第6章 アグラマンテという麻薬 3
しばらくたって、がらんとした洞窟の中には、檻の中のエデイラと数名の私兵、それにわなわなと体を震わせたバシレウス・アーロが残った。
「なんてことだ……なんという……」
自分は、目的を果たしたのだろうか? とエデイラは思った。
バシレウス当主の面目をつぶす。そのためにここに収められている宝物を盗み出す。というのが当初の予定だったが、石板は大きすぎて持ち出すことは不可能だし、エデイラは罠にかかっているし、もう打つ手はないと思っていたのだが。
(平民に……やりこめられるということが、貴族にとってはこんなにも皆に背を向けられることなのか……)
思いもしなかった展開にエデイラがぽかんとしていると、バシレウスがくるりと振り向いた。
「──お前のせいだ」
その顔は怒りに醜く歪んでいる。
「ここから生きて出られるとは思っていまいな。──殺せ!」
武器を持った私兵に命ずると、兵は剣のつかを握り直してから、聞き返した。
「こ、殺すのですか」
「ひとおもいにな。その娘はどうせ痩せ細って男好きのする体とは言えんし、顔に傷まである。殺してかまわん」
バシレウスは聞き返した私兵の意図とは微妙にずれた返事を返した。
エデイラは顔色を変えない。そうした台詞は奴隷時代に飽きるほど聞いている。
「ああ、首はきれいに洗ってわしのところへ持って来いよ。なんとしても腹の虫がおさまらんからな。寝台の柱からぶら下げて干からびさせてやるわ」
そう言って、バシレウスは踵を返そうとした。
殺すところを見届けもしないのだなとエデイラは思う。いやな部分は部下にまかせて自分は立ち去る、そんなやり方では決して誰の信頼も得られないだろうに、と。
「し、しかし旦那様。剣では檻の奥まで届きませぬ。長槍でないと」
「持ってきておらぬのか」
「は……はい。狭い場所では邪魔になるかと思いまして」
「持って来い! 槍でもなんでもさっさと持ってきて、ぐさぐさやってしまえ! さっさとな!」
兵が急ぎ足で洞窟の外にいったん出ようとした、その足音が止まった。
「どうした? 早くせい」
「だ、旦那様」
「──お邪魔をして大変恐縮ではあるのですが」
低い、聞き覚えのない男性の声だった。暗がりの中から一歩ずつこちらへやってくる。
バシレウスの私兵が掲げたランプの明かりに照らされたその顔は、まだ若かった。おだやかな微笑を浮かべて、肩からは長いマントをつけている。
「何者か! ここはアーロ家の所有する土地であるぞ!」
「ですから、お詫びを申し上げました」
マントの男は悪びれもせずに形だけ詫びた。
男はひとりではない。揃いのマントをつけた武装の男たちが、後ろに何人も続いている。
「何者か知らんが……無礼者め! 切って捨てるぞ、邪魔をするな!」
「おやおや……それはお勧めいたしかねますね」
「旦那様……旦那様!」
バシレウスの兵が彼の横にひざまづいて懸命に彼になにか知らせようとする。
「あの方のマントをご覧ください……刺繍が、王家の刺繍が入っております。ここは穏便に……!」
「王家だと?」
「はい、あの色は第三王女が所有されている色です」
「第三王女だと? ……なにを申す、第三王女は現在幽閉中ではないか」
「はい、ですから、お勧めしないと申しております」
マントの男は落ち着き払って説明した。
「その方はわが主のご友人です。私には主の命に従い、その方を、現在滞在中の館まで送り届ける義務がございます」
(ディクテ……!)
要するに、エデイラが無事に戻らなければ正式なルートを使って糾弾すると言外に告げているのだった。だがバシレウスも負けてはいない。
「なにを勝手な! この小娘は、わが私有地に勝手に入りこみ、先祖代々伝わる宝を盗み出そうとしたのではないか! そのような盗人をどうしようとこちらの勝手である!」
「──一族以外にはひた隠しにしてこられたこの場所で、王家の客人が行方不明になった、と明らかにされるのは……よろしくないのではないですか?」
バシレウス四世はぐっと詰まった。
マントの男はそこを逃さず、穏やかに微笑む。
「お返しいただきますよ……またずいぶんと力任せな檻をおつくりになったものです。これは? 無理矢理檻を持ち上げるしかありませんか?」
「──好きにせい!」
バシレウスは感情的に吐き捨てると、足音も荒く洞窟を出ていった。私兵たちも、エデイラのほうを振り返り振り返りしながらも、あとに続く。
残ったのはマントの男たちとエデイラだけだ。
「これで済んだと思うな!」
もう姿も見えなくなった暗がりから、バシレウス四世の声が飛んでくる。
マントの男はエデイラの檻をひざまづいて調べながら、肩をすくめた。
「この期に及んで捨て台詞とは……」
「保身は大切ですよ、どんな時でも」
エデイラが軽口を返すと、男はおや、という顔でエデイラを見た。
「面白い人ですね、あなたは」
◇◇◇
エデイラがマントの男たちと一緒に洞窟を出ると、そこには馬車が待っていた。
馬車の窓があいてディクテが顔を出す。
「おかえり」
そしてエデイラがなにか言うより早く、つけくわえた。
「おせっかいかと思ったけど、黙っていられなかったのよ」
「ディクテ……」
「よかったわ、役に立てて」
ディクテの声はやさしい。エデイラの胸に複雑な感情が込み上げる。
なにを、なにから言えばいいだろう。
感謝の言葉か、危ないから近づけたくなかったのにという恨み言か、ひとりで全部やろうと思っていたのに結局助けられてしまった気恥ずかしさか。
迷った挙句、エデイラは馬車の扉を指さして、言った。
「──乗ってもいいですか?」
「いいですけど、汚さないでね。あなた、埃だらけよ」
「しょうがないじゃないですか。そういう場所にいたんですから」
「乗る前に体フルフルするのよ」
「犬じゃないんですから」
まさか自分が、王家の家紋付きの馬車に乗りこむだなんて思ってもみなかった。
頭の片隅でそんなことを思いながら、エデイラはひょいとそれに乗り込み、その場を後にしたのだった。