第2章 復讐とはどういうことか 2
「先生が、政治を気にされるタイプとは思いませんでした」
言った次の瞬間、氏の左拳がエデイラの腹筋を狙う。
「ぐ、っ」
くるかもしれないと予想をしていたので、間一髪で受けることができた。受けた腕がびりびりしびれる。
ジョウジョウ氏は見た目はそんなふうに見えないのに、蹴りも、突きも、驚くほど重みがあった。どうやって力を乗せているんだろうとエデイラはいつも思う。もし自分にもこれと同じことができたら、今までよりも、もっともっと強くなれるに違いなかった。
「──図星ですね」
エデイラはわざと笑ってみせた。
氏は眉間にしわを寄せる。エデイラの身のこなしに不満がある時のいつもの顔だ。
「攻撃を受けるのは最終手段だ。まずは避けることを考えること。理由も教えたろう」
「受けるにも体力が必要だから、ですね」
「そうだ」
「だとしたら、私は余計に彼女と話をしたくありません。私は政治にも社交にも割く余力はないですし、友達を作る気もありません」
「話をしろとは言っておらん」
「先生、屁理屈ですね」
「誰が屁理屈だ」
「相手が王族だから、無言の圧力に譲歩しろと?」
ジョウジョウ氏はふと首をかしげた。
「なぜ、王族と思う」
「だって彼女に誰も自分から話しかけません。身分が低いものから高いものへは、普通、気安く声をかけられないですから」
旦那様のお屋敷には上級貴族の方がおいでになることもあった。身分が上の方に対しては、聞かれたことにのみ答えるのが当たり前だった。
ジョウジョウ氏は否定も肯定もしなかった。かわりにこう言う。
「話す気がないなら、どんなに見られても無視すればよい。外ではいざ知らず、ここでは身分の上下はない」
「そんなー」
エデイラは思わず口を尖らせた。
そうはいっても、ああまでじっと見つめられているものを、無視する方が不自然だ。
いっそのことジョウジョウ氏がエデイラの口答えに腹を立てて、エデイラが気絶するほど叩きのめしてくれたらいいのに。そうしたら、話をする必要性もなくなる。
そんなことを考えていると、ジョウジョウ氏は不意に、にやりと笑った。
「ああ、なるほど」
「なにがなるほどですか」
「お前、なかなか、頭がまわる」
「それは褒めてるんですか、微妙にけなしているんですか」
次の瞬間、どんっとみぞおちに衝撃がくる。エデイラはうぐっとうめく。
さっきとは比べ物にならないほどの速度で、ジョウジョウ氏がエデイラの腹に一撃をくれたのだった。
(反応、できなかった……)
今日はここまで、と言ってその場を去るジョウジョウ氏の気配を感じる。
エデイラは床に膝をつき、肩で息をしながら思う。
(先生、つくづく器用だな)
気絶するにはぎりぎりで、弱い。それはもちろんわざと狙ってそうしたのだ。
(気絶させてくれた方が、話さない言い訳ができてよかったのに……)
あいててて、と片膝をついて立ち上がるまでにややしばらくを要した。
顔をあげた拍子に視界の隅で確認したら、例の彼女はまださっきと同じ場所にいた。
仕方ない、と腹をくくってよろよろと出入口に歩いていくと、
「あの」
その彼女に呼び止められた。
その声かけには、ためらいがにじんでいた。
無視しようと思っていたエデイラが、思わず足を止めてしまったくらいに。
顔を見ると、おや、と思うほどの美人だった。背が高く、典型的な北方美人の骨格と、情熱的な南方系の血統がほどよく混ざり、印象的な顔立ちを作り上げている。
髪はつやのある黒。長いまつげが彫りの深い目元に影を落としている。
「なんでしょうか?」
「――あなたの」
ちょっとためらってから、再び続ける。
「あなたのお名前を、伺いたくて」
女性にしては低い、ハスキーボイスだった。エデイラは尋常に答える。
「エデイラです」
相手の名前を聞こうかどうしようか、わずかに迷った。聞いてしまえば、もう知らないふりはできなくなるだろう。
(だが……聞かないのもこの会話の流れで、失礼にあたる……)
相手を認識したくない、余計な人間関係に煩わされるのはごめんだという気持ちと、メイドとしての習い性とがせめぎ合う。迷った挙句、メイド魂に軍配が上がった。
(確かこのかたは)
頭の中でその名を思い出す。話したことはないにしても、ここ連日顔を見せている彼女のことを噂する輩は多かった。そして、メイドとして訓練されたエデイラは、一度覚えた名前を忘れることはそうそうない。
(ディクタアウラクレストヴァ・ティファラネ)
ここまでがファーストネームで、続きはまだあるという長ったらしさに、さしものエデイラも間違えぬよう、もう一度胸の中で暗唱してからその人の名を口に出そうとした瞬間。
「ディクテ、と呼んでいただけるかしら」
先手を打たれて、エデイラは目をしばたたかせた。
「ディクテ……」
「様も、なしで」
頭の回転の速い人のようだった。こちらが言う前にことごとく念を押される。
自分よりもはるかに身分の高い人を、そんなふうに呼ぶのはなんとも居心地が悪い。
落ち着かなさげな顔をしているエデイラに、その人はうっすら笑った。
「あなたが本当に努力なさるので、感心して見ていました」
「努力? ですか?」
エデイラはきょとんとする。
努力? どれが? 汗まみれの稽古着を見下ろす。
(これが?)
「さすがは女騎士と呼ばれるだけのことはある、そう思って」
「女騎士?」
おうむ返しに繰り返すことしかできない。予想外と言えば、これほど予想外の言葉もなかったからだ。
きょとんとするのを通り越して、エデイラが眉間にしわを寄せたのを見て、今度はその人が驚いたように眉をあげた。
「もしかして、ご存じないの? ご自分がなんと呼ばれているか」
知らない。
それどころか、ここへ来てから女性と話したのはこれが初めてだった。
彼女たちから仲間はずれにされているとは思っていない。むしろ、男みたいな短い髪の自分が悪目立ちしているだろうことは想像に難くなかったから、さぞかし近づきがたいだろうと思っていた。
近づきがたいと思っていてくれるならいいほうで、誰とも口をきかず、にこりともしないエデイラを不気味に思っている可能性だってあった。
たとえそうでも気にしないようにしていたが。気にするだけの余裕がないことも事実だった。
女性用の浴場を使う時でも、隅の方でひっそりと湯を使い、誰とも目を合わせないようにしてすみやかに出るのが常だった。
「さぞかし悪く言われているだろうなと思いますが」
「違うわ」
だがその人は首を横に振った。
「そうではなくて、あこがれよ」
エデイラは眉をひそめる。
女騎士。褒め言葉とは思われない。
「揶揄する意味ではなくてですか」
「ええ」
信じられずに問いかけたエデイラに、彼女はあっさりうなずいた。
だって、男に引けを取らないほどの女丈夫など、夢物語だ。女騎士なんて、少女向けの物語や抒情詩の中にしかいない。現に近隣諸国では、正式な騎士団のみならず市井の武芸所であっても、女性の門下生を受け入れていないのだから。
当然のように実践向けの技を教えてくれた、あの館こそが特殊だったのだ。
(だが、特殊というならここだって特殊だ)
エデイラの望みは即日かなえられた。本人が望めばどのような学び方もできるという初日の口上は嘘ではなかったのだった。
「女の子たちは口々に言っているわ。できるのね、って」
「できる、ですか……」
「女の身で武術など、習えると思ったこともなかった。思ったこともなかったから、頼もうとしてもみなかった、って」
「それは……ごもっともかと思いますが」
「考えてみたら自分たちこそ、そういう技が必要なのにね、って」
どこからともなく風が吹いて、ぱらぱらと砂漠の砂が二人の間を落ちてくる。粒の細かい薔薇色の砂が光にあたってきらきら光った。
眩しかったのか、ディクテは軽く目を細めて続ける。
「第一、習ったとしても限界がある。だって自分は女なのだから。ずっとそう思ってきたけど、あの子を見てると違うのね。全然引けを取らないじゃないの、まわりの男の子たちに、って」
「いえ、そんな……」
「あの子にできることなら、自分たちにもできるのかしら、って。――わかる?」
「いえ全然」
ふるふると首を横に振ったエデイラに、ディクテは唇を持ち上げてほほえんだ。
「そう、わからないでしょうね。得てしてそういうものよね、注目の的になっている人というのは」
「それはなにかの誤解だと思います、本当に」
「あのね、あなたは風穴をあけたのよ」
「風穴?」
「彼女たちの心によ」
あの子のように剣が使えないとしても。力では男性に到底及ばないとしても。それでも、護身術はできないよりもできた方がいい。
――私たちにできるかしら。
――できるかできないか、やってみなくてはわからないわ。
そんなふうに、彼女たちは噂しているのだという。
エデイラは知る由もないことだったが、彼女たちのなかにはここへ来る前、理不尽な暴力に屈したものもいた。
――でも、そんなクラスあるかしら。
――作るのよ。申し入れてみましょう。
「……と、そんなわけで来月から、軽くて小さな武器を用いた女性向けの護身術クラスが新しく始まるの」
「はあ」
ぽかんとしたまま、エデイラは答えた。
そんなことになっていたとは知らなかった。
なんと返事をしたらいいか、本気で迷う。よかったですねというのも変な話だし、頑張ってくださいと言うのもなにやら上からものを言っているような気がするし。
「ところで、自己紹介をしてもいいかしら」
エデイラはぐっと迷ったが、ここまで会話を交わしていて、互いに名乗らないというのも確かにおかしな話ではあった。
一瞬で腹を決めて、そしてなにかを諦めて、エデイラは肩から力を抜く。
「とても長いお名前をお持ちの方だというのは知っています。あとは……おそらくとても御身分の高い方だろうというのも。私が知っているのはそれだけです」
「十分じゃない?」
屈託なく、その人は笑った。笑うと目じりが下がって愛嬌がにじむ。
「それだけわかっていてくれたら、もう自己紹介の必要もたいしてないように思えるけど、でもまあ、一応、言おうかしら。――言っておくけど、わたくしのフルネームって長いわよ」
「なんとなく、察してます」
「ディクタアウラクレストヴァ・ティファラネ・ユーゲンシュティール・ディ・サーナ」
彼女がおのれの名字にあたる部分を言い始めるやいなや、エデイラは、あっ、と思った。
やっぱりだ。思った通りだ。