第1章 永遠の眠りにはつきそこねた 2
『──敗者の切り札はこの一枚、といったところだね』
砂漠の熱のこもる砂に体を伏せたエデイラの耳に、敬愛する人の声が聞こえた気がした。
耳に心地よい、初老に差し掛かる男性の声は、聞き間違えるはずもない旦那様の声だった。
もういない人の声はうっとりするほど疲れた体にやさしかった。
だが、ここで気を抜くわけにはいかない。
エデイラはぎゅっと目をつむった。
(違う、そうじゃない……旦那様はもういない)
何度も自分に言い聞かせる。
わかっている。この目で確認したのだし。
疲れゆえの空耳だと、わかっている。だけど耳がむさぼってしまう。
麻痺していた感情にやさしく水を注がれたような空耳が甘くてならず、なにかがどうしようもなくこみあげてきそうだった。
(旦那様……──!)
だめだ、今はだめ、思い出しては。
心に強引に蓋をして、エデイラは記憶の中でそのシーンを先送りする。
そう、アリスとエデイラはその直後、旦那様から一枚のカードを託されたのだった。これを持ち、二人でアンダルトン修道院を目指しなさいと。
濡れてもいいよう、革袋に入れて、確かにアリスが預かったのだった。
◇◇◇
「エデイラ、あなた好調?」
「もちろんです。アリス、あなたこそ」
「愚問でしょ」
誰に聞いてるのよとアリスはつんと顎をそらす。
アリスとエデイラが外へ出ると、館を取り囲んでいた兵士たちはそろって二人に武器を向けた。
手にはおおぶりの剣や槍を持っている。対するアリスとエデイラは、無手だ。
兵士たちは女二人と見くびって、とげだらけの鎧をがちゃつかせて距離を詰めてくる。その数は数十人もいるだろうか。すでに血に濡れている武器もあった。
だがアリスもエデイラもひるまない。
アリスは両手首を曲げ伸ばしし、エデイラは首を左右に倒してから、相手の武器の間合いすれすれのところで立ち止まる。
ふたりはどちらからともなく横並びに立ち、いつでも反応できるよう膝を少しだけ曲げた。
「いけますか?」
「当然」
かわす言葉は互いに最小限だ。
先に動いたのはアリスだった。
相手の隙をとらえることを得意とする彼女は、相手の隙を誘いだすことも、相手の居つきを作りだすこともとても上手だ。まして、メイド姿の女二人とあなどっている相手ならば余計に。
「エデイラ、あなたぐずぐずしてると私が全部食い散らかすわよ」
アリスが獣の声になって言った時、彼女はぴたりと兵士の肩口に細身の体を張りつかせていた。まるで小さな体すべてがばねになったような速さ。
張りつかれた男は、アリスを乗せたまま、なにが起こったかわからないというように目をぱちくりさせる。
ぐりぐりぐり。アリスが手でこねる。
「ぐふっ」
男ののどから濁った声がもれた。
次の瞬間、鎧の継ぎ目から巧みに押し込まれた刃を背筋を使って一気に引き抜かれる。
アリスが男の鎧を蹴ってそこから離脱するのと、男が首から高々と鮮血を吹き上げながら膝をつくのとが、ほぼ同時だった。
「なっ……!」
「この小娘ども……!」
他の兵士たちが気色ばむ頃には、アリスはとうにエデイラの横に戻ってきている。喜びに頬が紅潮しているのが見なくてもわかる。アリス本人はかすり傷ひとつ負っていない。
「囲め、囲めっ」
「逃がすな、この館からひとりも出すんじゃない!」
「ふっ」
男たちが遠巻きに包囲する中、アリスは笑顔で吐き捨てた。
「突いても刺しても、動いてみせろ。仮にも私たちとやり合う気なら、話にならない。一度刺したくらいで動けなくなる兵など」
ああ、もう、スイッチ入っちゃってしょうがないんだから。とエデイラはこんな場面にも関わらずおかしくなった。
彼女の高揚がこちらまで伝わってきて、くすぐったいほどだった。
アリスにはこういうところがあるのだった。危険な場面ほど笑って楽しむ。エデイラはどちらかというとひんやり静かになるタイプで、そこがつまらないだの、真面目にやれだの、もっと本気を出せだのとアリスに文句を言われたものだった。
(だけど、今夜は──)
久しぶりの戦闘、久しぶりの旦那様の御命令。これで高ぶらないほうがおかしい。
(私も、負けていられない)
◇◇◇
そこからはもう、あまり覚えていない。気がつくとアリスと二人、男たちから奪った馬で国境近くの街道を駆けていた。
「ねえ」
とアリスが言ったのは、休憩で寄った小川の端だ。
少し離れたところでは馬たちが長いこと水を飲んでいる。
「これ、持ってくれる」
一瞬なにを言われているのかわからなかった。
アリスの白い手が、旦那様から預かった革袋を差し出している。
「え?」
革袋から、ぽたりとなにか粘度の高い液体がしたたったのをエデイラは見てしまった。
(──血、返り血じゃないほう)
今夜はあまりにも血の匂いが濃かったから、彼女が怪我をしていることにエデイラは気づけなかったのだった。
エデイラは鼻をうごめかす。表面を流れる赤い血の匂いではなかった。深いところを流れる濃い液体の匂いに、内臓のそれも混ざっている。
(不覚だった。……これは、致命傷だ)
もちろんアリスがつとめてつらそうなそぶりを見せなかったせいもある。
尋常でなく青ざめた顔色も、よく見れば紫色の唇も、全部、月のない夜だったので見えなかった。今思えば、誰より負けん気の強いアリスがエデイラの後ろについて馬を走らせたところから、悟らせまいとしていたのだった。
「うけとって」
革ひもをつかんだ指の先が、夜目にもわかるほど震えている。
「アリス……」
受け取った革袋はいやな感じに湿っていた。
「よごして、しまうと、よくないから」
震えているのは寒いのではない。恐怖でもない。死にゆく人を幾人も見てきたエデイラにはわかる。それは最後の痙攣だった。
「アリス……アリス……」
言いたいことは山ほどあるのに、ばかみたいに名前をただ呼ぶことしかできない。
「たのんだ、わよ」
それなのに、アリスは笑った。
「ねえたのんだ、わよ」
明晰さを愛し、無駄なことが大嫌いな彼女にののしられるかと思ったら違った。最後の力で微笑みながら、彼女は言葉を押し出した。
「あなた、に、まかせ」
◇◇◇
あの時の彼女の声が、耳にこびりついて離れない。
エデイラは両腕を囲いのようにして地面に突っ伏したまま、薄目をあけてみた。
かさついて黒く汚れた手が見える。爪の中にまで入り込んだ血を洗う余裕もなかったせいだった。
だがそんなことを気にする余裕も、今はもうない。
(ああ……もう……)
あとどれだけ耐えたら終わるのだろう。
砂嵐はやむ気配もなく、突っ伏した地面は熱をはらんで、まるでオーブンの余熱で焼かれているようだった。
エデイラはだんだん気が遠くなってくるのを、懸命につなぎとめようとした。ここで意識を手放したらおしまいだということは、本能でわかる。だがもう正気を保っていられる自信がない。
吹き付けてくる風に耐えているだけで体力はじわじわそぎ落とされていくし、それに、仮に今この嵐がおさまったとして、立てる気がしなかった。
結局たどり着けないのかと思う。
旦那様の最後の命令には応えられずに終わるのかと思うと、それがなによりも悔しい。
(ここで、死ぬのか)
ふとそんな気持ちが忍び寄ってくる。
弱気になるな、と自分を叱咤しようとしてみたが、だめだった。体に力が入らない。
今吹いている砂嵐よりも、死の予感はむしろやさしく、穏やかだった。エデイラの張りつめていた肩から力がふっと抜ける。
(ごめん、なさい)
向こうで、みんなと、それから旦那様と、大奥様に叱ってもらおう。きっとアリスが一番がみがみ言うだろう。それを大奥様が笑ってなだめるんだろう。旦那様はそれらを全部聞いて、叱責めいたことはなにひとつ言わないで、他のメイドにお茶とお菓子の用意を頼んで、アリスががみがみ言い疲れた頃合いを見計らって皆に食べさせるんだろう。
想像すると、胸に温かいものが込み上げてきた。
(知らなかった。死ぬって、こんなふう、なんだ……)
もしも彼女の指先が砂をもう少し深く掘っていたら、そこに硬い石畳があることがわかったはずだった。
見渡す限りなにも見えないと思っていたのは強い砂嵐で視界が悪かったせいで、嵐がやめば目指す場所への一番手前の門が見えていることにも。
だが、強烈な砂嵐はほんの数歩先も見えないほどだったし、彼女の体力も気力ももはや限界だった。
永遠に続くかと思われた砂嵐がやがてやんだ時、門の内側では見張りの人員がちょうど交代する時刻だった。
「いやあ長かったなあ」
「この時期は毎年こうだよ」
言い交わす男たちの視線が一点に吸い寄せられる。
「おい、あそこなんだ」
「なにか見えないか」
「人だっ」
男たちはわあわあ言いながら門をあけて外に出てきた。人が埋もれてるぞ、なんでこの時間帯に外にっ。
「おい、女の子だよ……」
「息はあるのか」
「なんとか」
「すぐ運べ、運べ」
「わかった、そっちはゾラ様にご報告を」
だがそれらの声はもう、エデイラの耳には届いていなかった。
文頭の段落下げが反映されている部分と、そうでない部分が混在しています。
自分の端末から文章を確認していて「ぎゃ」ってなり、直そうとして直せずこんなありさまです。ひとえに私の不慣れさのせいで、お見苦しい部分があり申し訳ありません。