第1章 永遠の眠りにはつきそこねた 3
(――今、なにか聞こえた気がする)
夢か現実かはっきりしない、ふわふわした頭でエデイラは思った。
誰かが呼んでる。知らない声だ。
(――あ、そうか、お客様だ)
お客様が自分を呼んでいる。今すぐ御用聞きに伺わなくては。
エデイラは声のする方に駆け付けようとしたけれど、できなかった。
目の前に、どこからともなく仲間のメイドが現れたからだ。彼女たちは顔や体を血に汚れさせたままだ。体の一部分が欠損している者もいる。
仲間を気遣う気持ちと、お客様の呼び声との間でエデイラは一瞬せめぎ合う。そして、メイドとしての習い性が勝った。
「ごめんなさい、私行かなくては」
言うと仲間は微笑んだ。
「行って、エデイラ」
エデイラは後ろ髪を引かれる思いで口にする。おいていくのではない。あなたたちを無視するわけではないと伝えたかった。
「行きます、でも戻ってきますから……あとで薬を塗りましょう」
薬を塗ってどうにかなるような傷でないことは、見ただけでも明白だった。だがエデイラがそう言うと、彼女は申し訳なさそうに下を向いた。顎の先から赤い滴がしたたり落ちる。
「ごめんね、お屋敷を汚してしまった」
「いいんです、そんなことは。あとで一緒に」
一緒に? 顔が半分こそげ落ちている、動かない片腕をぶら下げている仲間たちと一体なにを一緒にするというのだろう?
エデイラが自問自答したその時、仲間は奇妙に反響する声で言った。
「みんなで毎日、磨きあげていたお屋敷だったの、に、ね」
どさりと重たい音をさせて、仲間のメイドが倒れこむ。ひとり、またひとり。
折り重なるように倒れている仲間たちをエデイラは見下ろしている。激しい戦闘だったようだと頭の片隅で思う。
もう動かない仲間たちを、エデイラはひょいとまたぐ。だって、ほら、お客様がお呼びだし。行かなくては。
一途に足を動かして、気づけばエデイラは旦那様の書斎に来ていた。すぐ隣には興奮した面持ちのアリスもいる。
「これを、持っていきなさい」
革袋をアリスが受け取る。
「二人なら大丈夫だね」
そういって旦那様は微笑んだ、はずだった。エデイラは、その表情を見ていない。これがおそらく最後の別れになるという予感がひしひしとして、切なさのあまり目を伏せてしまったのだった。
見ておけばよかった。最後だったのに。
「そこまで、無事にたどり着きなさい」
こんな時だというのにやさしい声だった。二人を気遣う気配がにじみ出ている。
やさしい、尊敬する、旦那様。
その時のことがまざまざと蘇ってきて、エデイラの頭に血がのぼる。
本当は、自分こそが死にたかった。旦那様を守れなかった自分など、死んでしまえばいい。だけど、生き残ってしまったものの役割はひとつしかない。
(よくも、旦那様を)
殺してやる。
体に熱く血が巡り始める。
なにをしたらいいのかは、もうわかっている。
復讐をはじめるのだ。
◇◇◇
「旦那様、私が! 私がきっと、お怨みをお晴らし申し上げ……!」
そう叫んだ自分の声で、エデイラは我に返った。
体には薄い毛布がかけられている。あたりには人の気配がする。とっさに跳ね起きようとした彼女の耳に、声が聞こえた。
「気が付いたようだね」
女性にしては、低めの落ち着いた声だった。
「水を」
横から誰かの手がコップに水を注いで渡してくれる。エデイラは横たえられていた長椅子に身を起して、それを受け取った。
「飲みなさい。礼は、あとでいい」
言われるまま口にした水は冷たくて、疲れ切った体にしみこむようだった。
礼を言ってからのコップを返すと、その人はエデイラよりも二回りほど大きな手で受け取ってくれた。
端正と言っていい顔は面長で、かたちのよい鷲鼻がバランスよくおさまっている。横に張り出した肩幅はかなり広くて、それを覆う艶やかな赤い髪は一部結い上げられ、そこには凝った意匠の簪がささっている。
(美しい、女性の恰好……をした、男性……?)
まだ状況がよく呑み込めていないエデイラがそう思った時。
「ゾラ様」
「えっ」
「そうお呼び」
その人はグラマラスな足のラインを見せつけるように、足を斜めにして座ったままで言う。
ええと、この人は。私どうしてここに。
絶対あのとき死んだと思った。あなたがたが私を助けてくれたのですか。
聞きたいことは山ほどあったが、周囲に建ち並ぶ男性が直立不動で立っている様子から、どうやらこの大柄な女性(の格好をした人)がこの場でもっとも上位に位置する人だと見てとって、エデイラは素直に繰り返した。
「はい、ゾラ様」
「よろしい。お前の名は?」
「エデイラです」
その人は濃い薔薇色の唇を動かしてさらに尋ねた。
「ではエデイラ。なぜあんなところで行き倒れていたのか、説明しなさい。とりあえず受け入れて保護したが、いったいどこへ行くつもりだったの」
嘘をつく気は毛頭なかったが、嘘をついても容易に見透かされる。そんな気がした。
そして、自分をたばかったものに対してはこの人は容赦しないのではないか、とも。
エデイラは直観に従って、率直かつ手短に告げることにした。
「旦那様のご命令で、アンダルトン修道院へ」
言うと、その人はふっと口をつぐんだ。
「私の力が及ばなくて、途中で倒れました。保護して下さったことに御礼申し上げます」
彼はまだ黙したままだ。ゆっくりと指を一本、思案げに頬にあてがう。
周囲の男たちもそれにならうように口をひらかない。
エデイラはその時になって初めてあたりを見回した。
天井の高い部屋の装飾はごくシンプルで、白い漆喰の壁が頭上でドーム型をかたちづくっている。教会や聖堂によく見られる建設様式だった。
もしかして。いやまさか。
半信半疑で、だが他の可能性を思いつかなくてエデイラはおずおずと言った。
「ここ……ですか?」
「そうだ」
聞くなり、エデイラは素早く動いた。
ほとんど反射的に首から下げていた皮袋を首から外し、目の前の人に両手で差し出す。
「これを。どうかこれを、ここの責任者のかたにお渡しください」
その人はエデイラの剣幕に驚いたように少し眉を動かしたが、それでも黙って受け取ると、節ばった指で中のカードを抜き出した。尖った爪先は唇と同じ色に塗られている。カードの大きさはタロットよりもやや大きく、葉書と比べると小さい程度だ。
その表面を一瞥するなり、その人は灰色の瞳をわずかに細くした。そこに浮かんだ感情がなんなのか、初めて会ったエデイラには掴み取れなかったけれど。
「なるほど、強化メイドか」
「?」