第4章 不安は不安を 2
アーロ家の夜会は、すごいの一言に尽きた。
先日三人で見に行ったヴァージデル家と比べても引けをとらない立派な門構えで、中に入ってしまうとまるで別世界だった。ハイヒールを履いた女性客を歩かせないよう、馬車止まりが夜会用にひとつ設置されていて、そこからだと大広間までは目と鼻の先だ。
エデイラたちはここでマリアカルラと合流する約束だったのだが、招待客が多すぎて、彼女を探すことすらできない。
「こんな立派なお屋敷、初めて見ました」
「驚くまでもないことでしょ、アーロ本家のカタイ宅なのですもの、こんなものです」
「冷静ですねえ」
「訪れた人々を、わあすごい、と思わせるために作られていると言っているの。わざわざそのとおりの反応をしてあげる必要はないのではない?」
「……冷静ですねえ」
エデイラとディクテはひそひそと言い交わす。
たっぷりと灯された壁面の明かりは、あちこちにある鏡に反射してまぶしいほどだ。壁はというと一面、花や蔦の金泥でこってりと飾られており、それがびっしりと続く様子は圧倒されて怖いほどだった。
大広間の高い天井からはシャンデリアが五つも下がり、きらきらと光っている。
圧巻なのは、大広間の四隅に設置されている四本の柱だった。柱はピンク色のガラスでできており、一本は両手で抱えきれないほど太い。
ひとつの柱につき、二百以上のガラスの塊を組み合わせて作ってあるのだとディクテが解説してくれた。このピンクガラスの柱のことは、上流階級の人間なら知らぬものはないほど有名らしい。
「これを作り上げるのには、接着剤を使っていないそうよ」
そう聞いたところで、どこが継ぎ目なのかすらもわからない。
エデイラはピンクの柱に手をふれてみた。ひんやりと重量感のある手触りに感嘆する気持ちが半分と、これを手入れするこの屋敷の使用人は大変だろうなという気持ちが半分あった。
「そうですかあ……」
ほーっと大きな吐息をついてガラスの柱から手を放すと、エデイラはひそひそ声で言う。
「なんというか、すごいですけど、それだけですね」
「というと?」
「ここで働くか、と言われたら、私だったらちょっと考えます」
ディクテが笑った。
「そのたとえ、わたくしにはちょっとわからないわ」
「ここまででわかったことは、この屋敷は確かにお金がかかっていてすごいですけど、これみよがしで品がないってことです。お屋敷の様子とその主の人柄というのは比例するものですから、そういうお屋敷で働くことを幸せだとは思いません」
「……なるほど、ねえ」
「ここは、確かにすごいですけど、美しいとは思いませんし」
「そこはわたくしも同意見よ。というか、意見が合って嬉しいわ」
ディクテが解説してくれたところによると、甘ったるいピンク色と多用された金箔は、貴族社会で『アーロ風の』と揶揄される代物なのだそうだ。
マリアカルラと合流しなければならないが、人は多いし、ディクテも焦った様子を見せないし、それにこちらが目立つところにいれば向こうも見つけやすいだろうと判断して、エデイラはふと思ったことを聞いてみた。もちろん周囲に聞かれないよう、抑えた声で。
「あなたが育ったところは、どうなんですか」
「どうとは?」
「ここよりももっと豪華なんですか」
なんといっても、この人は第三王女だ。国内でもっとも尊い血筋の人だ。贅を知るという意味なら、この人より知っている人もいないだろう。そう思って聞いたのだが、
「……そうでもないわ」
ディクテは視線を合わせることなくさらりと流した。
(なんだろう……さっきから、こういう感じ、多いな)
思えばドレスを着せてもらったあたりからだ。機嫌が悪いのか、触れられたくないところに触れてしまったのか、よくわからない。
エデイラは頭の中でさっきと今との共通点を考えてみたが、つながりそうでつながらない。とりあえず、王家のことについては聞かれたくなかったのだろうかと反省する。
(うーん……でも、このかたのご身分についてはアンダルトンではある意味周知のことだったし)
まっすぐに聞いてもディクテの性格ならば教えてくれないだろうし、かといって事情もはかれないし。
(マリアカルラの姿も見えないから雑談よりほかに今はすることもないし)
マリアカルラからは、『しるし』を見つける必要があると言われている。
『父のことだからフェイクを必ず混ぜていると思う。慣れている私が探すのが一番てっとり早いと思うの。見つけたら教えるわね』
とのことだったが、フェイクとはなんのことなのか、しるしとはいったいなにを指すのか、質問するより先に早々と時間が来てしまい、大丈夫、あとでまた説明するから。後程ね。と言われてしまったのだった。
エデイラは見るともなしにあたりを見まわし、生まれて初めて持った扇を物珍しく開いたり閉じたりする。
「そういうの、落ち着きがなく見えるから、およしなさい」
「そうですか? だって貴族のかたは扇の角度ひとつで自分の言いたいことをほのめかしたりするんでしょう」
「そういうのは軽薄そうに見えるって言っているの」
「なるほど、そうなんですね。では白鳥は?」
「は?」
「あそこにいるでしょう、白鳥」
閉じた扇で目線の先を指して、エデイラは、だからそれがよくない! とディクテにぴしりと叱られた。
「叩かなくても」
「うるさいわね。……さっきはなんですって?」
「白鳥があそこを歩いているので、かわいいなあというか、ペットなのかなあというか」
「……どこ」
「人に隠れてるから、ずれたら見えますよ。まさか料理じゃないですよね? 美味しいですけどね、白鳥」
「……」
ディクテが口を半開きにしている。
「エデイラ、あなた」
「はい?」
「あの白鳥、いつから見えていたの」
「さっきからいましたよ。よちよちと」
「見えてたの?」
「ええ、貴族のかたは妙な座興をなさるなあと思って」
「そうじゃない!」
もう一度、今度は二の腕のあたりをぺちんと叩かれてしまった。
「あれが『しるし』でしょう! どう考えても!」
「ええっ、そんなのわかりませんよ!」
「どう見てもそうです、見る者に違和感を感じさせるものでしょう」
「そんなこと言ったって、自慢にもなりませんけど社交界など初めて来ますし」
「もういい」
呆れたような口調でディクテは言って、つかつかと白鳥を追って歩いていってしまう。
エデイラがその後ろをついていくと、ディクテはしぶしぶといった様子で説明してくれた。
来客のドレスを汚してしまうことを考えると、ペットを大広間で放し飼いにするなどありえないこと。白鳥の人慣れした様子から、野生ではなく飼われている鳥であること。首にはリボンをつけているため、たまたまここに迷い込んだ個体でもないことなど。
「すごいですねえ、一瞬でそこまでわかるんですね」
「あなただって、見ただけで、このドレスがどれほど手間をかけられているかわかるでしょう」
「想像しただけで指先が疲れてきますよ」
「それと一緒よ」
やけに落ち着き払った様子で大広間を横断している白鳥に近づいてみると、白鳥はその長い首の根元に、金糸で刺繍されたリボンをつけていた。
「かわいい。オスですねこの子」
腰を折って白鳥を愛でるエデイラをよそに、ディクテはめまぐるしく頭を回転させていた。
『しるし』はおそらくこれがそうで間違いないはずだ。招待客の多くはデコルテを大胆に見せるドレスを着ているし、長い裾を汚さないよう、中庭の散策もしないだろう。ほとんどの女性はハイヒールを履いているから、遠くまで歩かせることもしないはずだ。
だから『しるし』が準備されているとするなら、この大広間のどこかだということになる。
『父のことだから必ずフェイクを──』
マリアカルラの言葉を思い出す。父は性格が悪いから、と憎々しげにつけくわえることも忘れなかった。
「エデイラ」
「なんですか?」
「あなたが見たところ、この白鳥以外になにか変わったことはなかった?」
「そんなの、夜会自体に慣れてないんですから見るものすべてが珍しいですよ」
「言い方を変えましょう。面白いものは他になかった?」
「ありません」
どうしよう、とディクテは思っていた。意地でも表情には出さないが、マリアカルラが早く合流してくれないだろうかと気が気ではない。
なぜならば、主催者の出した『しるし』の意味がまったくもってわからなかったからだ。
(見るものが見れば……おそらく理解できるのだわ)
あたりの人々を横目で見る。グラスを持って談笑している人々の様子を。
(そう、酔っ払いでも容易に理解できるような……)
だが、明らかな『しるし』であるはずの白鳥の首のリボンを見ても、ディクテにはなにも思いつかない。
一族の人間にだけわかるヒントなのか。マリアカルラならば気が付くのか。いやな汗が背筋に浮かび、動悸が早くなる。
「自分が……役に立たないっていうのはいやなものね」
「なにか言った?」
白鳥に手のひらをつつかせて遊んでいたエデイラが首だけで振り向く。
「いいえ、なにも」
「おまたせっ」
その時である。ふたりの後ろから明るい声が聞こえて、振り向くとそこに幾分息を切らせたマリアカルラがいた。
「ごめんなさいね、ほったらかして。夜会に出たら出たでいろいろとあいさつに時間をとられて」
「いえ、こちらは大丈夫ですよ」
先ほどまでの内心の動揺は上手に隠して、ディクテが言う。
「ちょっと探しちゃった。でもうちの大広間って、これといって待ち合わせの目印になるものがないのよね……」
「ピンクガラスの柱はまったく同じものが四本ありますしね」
「そうそう。父はわざとそういう作りにしたみたいだけどね」
「大貴族の考えることはよくわかりません」
「一緒にしないでよ、私にだってよくわからないわ」
ところで、とマリアカルラは声をひそめた。
「おふたりで見つけたのね、この白鳥」
「ええ。これがあなたの言っていたものかと思いまして。あっています?」
「当たりよ」
マリアカルラは白鳥の首に巻かれた幅広のリボンを注視していた。
「うん、場所もわかった。中二階の左の隅にこれと同じものがあるのね」
彼女が指さしたのはリボンに刺繍されている簡略化された獅子のマークだ。
「みんなが使っているよく目立つ階段ではなくて、入り口近くの奥の隅に上へあがる階段があるの。そこを使うと迷わず行けるわ」
「獅子、ですか」
ディクテがのぞき込んで尋ねる。
「そう、獅子の彫刻がある小さなホールがあるのよ。おそらくそこに人を置いて、式典の日時や場所が書かれたカードか何かを配っているはず」
「ありがとうございます」
エデイラがそう言って、さっそく踵を返そうとしたとき。
「まあ、マリアカルラではないの!」
ほがらかすぎる声が上がった。
「お久しぶりだわねえ、お元気?」
「ごきげんよう、クルルのおばさま」
呼ばれた当人は脊椎反射のように笑顔をつくって返す。
そうしておいてから、人には見えないよう、背中に回した手でエデイラとディクテに合図をした。
先に、行って。ここはいいから。
「お連れのかたたちは? お友達?」
「同じ年頃の女性が集まるいい機会ですものね。おばさま、最近は膝のお具合はいかがですの?」
「あら、いやだわ。私ったら、思い出せなくて。一緒にいらっしゃるうちの赤いドレスのかた……どこかで見た覚えが」
「貴族社会は狭いですものね。寒くなると痛むっておっしゃってたでしょう。前の冬は厳しかったから、おばさまのお具合どうかなと思っていたんですよ」
「そうなのよマリアカルラ、本当にねえ」
幽閉中の第三王女がここにいるとばれないように、ディクテは足早にその場を離れた。
ディクテ自身は社交界にデビューする前に幽閉されたからそう顔を知られているとも思えないが、それでも王族であれば幼い頃から人前に出る機会は多い。ディクテは顔の前にさりげなく扇をひらいた。
「ちょっと人目を避けていきましょう」
「と言っても、あなた、目立ちますからね」
「目立つ? どこが?」
「きれいですから。目を引きますよ」
最初に見た時はやや地味かと思われたドレスは、夜会の席で改めて見ると、この上なく引き立って見えた。
深いワインレッドの布地に縫い付けられたきらきら光る素材がシャンデリアのあかりを反射して、ディクテが動くたびに星のまたたきのように光る。
極薄のレース越しに見え隠れするのは、女のエデイラが見てもため息がするほど細く締め上げられた腰だ。それと大きなふたつのやわらかそうなふくらみ。エデイラの少年のような胸元とは大違いだった。
透明感のあるデコルテに色石のネックレスを垂らした視線の先には、切れ長の瞳が美しい卵型の顔がある。
これは、ディクテの身分を知らなかったとしても目立つだろうとエデイラは思った。
「ばかなことを」
エデイラの称賛を、ディクテは一蹴した。
「行きますよ、さっさと」
白いクリームが流れているような優雅な模様の大理石の床をコツコツ鳴らしながら、ディクテは奥の階段へ進む。その途中で、彼女はふと止まった。
「ちょっと、迂回しましょう。それとなくね」
「いいですけど、どうしました」
「わたくしのことを知っている可能性が高い人がいる」
口だけを動かして、声は出すか出さないかで言った。ほら、あの人。
目線だけで示されてエデイラがそちらを見ると、入り口そばに人だかりができていた。
「──見えた?」
「見えません。人が多くて」
わっはっはっは、と快活な笑い声が響く。人だかりが揺らぐ。その中心は見えそうで見えない。
「中央にいるのが、ここの当主」
「マリアカルラのお父様ですか」
「そう。バシレウス四世」
「ご大層なお名前ですね」
互いにひそひそ言い交わす。
「彼のおじいさまである、別のバシレウスは名当主だったらしいけど」
「当代は似ても似つかないってことですかね」
こんなことをその辺の人に聞かれては騒ぎになる。ふたりは扇の内側で内緒話を繰り返し、エデイラは、これってちょっと貴族の娘さんっぽい振る舞いであることよなあとコスプレにも似た楽しさを覚えていたが、ディクテはさすがに扇をかざしての内輪話が相応に下品に見えることを知っており、適当なところで切り上げて言った。
「エデイラ、気をつけて。こっちに来る」
「じゃああなたは向こうをむいていたら。私がお辞儀とかしときますよ」
「会釈でいいのよ。なんなら目礼でもいいのよ。大仰にやらないでね」
「わかっていますよ」
「あーあー、お嬢さんたち、ごきげんはよろしいかな」
固太りの体を上等な盛装に押し込めたバシレウス四世は、若く美しいふたりが踊りの輪にも加わらずに離れたところにいるのを見てとって、大股に近づいてくる。
「ご来訪、嬉しく思いますぞ」
「こちらこそ、お招きいただきまして」
「娘のご学友かな、ん、違ったかな」
エデイラが言いかけたのを遮って彼は続ける。正直に答えてよいものかどうかわからなくて、エデイラは控えめな笑みを浮かべるにとどめた。彼は少し酔っているらしい。
「まあまあ、楽しんでいかれて下さいよ。わからないことがあればなんでも、聞いてくださればよろしいのでな。はっはー」
「お気遣い恐れ入ります」
そう言って軽く頭を下げたエデイラの鼻孔に、ぷんと、甘い匂いがかすめた。
(……あれっ)
今の、匂い。覚えのある香りだった。
香水だろうか。いや違う。整髪料や髪油の香りとも違う。もっと甘ったるく、層の深みを感じる香りだ。
(なんだっけ……)
エデイラは思い出そうとしたが、先を急ぐディクテに袖を引かれた。
「行くわよってば」
「わかっていますけど」
「早く目的のものを手に入れて、ここを出ましょう」
「そうですね……」
心ここにあらずと言ったように、エデイラは生返事をする。
振り返ったが、バシレウス四世はもう、別の人だかりの中でわっはー、わっはー、と声をあげていた。