

 肩を掴まれた赤沢は腕を振り回した。

 だだっこみたいだった。


「俺は美鶴様が好きなんだ、色川先輩が好きなわけじゃない!」


 そして赤沢は走り出した。

 道の一つに全速力。

 あっという間に闇に溶けて見えなくなった。

 私も黒田もぽかんとしていた。

 青木は肩を竦めて、私の頭を小突いた。


「赤沢の言う通りだとは思わない。だが、確かに今回は色川先輩もやり過ぎたかもな。弟君を助けたとなれば、美鶴様の心証だって良くなるだろうし」


 青木も四つの道の内の一つを選んで歩み去った。

 私はそれを見送るしかなかった。

 残ったのは私と黒田だけだった。

 美鶴フリークスの他のメンバーは現れず、もはや私と黒田がそれぞれ残った二つの道を進むしかない。


「どうするの、織井さん」


 黒田は赤沢たちがいなくなると同時に弱々しい声を発した。

 これは彼女の信頼を得たということでいいのだろうか――しかし虚勢でも良いから毅然としていてもらいたかった。


「黒田は、どうすればいいと思う?」


 私の問いに、怜悧なる少女は瞬きを可愛く繰り返して思案した。


「それは――パズルを解けるものなら解いたほうが良いと思うけど。だって色川先輩はあなたにパズルを解いてもらおうとしているのに、全く関係ない人が自分の前に現れたら不快に思うでしょう。万が一織井さんが色川先輩のいる方向に正しく進んだとしても、パズルを解いてないと知ったらきっと機嫌を損ねちゃう」


 やっぱり色川先輩贔屓だよ。

 パズルを解けと強制しているようなものだ。


「でも、解きたくても、赤沢が問題文ごと持ち去っちゃったよ」


「それは……、彼に問題文をメールで送ってもらえれば、何てことはないけれど」


 黒田が自分の携帯を指し示しながら言う。


「ああ、そっか」


 私は頷くしかない。それにしても、不可解な事態だった。

 どうしてそこまで色川先輩は論理パズルにこだわるのか。

 三つ子を攫って何がしたいんだ。

 美鶴とどうなりたい。

 全てを本人に直接聞かなければ、確かに夜も眠れないほど考え込んでしまうかもしれない。

 決着は私の為にもなる。

 ……だがそう言い聞かせたところで、色川先輩に対する苛立ちと、そこから湧き上がってくる怒りと焦りは消えてくれなかった。


 いったいどれだけ他人に迷惑をかけたら気が済むんだ。

 そして素直に論理パズルを解こうとしている私はどれだけ従順なんだ。

 根っからの奴隷人間ってか。

 社会の歯車になることを宿命づけられた女か。

 嫁にしたいタイプなんじゃないの、意外と。

 私はああだこうだと考えていたが、ふと、とてつもないことに気付いた。

 私は赤沢と青木が立ち去った方向を見やり、フフフと笑った。


「どうしたの、織井さん」


「黒田。……とても大事なことに気付いちゃったのよ。どうやらあたしたち、論理パズルを解く必要はないみたい」


「どういうこと? 赤沢のプランを支持するってことね?」


「結果的に、そうなりそう。だって、あたしってば、どっちが北でどっちが南か、まるで分からないんだもの。黒田は分かる?」


 黒田は意表を突かれた顔になり、不安げに辺りを見回した。


「本当だ……。いやでも、GPSと地図機能を使えば」


 そう言って黒田は辺りをうろうろし始めたが、混乱しているせいか、よく方向が掴めないようだった。やがて観念したようにスマホを仕舞った。


「パズルを解いてもどっちが北か分からないなら、全く無駄。そうやって色川先輩に言い訳すればいいんだ」


「ふう……、仕方ないわね」


 黒田は呆れた様子だった。しかし安心した顔でもあった。

 私と黒田は頷き合い、残りの二つの道に、それぞれ走り去ったのだった。




     *




 論理パズルの答えも気になるけれど、優先すべきは三つ子の安全の確保だ。

 それに比べれば、私の苦労なんてどうだっていい。

 別に善人ぶってそんなことを考えているわけではない。

 色川先輩には本当に困り果てている。

 あの人なら常軌を逸したことを平然とやるのではないか。

 そういう危惧が私に恐怖を与える。

 平穏を獲得する唯一の行為が、三つ子を救出する、それに尽きるのだと信じることができた。


 東西南北のどの方向に進んでいるのか分からない私は、夜道を一人で歩いていた。

 最初は余裕もあって、普通の早足だったのだが、よくよく考えてみると、暗い夜道を一人で歩くのは初体験だった。

 段々と余裕を失っていくにつれて足の回転が上がり、自然と走り出していた。


 私は進学塾にも通っていないから夜になって出歩くことなんて滅多にないし、父がうるさいから出歩いて夜遊びなんてもってのほかだし、実のところ夜遊びしたいという年頃の少女にありがちな願望とは無縁だったし、人気の全くない夜道を歩くことに関して、あんまり耐性がないのだった。


 もちろん私は、世間ではイカツイ女ということで通っている。

 だから、誰も見ていないからと言って、内股で歩いたり、木の葉が擦れる音で悲鳴を上げたり、突然飛び出した野犬を見て心臓が口から飛び出したり、そんな女の子らしい(?)反応をするわけにはいかなかった。

 これはゴリラ女司奈の意地である、周りからどう思われたいかなんて、このときは全く眼中の外だった。

 きっと多くの人には理解されないんだろうな、時代錯誤甚だしい「意地」だなんて概念は。


 私は恐怖を押し殺して夜道をズンズン進み、ときどき躓いても、悲鳴なんか上げなかった。

 三つ子はきっと、もっと怖い目に遭っているに違いない。

 だからこれくらい、へっちゃらなんだ。

 私は点々と設置された街灯の青白い光以外に、ぼんやりとした温かい色の光が前方でちらついているのを見た。

 もしかして北口とか南野とか、ああいう手合いが三つ子を伴って待ち受けているのだろうか。

 走るのをやめ、周囲を確認しながら進むと、光は遊歩道から少し外れた、公園から発せられているようだった。

 木立に囲まれていて、見通しが悪い。

 誰かがいる――人影は二つ。

 滑り台脇に突っ立って、何やら喋っている。

 私はその雰囲気が穏健なものであることに安堵しつつ、決然と、歩を進めた。


「織井さん?」


 声が向こうから発せられる。私は歩を止めた。


「織井さんだね? やっぱり、きみはパズルをクリアした」


 私は息を呑み、色川先輩だ、と感付いた。

 私は知らず、四つの内一つしかない正解の道を選び、色川先輩を感服させることに成功したのだ。

 ささやかな奇跡だ、と私は大袈裟な感慨を抱いた。


「当然じゃないですかぁ、あたしみたいなロジパズ少女にかかったら、あれくらいぱぱっと解けちゃいますよ。バカにするのも大概にしてくださいよ、もお」


「ふふ、織井さん。三つ子はちゃんと解放するから、もう心配はいらないよ。……じゃあ、よろしく」


 色川先輩は傍らにいた男に合図した。

 男は速やかにその場を辞去した。

 私はその後姿を見送り、


「誰ですか、今の。あっ、もしやデート中でしたか」


「三つ子を解放するように指示したところだ。彼は『囮』だよ。そう言えば誰かは分かるだろう」


 色川先輩が私に探るような目を向けてくる。

 私は自分の失言を悔いた。

 今のが誰なのかはパズルを解かないと分からないのだ。

 もちろん、今この瞬間にパズルを解いてその答えを口にするのは不可能だ。

 答えどころか問題文さえ記憶していない。

 いつもこうだ、私って人間は。


「ああ、そうですか。アイツですか。はは、問題文通りなんだもんなあ、困っちゃうよ、問題文通りだと夢と現実の区別がつかなくなりますよね、きっと宇宙人に攫われたとか主張する人もそういう類なんでしょうね、臨死体験もそうですかね、ああつまりあたしは問題文をきっちり解いたってことを主張したいわけで、深い意味はないんですけれども」


「……いったい何を言っているんだ?」


「恐れ入ります。と、とにかく!」


 私は色川先輩から軽蔑されたかもしれないと観念したが、今はどうでも良かった。

 三つ子を助けることさえできたのなら、個人の尊厳など取るに足らない。


「あたしはこの場で、スッパリ全てを終わらせたいんです。色川先輩、聞かせてください。全てを話してくれるんですよね? どうして三つ子を攫ったりなんかしたんです」


「随分焦っているようだね。心配しなくても、きっちりと話してあげるよ。約束だからね。それにしても、正直僕は、織井さんがパズルを解くとは予想していなかった。それもこんなに早く」


 色川先輩の視線は疑い深げだ。

 私の快挙を心底信じているわけではないようだ。

 せっかく安堵しかけたのに冷や汗が額に浮き出る。


「そうですか。はは、見直しましたか」


「まあ、少しね。……僕が三つ子を攫ったのは、極めてシンプルな理由からだ。彼らが僕に頼んだからだよ」


「えっ」


 私は色川先輩を睨みつけた。


「そんな見え透いた嘘を、よくもまあいけしゃあしゃあと言えますね。あの三つ子が、色川先輩にそんな……」


「彼らは酷く暇そうにしていたんだ。それで美鶴の家の近くにいた僕を見つけて、遊んでよお、とおねだりしてきた。まさか断るわけにはいかないだろう? そこで機転を働かせた僕は、織井さんにパズル勝負を申し込むから攫われてくれと言ったんだ。北口たちも動員してね」


 何とも嘘くさい。

 しかし仮に信じるとして……、信じないという態度を前面に押し出して話を続けられるほど私には対話のテクニックがない……、確認しておくべきは更に先のことだ。


「それで、三つ子は今どこに?」


「僕の家だ。実のところ、こっち、つまり南の方角以外には誰も配置していなかった。北口たちは僕の家で三つ子のお世話に奔走しているはずだ」


 私は論理パズルの答えらしきものを聞かされ、シメシメごっそさんです、と頭を働かせていた。

 要するに「囮」は南野だったと色川先輩はばらしてしまったわけだ。

 パズルなんか解けなくても事態はこうして切り抜けられるのだ、二週間前の自分に言って聞かせてあげたい。

 私は何度も頷き、


「でも、北口と西谷と東城とかいう人は、三つ子をちゃんと世話できているんですかあ? あいつら手強いですよお、南野さんも三つ子の世話させておいたほうが良かったんじゃないですかあ?」


 これで私が論理パズルを解いたという誤解を事実に変換できるはずだったのだが。

 私の発言に色川先輩は顔色を変えた。


「やっぱりそうか、織井! お前パズルを解いてないな!」


 えっ?


「本当の囮は西谷だ! 南野は研一くんを攫った!」


 ええっ?


「カマをかけたらまんまと引っ掛かって! 汚い女だ!」


 えええっ調子に乗ってしまった!

 私がしどろもどろになっていると、色川先輩は怖い顔をしばらく続けていたが、やがて笑みを零した。


「……ふふ、織井さん、四分の一の確率で見事ここに辿り着いた強運に免じて、そのことは不問に付そう。というか、ここまで付き合ってもらって、僕がきみを責めるなんて、そんなことはできない。図々しいものね」


 分かっているなら控えて欲しいものだが……。

 私はとにかく安堵した。

 喉元まで飛び出しかかっていた心臓を飲み込むような感覚で深呼吸する。


「色川先輩、ふざけないでください。そもそも、どうしてあたしに論理パズルなんか出すんです。あたしと遊びたいんですか。トランプとかウノならやってあげてもいいんですけどね、あたしそこそこ強いから」


「ふふ。最初は単なる遊びだったかもしれないけどね。つまり、きみに初めて出会ったときに出したパズルは、余興に極めて近いものだった。美鶴に変な虫がついていると前々から懸念していたから、ついでにきみを排除できたらラッキーだな、くらいにしか思っていなかった。けれど、今はそれだけじゃない」


「何ですか」


「僕はきみが憎いのさ。織井さん、きみは美鶴を大いに苦しめている」


 心外だった。

 私が美鶴を苦しめている?

 そんな馬鹿なことがあるか。

 そりゃあ、人間と人間の付き合いだから、多少ストレスを与えている点はあるかもしれないけど、三つ子を攫って彼女を泣かせている人間に言われたくはない。


「あたしの何が美鶴を苦しめているって言うんです。控えめな知性ですか、この品のない顔ですか、女子にしては発達したこの逞しい上腕二頭筋と僧帽筋ですか」


「きみはあまりに魅力的過ぎる」


 色川先輩は恥ずかしい単語を平然と使用した。

 私は否定的な言葉を予想していたから、意表を突かれて何も言えなかった。

 先輩は髪を掻き上げて嘆息する。


「もちろん、僕にとってではなく、美鶴にとって、ということだけれどね。きみがこの街に来たことによって、何もかもが狂ってしまった。前々から何かがおかしいとは思っていたけれど、きみが原因だと本当に気付いたのは、二週間前に僕が美鶴に告白してからだった」


 色川先輩の口調が段々と早まる。

 何かに焦っているのか。

 いや、自分の中に生まれてくる感情を必死に否定しているかのような。

 話に時間をかければかけるほど、内なる獣の凶暴性が増しているとでも言うかのような。


「何を言っているんです。あたしが魅力的過ぎる? そりゃあ、赤沢やら六角やらに告白されましたけれどね、あれは全部ウソで」


「そうじゃない。美鶴にとってきみは大き過ぎる存在だ。無視することができない」


「無視? 美鶴が誰かを無視することなんてありませんよ」


 色川先輩は首を横に振る。何度も、何度も。


「できれば、話したくはなかった。話さずに済むのならそれが一番良いと思った。しかしこれ以上、苦しみ続ける美鶴を見てはいられない」


「誰が美鶴を苦しめているんですか! わけの分からないことばかり言ってないで、もう彼女に付き纏うのはやめて――」


「それはできない」


 色川先輩は決然と、静かな口調で言う。


「美鶴を助けられるとしたら、僕しかいない。そしてそれは、美鶴自身も分かっていることなんだ」


 何だ、この男は。

 何を言っているのか半分だって理解できない。

 支離滅裂というよりも、私と彼が議論をする上で欠かすことのできない「前提」を共有していないような、そんな感覚がある。


「美鶴を助ける? 彼女は、あなたさえいなければ平穏無事に暮らせるんです。それが分からないんですか」


「分かっていないのはきみのほうだ。いいだろう、全て言ってやる。織井さんがいる限り美鶴の苦しみは終わらないんだ」


「苦しみって何ですか」


「恋の苦しみだ」


「恋? 美鶴が恋をしているんですか。誰にです」


「きみにだ」


「…………えっ?」


 色川先輩のあまりに突拍子のない言葉に、私は凍りついた。

 笑い飛ばそうと思った。

 色川先輩はとうとうそこまで狂っちゃったか、と。

 しかし、もし本当だったら。

 笑っていい性質の話ではないのではないか?


「きみって……、あたしですか」


「そうだ」


「美鶴があたしに恋してる?」


「そうだ」


 私は色川先輩が何かを勘違いしているかと思った。

 あるいは私の耳が腐っているか。そのどちらかだ。


「あのー、あたしは女で、美鶴は女ですよ。あたしが実はオトコだっていう学校の風説を信じちゃったんですか。いくらなんでもそれは錯乱し過ぎ――」


「きみも美鶴も女。だからこその苦しみだ。決して成就することのない恋心を抱いてしまった、その苦しみ」


 そんな馬鹿な。

 それはつまり、あれってか。

 美鶴は同性愛者ってことか。

 そんなことがあるのか?

 もちろん、可能性としてはあるだろう。

 だが、よりにもよってあの美鶴が同性愛だって。

 すぐに信じられることではない。

 色川先輩から聞いたとあってはなおさらだ。


「しょ、証拠はあるんですか」


「彼女が僕に教えてくれた。僕を振ったときに、ちらりとね」


「誤解じゃないですか。本当に同性愛者だって、あたしが好きだって、言ったんですか」


「同性愛者だなんて露骨な言葉は使わないが、美鶴ははっきりと言った、「織井さんが好きだ」と。これだけで十分だろう」


 それでもまだ私には信じられなかった。

 まだ美鶴フリークスのカルト的な活動のほうが理解しやすいというものだ。


「それは友情という意味ではなく? 本当に誤解じゃないんですか」


「くどいな。僕は美鶴に告白をしたんだ。そのときにどうして友情の話を持ち出す? 彼女はそんな言葉で誤魔化したりなんかしない」


 色川先輩のつっけんどんな声に、私は萎縮した。


「け、けど、でも、同性愛なんて……」


「……織井さん、美鶴に選ばれたきみになら話してもいいだろう。去年の春の出来事だった」


「はい……?」


「僕が二年生で、美鶴は一年生だった。織井さんは去年の夏に引っ越してきたから知らないだろうけど、入学当初、美鶴はけして目立った生徒ではなかった。いたって普通の女の子だった。だが、とあることをきっかけにして、美鶴は全校生徒の注目の的になったんだよ」


「はあ……?」


「彼女は僕に告白したんだ。色川先輩、好きです、付き合ってくださいと」


「はあ!? 美鶴が、あなたにですか!?」


 先輩は腕を広げて薄ら笑いを浮かべた。

 私の驚きっぷりを愉快そうに眺めている。


「そんなに驚くことかな? 自分で言うのも何だけど、僕はそこそこ人気があったからね。女の子のほうからアプローチすることは珍しくも何ともなかった。大抵はお断りしていたけれど」


「そ、それで一度付き合ってんですか」


「いや。当時僕には、交際相手がいたから。相手は高校生だったんだけれどね。でも、自分の不覚を吐露すれば、美鶴に告白されたとき、僕の心は揺れ動いたんだ。この学校にはこんな素晴らしい女の子がいたのかって。目を疑ったよ」


「はあ……、そうですか」


「別に当時付き合っていた彼女に不満はなかったんだけれど、自然と別れる形になった。僕はすぐに美鶴に告白しに行ったよ。そうしたら美鶴は、今すぐ私と付き合ったら二股を疑われますよ、と言って一旦は断った。期間を置きましょうという提案だ。僕は了承した。それが去年の夏休み前の出来事で、夏休みの終わりに織井さんが転校してきた」


「どもです」


「その頃からだ――美鶴の周囲が騒ぎ始めたのは。僕が美鶴に告白をし、美鶴がそれを断ったという噂が、どこからともなく流れ始めた。すると可憐だが地味だった美鶴への注目が増し、多くの人がその魅力に気付き始めた。更に『色川ほどの男』を振った美鶴を天上の人のように扱う者が出始めた。僕が美鶴フリークスを結成したのは、暴走しがちな信者たちを監視し抑制する為であり、美鶴を守る為であって、きみが想像しているようなストーカー集団ではないんだ」


「いや、でも……」


 色々と反駁したい点があり、意識する前に口が開いていた。

 色川先輩はそんな私を制して、続ける。


「僕は確信していたんだよ。美鶴は僕に恋心を持っている。ただ時期を待っているだけだ。何せ、彼女は僕に愛の告白をしたんだ。嫌いなはずはない。それで僕は、二週間前に告白した。美鶴を神格化する動きが周辺で活発になり過ぎ、神秘のヴェールにより彼女の安全を図る手法はこれ以上通用しないことを悟り、時期は熟したと判断した」


「そうですね……、確かに、黒田以外の美鶴フリークスどもは、本気でいっちゃってましたからね」


「黒田以外?」


「あ、いえ、こちらの話ですー、うふふ」


 得意の作り笑いで切り抜ける。

 色川先輩は一瞬だけ不審そうにしたが、


「とにかく、僕は美鶴に告白した。結果は玉砕。全く信じられなかったよ。ショックで寝込んでしまったくらいだ。しかも織井さんが好きだとのたまう。何の冗談だと、腹を立てた。しかし、僕は頭を冷やして、こう考えた」


「どう考えたんです」


 先輩の表情には余裕が漂う。

 ただしそれは感情のうねりを突き抜けた、定型的な表情であり、その奥にどんな感情が渦巻いているのか、窺い知ることはできなかった。

 私は一歩だけ後退した。何か危険な匂いがする。

 彼はあくまで穏やかに先を続ける。


「もしや、美鶴は同性愛者としての自分を変えたかったのではないか。あるいは、女の子が好きな自分が信じられず、一度男性と付き合ってみることで、その歪曲を克服しようとしたのではないか――」


「そんな。不可能に決まってるじゃないですか。女の子が好きなのに、ムリヤリ男の子を好きになろうとするなんて」


 私の当然の反論に、先輩は微笑で応える。


「まあ、バイっていう人もいるくらいだから、不可能と断じることはできないだろう。それに自分の本性を押し殺して恋愛や結婚に踏み切った人だって、世の中にはたくさんいるんじゃないのかな。まあ、そういう微妙な点には踏み込まないでおこう。重要なのは、彼女が僕に頼ったという点だ」


「頼った……? 色川先輩に告白したことがですか」


「そうだ。そして僕に真実を打ち明けてくれた。織井さんが好きだという真実をね。これは勇気の要る行為だった、そうは思わないか」


 確かに、自分が他の人とは違うということを明かしてしまうことは、相当な勇気が必要だ。

 一生隠し通す人だっているだろう、重大で深刻な事柄だ。


「彼女は僕のことを何とか好きになろうと努力していたんだ。そうだろう? だったら僕も、彼女を愛し、彼女を守り抜くことで、彼女の本願を果たしてあげなければいけない。絶対に彼女を僕に惚れさせてやる。それが彼女を苦しみから解放させる唯一にして最善の方法だ」


 私はそこに巨大かつ絶対的な違和感を覚えた。

 そんなことで本当に美鶴が幸せになるのか?

 根本的な部分から間違っている気がする。

 同性愛者を異性愛者に矯めることが幸せの道?

 そんな戯言を聞いたのは初めてだ。

 本人がそれを望んでいるとしても、果たしてそれが幸せに繋がるというのか。

 自殺を望んでいる人間がいたとして、本当に彼を死なせたとしたら、それが彼にとっての幸せだとは限らない。

 だって、彼が自殺を望んだのには、理由があるだろうから。

 病気なのか失恋なのか倦怠なのか借金なのか絶望なのか分からないけれども、きっと誰かがその原因を取り除いてあげたら、その人はまだまだ生きたいと願うだろう。

 例外はいるだろうが、大半の自殺志願者は当てはまるはずだ。


 美鶴の件も一緒だ。

 本当に彼女が同性愛者なら、ムリヤリ異性の色川先輩を好きになるのではなく、自分の気持ちを正直なままに、この社会に順応していく方法を模索していくのが先ではないか。

 結局のところ幸せというのは、心の底から誰かと笑い合うことのできる、そんな状況を言うのではないか。

 偽りの自分を抱えたまま、心の底から笑うことが本当にできるのだろうか。

 しかし……、しかしだ。

 美鶴は私のことを好きだという。

 私も美鶴のことは好きだが、それはもちろん、性愛の対象としてではない。

 彼女が私に付き合って欲しいと願い出ても、それは断ることしかできない。

 友達として関係を存続できるかも不明だ。

 もちろん、私は美鶴とずっと仲良しでいたいと思っているけれど。

 向こうがいたたまれない気持ちを抱き、私を拒絶するかもしれない。


 そんなことないのに。

 誰が誰を好きになろうと、それは仕方のないことなのに。

 人と人の関わりは恋愛だけではないのに。

 むしろ恋愛は特殊な一形態に過ぎず、私と美鶴を繋げるものはそれだけではないはずなのに。


「……それであたしを美鶴から引き離そうとしたんですね? 美鶴はあたしと一緒にいる限り、苦しみ続けるから」


「そう。もちろん、きみに罪はないのかもしれない。美鶴と親しくなり、彼女に恋心を抱かせる結果となったのは、きみの責任じゃない。しかし、今後は彼女と距離を取ってもらえると――」


「断ります」


 私ははっきりと言ってやった。

 聞き返すこともできないくらい、相手の脳に言葉を叩き込んでやった。

 色川先輩の声が穏やかさを欠く。


「織井さん、きみは美鶴の親友だろう。彼女の為を想ってここは潔く引くんだ」


「私は美鶴の親友です。ですから、離れたくなんかないんです。美鶴はあたしが支えます」


「きみはやはり阿呆なのか? きみがいるから美鶴は苦しんでいるんだよ。いなくなれば全てが上手く――」


「あたしがいなくなるだけで上手くいくんですか? いきませんよね。だって、色川先輩と美鶴が結ばれることはないんですから」


「何だって」


「美鶴が色川先輩のことを好きになろうと努力した。さっき先輩はそう言いましたよね。努力して人を好きになるなんて全く自然じゃない。いずれ破綻する関係です」


「バカなことを言うな。美鶴は僕を選んだんだ。男子の中で最も魅力的な僕に告白し、自分を変えたいと願ったんだ」


「あなたに美鶴は相応しくない。親友として言いますがね」


 私は色川先輩の眼差しが凶暴な光を宿すのもお構いなしに、言いたいことは全て言ってやろうと覚悟を決めた。


「相応しくないだと? きみに何が分かる」


「三つ子を攫って、美鶴は泣いていたんですよ? どうして美鶴が傷つくことに気が付かないんですか。本当は、三つ子を攫って彼女の気を惹きたかったんでしょう。どうしようもなく不器用で傍迷惑なあなたの愛には、ほんと飽き飽きしました。あなたは美鶴の傍からいなくなるべきだ」


「きみは美鶴の保護者気取りか? 交友関係は美鶴自身が決めることだ」


 私は色川先輩のその言葉に、プッツン来た。


「アンタに言われたくねえわっ! さんざん美鶴のアレコレに干渉してるアンタにだけは!」


 最低限敬語だけは守り続けてきた私も、今回ばかりは声を荒げずにはいられなかった。

 色川先輩は苛立たしげに首を横に振る。


「……やはり言葉だけでは何も変わらないか。いやむしろ、状況は悪化したのかな。きみはますます傲慢になった。美鶴に好かれていると知って、僕を彼女の交友関係から排斥しようとした」


「いや、先輩、そういう風に言われるとアレですけど……」


「やはりここで終わらせるか」


 色川先輩の目が据わる。

 彼の黒目が肥大し、感情を読み難くなったかのような錯覚に陥った。


「えっ?」


 私は口をぽかんと開けた。

 先輩は少し早口に、


「織井さん、きみは聖戦の対象だ。全ての僕の配下から狙われている存在――たとえば北口という男を知っているか」


「し、知ってますよ。カゴメ男でしょう」


「ほう、彼がトマトジュース好きという点まで知っているのか。話が早い。彼は僕の命令なら何だってするんだ。たとえば、この場できみを社会的に抹殺する決定的な一撃をキメることとかね」


 キメる。その単語の抑揚に禍々しいものを感じた。


「どういう意味ですか、それに北口とかいう人は先輩の家で――」


「どうしてきみはそこまで騙されやすいんだ? 僕が『僕の言葉の全てが真実である』なんて言ったか? 言ったとしても、その言葉に信憑性が微塵もないことは、直感的にも論理的にも判然としているだろう。きみは一時期、論理パズルを解きまくっていたのに、何も学んでいないのか?」


 背後に気配を感じた。

 振り返る間もなく、首に太い腕が回される。

 うぎゃああああ!

 叫び声を聞いた。

 それは私の声だった。

 後ろに引き倒されて地面に伏す。

 何か巨大なものが私の上に跨る。

 私は喚きながらその正体不明の人物の腹を殴る。


「観念しろ。北口がきみを再起不能にする」


 色川先輩の青白い顔が闇に浮き上がって見えた。

 それなのに、より近くにいるはずの北口の顔は見えなかった。

 闇の中で激しく呼吸している。

 昂奮しているのか?


 私はこれから自分がどんな目に遭うのか想像して、躰が震えた。

 色川先輩が背を向けるのが分かる。

 手を伸ばした。

 色川先輩、私を本当にこんな目に遭わせる気なのか?

 脅しているだけだよな?

 すぐに戻ってきてこの男をどけてくれるさ、洒落にならないもの。

 でも、先輩はもう見えない。

 まさか、まさか、嘘でしょう、嘘って言ってよ、本当に?


 北口の顔が近づいてくる。

 私の腹と足をホールドし、腕をじたばたさせて肩や腹を叩いても全くダメージがない。


「織井ぃ」


「ひ」


「織井ぃい!」


「ちょっと待って、北口氏、洒落にならないっていうか――」


「前々からお前には興味があったんだ、桜井の隣にいつもいつもちょこまかとぉ!」


「ごめんなさいー!」


 私は北口の顔面めがけて拳を繰り出したが、腕を掴まれた。

 彼の巨体の圧力には私も勝てそうにない。

 駄目だ、腕を外側に捻じ曲げられる。

 その後はどうなる?

 想像もしたくない。

 マジか、マジなのか、泣き叫ぶべきか、でも近くに民家がないなら叫んだって無駄じゃないか……。

 って冷静になってる場合か、女の子なら何も考えず可愛い悲鳴を――


「織井ぃいいいいい!」


 北口の涎が。私の頬に。

 喉元まで出かかった悲鳴が引っ込む。


「織井!」


 私は見た。

 北口の岩石みたいな顔面が横方向に捻じ曲げられるのを。

 彼の顎を砕く鋭い一閃を。

 砂埃と共に舞い上がった隠坂中学校の制服、赤ネクタイを。

 赤沢が息を弾ませ、そこに立っていた。

 彼の蹴りを喰らった北口は地面に伏して怒りの雄叫びを上げている。

 私は上半身を持ち上げ、激しく息を乱している赤沢を信じられない思いで見つめた。

 どんだけジャストなタイミングで助けに入ってくるんだよ惚れさせたいのかチクショウ!


「あ、赤沢……」


「無事か? 何もされてないか?」


「え、あ、大丈夫。ちょっと胸触られたかもしれないけど……」


「ああ?」


 赤沢がなぜか不機嫌そうに顔を歪め、


「触るほどあるとは思えないが? 本当にあるのか? 嘘はついていないよな? ちなみに何カップだ? そもそもブラは着けているのか? 一応確認するけどお前って女だよな、一応だぞ、一応の確認だ」


「ふ、ふざけてないで、ほら、北口、北口!」


 私は立ち上がりながら警告した。

 北口が赤沢の前に立つ。

 赤沢が緊張した面持ちで拳を固めた。

 北口はとんでもない巨体だった。

 巨人四宮より大きい。

 横幅も凄まじく、まるで山賊みたいな風采だった。

 本当に中学生か。一応の確認だ、一応だぞ。


「赤沢ぁ、後輩が先輩に挨拶もナシかぁ」


 北口の声は低音でありながら粘着質で、何とも言えない凄味がある。

 赤沢が口元を引き締める。


「……こんばんは、北口先輩」


「こんばんはじゃねえんだよてめえ! 引っ込んでろ、これは聖戦なんだよぉ」


「聖戦ですか。北口先輩は色川先輩に良いように使われて悔しくないんですか。あなたの願いは美鶴様と添い遂げることでしょう?」


「まずはその女だ」


 北口が下品な笑みを見せる。


「まずはその女で練習する。オレぁ童貞だからよ、まだウブなわけだぁ。ハハハ」


 赤沢が唾を吐いた。

 私は物騒な空気がムンムンしたので、二歩三歩と後退した。


「――先輩、あんたは最低のゲス野郎だ。俺がそんなことさせない」


「はは、てめえ、もしかして織井に惚れてるのかぁ? ははは、こんなゴリラのどこがいいんだよ」


 私はてっきり、赤沢がさっさと否定するかと思っていた。

 しかし彼は意外なことに、反駁はせず、


「つべこべ言ってないでさっさとかかってこいよ。あんた気付いてるか? 息が臭いぜ。きっと女子にもウケが悪いと思うな――たぶん皮かぶってるだろうし、一生童貞のまんまだよ、ご愁傷様」


「……殺す」


 北口が咆哮を上げながら突進する。

 私は赤沢の奮闘を網膜に焼き付けようと身構えた。

 北口が拳を振り回す。

 赤沢が雄叫びを上げる。

 側頭部に拳がヒット。

 そのまま卒倒、ぴくりとも動かない。

 赤沢、名誉の戦死。


「嘘ぉ! 弱ぁ!」


 北口が高らかに野獣のような笑い声を上げる。

 私は後ずさりし、できることなら逃げたい、と思った。

 しかし私は気付いたのだ。

 背後に男が一人立っている。もしや北口の味方か。


「南野だ」


 北口がご丁寧に紹介してくれる。


「逃げ場はない。観念しろ。大人しくすれば、せいぜい、優しくしてやるから」


 絶対にやだ! 絶対に! 


「逃げ場ならあるわよ」


 女性の声。

 振り返った先には、南野の靴の裏。

 唖然とする私は状況を飲み込むのに時間がかかった。

 自分より背丈のある男子を投げ飛ばした黒田は、息も乱さずに髪を払うところだった。

 南野は泡を噴いて伸びている。


「てめえ、黒田! お前も犯されたいのか!」


 北口の絶叫に、黒田が嘆息する。


「下品ね……。そして害悪だわ。美鶴様のファンクラブの代表として、著しく品性に欠けると判断し、排除するわ。織井さん、あなたは赤沢くんの手当てを」


「え、あ、はい」


 私はその場を離れた。

 颯爽と現れた黒田に惚れそうになっていたが、完全に気絶している赤沢がほんの少し心配だったから、躰はスムーズに動いた。


「大丈夫、赤沢?」


 彼の頭を私の膝に乗せ、頬を叩くと、うっすらと瞼を開けた。

 闇夜なのに、眩しそうにしている。


「う……、畜生、北口の野郎、容赦ねえな、あいつ……」


 私は自然と笑んでいた。

 無事で良かった、私を守ろうとして大怪我をしてしまったら、目覚めが悪いったらない。


「良かった。死んだかと思った」


「死ぬわけねえだろ……。く、黒田は来たのか? さっき呼んだんだが……」


「来たよ。でも、呼んだって?」


「俺、パズル、解いたんだ。それで黒田に連絡したら、囮の方向に向かったのがお前だって知って……。それで」


 パズルを解いた。

 私の赤沢への評価が、それで一気に変わった。

 意外とやるじゃないか、こいつ!


「そうなんだ、凄いね、赤沢! 見直したよ。三つ子たちとも話が合うかも」


「まあな……。それで、織井、聞かせてくれないか、膝枕ついでに一つ……」


 私は膝枕という単語に気恥ずかしくなったが、彼の頭を慌ててどけるような蛮行には及ばなかった。

 まあ、暗い中での出来事だし、少しくらいいいか。


「何を聞かせろって? 子守り歌? 昔話? 桃太郎くらいならたぶん話せるけど」


「そうじゃなくて、返事だよ……」


「返事って、何?」


「校門前で……、言ったろ、俺……」


 私は記憶を探るまでもなく昼間の出来事を思い出した。

 赤沢は全力の大声で私に愛の告白をしたのだった。

 私は立ち上がった。

 膝枕を解除された赤沢は後頭部をしたたかに打ち、ぶつぶつと文句を言った。

 私は赤面全開だった。

 顔面の血管全てが拡張されたかのようだ。

 茹で蛸みたいになってるんじゃないか。


「ちょ、この期に及んでそんなふざけたこと言わないで。まだ美鶴に近付こうとしているの」


「そうじゃない……。俺は真剣に」


「もう騙されないし。あたしそこまでバカじゃないし。あんたはいつもふざけてばっかで」


 私が憤然と言ったのに、赤沢はいたって平坦な調子で、


「もういいじゃないか……。騙すとか、バカじゃないとか……」


「え?」


「お前の返事はどうなんだよ……。本当に俺が告白したら……」


 私はしどろもどろになった。

 手足を意味もなく振り回し、タコみたいにくねくねと躰を折る。


「え、えっと……、ええ? いやでも、だって、あのときの告白は嘘だったんでしょ」


 赤沢は首を横に振った。


「本気だよ、俺……。駄目か? やっぱり信じられない?」


「そ、そんなこと言われたって」


 私は赤沢の言葉を信じるべきかどうか迷った。

 そして助けを求めるように、辺りを見回した。

 そのときちょうど、黒田が北口を巴投げするところだった。

 うぎゃあ、と北口が空中で絶叫している。

 目を回した北口に黒田の躰が圧し掛かり、ぐいぐい締め上げる。

 躰の大きさが違い過ぎるので、全身を束縛するのではなく、片腕を極めているだけだ。

 それでも北口は声も出せない。

 黒田は獲物を仕留める直前のハンターのように、冷徹で淡々とした瞳をして、そして息を全く乱していなかった。

 私は北口の苦悶の表情を他人事のように見ながら、


「へ、返事って言われても」


「明日でもいいけど……」


「あ、明日じゃなくて、三日後くらいで」


「別にそれでもいいよ。俺は待つから……」


「や、やっぱり一週間後!」


「別にいいよ、それでも……」


 私はまだ信じられなかった。

 嘘だったと言ってくれ、いや、言わないでくれ、いやでも、どうせ騙されて馬鹿にされるんならここで言ってくれ、いやいやでもでも、今の私はもう馬鹿にされたらぶっ壊れちゃうかもしれないよ……。


「あ、あのさ。ま、マジで?」


「マジだよ……」


 顔から火が出そうだった。

 本当なのか?

 既に二度も騙されているんだぞ?

 まだ懲りないのか?

 結婚詐欺師になれるよ赤沢。

 ヒモ付きキャリアウーマンの将来像を瞬時に思い浮かべる。


「あ」


 黒田が突然、呆けたように声を上げた。

 私も赤沢も黒田を見る。死闘は終焉していた。

 彼女は、うっかり、てへっ、という顔をした。


「全然降参してくれないから腕折っちゃった。ついでにもう一本くらい折っとく?」




     *




 かくして私にとっての色んな危機は去ったのだった。

 美鶴の家に確認を取ると、三つ子は無事に帰ってきたらしい。

 彼らは色川先輩の家で夕食をごちそうになっていたと言い、家には色川先輩か誰かが連絡を入れてくれたと無邪気に信じていたらしい。

 利口な彼らも妙なところで無防備だった。

 まあ、一切危害は加えられていなかったということで、一安心だった。


 美鶴は三つ子を叱ることもなく、彼らをただ抱き締めて迎えたという。

 彼女らしい。

 三つ子もきっと猛省したことだろう。

 彼女の涙を見たからには。


 私はと言えば、父からこっぴどく叱られた。

 夜の公園に出歩いていただけで怒られるのは心配されていた証拠だ。

 嬉しくはあるのだが、北口に破られたシャツを見たときはもう卒倒せんばかりの形相だった。

 私が父の体調の心配をしなければならなかった。

 茹で蛸になるのは遺伝らしい。


「大丈夫だよ、友達と一緒だったからさ」


 驚いたことに黒田や赤沢を友達と呼ぶことに何の抵抗もなかった。

 色々と意地悪をされてきたけれど、命の危険さえ感じたこともあったけれど、私は彼らに感謝していたし、これからは友好的になれるのではないか、と期待していた。

 けれど色川先輩とは確執が残っているし、美鶴との問題も生じた。

 まだまだ平穏な日々からはほど遠い。

 でも、逃げるわけにはいかない。

 美鶴との楽しい中学校生活を何の努力もせずに投げ棄てるなんて、できやしない。

 私は明日からの学校生活がなお激動に満ちたものであると確信していた。

 そしてそれは、けして間違った予感ではなかったのである。




○本章のパズルについて

 解法の一つを大雑把に紹介する。

 XYZの証言を吟味すると、嘘をつけるのが一人だけであることが判明する。そこで、Xだけが嘘つきの場合、Yだけが嘘つきの場合、Zだけが嘘つきの場合をそれぞれ考えれば答えに辿り着ける。この際、真実を話す者が少なくとも二人いるという点を理解しておくことが大事。

 Zが嘘つきである場合、囮は真実を話さない点、北口が嘘をつく場合の南野との関係に留意して吟味すると、全ての場合に矛盾することが判明する。

 Yが嘘つきである場合、南野が真実を話すと彼自身が囮になること、Zの証言の真偽から、やはり全ての場合に矛盾することが判明する。

 Xが嘘つきであることが確定し、北口正直者、南野嘘つき、西谷嘘つき、東城正直者、研一を攫ったのは南野、健二を攫ったのは北口、賢三を攫ったのは東城、囮は西谷であることが分かる。Xの正体は西谷、YとZの正体はそれぞれ東城と北口のどちらかである。

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