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ロジパズ少女  作者: 軌条
2/6

フルショット争奪石拳勝負


 帰りの学活、教室にて。


「誰だー、廊下に貼ってあった学級新聞に落書きしたのは」


「はーい」


「今返事した奴誰だ。織井か?」


「あ、あたしじゃないですよ、先生。ていうか今男子の声でしょ」


「織井な。お前の書いた学級新聞は悪趣味過ぎて、つい落書きしたくなっちゃうんだよ。来週もお前の担当ということにするから今度はちゃんと作るんだぞ」


「嫌です。あたしはちゃんと取材をして独自の記事を作りました。保険委員としてクラスの衛生環境改善に寄与する素晴らしい記事が書けたと自負してます。校内ピュリッツァー賞を創設する用意は出来ているんですか」


「便秘に効く食品とか生活習慣とかお腹のマッサージとか紹介して、本当にお前は便秘を憎んでいるんだな。それはまだいいが、イラストにモロにアレを書くのは……」


「それは落書き坊やの仕業です! あたしはご不浄のイラストを軸に新聞をレイアウトしただけの話です!」


「どうぞここにウンコを書いてくださいっていうレイアウトにしか見えないんだよ! 教師に大声でウンコとか言わせるな!」


「あたしは相変わらず渋り腹で困ってるんですよ!」


「知るか! 今日中に新しい新聞を書いて貼っておけ! もし今日終わらなかったら、明日の土曜日にも登校してもらうからな!」


「今日中って、もう放課後じゃないですかあ! アンタ鬼畜ですか?」


「てめえは受け持ちのクラスがウンコ学級と指弾され嗤われた教師の気持ちが理解できねえのかぁ!」


「泣かないで、先生……」




     *




 誤解されそうなので言っておくと、私は別に下ネタが好きなわけではない。

 むしろ嫌いなほうである。

 真面目なテーマで新聞を書くことは容易だ。

 しかし得意分野だけで勝負をし続けることがいかに頽廃的で陳腐なことか、指摘しておきたいのである。

 そもそも誰某が率先して落ちていたゴミを拾ってたよとか、誰某が忘れ物をした私に快く教科書を見せてくれたよとか、誰某が陰で担任に悪罵の限りを尽くしてたよとか、そういうちゃちな現実を書くことに、何の意義があるというのか。

 酷い場合は書き手がネタを創作することがある。

 そんな新聞に価値などない。

 そういうのはゴシップ誌の役目だ。


 私は、内面はともかく外面は比較的人当たりの良いほうである。

 いつもにこにこして、言いたいことはずばりと言って、クラスの笑いを誘うことにも精力的だ。

 しかしほとんどの笑顔は愛想笑いだし、本心をそのまま吐露することは滅多にないし、クラスの雰囲気が最悪になったとしてもそれはそれで構わない。

 私はただ一番楽な方向に進んでいるだけだ。

 周りからそれなりに信望され、それなりに呆れ果てられる人生が、結局は楽で安定的だと思っている。


「司奈ちゃんはミステリアス」


 そういう評価を美鶴から貰っていることには驚いた。

 最初は訳が分からなかったが、なるほど、美鶴はもしかすると私のそういう冷めた部分を見つめているのかもしれない。

 でも誰だって冷めた部分は持っているはずだし、全ての中学生が中学生らしいとは限らない。

 あるいは、ほとんどの中学生は自分自身を「中学生にしては大人びている」と評価しているかもしれない。

 私だけ特別ということはないはずだ。

 美鶴は誰とでも友達になれたはずなのに私を選んだ。

 スポーツが好きで担任からもいじられるような、そんな女子と一番の友達となることを選んだ。

 美鶴は私の何を見ているのだろう。

 私のどんな部分を認めてくれたのだろうか。


「えっ、私のことを学級新聞に?」


 何としてでも土曜登校を避けたい私は、すっかり部活に行く気マンマンの美鶴に詰め寄っていた。

 学校のマドンナ桜井美鶴に関する記事ならば、誰も落書きなんて畏れ多くてできやしないだろうし、担任も文句は言うまい。


「うん、そう。できれば写真もじゃんじゃん貼って用紙を埋めたいなあって思ってるんだけど。見出しは『桜井美鶴・百花繚乱、女盛り』とか」


「やめてよ、司奈ちゃん」


 美鶴は迷惑そうにしつつも笑っていた。

 きっと冗談だと思っているのだろう。

 しかし私は本気であった。

 我が校のパソコン室にはデジタルプリンターとデジカメがある。

 それを使えば今撮影した画像を編集しすぐさま現像、新聞に貼り付けることができる。


「衣装は、普通の制服姿と、体操着。どうせだから男子の制服借りて男装して」


「……司奈ちゃん? 本気なの?」


「あっ、そうだ、演劇部から衣装借りたらいいんじゃない? 去年ガリヴァー旅行記の劇やってたよね。リリパット人形に囲まれる美鶴。ふふふふ画になるわあ」


「司奈ちゃん、私やらないよ」


「嘘でしょ美鶴。親友でしょう」


 美鶴は少し怒ったように、それでいて和やかに、


「親友にこういうことやらせちゃあ駄目だよ。司奈ちゃんがモデルになれば? それなら手伝ってあげるよ」


 私は一瞬だけ想像してしまった。

 自分で自分の記事を書く女。

 自分の男装姿を衆目に晒す女。

 学校中の嗤い者である。

 美鶴の記事だったら皆納得するだろうが、私の記事なんてギャグにしかならない。


「美鶴。アンタなぁんにも分かってない。廊下に貼り出されるべき女とそうじゃない女っているものなのよ。現実ってシビアなの」


 美鶴はきょとんとしていた。

 ああそうだ。

 高嶺の花というのは往々にして崖下の劣悪な環境を知らないものなのだ。


「じゃあせめて普通にしてるところ撮らせてよ。喜怒哀楽とか、四枚くらいでいいから」


 美鶴はかなり渋ったものの、私が最終的に「おかあさあああん」と天に向かって嘆き悲しむと、同情してくれたのか、キュートな笑顔と共に了承してくれた。

 はいはい、お母さんですよ司奈ちゃん、とあやしてもくれた。

 やったぜ。


 パソコン室からデジカメを借用し、教室に戻って写真撮影会を開催した。

 撮影は数分で終わり、美鶴は部活があるからと言って教室を去った。

 私はパソコン室に戻り、パソコン部の連中がブラインドタッチの訓練を黙々とこなしている中、写真をプリントアウトした。

 結局一三枚も撮影したが、どれも素晴らしい出来栄えだった。

 美鶴の被写体としてのポテンシャルは底なしであった。

 どれを使うべきか迷いながら廊下を歩いていた。

 笑顔の写真が六枚、悲しそうな顔が三枚、むすっとしている顔が二枚、変顔が二枚。


 特に笑顔の写真のどれを採用すべきか迷った。

 どれも魅力的で男子なら涎を垂らして見惚れることだろう。

 何て可愛いんだ美鶴。

 どうして早く芸能界デビューしないんだ美鶴。

 その美貌を大人になるまで秘匿するつもりなのかい。

 ああ私たちだけの美鶴でいてくれるんだね最高だよ美鶴……。


 と口に出していたらしく、向かいから歩いてきた下級生が「マジかこいつ」という顔をしていた。

 顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 変な趣味を持っていると思われたのではないか。

 美鶴の可愛さは女子でも見惚れてしまうものなんだよ、仕方ないじゃないか。


 教室に戻ると誰もいなかった。

 皆部活に行ったり下校したりしたのだろう。

 私は帰りのHRがあったらすぐに教室を離れるクチだったから、誰もいない教室がこんなにも寂しい場所だったとは思わなかった。


 電気が消されていたので点けて、窓際の自分の席に向かう。

 学級新聞の用紙は清々しいほどの白紙であり普通に書いたら数時間はかかる。

 写真を四枚と言わず八枚も貼り付けたらそれだけで空白は埋まりそうだが、さすがにそれは新聞とは呼べそうになかった。

 私しか知らない美鶴情報を写真と共に記載し、スポーツ新聞の如きスキャンダラスな内容にするのだ。


 一瞬だけ野心が渦巻いたが美鶴を傷つけるようなことは書けない。

 彼女を賛美するような美談を並べ立てるのが良いだろう。

 他の生徒を被写体に選んでいたら、全く物足りないだろうが、美鶴を題材にする以上、むしろ皆は美談を知りたがるのではないだろうか。

 彼女には美談しか似合わないのだ。

 私はふふふと笑いながら使用する写真の選定に入った。


 当初は最高の写真を四枚用いるつもりだったのだが、一三枚の様々な表情の美鶴を眺めているとこれを衆愚どもに晒すのが惜しくなってきた。

 週明け、私の書いた学級新聞がクラス内のみならず学校中の注目を集めることは間違いないが、穢れなき美鶴の分身が心ない愚民どもの怪視線によりその神聖を失ってしまうのは堪えられなかった。

 その思いは写真を眺めれば眺めるほど強くなり、途中から最高の写真を選ぶことではなくどの写真だったら晒しても構わないかというのが焦点となった。


 笑顔の写真は素晴らしい。

 眺めているだけでこちらの気分もピカッと晴れる。

 悲しそうな顔も写真を眺めているこちらがドキドキしてきてそんな顔をしないでよと言いたくなる。

 むすっとした顔も可愛いくて彼女の演技力の高さに惚れ惚れとするし、変顔も極めて貴重なショットである。


 写真なんて美鶴に頼めば幾らでも撮らせてくれるだろう。

 だがここにある美鶴は唯一無二でありもう二度と拝むことのできない一瞬の煌めきなのだ。

 写真とは本来人間が刹那的に浪費している網膜の娯楽を半永久的に持続させることのできる科学の奇跡であって、私が何を言いたいのかと言うと美鶴の写真は私だけのものであって欲しいということだ。


「お前、なに一人でにやにやしてるんだ?」


 声がした。

 はっとして声のしたほうを見やると教室の戸に手をかけた長身の男子学生が、だらんと垂れたネクタイを指で弄りながら私を見ていた。


 隣のクラスの赤沢である。

 一年生のとき私や美鶴と同じクラスで、美鶴を愛していると公言して憚らなかった快男児だ。

 謎の校内秘密結社「美鶴フリークス」の会員であるとの噂がある。

 私は一年生のとき、美鶴と話をする度に赤沢に睨まれていた覚えがあったので、彼があまり好きではなかった。

 それで警戒し、思わず写真を机の中に仕舞った。

 赤沢は美鶴に恋をしている。

 何度玉砕しても恋心は劣化するどころか大きく燃え上がるらしく、三日に一度は美鶴に告白しているという。

 ここまでくるとストーカーの才能十分だが、見た目が爽やかなおかげで周囲からは単に「熱い奴」と見做されている。


 私はきちんと赤沢を色眼鏡なしで見つめて評価している。

 すなわち赤沢は「危ない奴」である。

 特に美鶴に関わることとなると簡単に嫉妬の炎を燃やし物欲を昂ぶらせる。

 私が美鶴と同性であっても関係ない。

 美鶴に近付くなと脅されたことは一度や二度ではない。


「おい、織井」


「なに」


 私がつっけんどんに言うと赤沢は少し躊躇してから教室に入ってきた。

 わざわざ教壇を迂回して私の席に近付いてくる。

 そして出し抜けに、


「俺と付き合ってくれないか」


 と言った。


 私はもちろん仰天した。

 付き合ってくれ、だって?

 美鶴を愛していると年中宣言して周囲から呆れられている美鶴バカが、私に告白なんかしちゃってるのか今?

 赤沢は見た目は良い。

 美鶴の気を惹こうとしょっちゅう髪形を変え、制服の下に派手な色のシャツを着て、ピアスをこっそり開けたり、勉強を頑張って認められようとしたり、とにかく涙ぐましい努力を続けている。

 そういう努力をする人間独特の輝きを赤沢は放っており、私は赤沢とだったら付き合ってもいいなと思った。

 だが美鶴一筋である赤沢がいきなり私に告白するなんて不自然である。

 私は息を呑み、一呼吸置いてから、ゆっくりと返事した。


「付き合うって、どこに?」


 赤沢がきょとんとした。そして、


「そういう意味じゃなくて。俺の彼女になってくれって言ってんだ」


 マジか。

 たぶん私は顔が赤くなっていた。

 うわあ私にもこんな乙女な部分があったのか体中が熱いよどうしたらいいんだ教えておかあさん。

 もはや赤沢の顔を直視できなかった。

 私は脂汗をかき、喉が渇き、無性に水が飲みたくなった。

 ホットオレンジが恋しい。


「な、なに考えてるのよ! いきなり告白なんて」


「告白なんていつもいきなりだよ。事前に知ってたらそんなの告白じゃない。事実の確認だ」


 奇妙な言い回しだったがそれを指摘するだけの余裕がなかった。


「そ、そうかもしれないけど。……美鶴のことはもういいの?」


 私はおそるおそる赤沢を見た。

 瞬間私はがっかりした。

 赤沢が私を汚物でも見るような眼で睨んでいたからだ。


「いいわけないだろう。それに美鶴様と呼べ。呼び捨ては許さん」


「え」


「お前なんか好きでも何でもないが、お前と付き合えば、ほら、お前は美鶴様の友達だから、俺と美鶴様の接点が増えるだろう」


 えー……。


「これまではお前のような下等人種と美鶴様を引き剥がすことだけを考えてきたが、最近もっと賢い方法を思いついてな。この俺がお前と付き合えば、もっと美鶴様と一緒に過ごすことができるだろう」


 こいつ最低だ。


「さっさと返事をしろ織井。お前の臭い息にはうんざりだが一度くらいならキスしてやってもいいぞ。その代わり俺と付き合い始めたら美鶴様に俺がいかに凛々しく男らしいか伝聞してもらうからな」


 私は震えていた。

 ぷるぷる震えていた。

 もうこれ以上ないほど震えていた。

 無論怒りの震えである!


「お断りだバァカ! 不能野郎! 臭い息なのはてめえだ短足!」


「なっなんだとこのブスがぁ! 猫目、レズ、そばかす! ニキビ!」


「美鶴がてめえみたいな阿呆と付き合うわけねえだろ! 身の程をわきまえろファーーーック!」


「お前も一瞬勘違いしたくせに! 顔赤らめてんじゃねえよメスゴリラ! 死ね!」


「はぁー? 勘違いなんかしてませんー。あなたが必死に美鶴に振り向いてもらおうとしてるけど絶対無理だよなーとか思って笑いを堪えようとしてただけですー」


「はいウソー。それはウソでーす。絶対に勘違いしてましたー」


「してませんー」


「してましたー」


「してませんー」


「してましたー」


「してねえって言ってんだろストーカーがぁ!」


「してたに決まってんだろドブス!」


 とにかくも私は退くわけにはいかなかったのだ。

 こんな屈辱は私の人生の中でもトップファイブに入るほどのものだった。

 赤沢は美鶴に関わらない女子には優しいが、美鶴に関わる女子相手になると本性を露にし、ドブスだのメスザルだの侮蔑表現を多用する。

 どんなに可愛い女子が相手でもブスだと叫んで美鶴から遠ざける。

 それを知っていても私はやはりショックだった。

 ブスと言われるたびに心に穴が開き血が漏れ出してくる。

 心の柔らかい部分に冷たい刃が突き立てられシクシク痛む。

 きっと夜寝る前とかに思い出して凄く不愉快な気分に浸ってしまうだろう。

 それが予期されて今から憂鬱である。


 心のダメージが戦闘力に影響したか、私は段々赤沢に押され始めていた。

 普段だったら罵詈雑言のボキャブラリィが常人の三倍はあるのだけれど、今はその十分の一も引き出せなかった。

 私は涙目になるのを自覚した。

 好機とばかりに赤沢が身を乗り出して責めてくる。

 単調ながらも効果的な悪口を畳み掛けてきて傷口をグサグサ増やしていく。

 私は顔を背けた。

 その先に赤沢の顔が回り込む。

 額に皺が寄り唇が尖る。


「おらおらぁどうした。さっきまでの威勢はどこにいったんだドブスがぁ」


「……」


 駄目だ。

 何か喋ったら本当に泣き出してしまいそうだ。

 追い込まれてしまった。

 赤沢の顔が勝利の予感で喜悦に染まった。


「ふはははは。織井、貴様は美鶴様の友人になる資格などないのだ。さっさと美鶴様の傍から離れろ。引き籠ってしまえ。ふはっはははは」


 私はぐっと頬肉を噛んで最後の防波堤が決壊せぬよう踏ん張った。

 泣いて堪るか。

 こんな男に言葉の応酬で敗北するなんて私のプライドが許さない。

 だがこのままでは敗北も時間の問題だ。

 ああ美鶴ごめん。

 私はもはや美鶴の友達ではいられないかもしれない……。


「赤沢。何をやってる」


 男子の声がした。

 赤沢の表情が強張り、罵詈雑言のマシンガンが途絶える。

 ふと見ると教室を覗き込んでいる生徒がいた。

 赤沢並のイケメンであり、ネクタイの色が指定の赤ではなく青に換えられている。

 バスケ部のエースとして名高い、隣のクラスの青木である。

 赤沢が狼狽した。


「いや、これはその――」


 青木が肩を竦めながら教室に入ってきた。

 そして私の憔悴し切った顔を見て微笑する。


「大丈夫かい、織井さん? 赤沢の奴、口が悪いからな。こいつの言動には悪気しかないって評判だよ。知ってる?」


 私は少し気が楽になって笑みをこぼした。

 青木も「美鶴フリークス」なる謎の組織の会員であると噂が流れているが、表面上美鶴のことを好きだという素振りは見せていない。

 私の隣の席に腰掛けると、立ち尽くす赤沢に意外と鋭い眼を向けた。


「お前はちょっと離れていろ。女子を泣かせるなんてスマートじゃない」


「こいつが泣くわけ――」


「黙れ。そこらへんに座ってろ」


 赤沢はブツブツ言いながら窓際の席に移動し腰を下ろした。

 私は瞼を拭い、青木の優しげな声を聞いた。


「知ってるとは思うけど、赤沢は桜井さんのことが好きでね。桜井さんと仲が良い織井さんが妬ましいんだよ。男と女の区別くらいすればいいのに」


「……うん。あたしもそう思う」


「だよね。ところで織井さん、今何をやってたの? あ、それ、学級新聞? 当番なんだね」


「二週連続でね」


「へえ。あ、そっか、廊下に出てるあの下ネタ新聞、あれ織井さんが書いたんだね。落書きされまくってたけど」


「そうだね。男子の民度が低いから、この学校」


「ははは。そうかもね。で、今回の記事は? 泌尿器系?」


「あ、違うんだ。美鶴について書こうと思って」


「……え?」


 青木の声のトーンが変わった。

 私は少し驚き、彼の表情が険しくなったのを視認した。


「ええと、まずかった?」


「……いや良いと思うよ。で、具体的にどんな文章を」


「美鶴がいかに可愛くて皆から愛されているかを書こ――」


「ふざけるな貴様!」


 青木が突然爆発した。

 私は唖然とするしかない。


「美鶴様がいかに可愛くて愛されているかだと。そんなことは大前提の話だ。辞書を美鶴様と引いたらその文言が出てくるくらい当たり前だ。そんな次元の低いネタで記事を書こうだなんて何様だああぁあ!」


「あのー、もしもし?」


「そもそも貴様は美鶴様を呼び捨てて何のつもりだ! 時代が時代なら不敬罪で釜茹での刑に処されているぞ! 美鶴様の聖域に無遠慮に入り込み害悪を撒き散らすまさしくイヴに悪知恵を入れる蛇の如きその行い! 永劫に地を這い埃でも食らっているがいい!」


 と、言うが早いが、私の頭を引っ掴んで椅子から引き摺り落とした。

 私はあまりの展開に驚愕し手足をじたばたさせるだけであった。

 したたかに床に額を打ち激痛が走る。

 うっと苦悶の声を漏らしたが青木はそれだけでは満足しなかったらしい。


「貴様の才能の欠片もない文筆で美鶴様の神聖を穢すことは許されない。記事を書くのは絶対に許さん。分かったか織井いいぃああ!」


「お、おい、青木、やり過ぎだって」


 青木は私の背中を蹴って病的な笑い声を上げた。

 さすがに赤沢が止めに入ったが、青木のほうが強いらしく制止も功を奏さない。

 私は涙目になって青木の赤黒い顔を見上げた。

 彼はふはははと笑っていた。


「織井ぃ。美鶴様の記事ではなく自分がいかに劣悪な人種なのか暴露する記事でも書いたらどうだ。貴様のような汚らしい女には相応しかろう。ふははは」


 私はもう亀のように背中を丸めて青木の蹴りに堪えるしかなかった。

 まさか普段温厚な青木が赤沢以上にいかれた奴だったとは思わなかった。

 ああ私はこのまま自分を卑下する自虐記事を書かなければならないのだろうか。

 何と恐ろしいことだ。

 美鶴が私を軽蔑する顔が目に浮かぶ……。


「青木くん何をやってるの!」


 甲高い女子の声が響き渡った。

 青木の蹴りがやみ、私は恐る恐る顔を持ち上げた。

 黒いネクタイをした小柄な女性が大股になって教室を横切った。

 そしてしくしく泣いていた私に手を差し伸べる。


「大丈夫、織井さん?」


 彼女は黒田であった。

 生徒会の副会長として二期連続活躍し、生徒総会での彼女の司会進行はもはや見慣れた光景になりつつある。

 知的な女性に眼鏡は付き物だが、眼鏡の力を借りずとも知的な女性であると一目で人に分からせるだけの圧倒的なインテリジェンスの雰囲気を醸し出していた。

 鼻筋通った美人とはまさしく彼女のことで、きりりとした双眸には怒りが滲んでいる。


「う、うん……。あなた、黒田、だよね?」


「そうよ。……青木くん、いったい何をやってたの?」


「いや、俺は――」


 さしもの青木もしどろもどろになっていた。

 黒田は私を立たせ、きちんと椅子に座らせてくれた。

 懐からブラシを取り出して私の服の埃を取ってくれる。


「織井さん、大丈夫だからね。……青木くんはそこで赤沢くんの相手でもしてなさい!」


 叱られた青木は肩を窄めて窓際の席まで移動した。

 私を見る眼には依然憎悪の輝きがあったが、黒田の炯々たる眼光に惧れを為して退散した。

 私は青木にこっぴどく殴られた衝撃でひっくり返っていた用紙や筆記用具を元の位置に戻し、涙を拭きながら椅子に座り直した。

 黒田は私の隣の席に腰掛けて用紙を覗き込む。


「学級新聞を書いているんだね、私もお詫びに手伝うわ」


「え、黒田が? どうして」


「青木くんと同じクラスの人間として責任を感じているのよ。いいから手伝わせて」


 ふふふ、と黒田が笑った。

 正直言って、もう放っておいてもらいたかった。

 状況がよく分からないが今日は厄日のような気がする。

 赤沢と青木が異常な奴だったと信じたいが、この黒田だっていつ豹変するとも知れないではないか。


「あ、あのさ、黒田」


「なに、織井さん?」


「まさか美鶴のことを好きだったりする?」


 黒田は目を丸くした。

 そして微笑する。


「彼女のことを嫌いな人なんているのかしら? もちろん好きよ」


 ほら危ない。

 美鶴はあまりに魅力的で人を惑わせるのだ。

 彼女の為だったら死ねるという生徒は相当数に上るのではないか。

 彼女の為だったら誰かを殺してもいい、そう考える輩も少なからずいるだろう。

 もう黒田さえも危険人物としか思えなかった。

 私は美鶴に関わる言動は絶対に避けようと思った。


「織井さん、何の記事を書くの?」


 と黒田が尋ねてきたので、私はきっぱり「織井司奈がいかにくだらない人間かというのを、科学的な見地から明らかにしてみようかと」と嘘をついた。

 すると青木が背後から「美鶴様の記事を書くって言ってたじゃねえか」と暴露した。

 私は黒田の反応が気になったが、彼女は存外冷静で「ふうん」と言っただけだった。


「どんなことを書こうと思ってるの?」


「えっ、ええとね、美鶴がいかに完璧なエレガンス少女かってことを丹念に……」


「素晴らしいわ」


「え」


 否定的な反応があると思っていたので、拍子抜けだった。

 黒田はうんうんと頷きながら白紙を見やる。


「だって、桜井さんのことを遠くから眺めることしかできなくて、よく知らない人が大多数でしょ。彼女はこの学校のシンボリックなアイドルなんだから、紹介記事が書かれるのは当然だと思うの」


「そ、そうだね」


「生徒会の人間としては、是非とも推奨したいネタだと思う。桜井さんの了承も取り付けてあるんでしょう?」


「もちろん」


「なら何も問題はないわね。青木くんが怒った理由も全くの的外れだし、たとえ織井さんが許せなかったとしても、暴力なんて解決の手段として有効に機能しないのよ。ほら、イエスさんも、暴力はイケナイって言ってるわ」


 私はほっと一安心した。

 どうやら黒田は先の二人とは違うらしい。

 そもそも彼女は女子であり、美鶴がどれだけ好きでも男子ほど深刻な感情にはならないだろう。

 私と同性である以上美鶴に対する思いは似通ったものになるはずだ。

 私はこれまで黒田とほとんど接点のない学生生活を送ってきたが、これを機会に親友になれるかもしれない。

 語り口が理知的でさばさばしている印象を受ける。

 他の女子のような気取った感じがしないのは高ポイントである。


「ところで黒田、部活に出なくていいの? 赤沢や青木もそうだけどさ」


 黒田はぎくりとした表情をした。

 振り返ると赤沢や青木も少し気まずそうな顔をしている。

 もしかしてさぼったのだろうか。

 でもどうして?

 この教室にたまたま顔を出した三人だが、共通の目的でもあるのだろうか。


「そんなことより、急がないと、織井さん」


 黒田は身を乗り出して来てレイアウトはどうすると相談してきた。

 まるでこの学級新聞のもう一人の編集担当であるかのような熱心さだった。


「この用紙結構大きいよね。文字をできるだけ大きく書いても、そうだなあ、三〇〇〇文字は必要かも」


「あ、でも、写真を貼る予定だから」


 記事全てを文字で埋めたら数時間で終わるわけがない。

 私は思わず言ってしまっていた。

 赤沢と青木が全く同時に立ち上がり、色めき立つ。

 美鶴の写真が欲しいのだろう。

 しかし私は黒田の瞳がぐるんと動いたのを確認して、にやりと笑った。

 私は振り返り二人の男子を牽制した。

 黒田という強力な味方を得た今、奴らは恐るるに足らない。


「おっと近づかないで。アンタたちなんかに写真、見せてやらないんだから」


「ちょっと待て、織井」


 赤沢が顔面蒼白になっている。


「写真というのはもしや、美鶴様の写真ということか?」


「もちろん。当たり前でしょ。美鶴の記事を書くんだから」


 こいつら、凄く欲しがるだろうな。

 でも見せてやらないんだ。

 私は得意げになって彼らを見ていたが、あろうことか、二人は近づいてくるどころか後退し始めた。

 ついには教室の隅まで移動してガタガタ震えている。


「あれ、どしたのチミたち」


 私が不思議に思っていると、傍らに座っていた黒田の顔が赤黒く染まっていた。

 黒いネクタイが彼女の熱気を帯びてバタバタとはためている。

 きっと廊下の窓のどこかが開いていてそこから風が入り込んできているのだろうけど、私は戦慄して彼女の変貌を見ていた。

 そして、黒田は、キェーという奇声をあげて強烈なボデーブロウを繰り出した。

 大きくつんのめった私の双眸に指を突き入れて目潰し!


「ぐぁー、目が、目があぁー!」


 私がさっきとは違う理由で涙を流してうずくまると、黒田が肩に手を回して耳元で囁き始めた。


「おい淫売婦お前美鶴様の写真を撮ってそれをどうする気だ美鶴様は神なんだよもはや一種の宗教を形成していると言っても過言ではないこれがどういう意味か分かる分からないだろうな偶像崇拝禁止って言葉は聞いたことないかい私は厳格なイコノクラスムを適用するべき立場として美鶴フリークスの幹部をやってるんだ賢い織井ちゃんなら分かるだろ私の言ってる意味がつまり私はお前を許さないって意味だよ死ね寄生虫女腐った肉にたかる蛆虫にも劣る汚物女水洗に流しちまうぞオイ」


 早口過ぎてその半分も聞き取れなかったが、黒田が赤沢や青木以上に美鶴に陶酔していることは分かった。

 私は悲鳴を上げかけたがその口に私自身のネクタイを突っ込まれて塞がれた。

 もがぁと喚いた私の腹に黒田の拳がめり込む。

 精気が欠けた息を漏らしてうずくまる。

 聞こえてきたのは赤沢や青木の困惑する声。


「黒田、まさかキレてないよな?」


「眼がやばいってお前」


 黒田は私の頭を踏ん付けて、思いきり体重を乗せ、キハハという病的な笑い声を上げた。


「キレてないよ私は。で、赤沢、ひとっ走りして倉庫から台車を引っ張り出してこい。ござも忘れるな。青木はガタイの良い人夫を数人集めろ。口が堅い奴だぞ」


 何を言っているんだ、この女は?

 私は頬を床にくっつけながら焦った。

 赤沢と青木はひたすらもじもじしているようで、足しか見えないが戸惑っているのが分かる。


「別にいいけど、何に使うんだよ……」


「どこかに運ぶのか、織井を? 説教でもすんの?」


 ペッ、と黒田が私の机に唾を吐いた。


「決まってンだろ。沈めるんだよ。隠坂池の底に」


 いやいやいやいや!

 どうして美鶴の写真を撮っただけで水底に沈められなきゃいけないんだ!

 ぐりぐりと頭を踏みつけられた私は黒田という女の正体が掴めなかった。

 生徒会の副会長、というだけではないのか。

 美鶴フリークスの幹部とか言ってた気がする。

 美鶴フリークスって要するに美鶴のファンクラブということではないのか。

 人殺しまでしちゃうような組織なのか。

 あれか。最近テロとか増えてるけどそういう手合いなのか。

 いつから美鶴は宗教団体の信仰対象になってしまったんだ。


 さすがに赤沢が抗議する。


「何考えてんだよ、黒田。殺すってのか? 織井を? 幾らなんでもやり過ぎだろ」


「てめえこそ何を考えてやがる? 美鶴様が穢されようとしているんだぞ? 写真などという複製物で美鶴様の美を完璧に表現できるわけがないし、むしろ貶めることにしかならない。禁忌を犯した愚物は万死に値する」


 もちろん私はここで死を覚悟したわけではない。

 まさか日本のごくごく平凡な中学校で殺人事件など起きるはずもないと高を括っていたし、赤沢や青木の良心にも期待していた。

 だから赤沢や青木がそれ以上文句を言わずに準備の為に教室を出て行ったときは愕然とした。


「う、嘘でしょ」


 ネクタイを吐き出した私は叫ぼうとした。

 が顎を蹴られて舌を噛んだ。

 黒田がしゃがみ込み私の顔を覗き込む。

 ガムを噛んでいるかのように、クチャクチャと音を鳴らしている。


「織井ちゃんよ、私もこんなことはしたくないんだけど。これも規則だからね」


「規則……?」


「そう。偶像崇拝した者には死罪。美鶴フリークスではそう決まってンのよ、これが」


「あたしはその美鶴フリークスとかいう組織には所属してないし……」


「キハハ。無知ってのは恐ろしいね。織井ちゃんは美鶴フリークスの名誉会員になってるのよ。会員番号一番なんだよ」


「ええっ!」


 初耳だった。

 私がファンクラブの会員番号一番?


「美鶴フリークスのそもそも設立のきっかけになったのは、美鶴様と馴れ馴れしく接するあなたの『コミュニケーションの成功』だった。要するに、それまでは畏れ多くて美鶴様と誰も接触できなかったのに、あなたは転校生という立場を利用して易々とそれをやってのけた。当初私たちはあなたを『尊師』と呼び称して名誉会員に組み入れたのだけれど、最近になって『あのメスゴリラは美鶴様の偉大さを理解していないだけでは?』という意見が大勢になったの」


 何とまあ。身勝手で強引な話だろう。

 私が美鶴フリークスとやらの偶像崇拝禁止の規則に縛られる理由にはなっていないし、そもそも偶像崇拝禁止って何だよ。

 イスラム教じゃないんだぞ。

 美鶴はムハンマドじゃないんだぞ。

 あと私はメスゴリラじゃない。もっと華奢だぞ。可愛いぞ。


 黒田はまた唾を吐いた。

 今度は私の額にだ。


「私からすればとうとう尻尾を出したなって感じなのよ、織井ちゃん。私は『織井はメスゴリラ派』でね、『織井は尊師派』と日夜討論を重ねていたところだったの。とうとうこれで積年の議題を一つ片付けられそうだわ」


 キハハと涎を拭った黒田は完全に狂人であった。

 私は恐怖し何とか逃げ出そうと思ったが、廊下に足音が近づいてくる。

 赤沢たちが戻ってきたのか。味方を連れて?

 黒田が椅子に腰掛けて足を組む。

 私が起き上がろうとすると頭を蹴飛ばしてくるので床に這っているしかなかった。

 もう涙が出るどころではなかった。

 圧倒的な悪意と直面した人間はもう茫然とするしかない。


「来たようね」


 教室に駆け込んできたのは四人の男。

 その内の二人は赤沢と青木であろう。

 残る二人を目視した黒田は驚愕し、勢い良く立ち上がった。


「どうして……」


 私は黒田の暴力から逃れるべくこっそり立ち上がり、この魔の教室から退散しようと思った。

 そしてふと現れた四人の男を見やり、やはり驚いた。

 そこに立っていたのは色川先輩と白山先輩――二人とも一学年上の三年生で、生徒会の中心的な役割を担っていた。

 色川先輩は生徒会長として、白山先輩は書記として。


 しかし生徒会における役職などさして意味などなく、重要なのは彼らが熱狂的な女性ファンを獲得しているという事実であり、彼らが企画した催事はいずれも大成功だった。

 運動会や文化祭はもちろん、校外でのボランティア活動や姉妹都市訪問などのイベントは驚異の参加率を誇り、県の教育委員会を驚かせたそうである。

 先輩二人の登場に黒田は狼狽し、私も硬直した。

 色川先輩は小さく頷いた。


「織井さん。もう心配することない。美鶴フリークスの会長として、会員たちの非礼を詫びるよ」


 そして私は安堵するどころか「会長なら黒田以上にクレイジーに違いない」と信じ切って脱兎の如く逃げ出したのだった。




     *




 白山先輩に捕まり、自分の席に座らされた

 。私はもうビクビクしていて五人の美鶴フリークスの会員たちに取り囲まれている事実に発狂しそうだった。

 本気で死ぬかもしれないと思った。

 だが、色川先輩は温和な口ぶりで、さすが隠坂中学校のカリスマとして君臨しているだけのことはある。

 すぐに心惹かれるようになった。


「美鶴フリークスは偶像崇拝云々を問題視していない。美鶴様を無遠慮に撮影して彼女を困らせるようなことはあってはならない、というただそれだけの理由で写真撮影を禁止したのだけれど、拡大解釈してしまう輩がいたようだね。本人の了承があって撮影したのなら、それはもちろん、素晴らしいことなんだよ」


 色川先輩は私にというよりも黒田に説いて聞かせるように言った。

 黒田はしょんぼりと俯いていた。


「あ、あの、あたしをどうするつもりなんですか、先輩」


 色川先輩は柔和な印象を受けて安心したが、白山先輩はおっかなかった。

 中学生らしからぬスキンヘッドで異様に眉が細いし制服を腕捲りして太い腕を露にしているしさっきから無表情で何も喋らないし。

 何を考えているのか分からない。


「どうするも何も、どうもしないよ。ただ僕は、織井さんの力になりたくてね」


 うんうんと赤沢たちが頷いている。

 私をさんざん痛めつけたくせに。

 色川先輩は白紙の学級新聞の用紙を引き寄せる。


「これを完成させるまで帰れないんだろう。生徒会書記として研鑽を積んだ白山に任せれば、こんなの十分で終わるよ」


「え」


 白山は早くもペンと定規を取り出し線を引き始めた。

 どうやらレイアウトを決めてくれるらしい。

 素晴らしい手際で次々とスペースを決めていく。


「写真は四枚使いますから」


 私が言うまでもなく白山先輩は写真用のスペースを四枚分作り、そして本文を書き始めていた。

 美鶴への賛辞は書き慣れているのかもしれない、凄まじい速度で文字を連ねていく。

 私がその手腕に見惚れていると、色川先輩が腕組みしながら顔を近づけてきた。

 私はうっと身を引く。


「さて、僕たちは写真の選定に入ろうか。どの写真を使うべきか、迷っていたんじゃないのかい?」


 図星だった。

 よく分かるなあと感心すると共に、私は正体不明の悪寒を感じて躰を震わせた。

 色川先輩は小首を傾げて、うん? と笑みを向けてくる。

 他校にも波及して女性ファンがつくのも理解できる蠱惑の表情であった。


「一三枚あるんですけど、特に笑顔の写真が多くてですね……」


「なるほど、色んな表情の写真を撮ったんだね。美鶴様がこんな表情をするなんて、さすが尊師織井、よほどの信頼を得ているんだね」


「え? あの、尊師って……」


「ああ、ごめんごめん。こっちの話だから気にしないで」


 そういう用語を聞いていると、色川先輩までちょっとした拍子に暴走するんじゃないかと冷や汗が出てくる。

 色川先輩は写真を見比べてうーんと唸った。

 赤沢や青木や、しょんぼりしていた黒田まで写真に見入っている。

 イコノクラスムとやらはどうした黒田。


「やはり美鶴様は神々しい……」


「実物には及ばないがやはりこうして見ると有象無象の芸能人など及ばぬ至高の領域に達した御仁であることが明らかとなるな……」


「……ジュルっ(涎を啜る音)」


 私は彼らが美鶴の写真に見惚れているのを眺め渡し、やはり美鶴のファンなんだなと再確認した。

 美鶴フリークスの会長である色川先輩はしかし、純粋に選定の為に写真を眺めているように見える。


「顔のアップも素晴らしいけれど、この全身を収めたフルショット。正面から目線貰ってるよね。これはなかなかレアだと思うんだけど」


「そうですか?」


「ツーショットの写真ならたくさんあると思うんだけど、美鶴様の正面からのワンショットは貴重だよ」


 確かに、友人と一緒に写ることはあっても、一人だけで写る機会はそれほど多くないかもしれない。

 自分を撮るのが好きなナルシシストなら話は別だが。


「じゃあ、レアってことで、それ採用ですか」


「うーん。白山の記事はどういう文章になっているのかな。それも合わせて考えたほうがいいかもしれない」


 私が見ると既に白山先輩は記事を全て書き終えていた。

 ちょっと拝借して文章を読むと赤面してしまった。

 というのも、


「桜井美鶴様は愛の女神である。かように美しき人物を小生(織井司奈)は他に知らない。小生(織井司奈)のたかだか十数年の人生を尺度として用いるのは不適切かもしれないが控えめに言っても美鶴様は銀河一の美貌を誇る。宇宙一と称えても良かったが謙虚なお人柄である美鶴様はそのような真っ当な評価でさえも固辞されてしまうだろう。小生(織井司奈)は幸いにも美鶴様と近しい間柄にありここにオリジナルの記事として様々な表情の美鶴様を紹介したいと思う。小生(織井司奈)だからこそ撮り得た奇跡の写真をとくとご堪能ください」


 私は自分を小生だなんて言ったことはないし織井司奈といちいち注釈をつけるのもわざとらしい。

 それを差し引いても素晴らしい文章であった。

 私が常々感じていることを的確に指摘している。

 すなわち美鶴は全宇宙の中でもとびきりの美貌の持ち主だということだ。


「……なるほどね、フルショット写真は適さないかもしれない」


 色川先輩赤沢たちが持っていた写真を取り上げて、手早く四枚の写真を示した。

 笑顔の写真、少し憂鬱そうな写真、むすっとしている写真、そして私が掲示するのは避けようと思っていた変顔写真一枚。


「これらを使えば、記事としっくり来ると思うよ。どう?」


 私は正直に告白すれば、この美鶴フリークスを名乗る集団から一刻も早くバイバイしたかった。

 機嫌を損ねたら何をされるか分かったものではない。

 だから頷き以外ありえなかった。

 色川先輩は嬉しそうに頷いた。


「そうか、そうか。じゃあ、はい、白山、これスティック糊」


「あ、それくらいあたしがやりますよ。先輩方、ありがとうございました」


 私はぺこりと頭を下げた。

 そして四枚の写真を新聞の用紙に貼り付けていく。

 写真の表面を指で触らぬように慎重になる。

 糊が乾くまで用紙を別の机の上に置き、残った九枚の写真を回収した。

 名残惜しそうに美鶴フリークスどもが手を伸ばす。

 未練がましいな。

 毎日実物を見ているくせに……。


 そこで厚かましいことこの上ないことに、赤沢がヘヘヘと笑いながら催促する。


「写真、一枚くれないか。手伝ってやったお礼ってことで」


「はぁ?」


 私は先輩になら写真をくれてやっても良いと思っていたが、私をさんざん痛めつけた赤沢、青木、黒田には何も与えたくなかった。

 当然である。

 黒田に至っては私を殺そうとしたのだ!


「誰がやるか、短足! どうせ美鶴の写真を嫌らしい目的で使うくせに!」


「な、何だとドブスめ!」


「うるせえてめえはちゃちな妄想で自瀆行為に励んでろ!」


「て、て、てめえ――」


 赤沢はかあぁっと赤くなった。

 黒田は首を傾げている。


「ジトク? ジトク行為って何?」


 しかし誰も答えなかった。

 やがて青木がこほんと咳払いする。


「江戸時代の医者や茶人の礼服――十徳だ。きっと赤沢は歴史物のコスプレが好きで、織井はそれを揶揄したんだろう」


 黒田は腑に落ちないようだった。


「十徳って、羽織の原型とされる、鎌倉時代の僧服の一種じゃなかったっけ。旅行用の上衣として普及した」


「何だ、知っているんじゃないか。それでいいんだよ」


「あるいは、自瀆っていう意味なら、マスのことでしょう」


 何だ、知っているんじゃないか。

 とは誰も言わなかった。

 黒田はきょとんとしている。


「でも誉れ高き美鶴フリークスの幹部が、そんな破廉恥な行為に及ぶはずがないわ。オナンの罪は厳しく裁かれる――でしょ?」


 そうだね、きみの言う通りだね、とは誰も言わなかった。

 私はもう発言の責任を取る気はなく口笛などを吹いていた。

 それにしても黒田はクリスチャンなのだろうか。

 ここ日本にも相当数のキリスト教信者がいるが、間違いなくマイノリティであり、聖書の教えが社会通念になることはない、というのを理解しないのか。


「そういう話は、避けるわけじゃないが、趣味じゃないな」


 色川先輩が言う。


「一般的な女子は露骨に嫌がるものだしね。黒田も織井さんも、どうやら免疫があるようだけど」


 今時、そんな話に赤面する女はいない。

 あるいは全く意味が分からずきょとんとするかだ。

 黒田が明らかに手遅れなのに恥ずかしそうに顔を手で覆い隠した。

 色川先輩に気に入られたいらしい。

 そんな健気な(?)黒田の隣で、白山先輩が写真を眺めながら、


「俺はこの写真が好みだ」


 と唐突に告白した。

 彼が指差しているのは美鶴の笑顔のフルショット写真であった。

 制服を正しく着こなした彼女が、控えめな笑みを浮かべている。

 撮るときは意図しなかったが、背景の小黒板に書かれた落書きと対比されて、彼女の楚々とした佇まいが際立っている。

 側溝のどぶにまみれた花がぞっとするほどの輝きを放つのと全く同じように、薄汚れた俗世に舞い降りた美鶴という名の天使は写真の中であっても比類なき光彩を帯びて私の網膜を愉しませた。

 麻薬にも匹敵する中毒性と悦楽を瞬間的にもたらした彼女の立ち姿は熱心な耽美主義者も納得の完成度を誇り、これを撮ったのは本当に私か、と唖然した。

 こんな輝かしい瞬間に立ち会っていたというのに、全く記憶にないなんて、これはとんだ人生全体の損失であった。

 未来に存在する私という名の美鶴フリークは写真撮影に没頭していた当時の私をそれはもう恨み羨むことであろう。


 私はそのフルショット写真が、最も構図が良く、均整の取れた躰をしている美鶴をより美しく写し出しているという印象があったから、「白山先輩の審美眼はまこと精確である」と評価した。


 青木が白山先輩に便乗して、写真を見回した。

 直接触れるのがおっかないらしく、写真を指差す。


「……俺もこれがいいですね。笑顔のフルショット。日輪神さえも美鶴様の為に助力を試みている」


 確かに、カーテンを引いているはずの窓から一条の光が差し込み、美鶴の白皙を浮き立たせていた。

 ちょっと眩しそうな表情に見えなくもない。

 それで控えめな笑顔に見えるのかもしれない。


「俺もこれがいい」


 とは、赤沢の弁であった。


「美鶴様のパーフェクト・プロポーションが遺憾なく発揮されている。鼻血級の代物だ」


「破廉恥な」


 赤沢の表現に黒田が嫌悪感を露にした。


「確かにこの写真の美鶴様は輝いておられる。釈迦もびっくりなくらいね。でも、鼻血なんかで穢されては堪ったもんじゃない。国宝級の代物なのよ、丁重に扱わないと」


 それには同意するが黒田も写真が欲しいのか。

 一貫性のない女だ。

 結局、四人の美鶴フリークどもが一枚の写真を欲しがっている。ここで私が、


「えへへーん、これはあたしのだよほーん」


 とか、


「需要と供給のバランスを取る為に一枚一万円で販売します」


 とか、


「天皇陛下に献上するので諦めてください」


 と連中を馬鹿にすることも容易だし十分有意義だと思うのだが、もちろん理性ある私という人格はそのような所業を良しとせず、念頭に美鶴のエレガンスでヒューマニティな振る舞いがあり、


「一人一枚くらいならくれてやっても良いよ」


 という極めて人道的な発言をするに至ったのだ。


 四人の手下どもは、水星人でも見るような目つきで私を見た。

 色川先輩だけは微笑して静観している。


「本当に?」


 青木が私の肩を気安くべたべた触ってくる。


「私たちはあなたを殺そうとしたというのに……」


 殺そうとしたのはお前だけだ黒田。


「あああ、何て男気だ織井! たまらん、結婚してくれ!」


 赤沢が悲鳴にも似た声で私を賛美した。

 白山先輩は無言で嬉しそうに頷いている。

 私は黒田や青木や赤沢に写真をくれてやることがとてつもなく嫌だったが、美鶴なら自分を憎む相手をも愛するだろう。

 黒田が信奉するキリストと同じように美鶴も慈愛の人である。

 あるいは親鸞の悪人正機説よろしく、自力で悟りを啓けぬ者は阿弥陀並に素晴らしい私という人間を介して美鶴という涅槃に接近するしかない。


「いいよ、いいよ。チミたち、餓えているんだろ? 美鶴の写真の一枚も持っていないチミたちが急に憐れに思えてきてね。一枚ずつ持って行ってください結婚はやだ」


 その言葉の直後、四人の美鶴フリークどもは私のことなど忘れて、誰がこの一番人気のフルショット写真を持っていくか、といったことを論議し始めた。


 優勢だったのは基本的に上級生の白山先輩であったが、彼は寡黙であったので最後まで押し切るということはなかった。

 白山先輩の顔色を窺いつつも、黒田が美鶴の同性という立場を利用して写真の有効な活用法(宗教色が前面に押し出されたもの)を提案し、青木は横暴な口ぶりで牽制しつつ写真を掠め取ろうと身構え、赤沢はいかに美鶴を愛しているかといった点について一人で理屈を重ねていた。

 いずれも退くつもりはないと見え、話し合いで解決するのは不可能であろうと、傍目の私には思われた。


 色川先輩が苦笑している。


「織井さん、醜いと思うだろう。けれど、彼らは喉から手が出るほど写真が欲しいのさ。普段、美鶴様を直視できないほど彼女を崇拝してる連中だからね……」


「色川先輩もそうなんですね? 確かに美鶴は神々しいオーラを放っているけれど、大袈裟ではないですか。ファンクラブくらいあってもおかしくないくらい美鶴は可愛いけど、それにしても……」


 色川先輩は何度も頷く。

 長い睫毛が哀切に震える。


「美鶴様は我々にとって天使なのさ」


「天使……? 女神ではなく?」


「うん。まあ、そっちのほうが良いかもね」


 色川先輩がそう言って白い歯を零したとき、黒田の悲鳴が教室に響き渡った。

 青木が写真を掠め取って逃亡を図り、その首根っこを白山先輩が掴み、二人は仲良く揃って黒田の座っていた椅子に激突し、彼女が後方にひっくり返ってスカートが翻り、慌てて立ち上がった赤沢の表情が緩んだ。

 と、こういう次第であった。

 色川先輩が肩を竦める。


「おいおい、白山、きみがついていながら何たる醜態だ。公平にじゃんけんでもして決めたらどうだい」


「じゃんけんは公平ではありません!」


 青木が白山先輩の腕から逃れながら、奇妙な持論を繰り出す。

 題してじゃんけん不公平論か。


「優れた動体視力の持ち主なら、九割以上の確率で勝利できてしまいます! 白山先輩の動体視力はチーター並です!」


 チーターの動体視力がどれほどのものか分からなかったが、凄そうなのは分かった。

 色川先輩は、ふうむと顎を撫でる。


「互いに向き合って直接じゃんけんをすると、確かに、そういうテクニックが罷り通ってしまう可能性はあるね。じゃあ、こうしたらどうだろう。皆で織井さんとじゃんけんをする」


 四人の関心の外に退避していた私を、狂信者どもが注目する。


「あ、あたしと……?」


「織井さんとこの四人でじゃんけんをするんだ。四人は誰からも見えるように手を出すが、織井さんは机の下に手を出して、誰にも見えないようにする。しかも、そうだな、織井さんは目をつぶり、誰の手も見えないようにする」


「えっ?」


「そうすれば織井さんが特定の誰かに肩入れすることは不可能。そして四人からしてみれば、織井さんの手が見えない以上テクニックを発揮する余地はなくなるし、既に互いの手を確認し合っているから織井さんが机の下から手を出して勝敗を確認するときもズルはできない」


「さすが色川先輩! 名案です!」


 赤沢がミーハーみたいな声を出す。

 青木は首を傾げた。


「それだったら、尊師を介さずそれぞれ机の下に手を隠して……。って、それじゃあ普通にやるのと一緒か」


「確かに公平です。その方法なら、純粋に運だけで決まる」


 黒田がはきはき述べると、青木がぶつぶつ呟いた。


「純粋に運だけで決まることが本当に公平かね?」


 どうやら青木はじゃんけんが嫌いなようだ。

 さっきの発言と矛盾したことを言っている。

 自分が弱いという自覚あるいは錯覚を抱えているのだろう。

 白山先輩は無言だったが、この成り行きを好ましく思っているらしい。


 また巻き込まれることには不安もあったが、どうやら色川先輩はじゃんけんに参加するつもりはないらしい。

 審判役をやってくれるのか。

 それなら多少安心だが、私のじゃんけんで誰が写真を手にするかが決定するというのには、やはり恐怖があった。

 この狂信者どもは私を理不尽な動機で吊るし上げないとも限らないからだ。


「それじゃ、早速勝負……、と行きたいところだけど、その前に、それぞれの希望を聞いておこうか」


 色川先輩が残りの九枚の美鶴の写真を机の上に並べる。

 宝石をちりばめたような輝かしい光景であった。


「第三希望まで出してもらおう。第一希望は見事にかぶったわけだけど、第二希望はもしかすると違うかもしれないからね」


 しかし、四人の狂信者は全く同じ嗜好であった。

 第二希望の写真も第三希望の写真も全く同一。

 話し合いの余地などない。

 それぞれの殺気立った視線はあまりに苛烈だった。

 色川先輩は柔和な口調で続ける。


「じゃあ、勝った人間が第一希望の写真を貰えるってことでいいね。勝ちが複数いた場合はもう一回戦。もし勝ちが一人だけだったら、アイコの人間が二番手、三番手となり、やはり第二希望以降の写真を巡ってもう一回戦。まあ、勝てば良いってことだから、難しいことは考えなくてもいいけど」


 四人は厳かに頷いた。

 色川先輩は満足げに頷く。


「はい、じゃあ、四人、並んで」


 色川先輩の音頭の下、四人の美鶴フリークどもは横に整列した。

 向かって右から赤沢、青木、黒田、白山先輩、という並びであった。

 色川先輩が四人と私の間に立ち、微笑する。


「じゃあ、いいかな? 僕が号令をかけるから、一斉に手を出してね。織井さんは目を閉じて、机の上に手を出すまで目を開けちゃ駄目だよ」


 私は頷いた。

 四人の狂信者の目つきが獣のようである。

 本当に美鶴のフルショットが欲しいのだ。

 色川先輩が私に目を閉じるように合図する。

 私は言われた通りに固く瞼を閉じた。

 手を机の下に隠す。


「……よし、織井さんの手は全く見えないね。それじゃいくよ、じゃーんけーん、ぽん!」


 私はパーを出した。

 出してから、机の中に隠し易いグーを出せば良かったと思ったが、もう遅い。

 手を変えるわけにはいかなかった。

 余計な詮索でまた危険な目に遭うのは御免である。


「……ほうほう、なるほど、負けは一人だけか。可哀想だなー」


 色川先輩が意味ありげに言う。

 先輩には私の隠している手が見えているのだ。

 机の下を覗き込んでいるのかもしれない。

 私は大股に開いていた足を閉じた。


「……じゃあ、織井さん、手を机の上に出して」


 私は操り人形にシンパシーを感じるほどの従順さで、手を机の上に出した。

 歓声は聞こえなかった。

 敗者の溜め息さえ聞こえてこなかった。

 本当に連中に手は見えているのだろうか。

 私はまだ瞼を閉じていた。妙な言いがかりをつけられても困る。

 一瞬の空寒い静寂の後、私の予想だにしない展開が待っていた。


「やったああああ!」


「俺の勝ちだああ!」


「私が美鶴様の写真をお預かり申し上げるのよ!」


「俺の勝ちだ……!」


 何と四人の狂信者どもが、一斉に、自らの勝利を高らかに宣言したのである!

 さすがに驚いた私は瞼を開けた。

 全員がチョキを高々と掲げていた。

 私はパー。

 全員勝利であった。


 いや、色川先輩が「敗北者は一人だけ」と話していた。

 少なくとも一人はズルをしてチョキに変えたのだ。

 審判たる色川先輩が厳しく取り締まるだろう――と思ったが、当の審判は椅子に腰掛けて大笑いしていた。

 何がそんなにおかしいのか。

 私が混乱の極みにいる間に、四人が口論をし始めた。


「おい! お前、負けてただろ、嘘をつくな!」


「嘘なものか! 俺が勝ったんだ!」


「私の勝ちよ! 神のご加護があったんだわ!」


「貴様ら先輩を立てろ」


 ああだこうだ騒ぎまくる四人の狂信者とは、話をする気になれなかった。

 私は大笑いを続ける色川先輩をじろりと睨む。


「本当は誰が勝ったんです?」


 色川先輩は咳き込み、何度も腹を叩きながら、何とか笑いを抑え込んだ。


「いや――あはは、ごめん、分からない」


「何ですって?」


 すぐには信じられなかった。


「ごめん。何人が勝って、何人がアイコで、何人が負けるか。そればかり気が行っていてね。誰が勝ったのか、というところには無関心だった。ほら、状況によってはもう一回戦しないといけないし、無効試合になることもあり得るし、ズルをしないか神経を使っていたから、どうにも記憶のほうがおろそかになってたみたいだ」


 そのズルが目の前であっさりと行われたわけだが。

 どういう目をしてるんだ。

 とてもじゃないが信じられなかった。嘘に決まってる。


「私も見てませんよ。どうするんですか。やり直しですか」


「冗談じゃない!」


 四人の狂信者が一斉に詰め寄ってきた。

 私は迫力に押される。


「どうして俺が勝ったのにそっちのミスで無効試合にさせられなくちゃならんのだ」


「やり直しなんて絶対に認めないぞ」


「誰も見ていなくとも神は見ておられるわ。天罰が怖いのであれば私にさっさと写真を寄越しなさい」


「先輩を立てろ」


 ミスをしたのは、私ではなく色川先輩だろう。

 先輩が助けてくれないだろうかと視線を送ったが、彼はまだ笑っていた。

 何がそんなにおかしいのか。


「僕から一つ言えることは」


 色川先輩が手を上げて発言すると、四人は電池の切れたロボットのように押し黙り全身を硬直させた。


「勝利者は確かに存在した、ということだよ。これは非常に重要ではないか?」


 確かに重要だが、この期に及んでそんなことをわざわざ言う必要はあるのか。

 私は困惑した。四人も同じような状況のようだった。


「論理パズルだよ」


 色川先輩は私に意味ありげな視線を送る。


「昨日織井さんは、美鶴様の弟君相手に、論理パズル勝負をしたんだろう。そして見事勝利した。情報は既に入ってきている」


 私は頷くしかなかった。

 いったいどこから情報を仕入れたのか気になるところだが、今はどうでもいい。

 この状況と論理パズル、どんな関係があるというのか。


 まさか誰が勝ったのか、誰が嘘をついているのか、論理パズルを解くように解き明かせ、とか言われるわけではないよな。

 ぞっとしない想像だった。

 そんなの無理に決まっている。

 昨日三つ子(と父親)にやらされたのは、まさしくパズルの為のパズル、という問題であり、実生活に準拠した問題ではなかった。

 だって彼らの証言は極めて非現実的であったし、正直者や嘘つきの人数まで正確に分かっていた。

 そんな特殊な状況は、現実ではありえないだろう。


「まさか、誰がフルショット写真を手に入れるべきか、論理パズルで解き明かせ、とか言わないでしょうね」


「ふふ、僕の言いたいことはまさにそれだよ」


 私は驚き呆れた。

 四人の狂信者たちは、全く意味が分かっていない顔になっている。

 昨日の出来事は色川先輩しか知らないらしい。


「何だか、疑っている顔だね。本当にこの状況を論理パズルで理解できるのか、どうか」


「……はい」


「彼らの証言によるだろうね。……美鶴フリークス諸君。このような揉め事が起こってしまったことは、遺憾の念に堪えない。本来なら、織井さんを慌てさせた咎で写真を諦めるよう説得したいところだ」


 四人が私を睨みつけてきた。

 だから私のせいじゃないって。


「慈悲を与えよう。一人一つずつ証言をしたまえ。真実だろうと嘘だろうと構わない。とりあえず言ってみてくれたまえ。たとえば『私はチョキを出しました』とかね。証言を織井さんが吟味し、もし彼女が真実を解き明かせなかったら、写真は全て君たちのものだ。いわば、織井さんとの論理パズル勝負をするわけだ」


 私は勝手に話を進められて慌てた。

 写真を全部渡すなんて、そんなことは駄目だ。

 私は立ち上がったが、四人は既にやる気だった。


「真実でも嘘でもいいから、証言をすればいいんですね?」


「それで解き明かせなかったら、写真を独占できるんですね?」


「私に良い考えがあるわ。皆、耳を貸して」


「聞こう」


 四人は輪を組んでごにょごにょと話を始めた。

 私は怒りさえ感じて色川先輩に詰め寄った。


「論理パズルなんて解けるわけないじゃないですか」


「あれ、だって昨日、難しい問題を見事に解けたって聞いたけど」


「そりゃそうですけど、でもあれは、論理的に思考すれば必ず解ける類の問題です。きちんと解き手のことを考えて作られた問題なんです。現実の問題は、必ず答えに行き着けるとは限りませんし、行き着いた答えが真実だとも限りません」


「それはどうかな」


 色川先輩は意味ありげな笑みを浮かべた。

 どうせハッタリの笑みだろうが、それが魅力的なのだから女泣かせの外貌である。

 四人が私に挑戦的な視線を向けながら、横に整列した。

 向かって右から、赤沢、青木、黒田、白山先輩。

 すなわち私とじゃんけんをしたときと全く同じ並びである。

 赤沢から順番に証言するようだ。

 私は身構えた。

 いったいどんな証言をするつもりだろうか……。


「俺はチョキを出した」


「俺はチョキを出した」


「私はチョキを出した」


「俺はチョキを出した」


 私は虚を突かれた。

 全員同じ証言。

 こんなの解けるわけがない。

 一人二人ならともかく、四人もいたら証言を吟味なんてできない。

 勝ち誇った顔の四人に、色川先輩が朗らかな顔で、


「今度こんなふざけた証言をしたら、全員『謹慎』だ」


 その宣告に四人は震え上がった。

 そしてまた輪を組んでひそひそと相談を始めた。

 私は色川先輩の「謹慎」という言葉の意味が掴めなかったが、どうやら美鶴フリークスの間では相当に重い処分らしい。

 学校に登校するな、という意味であろうか。

 学校に登校できないなら、美鶴の後姿をちらりと見かけることさえできない。

 連中にとっては苦行中の苦行、ゲヘナの谷に突き落とされるも同然の苦しみであろう。


「先輩、こんなことをしても無駄ですよ。それらしい証言を彼らがしても、問題を解けるとは限らないんですから」


「それはどうかな」


 さっきと全く同じやり取りをしていると、四人が復活して戻ってきた。

 今度はあまり自信がなさそうだったが、また色川先輩を怒らせるようなふざけた証言は避けるだろう。

 同じように整列し、赤沢から証言を始める。


「青木はチョキを出していた」


「赤沢と俺が直接戦ったら、赤沢が勝つ」


「白山先輩と私が直接戦ったら、私が勝つ」


「この中に嘘つきは二人いる」


 それらしい証言だった。

 いかにも論理パズルっぽい。

 しかし、私にはぴんと来なかった。

 あまりに複雑過ぎて、具体的にイメージできなかったのだ。

 煙に巻かれた印象さえある。

 しかし、色川先輩は満足げだった。


「……まあ、いいや。これで行こう。織井さん、早速解いてみて」


「え?」


 私は当惑した。

 自慢じゃないが私が脳内に備え付けている短期記憶装置は相当な劣悪品である。

 証言を記憶さえしていなかった。

 それに、今の証言だけで真実を解き明かすのは不可能のように思われた。

 四人がにやにやして私を見つめている。

 お前のような阿呆に解けるわけがないと言われているかのようだった。

 ひたすら途方に暮れる私に、色川先輩が助け舟を出す。


「論理パズルとは言うけれど、ほら、これは現実の問題だからさ、自分で仮定を持ち込まないと、解けるものではないと思うんだよ」


「そうですか……?」


「僕は今、この論理パズルが問題なく解けることを確認した。仮定を一つ持ち込んだだけで。その仮定も、それほど突飛なものじゃない。的を射ている可能性は十分にある」


「仮定って何です」


 そんなのを持ち込んだらフェアなパズルではない気がするが。あるいはこれでパズルが完成した、ということか。


「じゃんけんで勝った人間は真実を言い、負けた人間は嘘をつく、という仮定だよ」


 色川先輩は四人の表情を隠すように、私の目の前に立った。

 そして私を強引に椅子に座らせて、机の上に白紙を一枚持ってきた。

 この紙で考えろ、という意味らしい。


「四人の中にはじゃんけんで勝ったのに写真を貰えないことを不満に思っている人間がいるはずだ。どうにかして写真を手に入れたいと考えている。しかし嘘をついて真実を曲げるような真似はし難い。そんなことをすれば、仮に論理パズルが解けて誰かの仕掛けた不正が発覚したとき、損をしてしまうだけだからね。できれば正しい真実に行き着いて欲しいと考えているはずだ」


 正しい真実。言葉として成立しているのか、という疑問はあったものの、論理パズルの答えが真実だと見做されるようなら、その懸念は妥当であろう。


「ええと……」


「アイコだった人間は、真実を言うか嘘を言うか分からないとする。負けるよりマシだがやっぱり第一希望の写真を手に入れたい。そういう中途半端な状況にいるから、どっちに転ぶか分からない」


 色川先輩はずんずん説明を続ける。

 私の矮小な頭脳ではその全てを把握するのは骨が折れた。


「はあ……?」


「それと、じゃんけんしたとき、僕は『敗北者は一人いる』と思わず漏らしてしまったけれど、それもヒントにしようか。あと、織井さんはじゃんけんのとき、パーを出したね?」


「はい」


 私は四人の美鶴フリークス幹部を一瞥して、反応を見ようと思ったが、いずれもとてつもなく不満そうな顔をしていた。

 この中には負けたくせに写真を貰おうとしている不届き者が混じっているのだ。

 誰なのだろう、ろくでもない奴だ。


「全てを統合すると、このような論理パズルになるね」


 色川先輩は紙にさらさらと文字を書きつけた。




《尊師織井と四人のプレイヤーがじゃんけんで対決した。しかし敗北者が一人いたにも関わらず、全員が勝利を主張して、収拾がつかない。いったいどのようなじゃんけん結果だったのだろうか?

・勝利者は確実に真実を言い、敗北者は確実に嘘を言う。

・アイコだった者は真実を言うのか嘘を言うのか分からない。ただし、真実と嘘のどちらかは言う。意味のないことは言わない。

・勝利者は一人以上いる。

・敗北者は一人だけである。

・尊師織井はパーを出している。

 証言は以下の通りである。

赤「青はチョキを出した」

青「赤と青が直接戦ったら、赤が勝つ」

黒「黒と白が直接戦ったら、黒が勝つ」

白「嘘つきは二人である」




 それぞれの名前が簡略化されているのが面白い。

 私は色川先輩の書いた流麗な文字に見惚れた。

 四人のプレイヤーは不安げに私を見つめている。


 私ははっきり言って、全く自信がなかった。

 どうも複雑だし、本当に解ける問題なのか判断がつかない。

 しかし色川先輩は私の隣に椅子を持ってきて、優雅に腰掛け、頬杖を突いて私の作業を見守る体勢を整えてしまったのである。


「さあ、頑張って」


 と、その魔性の笑顔で言われてしまったら、とりあえず、ペンだけは握らなければならないという気分になる。


「おおっ、やる気だな。頑張れ」


 赤沢が引き攣った声で応援する。

 先を越されたとばかりに、青木や黒田がわあわあ言い始める。

 きっとここで応援しないと、敗北者であることがばれてしまうと懸念したのであろう。

 私が解けなかったら写真を総取りするとか言ってるんだから、別に応援なんてしなくていいのに。


 私はどうにもこうにも集中できなかった。

 三つ子が入れ替わった昨日の問題は、規夫さんと一緒に落ち着いた雰囲気で頭を働かせることができた。

 しかし今は、物騒な連中に囲まれ、しかも体中がズキズキと痛むし、横で美男子が甘い吐息を漏らしているし、早く帰らないと父が発狂寸前の説教攻撃を食らわしてくるだろうし、とてもじゃないが論理的な思考なんてできない。


「あの」


 私はしばらく白紙を睨んでから、色川先輩にギブアップを申し出ようとしたのだが、


「俺たちは外で待っていよう」


 白山先輩が申し出た。

 そして有無を言わさず赤沢と青木の肩に腕を回して、教室を出て行ってしまった。

 黒田が物欲しそうに机の上の写真を一瞥し、「宝の山に入りて空しく帰る――か」と言い残して去った。


 教室の戸が閉まると、色川先輩は大きく伸びをして、私の間の抜けた顔を眺めて微笑した。


「僕もいないほうが、落ち着いて考えられるかな?」


「あ、いえ……。先輩、これ、本当に解ける問題なんですか?」


「まあね。少なくともじゃんけんの勝敗については判明するね」


 私は色川先輩の、規夫さん並に回転の速い頭に舌を巻いた。

 いったいどんな演算装置を積んでいるのだ。

 私の頭脳がファミコンなら、色川先輩の頭脳はスパコンであろう。


「どんな風に考えたんです?」


「参考にしたい? ふふ、いや、僕もね、美鶴様の弟君が論理パズルに嵌まっていると聞いて、将来の為にトレーニングを始めていたんだけど、最近だと、情報が記号に見えてきてね。五足す三を計算するとき、わざわざ指折り数えたりなんかしないで、ぱっと頭の中に八が閃くものだろう? 足し算を習ったばかりのときは、ちょっとくらい躓いたはずなのに、今はもう論理的にではなく、直感的に計算ができてしまう。それと同じようなもので、論理パズルの答えも、ぱっと閃いてしまうんだよ」


 理解できない話だった。

 私は鼻をさすりながら、


「考えるのではなく感じろ(BYブルース・リー)ってことですか?」


「あはは。そうかもね。僕の解き方は参考にはならないね。この問題自体、条件が多いから、思考を進め難いのかもしれないな。とりあえず、こう考えたらどうだろう」


 色川先輩は私の手助けをすることに決めたようだ。

 そもそも、この問題を既に色川先輩は解いてしまい、誰がじゃんけんで勝利したか把握しているのだから、さっさと写真の受け渡しを進めればいいのに、どうして私に行方を委ねてしまうのだろう。不可解だった。


 色川先輩は問題文を引き寄せて、条件文を指差す。

 すなわち、



・勝利者は確実に真実を言い、敗北者は確実に嘘を言う。

・アイコだった者は真実を言うのか嘘を言うのか分からない。ただし、真実と嘘のどちらかは言う。意味のないことは言わない。

・勝利者は一人以上いる。

・敗北者は一人だけである。



「まずは条件から整理してみようか。この問題の厄介な部分は、誰が真実を話しているのか、嘘を言っているのか、全く分からない点だ。アイコの人間は正直者なのか嘘つきなのか分からないという点も、問題を難しくしているように見える。アイコの人数からして不明だしね」


 私は何度も頷いた。


「はい、そうですね。はっきり言ってさっぱりです」


「ただ、勝利者が一人以上いる、敗北者が一人だけいる、という条件から、全員が正直者である、全員が嘘つきである、という場合は除外できる」


「そうですね。まあ、迂遠な考え方ですけど」


「僕から言えることはそれだけだ」


「え」


 私は驚き呆れた。

 色川先輩はもう椅子の背凭れに体重を傾けて、寛ぎ始めた。

 もしやヒントはそれだけか。

 私は暫く途方に暮れていた。

 駄目だ。

 色川先輩は全く頼りにならない。

 私の論理パズルの師は規夫さんだ。

 規夫さんの教えを胸に刻んで、事に当たろう。


 昨日の論理パズルでは、いったいどのように問題を解いたのだったか。

 確か、証言の中に、明らかな矛盾を含むものを探したのだった。

 その為に、それぞれの証言が嘘だった場合を書き出した。

 私はとりあえず、その方法で攻めることにした。

 問題用紙の隙間を偽の証言で埋めていく。



赤「青はチョキを出した」

非赤「青はチョキを出していない(=青はパーかグー)」

青「赤と青が直接戦ったら、赤が勝つ」

非青「赤と青が直接戦ったら赤が勝たない(=青が勝つか、アイコ)」

黒「黒と白が直接戦ったら、黒が勝つ」

非黒「黒と白が直接戦ったら黒が勝たない(=白が勝つか、アイコ)」

白「嘘つきは二人である」

非白「嘘つきは二人ではない(=嘘つきは一人か、三人)」



 書いてみたは良いものの、その文章自体に矛盾を探し出すのは難しそうだった。

 というより不可能である。

 それくらいはちょっと見ただけで分かる。

 ということはどういうことだ。

 複数の証言を照らし合わせて、矛盾を探し、こいつは真実を言っている、こいつは嘘をついているに違いない、と判断しなければならないのか。

 しかもアイコは真実も嘘も言うから、こいつが正直者だとか嘘つきだとか分かっても、どんな手を出したのか、特定できるわけでもない。

 本当に解けるのか。

 私は絶句した。


 だが、昨日だって三つ子の繰り出した論理パズルを、絶対に解けないと匙を投げかけたものだった。

 実際はちゃんと理詰めで答えに行き着くことができた。

 答えが分かった後は、その構造が驚くほどシンプルに思えたものだし、どうして分からなかったのか数分前の自分が信じられなかったくらいだ。

 この問題も、色川先輩が答えは一つに定まると言ったのだから、解けないことはないはずなのだ。


 複数の証言を照らし合わせる……。

 それはかなり面倒そうだった。

 ふと思い出したのは色川先輩のヒントである。


「全員が正直者、全員が嘘つき、という二つの場合は除外できる」


 これは何を意味するか。

 四人の内、一人以上は嘘をついている、ということだ。

 あるいは、一人以上は真実を言っている、ということ。

 もし一人しか真実を話していなければ、その人が勝利者であり、その逆も考えられる。

 誰がどの手を出したかを考える前に真偽を確かめていくのが重要だ。

 そうすれば誰がどんな手を出したのか定まりそうなものだ。

 まず、赤の証言が引っ掛かった。



赤「青はチョキを出した」



 もし、赤が真実なら、青はチョキである。

 私はパーを出したのだから、青は勝利者であり、美鶴のフルショット写真を獲得できる。

 やったじゃないか、青木。

 しかし、赤沢と青木はそれほど仲が良いようには見えなかった。

 わざわざ赤沢が青木の為に真実を言って、しかも写真を与えようとするだろうか。

 この証言自体おかしなものである。

 まあ、こんな推理は何の役にも立たないが。


 もし、赤が嘘なら、青はパーかグーを出した。

 分かるのはそれだけだろうか。

 しかし、よくよく考えてみると、赤が嘘なら、という前提自体、ある程度問題を解く鍵になるのではないか。

 これはじゃんけんの問題である。

 私と四人のプレイヤーの勝負であり、私はパーを出したのだ。

 勝利者は真実を言うのだから、赤が嘘なら、赤は絶対にチョキは出していない、ということになる。

 赤が嘘なら、という前提が正しいのなら、赤と青は両方とも、パーかグーを出した、ということになるのではないか。


 これは大きな示唆を与えてくれる。

 真実を言っているのか、嘘を言っているのか、それが分かっても何の手を出したか分からないが、範囲を狭めることはできる。

 そして、勝利者は一人以上、敗北者は一人だけ、という人数の条件を考慮すれば、誰が勝ったのか特定するのも不可能ではないような気がしないでもない。


 私はちらりと色川先輩を見た。

 彼はじっと美鶴の写真を眺めていた。

 その写真を見下ろす双眸に無尽の色気を感じてしまった私は、慌てて視線を逸らした。


 いかんいかん。

 二人きりで教室にいる、というシチュエーションだけで、何だかドキドキしてしまう。

 別にこれまで意識したことなんかないのに。

 盛ってるんじゃないぞ、私。

 男子とは普段から接しているじゃないか。


「あの、先輩?」


「うん? 解けた?」


「全然、まだですけど、先輩は答えが分かっているんでしょう?」


「まあね」


「さっさと教えてもらえませんか。彼らも写真が早く欲しいでしょうから……」


「ふふふ、そういうわけにはいかないよ」


 色川先輩は、私の困惑顔を無視して、微笑した。

 その笑みには十分破壊力があったけれども、私は彼が何を言い出すのか注意を払っていた。

 何か嫌な予感がする。


「どうしてです?」


「僕は、前々から、尊師織井にこそ論理パズルを解く力を身に着けて欲しいと考えていたんだ。美鶴様の三人の弟君と堂々と渡り合って貰う為に」


「ええと……」


「ずっと機会を窺っていたんだ。織井さんに論理パズルに触れてもらいたい、とね。いや、正直に言おうか……。この程度の論理パズルも解けないような人間に美鶴様を任せるわけにはいかないと思っていたんだ」


 そのときの色川先輩の眼差しは、爬虫類を思わせる冷たい湿気たものであり、私はぞっとした。

 赤沢や青木や黒田は私に嫉妬心から起因する憎悪のようなものを抱いていた。

 もしや色川先輩もそうなのか。


「あの、あたしは……」


「論理パズルを解けなければ、僕はきみを美鶴様の親友とは認めない」


 色川先輩は傲岸極まりない言葉を、あっさりと口にした。


「だからと言って、僕からきみに何かをするということはない、と約束しよう。ただ、理解しておいてもらいたいのは、美鶴フリークスは単なる美鶴様のファンクラブではない、ということだ」


 私は寒気を覚えていた。

 美鶴様、と語る彼の口調に病的なものを感じ取った。


「……何なんです。何を言いたいんです」


「言うべきではないのかもしれないが、これまで美鶴様の唯一無二の親友である尊師織井の抹殺計画が何度も持ち上がっているんだ。我々は計画を事前に察知し行動に移される前に潰してきた。抹殺と言っても、もちろん命を狙うわけじゃなく、社会的な地位を揺るがし、美鶴様の傍にいられないようにする、ということだけれど……」


 胡散臭い話だな、と思いつつも、


「色川先輩が、あたしを守ってくれていた、ということですか。礼を言ったほうがいいです?」


「きみは美鶴様の親友だからね。きみが失墜すれば、一時的にしろ美鶴様が心を痛めることになる。そういう基本的なことを、どういうことか多くの人が見過ごしてしまうようでね」


「でも……。あたしが論理パズルを解けなかったら」


「僕は将来、美鶴様と添い遂げる者だ」


 色川先輩は何気なく、しかしとんでもないことを宣言した。

 てゆーか、ギリギリアウトじゃないか?


「亭主として、妻の交友関係に口出すことは避けたかったが、見るに堪えない場合もあるってことさ。きみのような阿呆に美鶴様を独り占めさせるわけにはいかない。彼女は僕のものだ」


 要するに、他の美鶴フリークどもは、美鶴自身にとってはさして危険でも何でもなかったが、この色川先輩という男は別種の存在だ。

 ストーカー候補だな。

 私は独りごちた。




     *




「さて、論理パズルをさっさと解いたらどうだ」


 色川先輩は私に紙を突きつける。


「きみの頭脳を僕に認めさせろ。もしきみが本当の阿呆だと判明したら、そうだな、僕はきみに関すること全てにおいて、傍観を決め込ませてもらう」


「消極的にあたしを攻撃するということですか」


「僕自身は何もしないさ。ただ……、そうだね、きみが美鶴様の家で○○○○○されて×××を放出した事実を公表しようとしている一派を、僕は確認している。桜井家を見守る会、とか自称してたっけな。元々は美鶴フリークスから分化した組織で、未だに僕の支配力を発揮できる。今は口止めしているが……」


 私は色川先輩を睨みつけていた。


「あたしが論理パズルも解けないような阿呆だったら、もう口止めはしないってことなんですね」


「今口止めしている理由は、この事実を公表してしまえば、さすがにデリケートな問題だから我々の活動に疑問を投じる輩が出現しかねないということ、あまりに織井さんが可哀想だということ、そして取引の道具に使えるということ、などが挙げられる」


「何ですって? 取引?」


「現にきみは今、怯えているだろう? 一応きみも女の子だからね、多少は気にして――」


 しかし私は思わず笑ってしまっていた。

 色川先輩は首を傾げる。


「何がおかしいんだい?」


「いや、もうね、美鶴に現場を見られた時点で、最大の恥辱は体験しているんですよ。そんな脅しは通用しませんって」


「ほう……? さすがは尊師。じゃあ週明けにでも公開して――」


「いや、わざわざそんなことしなくてもいいですけど」


 私は慌てて言った。

 これまでの学生生活が平穏であった理由を知って多少動揺していた。

 確かに美鶴のような羨望の的と一緒に行動していると、それだけで敵視する輩も現れるだろう。

 これまで色川先輩が組織としての圧力を周囲にかけていたのだと考えると、これがなくなったとき、私の校内での立ち位置がどう変化するか、想像しただけでも恐ろしい。

 美鶴さえ味方でい続けてくれれば大抵の困難を乗り越えられる気はするが、それでもしんどい学校生活になることだろう。


「今、きみにできるのは、論理パズルを解くことだけだよ」


 色川先輩は足を組み、優雅な手振りで時計を指し示した。


「時間もない。六時が学校の完全下校時刻だが、今はもう五時前だ。間に合うかな?」


 私は色川先輩をじろりと睨んだ。

 とんだ男が生徒会長をやっているものである。

 しかし、この論理パズルを解くことが今できる唯一のことだと認めないわけにはいかなかった。

 色川先輩という男は気に喰わないが、対立しても良いことなんて一つもない。

 ここで彼に認めてもらい、美鶴とこれまで通りの関係性を保つことが最も重要である。


「分かりましたよ。パズルを解きますよ」


「ふふ……、で、解けそう?」


「やる気になってきました。あなたの驚く顔が見たいですよ」


 色川先輩は何も言わず、ただ微笑するだけであった。

 その余裕の仮面を剥ぎ取ってやりたい。

 私は紙に目を戻した。

 証言をもう一度吟味する。



赤「青はチョキを出した」

青「赤と青が直接戦ったら、赤が勝つ」

黒「黒と白が直接戦ったら、黒が勝つ」

白「嘘つきは二人である」



 最初、赤について真偽を考えたが、良い線いっているかもしれない。

 というのも、具体的な出し手を指摘しているのは赤の証言だけである。

 他の証言だけでは特定の人物の手を推理することさえ難しそうだ。

 赤の証言を起点に、条件を絞り上げていく。

 そういう性質の問題ではなかろうか。


 もちろん、これは論理力によって作り上げられた問題ではない。

 四人の醜い美鶴フリークどもが、己の利益追求を主眼に置いて証言し、ふんだんのカオスを纏って出現した異物である。

 しかしどのような問題にも切り込み易い角度というものがあるはずであり、それは理論上は存在し得る真円が実際の世界にはけして現れないことと似ている。


「似ているか?」


 それについてはどうでもいい。

 この思考の散逸を一点に集束させ、そう、虫眼鏡で太陽光を一点に集めてついには発火させるようなイメージで、問題が纏う鎧を溶かしていき本質を見極めるのだ。


 赤の証言は、青の手を決定付ける。

 理想的な展開としては、赤が真実の場合である。

 そうすれば青の手が確定し、青の証言も真実であると分かる。

 色川先輩は、答えが一つに定まると話した。

 邪道ではあるのだろうが、矛盾しない答えさえ見つけられれば、それが唯一無二の答えなのである。


 赤を真実だと仮定してみよう。

 青はチョキを出した。

 私はパーを出した。

 それゆえに青は勝利者であり、青の証言は真実である。

 このとき、赤はパーかチョキを出したことになる。

 勝利者は真実を言い、敗北者は必ず嘘をつく、という点を考慮したゆえだ。


 その上で、青の証言を見る。

「赤と青が直接戦ったら、赤が勝つ」のである。

 青はチョキだから、赤はグーでなければならない。


 しかし早くも矛盾が発生した。

 赤はパーかチョキなのに、青の証言からすると、グーでなければならないのである。

 もはやこれは、赤が真実である、という仮定が間違っていたことを意味しやしないか。

 きっとする。

 赤は嘘つきなのである。


 私は少し落胆した。

 解き方として、スムーズにはいかないようである。 

 ただ、前進したことは確かだ。


 赤が嘘つきなら、青はパーかグーを出した、ということになる。

 赤もパーかグーを出した、ということになるな、うん。

 では、赤と青も、アイコか、敗北者ということになる。

 チョキを出した人間が勝利者なのだから、当然だ。

 勝利者は最低でも一人いるのだから、黒と白のどちらかは真実を言っている。

 どちらかはチョキを出している、ということだ。


 これだけでは前進できない。

 もう一度、仮定を持ち込んで思考を進める必要があるようだ。

 証言から、赤と密接な関係を持つ、青の証言について吟味してみるか。

「赤と青が直接戦ったら、赤が勝つ」のである。

 もしこれが真実なら、どうなる。

 赤は嘘つきであると確定しており、赤はパーかグー。

 そして赤の証言が嘘なのだから、青もパーかグーである。

 赤が青と直接戦って勝つには、赤がパーで、青がグーである必要がある。

 しかし、青がグーであるとすると、青は私との対決において敗北者であり、証言も嘘となるだろう。

 これは「青が真実なら」という仮定と矛盾する。

 すなわち、青も嘘つきなのである。

 案外すんなり思考が進んだ。

 私は紙に書きつける。



・赤は嘘つき。出したのはパーかグーである。

・青は嘘つき。出したのはパーかグーである。



 そして私は思考を推し進める。

 白の証言に着眼したのである。

「嘘つきは二人いる」という証言だ。

 赤と青が嘘をついたのは確定であり、このまま、白と黒が真実なら、きちんと符合する。

 一方、白が嘘ならば、白自身も含めて、嘘つきが三人になる。

 このとき、全員が嘘をつくということはないから、黒は真実、ということになる。


 私は引っ掛かった。

 良い意味での引っ掛かりである。

 ここからアプローチできると確信する。

 白が嘘なら、黒は真実なのである。

 白が真実だった場合も、嘘つきは二人だけと確定しており、それは赤と青なのだから、黒も真実なのである。

 どうあっても黒は真実だ。

 私はにやりと笑った。

 黒の証言を吟味してみよう。

「黒と白が直接戦ったら、黒が勝つ」のである。


 黒は真実だから、出す手はチョキかパーである。

 白は、真実なのか嘘なのか分からない状況だから、グーもチョキもパーも出す可能性がある。


 もし黒がパーなら、白はグーとなる。

 これはこれでいいのか。

 いや、勝利者が最低でも一人いる、という前提と矛盾する。

 すなわち、黒はチョキで白はパーであると、決定しやしないか。

 もし白がチョキだったら黒はグーであり、黒の証言は真実なので、黒は敗北者にはならない。

 グーなんか出すはずがない……。 


 何度も思考を重ね、確認した。絶対に確定する。

 黒がチョキで白がパーなのである。

 黒が勝利者で、白がアイコだ。

 胸が高鳴った。

 ついに答えが出た。

 一応、敗北者も確定しておくべきだろう。


 青の証言が嘘なのだから、赤と青が直接戦ったら、青が勝つのである。

 どちらかは私との対決において敗北するのだから、そういうことになる。

 彼らが出し得るのはパーとグーだから、青はパーで、赤はグー……。

 つまりはそういうことだ。まとめると、




 勝利者は黒田。アイコだったのは白山先輩と青木。敗北者は赤沢であった。




 考えてみればそれほど難しくなかった。

 じゃんけんの手を推理する材料が、見た目以上に多かった点が大きい。

 私が紙に答えを書きつけたのを見て、色川先輩は立ち上がった。


「そう、簡単なのさ。この程度はね。考え始めたら、大抵の人は解ける。問題を見ても考える気が起きない、というのが問題であってね。じゃあ、四人に写真を渡してくるよ」


 色川先輩は四枚の写真を手にし、廊下へと出て行ってしまった。

 私はぽかんと彼の後姿を見送ってから、はあああ、ふひいい、と長い溜め息をついた。


 敗北者の赤沢は第四希望の写真など示していないが、色川先輩は同じ美鶴フリークとしてどれが四番目に素晴らしいものなのか、察しがつくのだろう。

 権力者色川先輩の提示した写真を「嫌だ」と拒絶することもできやしないだろうし。

 時計を確認すると、五時十分であった。

 それほど長い間論理パズルに没頭していたわけではない。

 私は廊下に貼り出す学級新聞の出来栄えを確認した。

 すっかり糊が乾いていて、写真のふちに触れても全く動かない。

 採用した写真はいずれも美鶴の顔のアップであり、笑顔、憂鬱顔、憤激顔、変顔の四枚である。


 特に変顔写真は美鶴への印象について、観測者にコペルニクス的転回を迫るほどのデンジャラスな代物である。

 天地がひっくり返るほどの驚き、とでもしたほうが良いだろうか。

 あるいはカント的な認識論上の大転回で説明したほうが観測者の驚きを素直に表現できるだろうか。


 どんな変顔なのかを簡単に説明することは難しいが、誤解を恐れずに述べるなら、笑顔を作ることに失敗したパグのような顔である。

 しかし言うまでもないことだが補足しておくと、パグはパグでも不細工さとはかけ離れており、獣特有の汚穢とも無縁であり、まるでパグが本来所有するイデアの美点のみを体現し写真という矮小な科学技術の結晶に見事複写させたかのようであった。

 それでいて美鶴が持つエレガンスさを僅かばかりも失っておらず、それはもう科学と美鶴のコラボレーションが生み出した奇跡と言う他なかった。ナイスコラボレーション。


 その奇跡を無料で閲覧できる隠坂中学校生徒と教職員は世界で一番の幸せ者集団である。

 そのことを自覚せず、ただ漫然と美鶴を美しい女子中学生だと認識しているだけの連中は本当に愚か者である。

 きっと数年が経ち、美鶴と接点がなくなった社会の虚しさに触れたとき、アアあの時代はあまりにも幸せだった、とでも回想するのであろう。


 私はそういう白痴精薄とは違う。

 私は美鶴との日々を噛み締めて毎日を大切に生きているつもりである。

 陰険な手段で美鶴と接点を持とうとする美鶴フリークスなど問題にならない。


「やあ、参った、参った」


 色川先輩が髪を撫でつけながら教室に入ってきた。

 戸をきちんと閉める辺りが怖い。

 もうあの四人は写真を受け取って、帰ってしまったのだろうか。


「何かあったんですか」


「二人がアイコだったろう? 第二希望の写真を巡って争いがあってね。まさか青木が白山にあれほど楯突くとは思わなかった」


「でも結局、じゃんけんで決着をつけたのでしょう?」


 色川先輩は笑って頷いた。


「じゃあ、どっちが勝ったのか、簡単な論理パズルで推理してみようか? じゃんけんをしたのは二人だけだから、すぐに分かるとは思うけど……」


 私はうんざりした。


「いいですよぉ、もう。やりたくありません」


 しかし色川先輩は笑顔のまま近づいてきて、私の席の机に掌をバシンと叩きつけた。

 彼の目の奥は笑っていない。

 私は萎縮した。

 長身の色川先輩は立っているだけでも威圧感がある。

 普段は柔和な物腰でそれを打ち消しているだけのこと。


「ここに書くよ。なあに、尊師織井なら、一分以内に解ける」


 そして色川先輩は紙に問題を書きつけ始めたのだった。



 青木と白山がじゃんけん勝負した結果、どちらかが勝ち、どちらかが負けた。どちらかは真実を言い、どちらかは嘘を言うが、勝敗と証言の真偽については、何の関係もない。

白「青はグーかパーを出した」

青「白はチョキかパーを出した」



 私は問題文を見るなり、首を傾げた。


「本当に青木たちがこんな証言をしたんですか」


「どうだろうね」


 色川先輩は微笑し、近くの椅子に腰を下ろした。


「さっさと解きたまえ。解くまで返さないよ。制限時間は一分、と言いたいところだが、三分にしてあげよう」


 私は色川先輩に反感を抱いた。

 どうしてそんなことを指図されなきゃならんのだ。


「あたし、帰らせてもらいます」


 私は立ち上がり、机の脇にぶら下げてあった指定鞄を手に取った。

 その可憐で麗しい私の手首を色川先輩が掴む。

 意外と節くれ立った手だった。


「待ちたまえ」


「離してください」


「パズルを解きたまえ。あと二分四八秒しか残っていない」


「解きたくなんかありません」


「解けなかったら君は美鶴様を信奉する全ての人間から集中砲火を浴びるだろう」


 私はキッと色川先輩を睨みつけた。


「あたしを守るのをやめますか。今までどうもありがとうございました」


「僕は無秩序な世界を嫌っているだけだ。美鶴様は秩序立った花園の真ん中で世の苦しみを知らずに過ごして頂きたい。尊師織井、きみは美鶴様と最も濃密な関係を築いている人間の一人だ。家族に次ぐと言っていい。きみにもできれば苦しんでもらいたくないんだ」


「今、あたしを苦しめているのは色川先輩ですよ」


 私の反駁も、色川先輩には聞こえていないようだった。


「きみという覗き穴を通して、美鶴様が世界の醜悪さに気付いてしまうのは避けたい」


「そりゃ、どうも。美しい世界に穿たれた穴ですみません」


 理不尽な理由で攻撃されるのは、もちろん不愉快であるけれども、不可解な理由で保護されるのも、気分が悪い。

 それに、こいつらは美鶴を勘違いしているんじゃないか、という気もした。

 まるで美鶴が世間のことを何も知らない、単なるお嬢様のように言うではないか。

 美鶴は頭が良い。

 私如きを介さなくとも、世界がどのような様相で、どのような姿形をしているのか、私以上に掌握しているに違いない。


 何が世の苦しみを知らずに過ごして頂きたい、だ。

 そんなのは色川先輩たちのエゴではないか。

 そうやって美鶴の為に尽くしている自分たちが好きなのだ。

 美鶴とまともに話せないものだから、そんな阿呆みたいな手段で自分を慰めているだけに過ぎないのだ。


 とは、口に出せなかった。色川先輩の眼差しがおっかない。


「さっさと解きたまえ。いいか、きみの今の立場を、僕が平易な言葉で説明してやろう。きみはあまり頭が良くないようだからね」


「あざーす」


「きみが美鶴様の親友でい続ける為には、僕に美鶴様の親友であるのに最低限の資質を持った人間であることを認めさせなければならない。もし僕の眼鏡にかなわなかったら、きみは美鶴フリークスの名誉会員としての効力を失い、美鶴様を信奉する全ての人間から袋叩きに遭い、不登校、あるいは引き籠り、ニート街道まっしぐらの没落者にさせられるだろう。それを避けるには、きみは僕の言いなりになるしかないんだ」


「言いなりなんて。そんなの嫌です」


「あと二分三秒だ。解けなかったら、きみは明日から地獄を見る」


「明日は土曜で休みですよ、学校」


 私は色川先輩の揚げ足を取ってやったとご満悦だった。

 しかし先輩は動じない。


「だからどうした? 学校は休みでも、誉れ高き美鶴フリークたちの活動が休みとは限らないだろう。枕を高くして眠れると思わないことだ。あと一分五一秒」


「そ、それってどういう意味ですか。あたしの自宅まで押しかけてくるつもりですか」


「知ってるぞ。きみは父子家庭だそうだな。しかもお父さんの帰りは遅く、朝は早い。家で独りきりでいる時間が長いということだ。調べはついている」


「う、お、襲うっていうんですか。でも……」


「黒田以上に危険な思想を持っている人間は大勢いるのさ」


 私はぞっとしていた。

 ハッタリだとは思うが、どうして美鶴と一緒にいるだけで痛い目に遭わなきゃならないのだ。

 色川先輩が抑止力を働かせなければ、私はとっくに酷い目に遭っていたということか。

 俄かには信じられないが……。


「あと一分三二秒だ。さて、そろそろやばいんじゃないのかな」


「あたしは……」


「論理パズルを解きたまえ。最後まで付き合ってもらうよ」


 色川先輩は私を強引に椅子に座らせ、新しい紙を机に置いた。

 私は問題文を睨み、考えるしかないのか、と愕然とした。


「文句ならパズルを解いた後にすると良い。あと一分一九秒」


 そうしたほうが利口らしい。

 パワーバランスを考えてみろ。

 色川先輩は美鶴フリークスの総大将だが、私は美鶴の親友という武器一つで立ち回る必要がある。

 もちろん私の武器は美鶴フリークどもにとってはこの上ない効力を持ち得るが、同時にこの上ない攻撃の対象にもなり得る。

 出る杭は打たれるのだから、能ある鷹が爪を隠すのも当然という話である。

 私は美鶴の親友という立場を最後までひけらかすことなく振る舞うことが肝要、連中だってその武器を、できれば私に出して欲しくはないはずである。


「あと一分八秒」


 私の手が止まっていた所為か、色川先輩が口に出して言った。

 私は慌てて、問題文を確認する。


 青木と白山がじゃんけん勝負した結果、どちらかが勝ち、どちらかが負けた。

 どちらかは真実を言い、どちらかは嘘を言う。


白「青はグーかパーを出した」

青「白はチョキかパーを出した」


 私は条件を吟味した。

 これはつまり、白と非青、青と非白の、二つの証言の組み合わせしかないということを意味してやしないか。

 意味しているよな。うん、してるよ。


白「青はグーかパーを出した」

非青「白はグーを出した」

 OR

青「白はチョキかパーを出した」

非白「青はチョキを出した」


 組み合わせはたったこれだけ。

 あっという間に終わるぞ。


「あと三〇秒」


 暢気に書き出していたら三〇秒以上も時間を使ってしまっていた。

 私は慌てて書き出した部分の吟味を始める。

 必ずどちらかが勝ったのだから、白と非青の証言を吟味すると、白はグーで青はパーということになる。

 この場合は青が勝った。

 青木が第二希望写真を獲得できる。やったな、青木。


 では、青と非白の証言の場合はどうなるか。

 アイコはありえないから、青はチョキであり、白はパー、であると確定する。

 青の勝利。この場合も青木が勝ちだ。やったじゃないか、青木。


 どちらの場合も青木の勝ちだ。

 ただ、どっちが嘘をついたのかは分からない。

 どんな手を出したのかも確定できない。それでいいのか。


「あと一〇秒。九、八、七……」


「あ、あ、あ、分かりました。青木が勝ったんですね。どっちが嘘をついていても、青木が勝ったということになります。青木が白山先輩に楯突いてた、ってさっき色川先輩も言ってましたけど、その状況とも一致しますよね。一対一で誤魔化されそうになったら、さすがに先輩相手でも切れますよね。だから、たぶん、嘘をついたのは白山先輩ですよ、たぶんですけど」


「……正解だ。ふふ、織井さん、きみもそれなりにやるらしいね」


 色川先輩は足を組む。

 そして小さく溜め息をついた。


「じゃあ、本番と行こう」


「え?」


「今までの二つの問題はほんの小手調べさ……。ああ、今日はもういいよ。だけど、後日、付き合ってもらうからね」


「付き合って……。ど、どこにですか、カフェですか、公園ですか、遊園地ですか……。まさかおうちデート……!?」


「そうだな、土曜は僕も部活があるから……、日曜に君の家にお邪魔する。ちゃんと在宅しておくように」


「マジかよ。な、何をする気なんですか。また論理パズルですか。どうして私にそんなにパズルを解かせようとするんです」


「言っただろう。美鶴様の交友関係を、亭主としてはある程度コントロールする必要があると」


 色川先輩は既に美鶴の彼氏気分のようである。

 危ういものを感じたが、基本的に紳士である色川先輩とだったら、もしかすると美鶴も付き合い始めるのではないかと予想してみる。

 それは恐ろしくもあったが、色川先輩に夢中の女子生徒からすれば、光栄なことなのだろう。


 しかしいくら色川先輩が美男子であっても、美鶴とは釣り合わない。

 というか、美鶴と釣り合う男子などいない。

 アラブの石油王並の財力(彼女にお金の心配をさせる男は万死に値する)と、フィールズ賞受賞者並の頭脳(リーマン予想くらいは解いてもらおう)と、預言者並の神秘性(聖痕だらけでも困るけど)と、ジョニー・デップ並のルックス(美鶴の好みではなく私の好みである)を併せ持った傑物でないと、美鶴ではなく彼女の周囲が納得しないであろう。

 周囲筆頭の私が言うのだから間違いない。


 私は色川先輩を批判的な目で見つめた。


「彼氏気取りですか。先輩、どうでもいいですけど、今日は部活いいんですか」


「生徒会の仕事ということで抜けて来ているからね」


「……それって嘘じゃないですか。要するにサボりですか?」


「いや。実を言うと、この教室で美鶴フリークスの最高意思機関のミーティングをする予定だったのさ。最高意思機関の密議は、美鶴様の教室で行うことがしきたりで決まっているから、きみがこの教室に居座っていることが非常に邪魔だった」


「え、あたしが、邪魔?」


「別の日に密議は行うし、これまでも邪魔なんか幾らでもあったし、別にそれで織井さんをどうこうするということはないけれどね」


 私は漸く合点がいった。

 私が赤沢になじられているとき、青木が都合良く登場したのも、青木に殴られているとき、黒田が都合良く登場したのも、黒田に殺されかかっているとき、色川先輩と白山先輩が早急に駆けつけたのも、私の教室で会議を行う予定だったからなのだ。


「密議って、何を話し合うんですか」


「それは秘密だ」


「まあ、密議ですもんね」


「きみには関係のない話だから安心して」


 色川先輩は微笑した。

 そうやって笑えば全てが済むと思ってる。

 私は不快だったが、彼に笑いかけられて脳内の何らかの化学物質が過剰に分泌されるのを感じた。

 化学物質ではない物質などあるのかという疑問もあるが、私はとにかく脳内の環境が激変する恐れを抱いて視線を逸らし、顔が真っ赤になっているのを自覚した。


「で、でも、あたしは美鶴の親友です」


「それがどうかした?」


「あたしだって、その密議とやらの内容に関与する資格があるように思いますけど……、あたしを尊師と呼ぶなら、なおさら」


 色川先輩は思案顔だったが、きっと答えなんかとっくに出ているのだろう。

 私がドギマギしている表情をじっくり観察して、馬鹿にしているに決まっているのだ。


「……一理あるな。まあいいだろう。僕が美鶴への告白を成功させた後の、組織としての方向性を協議しようと思ってたんだ」


「こっ告白?」


「そろそろそういう時期なんだ」


 色川先輩は謎めいた言葉を残して教室を去った。

 私は、色川先輩のようなハンサムボーイに告白された日には、とてもステキな気分になるんだろうなあと妄想して、一人顔を赤らめたりなんかしていた。


 私はかくして教室で独り立ち尽くしているところを見回りに来た担任に発見されて詰問され、しどろもどろになりつつ一緒に学級新聞を廊下に張り出すという作業をこなしたのだった。


「それにしてもお前、よく書けているじゃないか」


「えっ、本当ですか。やったあ」


「ああ。まるで成績優秀者に代筆してもらったかのようだ」


「…………」


「まるで成績優秀者に代筆してもらったかのようだ」


「やだなあ、自分で書きましたよ」


「こんなに上手く書けるんなら来週以降も織井に頼もうかな」


「すみません書いたのあたしじゃないです正直者にどうかご慈悲を」






○本章のパズルについて

 一問目、条件文の「意味のないことは言わない」とあるが、意味のない証言の実例は、「私は嘘つきだ」である。これは真実にも嘘にもなり得ないので、意味のない証言となる。

 ちなみに、白山の証言の真偽は定かではなく、二問目も、青木と白山のどちらが嘘つきなのか判明しない。そこにこだわって解こうとした人がいたら、ごめんなさい。



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